EP71:風には空は狭すぎる [LOG_BEYOND_SKY]
今回は、風を“纏う”ところから、もう一歩先へ。
高速で動けても、身体がついてこなければ意味がない。
ならば、外側ではなく内側から支えればいい。
……そこまでは、まだ普通の話だったはずです。
どうしてこうなったのでしょう。
今回も、凛の「理屈は通っている」が、少し遠いところまで走っていきます。
翌朝。
凛は、巨大な滝の前に立っていた。
切り立った断崖から落ちる水の柱が、朝靄を引き裂きながら滝壺へ叩きつけられている。
轟音。
絶え間なく砕ける水飛沫。
濡れた岩肌を朝日が照らし、細かな水滴が無数の光を散らしていた。
凛はしばらくその光景を眺めていたが、やがて隣に立つセレスティアへ顔を向けた。
「……ここ、以前にも来ましたよね?」
「ええ」
「また滝に入るのですか?」
「いいえ」
あまりにあっさり否定され、凛は瞬きをした。
「では、何を?」
「見るのよ」
「見る?」
セレスティアは滝を指した。
その先。
滝の直下には、すでに一人の男がいた。
「ぐぉぉぉぉぉ……!」
落下する水を全身で受け、岩盤へ両脚を食い込ませるように踏ん張っている。
スカイゼルだった。
しかも、ただの滝ではない。
セレスティアの術によって水流は一点へ絞られ、白く鋭い水柱となってスカイゼルの頭上へ降り注いでいた。
少し離れた岩場では、ラヴィが長い耳をぴんと立て、感極まった様子で主を見つめている。
「お見事です、スカイゼル様! 本日も実に雄々しいお姿!」
「応援するくらいなら……少しは……代われぇぇぇ!」
「滅相もございません。その高潔なる鍛錬を、このラヴィごときが奪うなど」
「絶対ぇ嫌なだけだろうが!」
凛は二人を見た。
そして。
何事もなかったようにセレスティアへ視線を戻した。
「それで、私は?」
「だから、見るの」
セレスティアは微笑んだ。
「昨日、あなたが高速で飛んだ時のことを覚えている?」
「もちろんです」
凛の表情がわずかに引き締まる。
昨日。
《エアレギオン》を身に纏い、双神峰を高速で駆け抜けた。
風は凛の意思についてきた。
加速。
旋回。
上昇。
急停止。
望んだ通りに動いてくれた。
だが。
身体は違った。
速度を上げれば、胸の奥が押し潰される。
方向を変えれば、身体が一瞬遅れて引っ張られる。
風だけなら、もっと行ける。
自分の身体が、それを邪魔していた。
「風は、もうあなたについてきている」
セレスティアが言った。
「でも、身体がついてきていない」
凛は静かに頷く。
「昨日、あなたは言ったでしょう?」
セレスティアの声が少しだけ低くなった。
「内側から支える必要があるのかしら、と」
「はい」
「だから今日は、それを考えなさい」
凛は滝を見る。
大量の水が落ちる。
岩へ叩きつけられる。
砕ける。
左右へ分かれる。
細い流れとなって岩肌を滑り。
やがて、また一つになる。
どれほど激しく打ちつけられても。
水は止まらない。
「一つだけ覚えておいて」
セレスティアが言った。
「支えることと、固めることは同じではないわ」
凛はその言葉を胸の中で繰り返した。
支える。
固める。
似ているようで。
違う。
目を閉じる。
風を感じる。
《エアレギオン》。
薄い風の膜が身体を包んだ。
髪。
頬。
肩。
腕。
腰。
脚。
身体の外側を風で包むことには、もう迷いがない。
問題は。
その先。
(内側から……)
意識を身体の中へ向ける。
最初に感じたのは胸だった。
呼吸。
鼓動。
その奥。
身体そのものの重さ。
凛はそこへ、ほんのわずかに風を送り込んだ。
胸。
背中。
腰。
脚。
外から守るのではない。
内側から形を保つ。
身体を。
崩れないように。
強く。
もっと強く。
その瞬間。
凛の背筋が、ぴたりと伸びた。
肩が固まる。
膝が動かない。
「……あら?」
一歩。
踏み出そうとする。
重い。
もう一歩。
動くには動く。
だが、まるで全身を見えない板で挟まれているようだった。
