EP72:一つの風だった [LOG_WIND]
今回も凛は、風を相手にだいぶ好き勝手やります。
集めて、貫いて、切って、守って。
でも最後に見つけるのは、新しい技ではなく、その全部を繋ぐひとつの答えでした。
EP72「一つの風だった」
よろしくお願いいたします。
空から、遅れて轟音が落ちてきた。
滝壺の水面が大きく波打ち、断崖に張りついていた水飛沫が一斉に吹き散らされる。木々の梢が大きくしなり、ラヴィの長い耳が風圧に煽られた時には、もう凛の姿は青空の彼方へ消えていた。
「……どこまで行く気だ、嬢ちゃん」
スカイゼルが目を細める。
誰も答えなかった。答えられなかった、と言う方が正しいのかもしれない。
皆の視線が雲ひとつない空を追っていると、やがて遠くの一点がわずかに揺らぎ、白銀の髪が陽光を弾いた。
急降下してきた凛の身体は地面へ衝突する寸前でふわりと速度を失い、柔らかな風に支えられながら岩場へ降り立つ。
「……なるほど」
着地した凛は、自分の両手を見た。
「上も、だいたい同じなのね」
「何がです!?」
ラヴィが即座に食いついた。
「数百キロ先まで数秒で往復した直後に、今度は垂直方向へ試しておいて、感想がそれですか!?」
「横へ進むのと上へ進むので、風の扱いそのものはそれほど変わらなかったと言っているのよ」
「そういう問題ではありません!」
ラヴィの声を聞き流しながら、凛は一歩踏み出した。
膝が、わずかに揺れた。
ほんの僅かな乱れでしかないそれを、スカイゼルの目は見逃さなかった。
「嬢ちゃん」
「何?」
「今、脚にきただろ」
凛が足を止める。
「……少しだけよ」
「やっぱりな」
スカイゼルは腕を組み、凛の足元から肩までをじっと見た。
「風はついてきてる。つーか、ついてくるどころじゃねぇ。今じゃ嬢ちゃんが動こうとした瞬間には、もう風の方が動いてやがる」
「ええ」
「でもよ」
スカイゼルは自分の胸を指で叩いた。
「身体は人間のままだ」
凛の眉がわずかに動く。
「風だけ速くなっても、身体の方が遅れりゃ意味がねぇ。殴る時だってそうだ。腕だけ先に振ったって、腰も脚もついてこなきゃ力なんざ乗らねぇだろ?」
「スカイゼル」
セレスティアの声が低くなる。
「余計なことを教えないの」
「いや、お師匠。俺様は別に教えてるんじゃなくてですね」
「教えているわ」
「……はい」
珍しく素直に黙ったスカイゼルの横で、今度はラヴィが顎へ手を当てた。
「しかし、君主様のおっしゃることには一理ありますね」
「ラヴィ」
「私は何も申し上げておりません」
「今から言おうとしているでしょう?」
「……凛どの」
「ラヴィ!」
それでもラヴィは止まらなかった。
「外側の風で身体を運ぶから、ずれが生じるのでは?」
「どういう意味?」
「いえ、ですから」
ラヴィは完全に講義する顔になっている。
「凛どのが動いて、その後から風が身体を補助する。あるいは風が先に動き、身体が引かれる。どちらにしても二つの動きには僅かな差が生じます」
「なら、同時なら?」
「ですからそれを今から」
「ラヴィ」
セレスティアの声がさらに低くなった。
「……申し訳ございません」
ラヴィも黙り、ようやく静かになったかと思われたところで、今度はバラグスが口を開いた。
「重心だ」
セレスティアがゆっくり振り返る。
「あなたまで何を言っているの?」
「身体を動かすのは手足ではない。立つ時も、走る時も、殴る時も同じだ。身体全部で動く」
凛の瞳が細くなる。
「身体全部……」
セレスティアが額へ手を当てた。
「どうしてあなたたちは、そう順番に余計なことを言うのかしら」
「別に答えは言っていない」
「答えへ続く道を三人で舗装しているのよ!」
凛にはもう、その会話は届いていなかった。
右足を半歩前へ出し、静かに呼吸を整える。頬を撫でていく風へ意識を向けながら、これまで自分が何をしてきたのかを辿った。
風はずっと外にあり、身体を押し、支え、引き上げ、あるいは迫る力を受け流すために、その都度こちらから働きかけてきた。けれど、それでは身体と風はいつまで経っても別々のままだ。
身体が先なら風が追いかけ、風が先なら身体が引かれる。速さが増すほど、その僅かな違いは大きなずれになって返ってくる。
「……違うわね」
凛が呟いた。
「何が違う?」
スカイゼルが訊く。
「風に身体を運ばせるから、ずれるのよ」
凛は足元へ視線を落とした。
「私が動いてから風に手伝わせる必要もない。風が先に私を引っ張る必要もない」
