EP74:風と共に在る [LOG_AIR_RIDE]
鬼ごっこの末、凛が連れ帰った小さな少女。
けれど、セレスティアが彼女を「様」と呼んだ瞬間、凛は自分が何を連れてきたのかを知ることになります。
風を従えるのでも、風に呑まれるのでもない。
互いを失わず、共に在るための選択です。
EP74『風と共に在る』
お楽しみください。
「……シルフィア様?」
セレスティアの声から、普段の静けさが消えていた。
凛は肩越しに振り返り、つい先ほどまで山道で自分を振り回し、鬼ごっこだの何だのと好き勝手に笑っていた小さな少女を見る。淡い翠の髪も、無邪気な笑顔も何ひとつ変わらない。それなのに、セレスティアは彼女を「様」と呼んだ。
「セレちゃん、久しぶり!」
「……シルフィア様」
「あ、もしかして。セレちゃん怒らせちゃったかな?」
「怒ってなどおりません。ただ、驚いただけでございます」
そう答えながらも、セレスティアの視線はシルフィアから離れない。
卓を囲んでいたラヴィとスカイゼルも会話を止め、少し離れた壁際では、バラグスが太い腕を組んだまま静かに顔を上げていた。
凛は四人の反応を順に見渡し、最後にシルフィアへ目を戻す。
「あなた、セレスティア様と知り合いなの?」
「知り合いっていうか、昔からの友達?」
「シルフィア様」
「あ、また怒られた」
「ですから、怒ってなどおりません」
どう見ても普段とは違う。山の中で妙な気配を感じた時点で、ただの子供ではないとは思っていたが、自分が敬意を払うセレスティアがここまで態度を改める相手だとは考えていなかった。
だからといって、正体を知った途端にこちらまで頭を下げるのも気に入らない。知らなかった時には無遠慮に扱い、肩書きを知った瞬間に態度を変える。それでは相手ではなく、その名に礼をしているだけではないか。
凛は顎を上げた。
「それで?」
ラヴィの長い耳がぴくりと揺れる。
「凛どの。その尋ね方は、いささか……」
「知らないものは知らないのよ。知ったふりをする方がよほど失礼でしょう」
「それは、まあ……そうなのですが」
ラヴィが言葉を濁すと、セレスティアは小さく息をついた。
「シルフィア様は、風に連なる精霊の中でも、私たちが普段触れる存在とは明らかに位の異なる方よ。上位精霊。その名を知る者であっても、直接言葉を交わせる者はほとんどいないのよ」
庵の中を満たしていた空気が、そこで僅かに揺らいだ。窓は閉じている。それでも燭台の炎が一斉に細くなり、すぐに何事もなかったように真っ直ぐ立つ。
シルフィアは何もしていない。ただ笑っているだけだった。
けれど、その小さな身体の向こう側へ意識を向けた途端、凛の肌が粟立った。山で見抜けなかったのではない。見せられていなかったのだ。
「……なるほど」
「嬢ちゃん、なるほどで済ませるのかよ」
スカイゼルが目を細める。
「何よ。今さら腰を抜かせとでも?」
「そういう意味じゃねえ。俺様でも、ちっとばかし鳥肌が立ってんだぞ」
「寒いんじゃない?」
「この空気でそれ言えるお前が怖えよ」
笑いを混ぜて返したスカイゼルだったが、腕に浮いた細かな鱗は僅かに逆立っていた。
ラヴィはもっと露骨だった。モノクルの奥から何度もシルフィアの周囲へ視線を走らせ、そこにあるものを自分の知識へ当てはめようとしている。だが、測れない。測れないことそのものが、彼の表情を徐々に固くしていた。
「セレスティア様は……以前から、シルフィア様をご存じだったのですか」
「ええ」
「どの程度まで?」
その問いにセレスティアはすぐには答えなかった。代わりに、シルフィアが少し懐かしそうに目を細める。
「セレちゃんはすごかったよ。昔、僕とかなり深いところまで繋がったんだ」
ラヴィの耳が立ち、スカイゼルから笑みが消える。バラグスも組んでいた腕を僅かに緩めた。
凛だけが、その言葉の意味を測りかねて眉を寄せる。
「深いところ?」
「人と精霊が力を貸し借りするだけなら、そこまで珍しくないんだ。でも、もっと深く繋がっていくと、力だけじゃなくて存在そのものが近くなる」
シルフィアは自分の両手を重ねた。
「もっと近く。もっと深く。最後には、どっちがどっちなのか分からなくなるくらいにね」
「……シルフィア様」