バラグスが腕を組んだまま声をかける。
「凛」
「はい」
「痛ぇところは?」
凛は身体を確認した。
「肩と腰が少し。それと……脚が張る感じがします」
「なら、それを無視すんな」
バラグスの目が細くなる。
「痛みは身体からの報告だ」
凛が彼を見る。
「頑丈になった証じゃねぇ。どっかに無理をさせてるってことだ」
凛は腕を上げる。
重い。
腰をひねる。
動きづらい。
そして。
小さく息を吐いた。
「……また鎧にしてしまったわ」
セレスティアの口元が、ほんの少し緩んだ。
以前もそうだった。
身体を守ろうとして。
外側の風を固めた。
結果、自分自身が動けなくなった。
今度は。
同じことを身体の中でやっただけ。
凛は滝を見る。
水は岩へぶつかっている。
だが。
押し返してはいない。
岩と戦ってもいない。
ぶつかれば分かれる。
隙間があれば通る。
そして。
また流れる。
「……そういうこと」
凛が呟いた。
「何か分かった?」
「固めるから、動けなくなるのですね」
凛は肩の力を抜いた。
「身体は、じっとしているものではないもの」
呼吸する。
鼓動する。
伸びる。
縮む。
歩けば腰が動く。
膝が曲がる。
腕を上げれば肩も動く。
なら。
風だけを一つの形へ留める理由はない。
「だったら、風も止めてはいけない」
再び。
目を閉じる。
身体の中へ入れた風を。
今度は。
流す。
胸から肩へ。
肩から腕へ。
背中から腰へ。
腰から脚へ。
溜めない。
留めない。
巡らせる。
滝のように。
凛の呼吸が静かになっていく。
肩の強張りが消える。
腰。
膝。
足首。
身体の中を巡る風が。
凛の動きに合わせて形を変える。
目を開く。
右手を握る。
開く。
一歩。
歩く。
軽い。
もう一歩。
軽い。
凛は身体をひねった。
風が遅れてついてくるのではない。
身体と一緒に。
同時に動く。
白銀の髪がふわりと舞い。
静かに元へ戻った。
「……できた」
セレスティアが頷く。
「ええ」
声には。
確かな安堵があった。
「それでいいわ、凛」
「はい」
「身体を無理に強くする必要はないの。受けた負荷を流し、必要な場所を支える。それだけで、昨日よりずっと楽に動けるはずよ」
「なるほど」
凛は自分の腕を見る。
指を曲げる。
伸ばす。
軽く地面を蹴った。
身体がふわりと前へ出る。
ほんの数歩。
それだけ。
だが。
凛の眉が動いた。
「……おかしいわね」
セレスティアの表情が止まる。
「何が?」
「これ」
凛は拳を握った。
「身体を支えているだけではないわ」
「凛?」
「昨日より……動きやすい」
凛は自分の脚を見る。
「風が負担を減らしているだけなら、楽になるだけでしょう?」
誰も答えなかった。
「でも」
軽く足首を回す。
「身体そのものが、前へ出たがっている感じがする」
滝の中から。
嫌な予感に満ちた声が響いた。
「おい、嬢ちゃぁぁぁん!」
凛が振り返る。
「何?」
「俺様が言ったのは、身体を楽にしろって話だぞぉぉ!」
「ええ。楽になったわ」
「だから何で、その次に行くんだよ!」
凛は本気で不思議そうに眉を寄せた。
「楽になったのだから、もっと動けるでしょう?」
「そうじゃねぇぇぇぇ!」
轟音の中。
スカイゼルの叫びだけが。
やけにはっきり聞こえた。
バラグスが額を押さえる。
「凛。身体ってのはな、一ヶ所だけ強くすりゃいいってもんじゃねぇ」
凛が振り返る。
「骨があって、筋肉があって、腱がある。それが全部、一緒に動いてる」
「はい」
「脚だけ無茶に速くしたって、腰が耐えられなきゃ壊れる。腕だけ強くしたって、肩がついてこなきゃ同じだ」
止めるための説明だった。
少なくとも。
バラグスにとっては。
「……全部?」
凛が呟いた。
バラグスの眉が動く。
「ん?」
「今、全部一緒に動いていると」
「ああ。だから」
「それなら、一ヶ所だけ支えるからいけないのね」
「待て」
凛の碧い瞳が輝く。
「全部を同じように支えればいいのでしょう?」