呼吸が入り、肩の力が抜けていく。足から腰へ、腰から背へ、背から肩へ、そして指先までを順番に意識するのではなく、そのすべてを一つの動きとして扱う。
これまでは動き出した身体を風が追いかけていた。あるいは風が先に走り、身体が引かれていた。けれど、どちらでもない。始まりの一点に、身体と風を同時に置けばいい。
「一緒に動けばいいだけじゃない」
それまで凛の周囲を巡っていた風が、ふっと気配を失った。次の瞬間には、彼女は十数メートル先に立っていた。
轟音もなければ、土煙も上がらない。髪さえ乱れておらず、まるで一瞬だけ途中の空間が抜け落ちたように、凛の立つ場所だけが変わっている。
ラヴィが瞬きをする。
「……今」
「ええ」
凛は自分の足を確かめるように見下ろすと、もう一度、右へ動いた。そこから左、後方、そして前へと位置を変えるたび、姿だけが滑らかに移り、風に身体を引かれている感覚も、身体が風を待つ遅れもなかった。
身体と風が、同じ瞬間に動いている。
「なるほど」
凛が小さく頷いた。
「これなら、楽だわ」
「楽!?」
ラヴィが叫ぶ。
「今の速度でですか!?」
「さっきより身体へ余計な力が掛からないもの」
「お師匠」
スカイゼルが乾いた声を出した。
「俺様、さっきの話、しない方がよかったっすかね」
「今さら反省しても遅いわ」
「ですよねぇ……」
凛は二人のやり取りを聞きながら、今度は滝壺の向こうに並ぶ岩へ視線を移した。
身体の問題は分かった。だが高速で移動するたびに大量の風が動き、そのほとんどが自分を運ぶためだけに流れ、役目を終えれば周囲へ散って消えていく。それが、少し気に入らなかった。
「ずいぶん無駄が多いのね」
「何がです?」
ラヴィが嫌な予感を覚えた顔で訊く。
「風よ」
凛は右手を広げた。
滝壺を渡り、木々を揺らし、岩肌を撫で、水飛沫を運んでいた風が、少しずつ流れを変えて凛の掌へ集まってくる。
「広げれば広げるほど、たくさんのものへ届く。でも、そのぶん一ヶ所へ届く力は薄くなる」
淡い翠の光が掌に宿る。集まる風の量は増え続けているのに、光は大きくならず、それどころか拳ほどだった輪郭は少しずつ縮まり、内側へ向かって密度だけを高めていく。
セレスティアの表情が変わる。
「凛。それ以上、圧縮しない方が」
「圧縮しているわけではありません」
「え?」
「集めているだけです」
その答えに、今度はラヴィの耳が立った。
「集める……?」
「ええ。そこら中にあるのだから、わざわざ私の力だけで作る必要はないでしょう?」
掌の上で空気が低く唸り、その周囲だけ景色が僅かに歪んで見える。凛は数十メートル先の岩へ手を向けた。
「これを一ヶ所へ放したら、どうなるのかしら」
「待ちなさい凛!」
放つ。
音はほとんどしなかった。最前列の岩に、拳よりも小さな穴がひとつ開く。
「……え?」
スカイゼルが首を傾げる。
「なんだ。思ったより地味だな」
派手な爆発もなく、岩が砕けたわけでもない。だがスカイゼルがそう言った時、バラグスはその岩ではなく、さらに後ろへ目を向けていた。
最初の岩の後ろにある二つ目にも、同じ位置に穴が開いている。三つ目、四つ目と視線を送れば、さらにその先の岩壁にまで、向こう側から光が差し込むほどの小さな穴が穿たれていた。
凛と岩壁の間に並ぶすべてが、寸分違わぬ一点を貫かれているのを見て、スカイゼルの口が閉じた。ラヴィもゆっくりと穴へ近づき、その奥を覗き込む。
「……岩壁まで抜けております」
「そう」
凛は自分の掌を見た。
「散らばっているものを一点に集めれば、当然こうなるわね」
「当然ではありません!」
「何よ」
「風はそんなに従順なものではないのです!」
「今は従っているでしょう?」
「だから困っているのです!」
ラヴィが頭を抱えた。
凛はもう一度、掌へ風を集める。今度は先ほどより滑らかで、周囲の流れを無理に奪うのではなく、必要なぶんだけが自然に彼女の指先へ集まってきた。
「……風を集めて」
スカイゼルが嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
「ひとつにして」
ラヴィも顔を上げた。
「それを、ドン」
「お願いですから、そのまま技名にしないでください!」
凛が振り返る。
「まだ何も言ってないでしょう?」
「顔が言っていました!」
「失礼ね」
