EP73:鬼ごっこは空の果てまで [LOG_CHASE]
風の修行を終えた凛。
それでも、なぜか風だけが彼女のそばを離れようとしません。
そして現れたのは、山の中にはあまりにも不釣り合いな、小さな女の子。
どうやら今日は、もう少しだけ帰れそうにありません。
修行場に残っていた白い蒸気も、いつの間にか滝の水煙へ紛れていた。
ひと騒ぎを終えたセレスティアは、抉れた地面と切断された岩、それから何事もなかったように立っている凛を順番に見渡し、とうとう諦めたように息を吐いた。
「今日はここまでにしましょう。これ以上続けたら、修行場の方が先に音を上げそうだわ」
「俺様はまだいけますけどね!」
胸を張るスカイゼルの隣で、ラヴィが長い耳を伏せた。
「君主様。先ほど水と炎を接触させた張本人の一人であることを、どうかお忘れなきよう」
「お前もだろうが!」
「私は反省しております」
「その顔で言うな!」
二人のやり取りを聞きながら、セレスティアは額へ手を当てた。
「バラグス。この二人を連れて帰ってくれる?」
「分かった」
「ちょ、お師匠! 俺様は荷物じゃ――」
「行くぞ」
バラグスに肩を掴まれたスカイゼルが、そのまま引かれていく。ラヴィもセレスティアへ一礼して後へ続いたが、数歩進んだところでふいに振り返った。
「凛どの。くれぐれも、今から新しい技など思いつかれませんよう」
「どうしてあなたにそんなことを言われなくてはいけないのよ」
「その返答が不安なのです!」
声を残して、三人の姿が木々の向こうへ消えていった。
セレスティアは最後まで凛の顔を見ている。
「あなたも戻るのよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……少ししたら」
「凛」
「ほんの少しです。さっきの風を、もう一度確かめたいだけですから」
セレスティアは何か言いたそうに唇を開き、結局は小さく肩を落とした。
「日が落ちる前には戻りなさい」
「はい」
「無茶はしない」
「善処します」
「そこは約束なさい」
凛がわずかに視線を逸らした。
セレスティアは深く息を吐いたものの、最後には仕方なさそうに笑い、森へ続く道を歩いていった。
やがて足音も消え、修行場には滝の音と、湿った岩肌を伝う水の気配だけが残った。
凛はその場でしばらく動かなかった。
掌の周囲には、まだ風がいる。
先ほどまでのような暴風ではない。髪を乱すほどでもなく、衣服の裾をほんの僅かに揺らす程度の静かな流れだった。
試しに右へ一歩動けば、風もそれに合わせて流れた。そこで足を止めると、頬を撫でていた気流も、まるで凛の次の動きを待つように柔らかく留まる。
今度は数歩進み、不意に向きを変えてみる。
風は遅れなかった。
むしろ凛がそうすることを最初から知っていたかのように、先回りして髪を撫でていく。
(私が動くことと、風が動くことの境目がなくなった。それ自体は、もう分かっているわ)
ならば、なぜ修行を終えた今も離れないのか。
凛が何かを望んでいるわけではない。守れとも、運べとも、集まれとも決めていない。それでも風は消えず、むしろこちらの様子を窺うように一定の距離を保ってついてくる。
風に意思があるなどと安易に決めつけるつもりはない。
けれど、自分の理解に合わないものを、理解できないという理由だけで切り捨てるのも違う。
凛は腕を組み、何もない空間を睨んだ。
「……いつまでついてくるつもり?」
返事はない。
代わりに、頬へ柔らかな風が触れた。
「聞こえているなら、返事くらいしたら?」
今度は白銀の髪がふわりと持ち上がる。
「ずいぶん失礼な風ね」
『君に言われたくないなあ』
凛の目が細くなった。
声は背後からでも、頭上からでもない。森を抜ける風そのものに混じりながら、不思議なほど近く聞こえた。
凛が半歩退く。
周囲を漂っていた風が一ヶ所へ集まり、木漏れ日の中で淡い翠の光を帯びていく。