セレスティアが静かに名を呼ぶ。シルフィアは彼女を見上げたが、今度は笑わなかった。
「ここは言った方がいいと思うよ、セレちゃん」
短い沈黙のあと、セレスティアが目を伏せる。シルフィアは、その横顔を確かめてから続けた。
「セレちゃんには、それができるだけの力があった。僕を見ることも、話すことも、深く繋がることもできた。あと少し進めば、僕はセレちゃんの中へ入れたと思う」
「なら、なぜ止めたの?」
凛が尋ねると、シルフィアは迷わず答えた。
「僕が怖くなったから」
「あなたが?」
「うん。僕が入ることで、セレちゃんがセレちゃんじゃなくなるかもしれなかった」
少女の声から、いつもの無邪気さが少しだけ消える。
「力は残るかもしれない。記憶も残るかもしれない。でも、それだけ残っても、中にいるのが本当にセレちゃんなのか分からなくなったら嫌だった。だから僕が止めた」
凛はセレスティアを見る。彼女は否定しなかった。
そこにあるのは、届かなかった者の悔しさではない。手を伸ばせば届く場所まで進み、その先で失うものの大きさを知った者の静けさだった。
凛はゆっくりと息を吐く。
「力を得るために、自分を失う可能性があるのなら、強ければいいという話ではないわね」
「ええ、凛。その通りよ」
今度はセレスティアがはっきりと答えた。
「どれほど大きな力を得ても、あなたがあなたでなくなってしまえば、それを成長とは呼べないわ」
「当然ね」
凛が即座に言い切ると、なぜかシルフィアが嬉しそうに笑った。
「やっぱり凛だ」
「何がよ」
「決めた」
「だから何を」
シルフィアは一歩、凛へ近づいた。
まるで明日の予定でも尋ねるような軽さで言う。
「凛。お願い。僕を憑依させて」
庵から音が消えた。
ラヴィは口を半分開けたまま固まり、スカイゼルはシルフィアと凛を交互に見る。バラグスの眉間にも、初めてはっきりと皺が刻まれた。
セレスティアだけが息を呑む。
「シルフィア様、それは……」
「嫌よ」
今度は全員が凛を見た。
「……は?」
スカイゼルの声が間の抜けた形で落ちる。シルフィアまで目を丸くした。
「え。嫌なの?」
「当たり前でしょう。今の話を聞いた直後に、喜んで身体を貸すと思ったの?」
「いや、でも僕だよ?」
「だから?」
「上位精霊だよ?」
「それは今聞いたわ」
「すごく強いよ?」
「それも分かった」
「凛どの!」
とうとうラヴィが堪えきれず声を上げる。
「相手は上位精霊なのですよ。もう少し、その……敬意というものを」
「敬意と服従は別物でしょう」
凛はシルフィアから目を逸らさない。
「私はあなたに忠誠を誓った覚えはないわ。それに、私の身体なのでしょう? なら、誰を入れるか、どこまで許すかを決めるのは私よ」
ラヴィが黙り、セレスティアも口を挟まなかった。対して、シルフィアだけはますます目を輝かせている。
凛は人差し指を立てた。
「主導権は私。勝手な真似をしない。意見を言うのは構わないけれど、私の意思を押し退けて身体を動かすことは許さない。それを破ったら、その場で追い出すわ」
「うん!」
「返事が軽いのよ」
「でも全部それでいいよ。むしろ、その方がいい」
「……随分あっさり認めるのね」
「だって、僕が欲しいのは凛の身体じゃないもん」
シルフィアが笑う。
「僕ね、凛が気に入ったんだ。凛が凛じゃなくなるなら、僕が入る意味なんてない。僕は凛と一緒に風を見たいんだ」
凛の眉が、ほんの僅かに動いた。シルフィアは身体を奪いたいわけでも、自分を押し退けたいわけでもない。
思い返せば、この少女は山でもそうだった。腹立たしいほど自由で、こちらを振り回し、好き勝手に笑っていたくせに、最後の一線だけは越えてこなかった。そして今も、命令ではなく許しを求めている。恐ろしいから拒むのも、強いから受け入れるのも、結局は自分以外の何かへ判断を預けることに変わりなく、凛にはそれが気に入らなかった。
胸元へ視線を落とすと、ここまで追い続けてきた風のことが思い起こされる。押さえつければ逃げ、力任せに従わせようとすれば形を失い、自分の思い通りにしようとするほど遠ざかっていった。
けれど、目の前の少女は違う。
支配するでもなく、支配されるでもない。互いに境界を持ったまま、同じ場所へ立とうとしている。