「待て待て待て」
ラヴィの長い耳が勢いよく立ち上がった。
「違います」
即答だった。
凛が見る。
「何が?」
「今の説明から、なぜそうなるのですか」
「だって、一ヶ所だけでは駄目なのでしょう?」
「そこだけ拾わないでください!」
「でも、全部が一緒に動いている」
「凛どの」
「何?」
「話を最後まで聞いてください!」
凛は少し考えた。
そして。
再び目を閉じた。
「凛」
セレスティアの声が低くなる。
返事はない。
凛の意識は、すでに身体の内側へ向かっていた。
胸。
背中。
肩。
腕。
腰。
脚。
先ほどより細かく。
もっと細かく。
風を巡らせる。
だが。
凛は眉を寄せた。
「……まだ粗いわ」
ラヴィの顔が引きつる。
「何が、です?」
「身体って、もっと細かいでしょう?」
「凛どの」
「骨だけではない。筋肉だけでもない。血も流れている」
風が。
さらに細くなる。
糸より細く。
霞より淡く。
それでも確かに。
凛の身体の隅々へ入り込んでいく。
ラヴィの赤い瞳が見開かれた。
凛の身体を巡る風。
その流れを追う。
腕。
胸。
脚。
そして。
その先。
「……凛どの」
「何?」
ラヴィの声音が変わった。
「今、どこまで細かく風を通しているのですか?」
「全部よ」
「ですから、その全部とは」
ラヴィは目を凝らす。
「筋肉でもない」
息を呑む。
「血の流れでもない」
その視線が、凛自身へ向く。
「もっと奥だ」
「?」
「肉体を形作っている……もっと小さな、一つ一つにまで」
凛が瞬きをした。
そして。
「……細胞?」
ラヴィが凛を見る。
「それが、あなたの世界での呼び名ですか?」
「ええ」
「ならば、それです」
ラヴィの表情から。
血の気が引いていく。
「まさか……細胞とやら、一つ一つにまで風を巡らせようとしているのですか?」
凛は少し考えた。
「その方が、全部を支えられるでしょう?」
「なぜ平然とお答えになるのですか!?」
「だって、できそうなのだもの」
「だから困っているのです!」
「凛」
セレスティアの声が飛んだ。
今度は。
はっきりとした制止だった。
「今日は、そこまでにしましょう」
凛が振り返る。
「でも、できそうです」
「だから止めているの」
「……?」
「昨日、私があなたに考えるのをやめなさいと言った理由。少しは分かった?」
凛は真面目に考えた。
数秒。
「……いいえ」
セレスティアは。
ゆっくり目を閉じた。
「そうでしょうね……」
だが。
もう遅かった。
凛の身体の中では。
風が。
さらに深く。
さらに細かく。
入り込んでいた。
呼吸と重なる。
鼓動と重なる。
筋肉が伸びる。
縮む。
血が巡る。
そのさらに奥。
身体を形作る、小さな一つ一つへ。
風が馴染んでいく。
身体が風を動かすのか。
風が身体を動かすのか。
その境界が。
少しずつ。
分からなくなっていく。
「……あ」
凛が小さく声を漏らした。
バラグスがすぐに反応する。
「どうした。痛ぇか?」
「いいえ」
凛は不思議そうに自分の身体を見る。
「逆です」
「逆?」
「すごく……軽い」
軽く。
足を踏み出した。
その瞬間。
凛が。
消えた。
音もない。
土煙もない。
昨日まで高速飛行の証だった白銀の軌跡すら。
残らない。
そこにいた人間だけが。
世界から切り取られたように消失した。
「…………」
ラヴィの耳が。
ゆっくり前へ倒れた。
「凛どの?」
返事はない。
セレスティアが周囲を見る。
バラグスが森へ目を向ける。
一秒。
二秒。
三秒。
「……どこへ」
その時。
風が。
ほんのわずかに揺れた。
凛が。
元の場所へ立っていた。
まるで。
最初からそこにいたかのように。
「……これなら、昨日よりずっと楽ね」
ラヴィが。
しばらく口を開けたまま。
やがて。
震える声を絞り出した。
「今……何をされたのですか?」
「動いただけよ」
「どこへ?」
凛は少し考えた。
「真っ直ぐ」
「距離を聞いております!」
「分からないわ」