光の粒が少しずつ輪郭を結び、やがて凛より遥かに小さな少女の姿を作った。
柔らかな緑の髪と、同じ色の大きな瞳。薄い衣は布というより風を重ねたように絶えず揺れている。足は地面から僅かに浮き、その周囲だけ草葉の動きまで妙に整っていた。
少女は凛を見上げ、にこにこと笑う。
「こんにちは」
「……誰?」
笑顔が固まった。
「え?」
「だから、あなたは誰なの?」
「いや、その前にもう少しない? びっくりするとか、心配するとか」
「心配?」
少女は自分の身体を両手で示した。
「ほら。僕、こんなに小さい子供なんだけど」
凛は少女を上から下まで眺めた。
「だから怪しいのよ」
「なんで!?」
「こんな山奥に、小さな子供が一人でいる。その時点で十分不自然でしょう。疑わない方がおかしいわ」
「厳しいなあ! 普通は迷子かな、とか思うでしょ?」
「思わないわね」
「即答!?」
凛は少女の抗議を聞き流しながら、その足元へ視線を落とした。
湿った土に足跡はない。
草を踏んだ跡もなければ、森を歩いてきたなら付いていて当然の泥や葉も衣服には見当たらない。それどころか、呼吸すらほとんど感じられなかった。
それだけなら、まだ説明はつく。
凛が気になったのは、もっと別のことだった。
人がそこにいれば、僅かでも周囲へ痕跡を残す。空気を押し、草を揺らし、土へ重みを渡し、そこに存在していることを世界へ刻む。
けれど、目の前の少女にはそれが妙に薄い。
風に吹かれているのではない。
少女が笑えば風が揺れ、髪を払えば周囲の流れまで向きを変える。どちらが先に動いたのか判然としないほど、少女と風の境目そのものが曖昧だった。
つい先ほど自分が辿り着いた感覚と、どこか似ている。
けれど、こちらはもっと自然で、深い。
「それに」
凛は少女の目を真っ直ぐに見る。
「あなたからは、人間なら誰でも持っているはずの『そこにいる重さ』が、ほとんど感じられないのよ」
少女が瞬きをした。
「重さ?」
「見た目の話ではないわ。少なくとも、普通の子供ではないでしょう?」
しばらく少女は黙っていた。
やがてその口元が、ゆっくりと上がっていく。
「……へえ」
先ほどまで不満そうだった顔が消え、今度は珍しいものでも見つけたように凛を眺め始めた。
「やっぱり君、面白いね」
「勝手に品定めしないでくれる?」
「だって気になるんだもん。さっきの風も君でしょ?」
「さっきの?」
「水と火がぶつかって、ドーンってなったやつ。その中で君の周りだけ、風が全部きれいに繋がってた」
少女は両手を広げ、くるりと宙で回る。
「変だった。人間が作った風なのに、最初からそういう風だったみたいで」
「褒めているのかしら?」
「すっごく褒めてるよ」
「そう」
「反応薄いなあ」
少女はむっと頬を膨らませたが、すぐに何かを思いついたように凛へ身を乗り出した。
「ねえ。僕の力、興味ない?」
「別に」
「早いよ!」
「興味がないもの」
「何なら貸してあげてもいいけど?」
「いらないわ」
少女の身体が空中でぴたりと止まった。
「……え?」
「聞こえなかった?」
「き、君もなかなか素直じゃないね。本当だったら、みんな泣いて喜ぶはずなのに」
「そう。なら、その“みんな”に貸してあげればいいじゃない」
「そういうことじゃない!」
森に少女の声が響いた。
凛は小さく息を吐き、その脇を通り過ぎようとする。
「話がそれだけなら、私は戻るわ」
「待って待って待って!」
少女が慌てて凛の前へ回り込んだ。
「じゃあ勝負しよう!」
「嫌よ」
「まだ何も言ってない!」
「どうせ、ろくでもないことだもの」
「鬼ごっこ!」
「ほら」
「ほらって何!?」
凛は少女を避けて歩き出した。
「僕を捕まえられたら、本当に僕の力を貸してあげる」
凛は歩みを止めなかった。
「いらないと言ったでしょう」
「じゃあ、僕がどのくらいすごいのか確かめてみたくない?」
「別に」