もしそれが可能なら、自分が追い続けてきた風の理は、その先にあるのかもしれない。
凛は顔を上げた。
「あなたが偉いから受け入れるわけじゃないわ」
シルフィアが瞬く。
「力が欲しいからでもない。あなたが私の意思を尊重すると言うのなら、それが本物なのか、私自身で確かめるだけよ」
「じゃあ!」
「まだよ」
凛の指先がシルフィアの鼻先へ向く。
「さっきの条件は絶対。それから、私自身に少しでも異常があると分かったら、私が何を言おうと出ていきなさい」
「うん」
「私が自分で判断できなくなった場合も同じ」
「分かった」
「そして、セレスティア様が危険だと判断した場合も従うこと」
そこでシルフィアは一度セレスティアを見る。セレスティアも少女を見返した。
僅かな沈黙のあと、シルフィアは今度こそ真面目に頷いた。
「約束する」
凛はそこで初めて指を下ろした。
「なら、一度だけ確かめてみるわ」
「待ってください」
セレスティアが立ち上がった。その声には、教師としての制止よりも強い響きがあった。
「凛。条件を決めれば安全になる、というほど単純ではないの。精霊との接続が深くなれば、身体ではなく、あなた自身の輪郭が揺らぐ可能性があるわ」
「はい」
「これは、これまでの修行とは違います」
「承知しています」
凛は即答したあと、一度だけシルフィアを見る。そして改めてセレスティアへ身体を向けた。
「セレスティア様のお話を聞いたからこそ、無条件に受け入れるつもりはありません。ただ、危険だからという理由だけで触れないままでは、私はその危険が何なのかさえ自分で知ることができません」
セレスティアは黙って聞いている。
「私は、自分を捨ててまで力を得たいとは思いません。でも、自分を守るという理由で、判断そのものを恐怖へ預けるのも違うと思います」
凛は胸へ手を当てた。
「私の意思を守るのは私です。そのうえで、シルフィアが私との約束を守るというのなら、私は自分で確かめたいのです」
セレスティアの表情が僅かに揺れたのは、心配だけが理由ではない。かつて自分が立った場所へ、今度は弟子が、自分とは異なる答えを持って立っていた。
長い沈黙の末、セレスティアは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「分かりました。ただし、少しでも異変を感じたら即座に止めます」
「はい。それで構いません」
「僕は?」
「あなたは私の言うことを聞きなさい」
「はーい」
「シルフィア」
「はい」
ようやく凛が満足すると、シルフィアは嬉しそうに一歩近づいた。
「じゃあ、凛。少しだけ開けて」
凛が眉を寄せる。
「何を?」
「凛と僕の間」
その答えと同時に、庵の空気が止まった。
窓も戸も閉ざされているからではない。外で鳴いていた虫の声まで、遠ざかったように聞こえた。燭台の炎が揺れをやめ、凛の頬へかかっていた一房の髪も、空中で静止する。
この世界から、風だけが抜き取られた。
「……シルフィア様?」
セレスティアの表情が変わる。
シルフィアは答えず、凛だけを見ていた。その小さな身体から淡い翠の光が零れ始め、最初は指先から、次に髪、頬、肩へと広がりながら、輪郭そのものを細かな光へほどいていく。
「凛どの……」
ラヴィはモノクルへ手を掛けたが、見えているはずの光景をどう理解すればよいのか分からなかった。
精霊が魔力へ変わったのでも、召喚が解除されたのでもない。シルフィアという存在そのものが、凛との境界へ溶けようとしている。
スカイゼルの身体は本人が意識するより早く僅かに沈み、両足が床を強く捉えた。バラグスも組んでいた腕を解き、何も言わず凛を見つめている。
動かない凛の胸元へシルフィアの光が触れた。それは冷たくも熱くもなかったが、知らない誰かの指先が、自分という存在の輪郭へ触れてきた感覚だけは鮮明だった。
凛の呼吸が一度止まる。
怖いと認めた瞬間、妙に頭が冴えた。怖くないふりをする必要などない。怖いからこそ、自分がどこにいるのかを見失ってはいけない。
これは自分の身体であり、自分の記憶であり、自分の意思だ。ここから先へ入ることを許すのも、自分でなければならない。
シルフィアはその境界を越えず、向こう側でただ待っている。
そのことを確かめてから、凛は意識の奥で閉じていた扉を僅かに開いた。