ラヴィは穿たれた岩列を見る。一点へ集めた風を、そのまま暴力的な勢いで放つ。その性質を頭の中で組み立てたのか、やがて彼はひとつの名を口にした。
「……《集積暴風》」
凛の眉が上がった。
「何?」
「《集積暴風》。異界語へ置き換えるなら、《インテグラル・バースト》といったところでしょうか」
「少し長いわね」
「『風を集めてドン』より一億倍ましです!」
「だから言ってないでしょう!」
スカイゼルが吹き出し、セレスティアも眉間を押さえたまま小さく息を吐く。だが凛は、穿たれた岩を見つめたままだった。
一点へ集めれば貫ける。ならば、その一点を横へ連ねた時には何が起こるのか。
「点である必要もないわね」
「……はい?」
凛は人差し指を横へ滑らせる。
掌へ集まりかけていた風が、その動きに合わせて細長く伸びていった。球でも槍でもなく、必要な場所だけに力を残しながら、薄く、長く、その輪郭を変えていく。
凛が見ているのは風そのものの形ではない。風が通るべき道だ。
「一ヶ所へ集めれば点になる。なら、それを横へ並べれば」
空気の輪郭が、一本の細い軌跡へ整っていく。
「線になる」
セレスティアが息を呑む。
「凛」
「少しだけです」
「あなたの『少しだけ』は信用できないの!」
凛は前方の巨大な岩へ視線を定めた。掌を開くと、風が一本の線へ沿うように整っていく。力任せに押し込むのではなく、必要な場所へ必要なだけを置き、乱れていた流れの向きを揃える。
それだけで、風は刃になる。
「空を……」
ラヴィがぴくりと反応した。
「ザックーン斬……」
「《蒼空斬》です!」
凛が止まる。
「まだ最後まで言ってないでしょう?」
「最後まで言わせてはいけないと思いました!」
「どういう意味よ」
「そのままの意味です!」
「……まあいいわ」
凛が右手を横へ薙いだ。
「蒼空斬」
何も起こらなかった。少なくとも、最初はそう見えた。風圧も爆音もなく、巨大な岩は先ほどまでと変わらぬ姿でそこに立っている。
スカイゼルが目を細めた、その時だった。岩の上半分だけがゆっくりと横へずれ、重い音を響かせながら地面へ落ちる。
断面には大きな凹凸がひとつもない。磨き上げられた石材のような面が陽光を反射し、滝の水飛沫を鏡のように映していた。
誰も、しばらく声を出さなかった。
凛だけが、その断面を見ながら首を傾げる。
「少し厚いわね」
「そこですか?」
「もっと細くできれば、余計な風を使わずに済むでしょう?」
「あなたは一度、目の前で起きたことの異常さに驚くという工程を覚えてください!」
「どうして?」
「もう結構です!」
ラヴィが諦めた。セレスティアはそんな二人のやり取りを聞きながら、切断された岩へ目を向けていた。
凛は風を強くしたわけではない。一点へ集めれば貫き、それを線へ延ばせば切断する。これまで覚えてきたものの使い方を少し変えただけなのに、結果だけが常識から遠ざかっている。
「凛」
セレスティアが呼ぶ。
「はい」
「岩を壊す修行は、そこで終わりにしましょう」
「まだ試したいことが」
「終わりです」
珍しく即答され、凛は不満そうに口を閉じた。
「その代わり」
セレスティアは凛の前へ歩み出る。
「今度は、あなたがそこに立ちなさい」
「私が?」
「ええ」
セレスティアが周囲を見回した。
「スカイゼル。ラヴィ。バラグス」
三人が、それぞれ顔を上げる。
「凛を攻撃して」
一拍の沈黙のあと、スカイゼルが聞き返した。
「……は?」
「聞こえなかった?」
「いや、聞こえたっすけど」
「なら問題ないわね」
「ありますぞ!」
ラヴィが慌てて割って入った。
「今しがた岩山を紙のように切断した相手とはいえ、凛どのは生身の人間です!」
「私が止めるわ」
「止める前提の修行を始めないでいただきたい!」
凛はむしろ興味を持ったようだった。
「面白そうですね」
「凛どのまで乗らないでください!」
セレスティアは三人を無視し、凛を見る。
「あなたは今、点と線を作った」
「はい」
「でも戦いでは、相手がそこへ立って待っていてくれるとは限らない。前から来るとも限らないわ。それに、あなた一人なら避ければ済む。でも」
セレスティアはそこで言葉を止めた。その先まで言われなくても、凛には分かった。
自分の後ろに誰かがいるなら、避けてはいけない時がある。
「……分かりました」
凛は修行場の中央へ歩いた。
「お願いします」
最初に動いたのはバラグスだった。足元に転がっていた小石をいくつか拾い、掌の上で転がす。
「行くぞ」
「はい」