「少しくらい興味持ってよ!」
少女の方が泣きそうな声になっている。
凛はようやく足を止め、肩越しに振り返った。
得体の知れない相手から力を借りること自体に、魅力を感じているわけではない。
ただ、自分の風へ引き寄せられて現れた存在であることは確かだった。その正体も、この少女が自信満々に差し出そうとしている力が何なのかも、多少は気になる。
確かめておくことに損はない。
「……まあ、いいわ」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「期待はしていないけれど、あなたの正体も少し気になることだし。そこまで言うなら、乗ってあげる」
「言ったね?」
「ええ」
「じゃあ、僕に一度でも触れられたら君の勝ち。それでどう?」
「それだけ?」
「それだけ」
「後から条件を変えるのは禁止よ」
「変えないよ!」
「約束ね」
「うん!」
少女が数歩分ほど後ろへ飛び、空中で軽く身を翻した。
その顔には、隠す気すらないほどの余裕が浮かんでいる。
「じゃあ、始めようか」
凛がわずかに眉を上げた。
「随分、自信があるのね」
「だって君、人間でしょ?」
「たぶんね」
「たぶん?」
少女が問い返した瞬間、凛は地面を蹴った。
二人の間にあった空間が一息に潰れ、伸ばした右手が少女の肩へ迫る。指先が触れる寸前、その小さな身体は葉を一枚風へ流すように横へ滑り、木々の隙間へ消えた。
「わっ!」
遅れて声が響く。
「ちょっと! 始めるって言った直後に来る!?」
「始まったのでしょう?」
「そうだけど!」
凛も森へ飛び込んだ。
少女は枝と枝の僅かな隙間を抜け、太い幹の直前で鋭く軌道を変える。地面すれすれまで降りたかと思えば次の瞬間には梢の高さへ跳ね上がり、上下も左右も同じ場所であるかのように軽々と進んでいく。
単に速いだけではない。
曲がるための溜めがなく、身体の向きを変えるより先に進路そのものが変わる。普通ならば肉体に掛かるはずの重さを、少女だけがまるで知らないようだった。
それでも凛には、その動きが不思議なほどよく見えた。
少女が動けば風が動く。髪がなびくより先に周囲の流れがわずかに歪み、次に進む場所を示す。
ならば、それに自分の風を重ねればいい。
前を飛んでいた少女が振り返った。
「どう? もう無理でしょ?」
その瞬間、凛の指先が少女の髪を掠める。
「ひゃっ!?」
少女が一気に距離を取った。
「い、今触った!?」
「髪だけよ。約束はあなた自身でしょう?」
「危なっ!」
「残念ね」
「なんでそんな普通の顔してるの!?」
少女は唇を尖らせ、少しだけ速度を上げた。
森の景色が横へ流れ始める。
倒木を飛び越え、谷を一息に渡り、岩壁の脇を抜ける。少女が通り過ぎたあとには草葉が大きく伏せ、遅れて吹き抜ける風が小枝を震わせていた。
凛は離れない。
少女が一度振り返る。
二度目には、笑みが少し薄くなった。
三度目には、眉間へ小さな皺が寄っている。
「……君、思ったより速いね」
「そう?」
「じゃあ」
少女が口元を持ち上げた。
「少しだけ、本気を出してあげる」
「最初からそうしたら?」
「あとで泣いても知らないよ!」
少女の周囲にまとわりついていた風が、一瞬だけ大きく膨らんだ。
次の瞬間、姿が遠ざかる。
先ほどまでとは違う。
木々の間を抜けているのではなく、空いた場所を見つけるより早く、風そのものが道を作っている。森の枝葉が左右へ押し退けられ、一本の長い通り道が生まれると、その中心を翠の影が駆け抜けていった。
凛も速度を上げる。
エアレギオンを纏った身体に、風が一つずつ増えていくのではない。足を運ぶことも、身体を持ち上げることも、進行方向へ空気を流すことも、すべてを同じ一つの動きとして扱う。
踏み出す。
風が動く。
その二つを分けて考えない。
少女はかなり先まで距離を取ったところで、勝ち誇ったように振り向いた。
直後、その目が丸くなる。
