8話:だめじゃない
それから、エフィの暮らしは大きく変わった。
ルーカスが仕事の日は、いつも通り家事をする。
彼が休みの日は、朝からカフェで朝食をいただいて、その日のデートの予定を立てる。同じ家に暮らしているから、帰ってからも一緒。
「部屋まで送るよ」
毎晩、眠る前に、ルーカスはそう言って部屋まで送ってくれた。
「それとも、ベッドまで運んで差し上げましょうか。……なんてな」
芝居がかった調子で、そんなことを言う。
この前、一緒に映画を見に行った時、たまたま上映していたのが紳士が華麗に淑女をエスコートする恋愛作品だった。彼がその影響を受けていることがよくわかる。
「もう。家の中だから、危険なんかないのに」
「……ま、本音を言うと、少しでも俺のエフィと長く一緒にいたいからな」
そう言って、彼は笑いながら頭を撫でてくれる。それがくすぐったくて、エフィも笑った。
ふたりで一緒に、階段を登って2階へ向かう。
(こんな日が、ずっと続けばいいのに)
そんなふうに、思わずにはいられなかった。彼と絡めた指に、力を込める。
「ついたぞ」
エフィの部屋の前にたどり着くと、ルーカスはぱっと手を離す。ぬくもりに包まれていたはずの手が急に夜の空気に触れ、寒さと共に物足りなさが忍び寄ってくる。
気持ちを伝え合ってから、いつもそうだった。
「おやすみ」
かけられる声は優しいのに、彼はひどく寂しげな目をして、エフィを見つめてくる。
「エフィ…………また、明日な」
何か言いたげに名前を呼んでくるのに、挨拶以外の言葉は決して口にしない。触れるだけのキスをくれてから、彼は目を伏せ、すぐにエフィに背を向けてしまう。
気持ちを、教えてくれない。
それが、エフィの心をどうしようもなくざわつかせる。
「ルーカス」
思わず、呼び止めてしまった。歩き去ろうとしていた彼の足が、ぴたりと止まる。
「もうちょっと、一緒にいたい」
そう言って、エフィはその背中に思いっきり抱きついた。広い背中に頬を寄せて、彼を堪能する。
「お、おい!?」
「だめ?」
「や、それはだめじゃない、けど……これはちょっと」
彼は言葉を探しているのか、しどろもどろに言う。それから、咳払いを一つした。
「俺は紳士だからな、夜は淑女の所に長々と居座ったりしないんだよ。引き留めないでくれ」
言葉に、苦笑いが混ざる。いつもの軽口だ。ルーカスによってエフィの手がやんわりと解かれ、彼はこちらを振り向いた。
琥珀色の瞳に宿る、昼とは違う熱。エフィは目を見開いた。こちらの反応を見て、ルーカスがさっと視線を逸らす。
それで、気付いてしまった。彼は今も、軽口に本当の気持ちを隠している。エフィはもう、それを見逃したくない。
ルーカスを逃さないように、その服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……ルーカスも、本当は、もっと一緒にいたいって……思ってくれてるんじゃないの?」
返ってきたのは、吐息だった。ため息なのか、別の何かなのか、わからない。
「そんなの、エフィを困らせるだろ……」
「困らないよ。ルーカスの気持ち、聞かせて。聞けないほうが困っちゃう」
「なっ」
「私はね……夜、お別れするのが寂しいなって、そう思う」
気持ちを吐露した勢いのまま、軽く背伸びをして、唇を重ねる。間近で、熱を秘めた瞳と目が合った。
大好きなそこに浮かぶ気持ちを、全部知りたい。
「あんまり、可愛いことをするのはやめてくれ……色々限界なんだぞ、これでも」
いつもより低い声。
大きな指が、肩に置かれる。
「俺は、エフィを大事にしたいんだ」
「私もルーカスを大事にしたい。もっと、近付きたい。……それは、だめ?」
そう返したら、ルーカスが息を呑んだ。月光だけが照らす廊下の中、彼の瞳に宿る光が、熱量を静かに増した気がした。
でも、エフィは逃げない。
知らないこと、はじめてのことが怖くない訳じゃない。
でも、今度こそ、ちゃんとルーカスに向き合うと決めたから——逃げたくない。
「だめじゃ、ない。でも」
ルーカスは一度言葉を切って、こちらに向き直る。
「本気……なのか? 俺の気持ちは、綺麗なだけじゃないんだぞ。ちゃんとわかってるのか?」
「……うん。わかってる、つもり」
「つもりかよ」
ルーカスがちょっとだけ笑って、それからエフィをぎゅっと抱きしめてくれた。しかしすぐに解放される。離れた温もりが寂しくて、自分の肩を抱く。
「あー、俺の好きな子が最高に可愛すぎて辛い」
「もう、またそんなこと言って。……嬉しいけど」
最後に言葉をつけ足して、はにかんだように笑う。ルーカスも笑ってくれたけど、ふと真剣な目をして、エフィを見た。
しんと一瞬、廊下に静寂が満ちる。
月明かりに照らされる彼の顔に、目を奪われた。