許すという意思が形になった瞬間、シルフィアの輪郭が完全に崩れ、翠の光が凛の中へ吸い込まれた。
少女の姿が消えた直後、何も起こらなかった。光も、風も、音もない。
凛は目を閉じたまま立っている。
「……凛?」
セレスティアが一歩踏み出す。
返事はなかった。
「凛」
もう一度呼ぶ。それでも凛は答えない。
ラヴィが息を呑み、掠れた声を漏らした。
「シルフィア様の気配が……凛どのの中へ……」
ラヴィは言葉の続きを失った。セレスティアだけは、凛が今いる場所を知っている。そこは、かつて自分とシルフィアが越えなかった最後の一線の向こう側だった。
「凛、聞こえていますか」
三度目の呼びかけにも答えはなく、セレスティアは凛の肩へ手を伸ばした。その指先が触れるほんの少し前、凛の左手が光った。
淡い翠光が皮膚の下から滲み出し、手の甲へ細い線を描いていく。一本、さらに一本と重なった線は、互いを追いながら円を描き、やがて風の流れをそのまま閉じ込めたような螺旋となった。
セレスティアの手が止まる。
翠光が薄れても、螺旋の印だけは凛の左手の甲へ残り、消えなかった。
「……紋章が」
ラヴィの声が震えた。
それは精霊を一時的に呼び寄せた印ではない。精霊をその身へ迎え入れ、憑依を成した者へ刻まれる証だった。
紋章はあり、シルフィアの気配もある。では、その内側にいる凛はどうなったのか。
「凛……」
伸ばしたセレスティアの手が僅かに震える。触れる直前だった。
凛の瞼が開いた。
淡い翠の螺旋が瞳の奥を一度だけ巡り、すぐに元の色へ溶けていく。
そこにいたのは、紛れもなく凛だった。
「はい。聞こえています、セレスティア様」
セレスティアの指先が止まった。
凛は自分へ伸ばされた手を不思議そうに見たあと、首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
セレスティアはすぐには答えず、凛の目を見て、呼吸を確かめ、声を聞き、その表情を追った。何ひとつ違わないのに、何ひとつ同じではない。
やがて凛が瞬きをすると、その動きに遅れて庵の空気が動き、燭台の炎が同じ方向へ傾いた。凛が指を僅かに曲げれば、卓上の湯気がその軌跡をなぞり、呼吸を一つすれば、室内の空気が同じ拍子で満ち引きする。
風が凛に従っているのではない。
凛が動くことと、風が動くことの境目が消えている。
ラヴィが一歩後ずさった。
「術式が……ない」
モノクルを押さえ、何度見ても答えが出ない。
「発動の起点も、魔力を風へ変換する過程も見えません。シルフィア様の力は確かに存在する。それなのに、どこまでが凛どので、どこからがシルフィア様なのか……」
ラヴィはそこで言葉を切った。
「分けられない」
その一言が落ちた瞬間、スカイゼルの靴底が床を擦った。
本人が振り返って自分の足を見ると、いつの間にか一歩、下がっていた。
「……俺様、今、下がったか?」
誰も答えず、スカイゼル自身が誰より驚いていた。
凛は何もしておらず、攻撃する気配も殺気もない。それなのに、幾度も死線を越えてきた龍神族の身体が、凛を見た瞬間に間合いを取っていた。
「おいおい……これは、さすがに笑えねえぞ」
「何よ」
凛が眉を寄せる。その眉が動いただけで、頬を撫でる風まで僅かに向きを変えた。
スカイゼルはそれを見て、今度こそ黙った。
バラグスも言葉を発さない。太い指がゆっくり拳を作り、また開く。彼でさえ、一度は目の前の光景を自分の中へ収める時間を必要としていた。
セレスティアは凛から目を離せなかった。
自分が教えた。風を見ることを、感じることを、押さえつけるのではなく、その理を知ることを。
けれど、これはもう自分が教えた答えではない。
凛が自分で選び、自分の意思で踏み込んだ先にあるものだった。
先ほどまでとは別の意味で、怖いと思った。もう、この弟子がどこまで行くのか分からない。それなのに、胸の奥に込み上げてくる喜びを、セレスティアは押さえられなかった。
「セレスティア様?」
凛が尋ねる。
セレスティアはようやく小さく息を吐いた。
「いいえ。問題ではないの。ただ……少し驚いているだけよ」
その口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