凛がすぐ隣にいた。
「――えっ!?」
「さっきよりは速くなったわね」
「なんで横にいるの!?」
「追いついたからでしょう」
「そんな当たり前みたいに!」
少女が歯を食いしばる。
「今のなし!」
「何を言っているの?」
「もう一回!」
「勝手にしたら?」
「今度こそ本気だからね!」
「さっきも似たようなことを聞いたわ」
「今度は本当!」
少女の瞳から、遊びの色が消えた。
空気の質が変わる。
森の木々が一斉にざわめいたかと思うと、前方へ吹き抜けていた風が少女の周囲へ吸い寄せられ、翠の髪と衣を包みながら細く研ぎ澄まされていった。
小さな身体が風景の中へ滲む。
そして、消えた。
遅れて轟音が森を走り抜け、少女がいた場所から先の木々が一斉に揺れた。枝葉が遅れて舞い上がり、その間を翠の光だけが遥か彼方へ伸びている。
凛はその光を見つめ、ほんの少し口元を上げた。
「そうこなくてはね」
今度は凛も躊躇しなかった。
足元から吹き上がった風が全身へ纏わりつき、身体が地面を離れる。
森が一気に後方へ流れていく。
少女は山肌に沿って走り、谷へ落ちるように高度を下げたかと思えば、岩壁寸前で向きを変えて再び上昇する。そのたびに周囲の風が大きく歪み、木々の梢が少女を追うように傾いた。
凛はそのすべてを追った。
いや、追うという感覚すら薄れていた。
少女が風の中にいるなら、自分も同じ風の中にいる。
どこまで速く動こうと、少女だけが別の世界へ行くわけではない。
一つの風の中で、互いの位置が変わっているだけだ。
少女が右へ大きく軌道を変える。
凛も右へ。
谷間へ急降下する。
凛も落ちる。
再び跳ね上がる少女の隣へ、白銀の髪が並んだ。
「うそっ!?」
「どうしたの?」
「なんでまだいるの!?」
「あなたが逃げているからでしょう?」
「答えになってない!」
少女がさらに風を強める。
地上の景色はもはや輪郭を保てず、森も岩も滝も、色の帯となって後ろへ流れていた。それでも凛は少女の隣から離れず、むしろ少しずつ前へ出始める。
少女の横顔から、とうとう余裕が消えた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待つ必要があるの?」
「君、人間でしょ!?」
「さっきから、そればかりね」
「人間ってこんなに速かった!?」
「他の人間のことは知らないわ」
「そこは知っててよ!」
少女は凛を見て、前を見る。
もう一度凛を見る。
まだいる。
さらに加速する。
それでもいる。
いつしか少女の表情は、「人間をからかって遊ぶ子供」のものではなくなっていた。
本気で逃げている。
そのことに本人が気づいたのは、おそらく凛より少し後だった。
「もうっ!」
少女が突然、上を向いた。
頭上には梢、その先には夕暮れへ向かい始めた空が広がっている。
地面と木々の間では振り切れない。
谷を使っても駄目。
岩壁を抜けても駄目。
ならば。
「だったら、ここなら!」
少女の進路が一気に上へ向いた。
枝葉が大きく割れ、翠の光が森を抜けて空へ飛び出す。
凛も迷わず追った。
山の稜線が下へ沈み、森は巨大な緑の塊へ変わっていく。少女は雲へ突っ込み、その白い層を一直線に貫いたあとも速度を緩めず、さらに上へ向かって駆け続けた。
一枚、また一枚と雲を抜けるたび、周囲の青は深くなる。
眼下へ広がる山々は次第に形を失い、大地そのものが一枚の景色へ変わり始めるほど高度を増しても、少女はなお上を目指した。
時折、下を確認している。
一度目。
まだ凛がいる。
少女が顔をしかめる。
二度目。
まだいる。
さらに速度が上がる。
三度目には、少女はもはや後ろを見ることすらやめた。
ただ、上へ。
人間が普段足を踏み入れない高みなら、自分の場所だと信じるように、小さな身体を包む風を細く鋭く研ぎ澄ませながら突き進んでいく。
凛はその後方で、少女の軌道を静かに見ていた。
