1話:隣にいる人
今回からアリステアルートです。
ルーカスルートおよび本編とはパラレル設定になります。
「行ってきます」
その日、エフィはアリステアと一緒にルーカスの家を出た。「気をつけろよ」なんて、ルーカスは気さくにふたりを送り出してくれた。
3日に一度、アリステアは医者として自分の診療所で仕事をする。エフィはそんな彼の『助手』として、細々したことを手伝っていた。
(と言っても、私にできることはあんまりないんだけどね)
半歩前を歩くアリステアを眺めながら、エフィは診療所での仕事を振り返る。
医学的な知識はほぼないので、主に掃除とか整理とか、あとは怪我で来院した人に、魔女だとバレない程度にこっそり治癒魔法をかけるくらいしかできない。
(……それにしても)
エフィは小さくため息をつく。
予言通りに死ぬことが普通のこの街では、病気を治療しようという患者は、悲しいことにさほど多くない。医者など必要とされていないのだ。
それに、アリステアは主に中産階級までの平民を相手に診療していることもあり、入ってくるお金は雀の涙。
医者をする必要性も利点も、ほとんどないと言っていい。
(なのになんで、アリステアはこの街で医者をしているんだろう)
そんな疑問を抱いた。
「エフィ、そこは車道だ」
アリステアに名前を呼ばれた。腕を掴まれ、ぐいっと体を引き寄せられる。そこでようやく、ぼんやりしていて車道に飛び出していたことに気がついた。
アリステアはただ、歩道に引き戻そうとしてくれただけ。
「あっ」
そのはずなのに、ほんの少し段差がある縁石に躓き、彼の方に倒れ込みそうになってしまった。
転ぶ——そう思った瞬間、彼の手がエフィの腰を抱いた。そのまま引き寄せられ、抱きしめられるような形になる。
「あ、アリステア……」
咄嗟に呼んだ彼の名前は、目の前に迫った胸板に吸い込まれて、消えた。
そのぬくもりを意識して、呼吸が止まる。アリステアは細身なのに、腕も、体幹も、鍛えられていて力強い。背も高い。
そんな当たり前のことを、今さら認識した。
胸が苦しくなり、エフィは荒く呼吸をした。清涼感のあるいつもの香りと、そこに僅かに混じる潮の匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。
(朝、出かけていたけど、海に行ってたのかな?)
散歩でもしていたのだろうか。なんて、思っていたら——
「無事?」
声をかけられ、エフィははっと我に返った。顔を上げると、珍しく焦ったような表情をしたアリステアがいる。
転ばなかった。
代わりに、距離が——すごく、近い。
「突然ごめん。でも、轢かれるところだったから」
やや早口の彼に言われて、ようやく背後を走っていく自動車を認識する。考え事をしていて、あのエンジン音にすら気付いていなかった。
「ご、ごめん。あの自動車って、馬車よりすごく速いから危ないよね。ほら、私の故郷にはなかったものだから、まだ慣れなくて。迷惑かけちゃったね」
上擦った声で話す。
いつもより口数が多い自覚はあった。でも、何か話していなければ、意識が彼の香りや腕の力強さに持っていかれそうだった。
(と、というか……いつまでこの姿勢でいればいい?)
エフィの手が、所在なく宙を掻く。もうしっかりバランスを保てているのに、いやそもそも転びそうだったのは自業自得で、別に助ける義務なんかなかったはずなのに——アリステアは、エフィを手放さない。
そわそわと居づらくなって、エフィは身動ぎした。アリステアがはっとして、背に回された腕の力を抜いた。
ぬくもりが離れる。
外気が妙に冷たく感じられて、エフィは体を震わせる。
「ごめん。………………女性に、不用意に触れるべきじゃなかった」
理由はがつけ足されるのは、妙に遅かった。
「助けてくれただけだから、大丈夫だよ。それよりその台詞、ルーカスみたいだね」
エフィはそう言って笑ったが、アリステアは笑い返してくれなかった。唇を引き結び、ただ自分の手に視線を落としている。
気まずいような、くすぐったいような、奇妙な沈黙。
ふたりの間に満ちた空気を破ったのは、咄嗟に肩を竦めてしまうほどの轟音だった。
「な、なに!?」
アリステアがはっと顔を上げる。
「あそこ。事故だ」
言うが早いか、彼が走り出す。慌ててその後を追いかけた。
少し先の歩道に、1台の自動車が乗り上げていた。街灯にぶつかり、黒煙を立ち上らせている。事故に巻き込まれたのか、倒れている人の姿が見えた。
自動車の運転席らしきところの扉が開き、男が転がり出てきた。
「ひいっ!」
彼は悲鳴を上げ、我先にと逃げ出してこちらに向かってくる。倒れている人たちには見向きもしない。
「え、ちょっと……!」
男は通行人を突き飛ばし、逃走を続ける。
自分で起こした事故なのに、負傷者の救護もせずに逃げようとするなんて、信じられなかった。
「予言通りに捕まってたまるか!! 俺は逃げてやる!」
顔を恐怖に引き攣らせ、運転手が叫ぶ。その言葉に、エフィは思わず硬直する。
この事故は、あらかじめ予言されていたものだった。運転していた者も、負傷者も、そうと知っていて家を出た。知っていても——予言には、抗えない。
決められた運命に翻弄され、そこから逃げ出そうとする運転手を、エフィは咄嗟に糾弾することができなかった。
彼もまた、この街の被害者だと感じてしまったから——
「待って」
しかし、アリステアは迷わず運転手の前に立ち塞がった。運転手は一瞬驚いたような顔をしたが、内ポケットからさっとナイフを取り出し、構える。
誰かが、悲鳴を上げた。
「邪魔をするなっ!」
「予言に抗えなかっただけだとしても、罪は償うべきだ」
静かな声と共に、アリステアが動く。慣れた動きで、腰から下げていた仕込み杖を構える。刃物を振り回している男に相対しても、アリステアの空気は揺らがない。
エフィの目には見えないほどの速さで、鞘のままの仕込み杖が振るわれる。それは無秩序なナイフの軌道をくぐり抜け、正確に運転手の胴を強打した。
「ぐっ」
呻き声と共に、運転手が歩道に崩折れる。アリステアは彼を見下ろし、逃げ出さないか油断なく確認していた。
警笛を鳴らしながら治安維持部隊が駆けつけてきて、運転手はそのまま拘束された。
そこまで見届けてから、アリステアはエフィに近付き、手を取った。
青い瞳は、真っ直ぐに事故現場に向けられている。
「行こう。負傷者を診る」
「うん!」
答えて、一緒に走り出す。
引かれる手、触れ合ったところがいつもよりどうしてか気になって、エフィはそっと、空いている手を胸に当てた。





こちらが本編です。