「本当に、成立したのね」
凛は左手を上げ、手の甲に刻まれた螺旋紋を初めて正面から見る。
「これが、憑依した者の証ですか?」
「ええ。その紋章は、精霊をその身へ迎えた証よ。憑依を解いたあとも消えることはないわ」
凛の眉が少し上がった。
「ずっと残るのですね」
『ずっと残るよ』
頭の中から響いた声に、凛のこめかみがぴくりと動く。
「勝手に答えないで」
『ええ!? それも駄目なの?』
「会話に割り込む時は、少し待ちなさい」
『細かいなあ』
「追い出されたい?」
『ごめんなさい』
あまりにも普段通りの応酬に、セレスティアの表情から最後の緊張が僅かにほどけた。
一方、ラヴィはまだ動けないまま、凛の左手と瞳の間へ視線を往復させていた。
「……成立している」
誰に聞かせるでもない声が漏れる。
「加護ではない。通常の契約でもない。外側から精霊の力を借りている状態とも違う。それほど深く重なっていながら、凛どのの自我も、シルフィア様の意思も失われていない」
ラヴィはとうとうモノクルから手を離した。
「私の知る精霊術では、説明がつきません」
「そんなにおかしいの?」
「その質問をなさること自体がおかしいのです、凛どの」
ラヴィが珍しく即答すると、スカイゼルも額を押さえた。
「だから、そこはもうちょい驚けって」
「私が驚いたところで、結果は変わらないでしょう」
「そういうとこだぞ、嬢ちゃん」
その横で、ようやくバラグスが口を開いた。
「見事だ」
短い一言だったが、その声に軽さはない。
「精霊を身に宿し、自分を失わぬ。尋常ではない」
凛が振り返ると、バラグスは彼女の周囲を流れる風をじっと見ていた。そこに侮りはなく、目の前で成立した異常を正面から認めている。
それでも、やがて彼は自分の拳を一度握った。
「だが、魔力であることに変わりはない」
ラヴィの耳が動く。
「バラグス師匠?」
「力には流れがある。圧があり、向きがあり、芯がある。どれほど大きくとも、流れがあるなら受け、逸らし、返すことはできる」
「しかし、これは通常の魔法とは……」
「分かっている」
バラグスは静かに遮った。
「凛を軽く見ているわけではない。今の力が異常であることも認める。それでも、魔力なら俺には俺の理がある」
セレスティアが横から彼をほんの一拍だけ見た。
「今の凛を前にしても、そう考えるのね」
「ああ」
バラグスの返事に迷いはなかった。
セレスティアはそれ以上何も言わず、ただ彼の拳へ一度だけ視線を落としてから、凛へ目を戻した。
凛は二人の間に流れた僅かな沈黙を不思議そうに見たものの、すぐに左手へ意識を戻した。螺旋紋を指でなぞると、呼んでも命じてもいない風が指先へ寄り、凛へ触れ返すように柔らかくまとわりつく。
その感覚に口元を僅かに緩めた凛を、ラヴィは黙って見ていた。つい先ほどまで、同じ場所で言葉を交わし、呆れ、教え、ときには言い争ってきた少女が、自分の知る場所から遠く離れてしまったようにさえ見えたからだ。
けれど、凛が左手の紋章を眺めながら、急に何かを思いついた顔をした。
その表情を見た瞬間、ラヴィの胸に別の種類の警戒が生まれる。
「決めたわ」
凛が顔を上げる。
「今の私とシルフィアの状態には、名前が必要ね」
ラヴィの長い耳が、嫌な予感を受け取ったようにぴんと立った。
「凛どの。お待ちください」
「まだ何も言っていないでしょう」
「だからこそ、先に止めているのです」
「失礼ね。今回はとても分かりやすい名前よ」
凛は左手を胸の前へ掲げ、自信に満ちた顔で告げた。
「《風風くっつき合体》」
「却下です」
間髪を入れない返答だった。
「早いわよ!」
「上位精霊との歴史的な憑依現象に、『くっつき』と『合体』を重ねる必要はありません!」
「実際にくっついて一つになったでしょう!」
「その説明を正式名称へ、そのまま積み込まないでください!」
「分かりやすさは大切よ!」
「品位も大切です!」
スカイゼルが堪えきれず、肩を震わせ始める。
「俺様は嫌いじゃねえぞ、《風風くっつき合体》」
「ほら!」
「いや、技名として残していいとは言ってねえ」
「どっちなのよ!」
『僕はかわいいと思うよ』
凛の顔がぱっと明るくなる。
「でしょう?」