少女は十分に速い。
けれど、凛には分かっていた。
風は速さだけではない。
どこへ向かうのか。
どのように流れるのか。
どこまで行けば満足するのか。
それらすべてが、一つの風の中にある。
ならば、同じ軌道を後ろから追い続ける必要などない。
凛は目を細めた。
その先にある場所を決める。
自分がそこへ行くと決める。
必要なのは、それだけだった。
凛の周囲にあった風が、一度だけ静かになった。
次の瞬間、白銀の少女は翠の軌跡から外れ、さらに鋭い線となって上空へ駆け抜けた。
空の色が、深い藍へ近づいていく。
少女はようやく速度を緩めた。
遥か下には雲海が広がり、そのさらに向こうに青白い大地が霞んでいる。ここまで来れば、さすがにあの人間も追っては来られない。
そう確信したのか、少女はゆっくりと下を見た。
凛はいない。
少女の顔に、ようやく笑みが戻る。
「ふふん。さすがにここまでは――」
「誰を探しているの?」
声は、上から聞こえた。
少女の身体が硬直する。
恐る恐る。
本当に恐る恐る、顔を上げる。
そこに凛がいた。
少女よりさらに高い場所で、腕を組みながら静かに浮かんでいる。白銀の髪だけが周囲を流れる風に揺れ、その表情には息を切らした様子も、必死に追いついた痕跡もない。
ただ、待っていた。
少女の口が開く。
閉じる。
もう一度開いた。
「…………え?」
凛が首を傾げた。
「どうしたの?」
「な、なんで君が上にいるの!?」
「あなたより先に着いたからよ」
「そんなの見れば分かるよ!」
「なら聞かないでくれる?」
「僕、今、本気だったんだけど!?」
「そう」
「そう、じゃないよ!」
少女が叫んだ瞬間、凛は静かに距離を詰めた。
少女も反射的に身を引こうとしたが、一瞬遅い。
凛の人差し指が、その額へ触れた。
ちょん。
「捕まえたわ」
少女は完全に固まった。
高い空のただ中で、二人の周囲を流れる風だけが、何事もなかったように静かに通り過ぎていく。
「…………」
「聞こえている?」
「……ずるい」
「何が?」
「鬼ごっこって普通、後ろから追いかけて捕まえるものでしょ!」
「勝手に決めないでくれる? あなたは『一度でも触れられたら私の勝ち』と言っただけでしょう」
「そうだけど!」
「条件は守ったわ」
「そうだけどぉ……!」
凛は小さく息を吐いた。
「それで、約束は?」
「……覚えてるよ」
「なら結構」
少女は唇を尖らせながらも、凛を見つめる目だけは先ほどまでと違っていた。
悔しさ。
驚き。
そして、それ以上に強い好奇心。
自分が何度速度を上げても離れず、本気で逃げても追いつき、最後にはさらに上で待っていた人間を、どう理解すればいいのか分からない。
それでも一つだけ確かなことがある。
もっと見たい。
少女の表情には、それがありありと浮かんでいた。
少女はしばらく凛を凝視していたが、やがて肩を震わせ始めた。
「ふふ……」
「何?」
「ふふふっ……あははははっ!」
空の上で、少女が声を上げて笑う。
「何がおかしいのよ」
「だって君、面白すぎるよ!」
「褒められている気がしないわね」
「褒めてる、褒めてる!」
少女は笑いながら、凛の周囲をくるくると回った。
「決めた」
「何を?」
「僕、君についていく」
凛が眉をひそめる。
「どうしてそうなるのよ」
「だって、君といると面白そうだから」
「理由になっていないでしょう」
「僕を欲しがらなかったのに、僕を捕まえた人なんて初めてだもん」
少女は心底楽しそうだった。
凛は小さく息を吐く。
「私はあなたを捕まえたかったわけじゃないわ。勝負だから捕まえただけよ」
「同じじゃない?」
「全然違うわ」
「じゃあ、ついていっていい?」
「話を聞きなさい」
「嫌?」
そこで、少女が少しだけ首を傾げた。
凛は言葉に詰まる。
素性は分からない。
何者なのかも、なぜ自分に興味を持ったのかも分からない。
本来なら、断るべきだ。
けれど。