「分からない!?」
「途中で、綺麗な山が見えたから」
凛は思い出すように遠くを見る。
「断崖絶壁で、上の方は全部雪だったわ。見たことのない花も咲いていたから、少しだけ見て戻ってきたの」
ラヴィの表情が止まった。
「……花?」
その時。
凛の肩。
白銀の髪のすぐ横に。
小さな花びらが付いているのが見えた。
薄紫色。
細長い。
ラヴィは恐る恐る手を伸ばし。
その花びらを摘まんだ。
「凛どの」
「何?」
「これは……どこで?」
「だから、その山よ」
ラヴィは花びらを見る。
もう一度。
見る。
そして。
完全に固まった。
「……あり得ない」
「何が?」
「この花は、この辺りには咲きません」
ラヴィの声が震え始める。
「隣国北部。雪に閉ざされた高山地帯にしか自生しない希少種です」
セレスティアが振り返る。
「そこって……」
「はい」
ラヴィがゆっくり頷く。
「ここから、馬を飛ばしても数日はかかります」
沈黙。
直線でも。
数百キロは離れている。
バラグスが凛を見る。
セレスティアも。
凛を見る。
凛は。
ラヴィの指先にある花びらを見つめた。
「そんなに遠かったの?」
「そこですか!?」
ラヴィが叫ぶ。
「では凛どのは、今の数秒で隣国まで行き、雪山を眺め、花まで見て戻ってこられたのですか!?」
凛は少し考えた。
「そうなるのかしら」
「他に何があるのですか!」
だが。
凛はもう。
ラヴィを見ていなかった。
視線は。
そのさらに上。
青い空へ向いていた。
「……凛?」
セレスティアが呼ぶ。
凛は空を見上げたまま答えた。
「横は、分かりました」
ラヴィの耳が。
ゆっくり倒れた。
「凛どの」
「なら」
凛の碧い瞳が。
空を映す。
「上は、どうなのかしら」
「凛どの?」
凛が。
ゆっくり腰を落とした。
「待ちなさい」
セレスティアが言った。
膝が。
深く沈む。
身体を覆う風が、さらに薄くなる。
消えたのではない。
外側。
内側。
その境界すらなくなり。
凛そのものへ馴染んでいく。
髪一本。
乱れない。
衣服一枚。
ばたつかない。
「凛」
「少しだけです」
「その台詞をあなたから聞くと、一番怖いのよ!」
凛が。
地面を蹴った。
次の瞬間。
消えた。
一拍。
遅れて。
轟音が落ちてきた。
ドンッ!!
空気が爆ぜる。
滝壺の水面が大きく揺れ。
周囲の木々が一斉にしなった。
ラヴィの長い耳が風圧に煽られ、バラグスが腕で顔を庇う。
すでに。
凛の姿はない。
青空へ。
白い筋が。
一直線に伸びていた。
それすら。
瞬く間に消える。
「……おい」
バラグスが空を見上げる。
「どこまで行きやがった」
誰も答えない。
セレスティアも。
ラヴィも。
空を見ている。
一秒。
二秒。
三秒。
「凛どの……」
ラヴィの長い耳が、わずかな気配を拾おうと空へ向く。
「凛どの!」
返事はない。
青い空。
流れる雲。
それだけ。
「ラヴィ」
セレスティアが呼ぶ。
「お待ちください。今、凛どのの気配を」
「ラヴィ」
「はい?」
「何を見ているのかしら?」
「凛どのです。今しがた、とんでもない勢いで上空へ……」
ラヴィの声が。
止まった。
耳が。
ぴくりと動く。
その声。
近い。
あまりにも。
近い。
ゆっくりと。
顔だけを横へ向ける。
すぐ隣に。
凛が立っていた。
「…………」
凛も。
同じようにラヴィを見ている。
「何?」
「…………凛どの?」
「そうだけど」
「いつから……そこに?」
「今、戻ったところよ」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
ラヴィの絶叫で。
全員が振り向いた。
「凛!」
セレスティアが駆け寄る。
肩。
腕。
頬。
凛の身体を矢継ぎ早に確認する。
「身体は!? 痛みは? 息苦しくない?」
「大丈夫です」
バラグスも詰め寄った。
「どっか変なところはねぇか!」
「ありません」
「ったく……」
バラグスが胸を押さえる。
大きく息を吐いた。