『でも、僕がこれからずっと“くっつき合体”って呼ばれるのは、ちょっと恥ずかしいかも』
「名づけられる側からも却下されているじゃねえか!」
「なによ、シルフィアまで!」
ラヴィは深く息を吸い、頭の中から《風風くっつき合体》という言葉を一度追い払った。
風の上位精霊をその身へ迎えながら、凛もシルフィアも互いの意思を失っていない。どちらかがどちらかへ従属するのではなく、それぞれの輪郭を保ったまま、同じ風の中に在る。
ならば、その名は一つしかなかった。
「風精霊憑依」
騒がしかった庵に、一瞬だけ静けさが戻った。
ラヴィは凛の左手へ刻まれた螺旋紋を見つめながら、改めて言葉を重ねる。
「風の精霊をその身へ迎え、互いの意思を保ったまま、風と共に在る術です。少なくとも《風風くっつき合体》よりは、この現象にふさわしい名でしょう」
凛はすぐには答えず、口の中で一度その響きを確かめた。
「……まあ、悪くはないわね」
なぜか審査する側の顔で頷いた凛へ、ラヴィはモノクル越しに冷ややかな視線を向ける。
「凛どのの案と比べるまでもありませんがね」
「何よ、その言い方」
『僕もエアライドがいいな』
凛の表情が止まった。
「ちょっと、シルフィア。あなたは私とくっついている側でしょう」
『だからこそだよ。これからずっと呼ばれるなら、格好いい方がいいもん』
「《風風くっつき合体》だって、分かりやすくていい名前でしょう!」
「分かりやすさと技名としての品位は、両立できるのです」
「俺様もエアライドの方がいいと思うぞ」
スカイゼルまで加わると、凛は勢いよく振り返った。
「あなたまで何なのよ!」
「いや、さすがに『くっつき合体』はねえだろ」
「実際にくっついて合体したでしょう!」
「だからって、そのまま名前にする奴があるか!」
スカイゼルの笑い声が庵へ響き、ラヴィも呆れたように息を吐きながら、口元に浮かんだ笑みまでは隠せていなかった。
凛はしばらく三人を睨んでいたが、誰一人として意見を変える気がないと悟ったのか、やがて腕を組んで顔を背ける。
「……風風くっつき合体の方が、ずっと分かりやすいのに」
拗ねたように零れた小さな声を聞いた瞬間、ラヴィの胸に残っていた最後の畏れが、ようやくほどけていった。
上位精霊を身に宿し、この世界の常識から遠く外れた場所へ踏み出しても、凛は凛のままだった。
「では、正式名称は風精霊憑依ということで」
「勝手に決めないでちょうだい!」
『よろしくね、エアライド』
「シルフィア!」
再び上がった凛の声に、庵の中へ笑いが広がった。
その騒ぎの中心にいる凛の姿は、これまでとほとんど変わらない。髪の色も、顔も、立ち姿も同じままだった。
けれど、その左手には今まで存在しなかった風の螺旋紋が刻まれている。
笑いが少しずつ収まった頃、凛はふと左手へ目を落とした。指先で紋章をなぞると、呼んでもいない風が柔らかく寄り、その指へ触れ返す。
『これからよろしくね、凛』
シルフィアの声が内側から響く。
凛は紋章を見つめたまま、僅かに口元を上げた。
「勝手な真似をしなければね」
『しないよ』
「本当に?」
『たぶん』
「今すぐ出ていく?」
『しません!』
再び騒ぎが始まりかけたところで、セレスティアは何も言わず凛を見つめていた。
自分が教えてきた少女だった。生意気で、負けず嫌いで、何度転んでも誰かの答えではなく、自分なりの理を探そうとする弟子。
その少女が今日、自分の知る道の先へ一歩踏み出した。手を引いたわけではなく、答えを与えたわけでもない。凛は自分で選び、自分で境界を決め、自分の意思を失わないまま、誰も成し得なかった場所へ立ったのだ。
誇らしさと、驚きと、わずかな恐れが同時に胸へ満ちていく。教師である自分にも、その先が見えない。それでも歩みを止めたいとは思わず、むしろどこまで行くのかを見届けたいと願った。
セレスティアの視線の先で、凛は何事もなかったように食卓へ向かう。その左手の甲では、風を閉じ込めた螺旋紋だけが、燭台の光の下で消えずに残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。
この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