この山の中へ一人で置いていくというのも、それはそれで凛の理に反する。
少なくとも見た目は幼い少女なのだ。
「……勝手にしなさい」
「話は下でしましょう」
凛は踵を返す。
少女も当然のようについてくる。
「ねえ」
「何?」
「君、本当に何者なの?」
「それは私の台詞よ」
二人は並んで空を降りていった。
森へ戻った頃には、木々の隙間から差す光が橙色へ変わり始めていた。
修行場へ降り立った凛は衣服を整え、帰路へ向かう。
その後ろを、少女がついてくる。
しばらくは大人しくついてきていた少女だったが、やがて誰に聞かせるでもなく呟いた。
「みんな元気にしてるかな?」
凛は答えない。
「僕のこと覚えてるかな?」
独り言のつもりなのだろうが、ずいぶんとはっきり聞こえる独り言だった。
「みんな?」
凛が尋ねると、少女は待ってましたとばかりに振り返った。
「こう見えて、僕って凄いんだけどなぁ」
「あ、そう」
少女の頬が膨らんだ。
「……もう少し何かない?」
「何を期待しているのよ」
「懐かしいなぁ。ラヴィはいつも褒めてくれてたのにな?」
今度は凛が少女を見る。
「ん? あの気取った兎を知ってるの?」
「知ってるよ」
少女は嬉しそうに頷いた。
「ゼルちゃんは、昔から力任せだったけど」
「それは、今も変わらないわ」
「今もなんだ……」
妙にしみじみとした声だった。
凛はそれ以上相手にするのをやめた。
それでも少女は離れない。
森を抜けても、小道を歩いても、川沿いへ出ても、ずっと凛の少し後ろを飛びながら、ときどき横へ並んでは何かを話しかけてくる。
凛が返事をしなければ、別の話を始める。
返事をすれば、さらに話が増える。
どうやら塩対応というものが通じないらしい。
(……厄介なのに懐かれたわね)
そう思いながらも、凛は本気で追い払おうとはしなかった。
少なくとも危害を加える気配はない。それどころか、自分の風へ強い興味を持っていることだけは、嫌というほど伝わってくる。
そして凛自身も、この得体の知れない少女について、まだ分からないことが多すぎた。
それならば、しばらく観察してみるのも悪くない。
もちろん、それを本人へ言うつもりはなかった。
やがて森の向こうに、庵が見えてきた。
窓にはすでに灯りが入り、開いた窓から夕餉の香りが流れてくる。いつもなら修行から戻った実感を覚えるその匂いに、今日はもう一つ、妙に軽い風の気配が混じっていた。
玄関を開ける。
家の中では、セレスティアが晩餐の支度を整えているところだった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、凛。随分ゆっくりだったわね」
「少し予定外のことがありまして」
「予定外?」
凛は僅かに横へ退き、後ろを振り返った。
少女は何の遠慮もなく、凛の肩越しから家の中を覗き込んでいる。
凛は小さく息を吐いた。
「セレスティア様、突然で申し訳ありません。小さな女の子を一人、今夜お招きしてもよろしいでしょうか」
「小さな女の子?」
「小さな女の子って……」
背後から不満そうな声がした。
凛は無視する。
セレスティアが、何気なく凛の後ろへ視線を向けた。
その瞬間だった。
食卓へ置こうとしていた皿が、途中で止まる。
それまで柔らかく笑っていた表情から、音もなく色が消えていった。
セレスティアは瞬きさえ忘れたように、凛の後ろにいる少女を見つめている。
少女の方は、そんな反応など予想していたのかいないのか、ぱっと笑顔を浮かべた。
「セレちゃん、久しぶり!」
「セレちゃん?」
セレスティアの唇が、僅かに震えた。
「……シルフィア様?」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。
この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