「戻ってきてたなら先に言え。脅かしやがって」
ラヴィも胸元を押さえたまま、深く息を吐く。
「まったくです……これ以上は本当に心臓がもちません」
凛が少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい」
セレスティアも。
ようやく肩の力を抜く。
「それで……どこまで行ったの?」
凛は。
ごく普通に答えた。
「月は、本当に二つあるのね」
誰も。
反応しなかった。
凛は続ける。
「そして、この星も丸くて安心したわ」
沈黙。
滝の轟音だけが。
やけに遠く聞こえた。
ラヴィのモノクルが。
ずり落ちた。
バラグスが。
二度。
三度。
瞬きをする。
セレスティアは。
口を開いたまま動かない。
「…………月?」
ようやく。
ラヴィが絞り出した。
「ええ」
凛は頷く。
「地上から二つ見えていたけれど、本当に二つあるのか気になっていたの」
「…………」
「それに、地平線だけでは判断しづらかったけれど、上から見るとちゃんと丸かったわ」
「…………」
「安心したわ」
「何に安心しているのですか!?」
ラヴィの声がひっくり返った。
凛が驚いて彼を見る。
「だって、異世界でしょう?」
「だから何なのですか!」
「地球と同じとは限らないもの」
あまりにも。
筋が通っている。
だからこそ。
誰も言い返せない。
セレスティアが。
恐る恐る尋ねる。
「凛」
「はい?」
「あなた……どこまで行ってきたの?」
「宇宙よ」
「…………」
凛は思い出したように続ける。
「それと」
セレスティアが。
わずかに眉を寄せた。
「つまり……宇宙とは、空の外側のことかしら?」
凛は少し考え。
頷いた。
「そうとも言えますね」
「…………」
セレスティアは。
理解したくなかったものを。
理解してしまったような顔をした。
凛は構わず続ける。
「大気圏を抜けるときの熱も、空気の薄さも問題なかったわ」
凛は自分の腕を見る。
袖を軽く撫でる。
髪は乱れていない。
肌にも異常はない。
呼吸も。
鼓動も。
何一つ乱れていない。
「エアレギオンって、すごいのね」
「……違うわ」
セレスティアの声が。
静かに落ちた。
凛が見る。
「違う?」
「ええ」
セレスティアは。
凛の身体をじっと見つめる。
「それはもう、私が教えた《エアレギオン》ではないわ」
凛の眉がわずかに寄る。
「《エアレギオン》は、風を身体の外へ纏う技」
セレスティアが続ける。
「身体を包み、守り、受け流し、その流れを動きへ変える」
凛を見る。
「でも、今のあなたは違う」
ラヴィも。
凛を見つめていた。
「風を纏っているのではない……」
小さく呟く。
「身体の外も」
「内も」
「先ほどの細胞とやら、一つ一つまで」
ラヴィの赤い瞳が細くなる。
「もはや、凛どのと風の境がありません」
凛が自分の手を見る。
「纏うのではなく」
ラヴィは続けた。
「織る」
「風を、肉体そのものへ織り込んでいる」
一拍。
「ならば」
ラヴィの長い耳が立ち上がる。
「もはや《エアレギオン》と呼ぶべきものではありません」
そして。
どこか誇らしげに。
「風織衣」
「今の凛どのには、その名こそ相応しい」
静かな空気が流れた。
凛は。
自分の袖を見つめる。
身体の内と外。
そのすべてに馴染む風。
そして。
ぽつりと呟いた。
「……わたしの風風フンワリドレス」
間髪入れず。
「風織衣です」
ラヴィだった。
凛が見る。
「同じでしょう?」
「まったく違います」
「でも、風の服よ?」
「違います」
「柔らかいし」
「違います」
凛は白銀の髪を指先で撫でる。
「髪も乱れないわ」
「だから違います!」
凛は。
少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
セレスティアは。
そんな二人を見ながら。
小さく息を吐いた。
自分が教えた技だった。
確かに。
始まりは。
けれど。
もう違う。
弟子が昨日できなかったことを。
今日。