ルーカスは、何かを堪えるように大きく息を吐く。
「明日一日……夜まで、ちゃんと考えてくれ。本当に、エフィはそれで後悔しないか。俺は、君を傷付けることはしたくない」
「……うん」
真摯な言葉。彼はやっぱり、自分の気持ちよりもこちらを尊重することを優先してくれる。
(そういう人だから、私は——)
その先は、上手く言葉にならなかった。
エフィはただ、こくりと頷いた。
⋆⋅⋅⋅⊱∘──────────∘⊰⋅⋅⋅⋆
ルーカスはエフィの部屋を出た。
人気のない廊下の真ん中で、高鳴りすぎて爆発しそうな胸に手を当てる。
(可愛すぎ……反則か……)
まだ彼女のぬくもりが体に残っている気さえしてくる。
柔らかい髪、甘い香り、色付いた頬。それに、ルーカスが踏み込んでも受け入れてくれた——正直、綺麗じゃない気持ちに飲み込まれなかったことを褒めてほしいくらいだ。
頭に居座り続けるエフィの表情を無理やり追い出しながら、階段を降りる。
(夜まで仕事でもするか……)
そうでもしないと、余計な思考が顔を出してしまいそうだった。リビングの扉を開けて、工具セットが置いてある棚に向かおうとした時——
「どうだった?」
「うわああああ!!!」
声をかけられて、ルーカスは飛び上がった。
迷惑そうに唇を引き結びながら、アリステアがこちらを見ていた。理知的な青い瞳相手には、何の隠し事もできないような気さえしてくる。
「お、おまっ、それは……」
ルーカスは口ごもる。アリステアの眼光が増した気がして、思わず一歩後退る。
(まさか、エフィとのやり取りを聞いていたのか!?)
そんな疑惑が首をもたげるが、ルーカスは首を横に振った。
(いや待て……こいつに惚れただの何だのって情緒的な会話ができるとは思えない)
間違いなく、今目の前にいるアリステアはエフィとルーカスの進捗のことを聞いている訳では、ない。そう判断した。
「どうだったって、具体的に何を聞きたいんだ?」
いつも彼に具体的にと言われるから、逆にその一節を使って、彼の意図を聞いてみる。
「何って。エフィの体調のことだけど。それ以外に何かある?」
「……いや、ナニモナイデス」
アリステアが息を吐いて、立ち上がった。その手にはなぜか、仕込み杖が握られている。
「エフィを介抱しただけなのに、ルーカスはさっきから赤くなったり青くなったりしている。何か、隠してるよね?」
「えっ、ちょ……鋭すぎ……ていうか、個人情報だぞ。あんまり詮索するなよ!?」
「ルーカスが分かり易すぎるだけ。それに」
アリステアの青い瞳が、探るようにこちらを見据える。
「これは詮索じゃなくて、確認だ。エフィが傷つくことは、僕には許容できない」
部屋の空気が、痛いほどに張り詰めたものへと変化する。
「傷付けるわけあるかよ! ちゃんとエフィの同意は貰ってる」
「同意……?」
「いや、なんでそこを的確に詮索するんだよ!? というかお前それ、何目線なんだよ。娘の交際を制限する父親か!?」
「……」
問われたアリステアが、ぱちりと瞬きをした。視線がルーカスから逸れ、仕込み杖に注がれる。
「おいおい、無自覚か。今考えるなよ」
真面目に考えているアリステアが可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「……騎士?」
「なんで疑問形なんだよ」
「彼女を守りたいと思う気持ちを一番具体的に表せる役職だから」
「そうかよ。なんか重いけど、まあいい」
ルーカスは真剣な顔で、好敵手だったかもしれない男に向き合う。
「俺はエフィが嫌がったり、泣いたりすることはしないつもりだ。そこは約束する。それが破られたら、斬るなり焼くなり好きにしてくれ」
「……わかった」
そう言って、アリステアは仕込み杖をテーブルに立てかけ、手を離した。それからつかつかと引き出しへと歩いていって、小さなナイフを取り出す。
(え、俺やっぱ刺される? もしかしてもうエフィを泣かせてた?)
一瞬そう思って及び腰になったが、アリステアの足は動かなかった。髪の一房を結んでいた青紫の髪紐をしゅるりと解くと、ナイフを髪に当てる。
一切の躊躇いなく、一息に、髪を切断した。
「お前……いいのか?」
ルーカスは戸惑った。
もう4年以上の付き合いになるが、アリステアはいつも後ろ髪を肩下まで伸ばし、髪紐で束ねていた。髪を伸ばすことよりも、髪紐を使うことに意味を見出している様子だったとはいえ、突然の行動に驚く。
「いい。多分もう……必要ないから」
アリステアは切った髪と、解いた髪紐を緩く手で握りしめた。
「エフィのことは、君に任せる」
真面目な顔で、アリステアは言う。
それが彼なりの祝福だろうと感じて、ルーカスはしっかりと頷いてみせた。





こちらが本編です。