できるようになる。
それは師として。
何よりも嬉しい。
けれど。
目の前の少女は。
もう。
自分が思い描いていた「できる」の先にはいなかった。
どこまで行くのだろう。
そう思っていた。
今朝までは。
違う。
この子が。
どこまで行くのか。
もう。
自分には想像することすらできない。
怖い。
でも。
それ以上に。
誇らしい。
セレスティアは。
ほんの少しだけ笑った。
その時だった。
滝壺を流れる水の中に。
赤いものが混じった。
薄い赤。
一滴。
二滴。
血混じりの水滴が。
岩肌を伝っている。
その異変に。
真っ先に気づいたのはラヴィだった。
長い耳が跳ね上がる。
「ス、スカイゼル様!?」
全員が振り向く。
滝の直下。
そこに。
まだ。
スカイゼルがいた。
両脚は震えている。
肩は落ち。
全身が水圧で真っ赤になり。
額から流れた血が、頬を伝って水へ混じっている。
片方の目は腫れ上がり。
ほとんど開いていない。
濡れた髪が顔へ張りつき。
唇まで僅かに震えている。
それでも。
龍神族の意地だけで。
立っていた。
「ス、スカイゼル様!? あ、頭から血が……! そ、それに目がっ!」
ラヴィの顔から血の気が引く。
「セレスティア様! もうお止めを!」
セレスティアが。
滝を見る。
スカイゼルを見る。
そして。
自分の手を見る。
「──あ」
凛が。
ゆっくり。
セレスティアを見た。
バラグスも。
見る。
セレスティアの顔が。
僅かに引きつった。
完全に。
忘れていた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて印を結ぶ。
次の瞬間。
スカイゼルへ集中していた圧縮水流が。
すっと弱まった。
轟音を立てていた白い水柱がほどけ。
ただの滝へと戻っていく。
「スカイゼル様!」
ラヴィが駆け寄る。
そして。
なぜか。
盛大に拍手を始めた。
「お、お見事ですぞ! さすがは我が君主様!」
パチパチパチパチ。
「このラヴィ、感服いたしましたぞ!」
声だけは。
やたらと大きい。
だが。
誰が聞いても分かった。
お世辞だった。
あまりにも。
薄い。
場の空気を何とか取り繕おうとしていることが。
ありありと伝わってくる。
凛は。
何も言わなかった。
ただ。
ものすごく冷たい目で。
ラヴィを見た。
ラヴィが気づく。
目が合う。
「…………」
「…………」
ラヴィの赤い瞳が泳ぐ。
そして。
そっと視線を逸らした。
その隣で。
満身創痍のスカイゼルが。
ふらふらと身体を起こした。
額から血が流れ。
片目はほとんど開いていない。
膝も笑っている。
それでも。
口元だけは。
無理やり。
不敵に吊り上げた。
「じょ、嬢ちゃん……」
凛が見る。
「何?」
「俺様って……すげぇだろ?」
一拍。
凛は。
きっぱり答えた。
「……見てないわ」
「…………」
スカイゼルの笑顔が。
固まった。
「それに」
凛が続ける。
「あなた、顔が怖いわよ」
「え」
「まるでホラー映画ね」
スカイゼルの身体から。
最後の力が抜けた。
ガクン。
そのまま。
前のめりに。
滝壺へ倒れ込む。
バシャァァァン!
「スカイゼル様ァァァァァ!」
ラヴィの絶叫が響く。
降り注ぐ水飛沫が。
哀れな男の姿を覆い隠す。
そして。
朝日を受けた無数の水滴が。
濡れた岩場の上に。
淡い七色の弧を描いた。
その虹だけは。
皮肉なほど。
美しかった。
風を身体へ巡らせた少女が。
数百キロの山を越え。
空を抜け。
宇宙へ飛び。
二つの月と。
丸い世界を確かめ。
新たな風の衣を手にした朝。
そのすぐそばでは。
一人の男が。
ずっと滝に打たれていた。
──奇跡と悲劇と喜劇が、同居した一幕であった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。
この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