腕が動くと、複数の石が異なる軌道を描きながら凛へ飛来した。一つずつ見てから避けることもできるが、凛は動かなかった。
身体の周囲を覆う風が、石の接近に合わせて僅かに厚みを変える。最初の一つは肩の横へ流れ、次は腰の脇を抜け、最後の一つは髪へ触れる寸前で軌道を変えて、そのまま後方へ飛んでいった。
「……なるほど」
凛が呟く。
「私が一つずつ動かす必要はないのね」
今度はラヴィが構えた。掌の上に水が集まり、幾筋もの細い流れへ分かれる。
「では、参ります」
水の矢が一斉に放たれた。正面だけではない。斜め上から、左右から、さらに時間差をつけた数本が、逃げ道を塞ぐように凛へ迫る。
凛の周囲で風が動き、最初の一本だけを押し返すのではなく、踏み込んだ水流すべてへ同時に干渉した。見えない道筋を与えられたように水が左右へ分かれ、その飛沫が陽光を受けて、凛の周囲に一瞬だけ虹を描く。
「おお……」
ラヴィが思わず声を漏らす。
スカイゼルが腕を組んだ。
「今度は俺様だな」
拳を握った彼の周囲へ、熱が集まり始める。
「お師匠。本当にいいんすね?」
「凛に直接当てる必要はないわ。風がどう反応するかを見るの」
「了解」
スカイゼルの前方で炎が膨らんだ。勢いだけなら先ほどの水とは比べものにならず、放たれた炎は地面すれすれを走り、草を焦がしながら凛へ迫る。
凛は右手を僅かに上げた。
正面の空気が流れを変え、炎は彼女の直前で二つに割れる。そのまま左右へ流された熱が背後へ抜け、離れた岩肌を赤く照らしたが、凛の髪は一本たりとも揺れていない。
「なるほどね」
凛は周囲を見た。
水も炎も石も、これまでは目に入ってから一つずつ対処するものだと思っていた。けれど、それでは遅い。
自分へ迫るものをその都度選ぶのではなく、自分が立つ場所そのものへ先に理を置いておけばいい。以前に覚えた選択透過と根は同じだが、あれが触れたものを選り分ける技であったのに対して、今はもっと広く、そして自然だ。
ここから先へ何を通し、何を通さないのか。何を逸らし、何を受け入れるのか。それを風に判断させるのではなく、自分があらかじめ決めておく。
「……そういうこと」
凛は小さく息を吐いた。
身体へ纏わりついていた風が、その呼吸に合わせるようにゆっくりと外側へ広がっていく。凛を中心として一メートル、二メートルと範囲を増していくのに、不思議なことに中心へ近づくほど風の気配は静かになった。
髪は揺れず、衣服も動かない。滝から飛んできた細かな水飛沫さえ、彼女のすぐそばへ入ると勢いを失い、静かに地面へ落ちていく。その一方で、少し離れた場所では風が激しく渦巻き、凛の周囲だけが嵐の中に取り残された静かな空間のように見えた。
ラヴィが息を呑む。
「内側が……無風?」
「無風ではないわ」
凛は目を閉じたまま答えた。
「あるわよ」
「ではなぜ」
「動く必要がないから、動いていないだけ」
ラヴィが黙った。
凛の周囲には確かに風がある。ただ、必要がないから静かにしているだけで、何かが近づけばその瞬間には動ける。そのために外側の風は絶えず流れ、近づくものを受け取り、通すべきものか、退けるべきものかを待っていた。
「中は静かで、外は嵐……」
嫌な予感がしたのか、ラヴィの長い耳がぴんと立つ。
「凛どの」
「何よ」
「今、技名を考えましたね?」
「別に」
「何と?」
「まだ言ってないでしょう」
「言おうとしたでしょう!」
凛が少しだけ視線を逸らす。
「……嵐だけど中心まったり」
「静謐なる嵐です!」
「なんであなたが決めるのよ!」
「世界のためです!」
「大げさね!」
「大げさではありません! あなたに命名を任せることは文化的損失です!」
「喧嘩売ってる?」
「命名権を買っています!」
二人の声が飛び交うが、セレスティアは笑わなかった。視線はずっと、凛の周囲にある。
身体を支える風と、攻撃を逸らす風。必要なものだけを通す風に、一点へ集まる風、刃となる風、飛ぶための風。それまで別々の目的のために覚えてきたはずのものが、今は互いを邪魔することなく同じ場所で働いている。
術をいくつも重ねているのではない。最初から一つであるかのように、すべてが繋がっていた。
「……凛」
セレスティアの声が変わった。
凛が振り向く。
「もう一度、試してみましょう」
「まだやるんすか?」
スカイゼルが訊く。
「ええ」
セレスティアはラヴィを見る。
「今度は、もっと強く」
「ですが」
「私が止めるわ」
続いてスカイゼルへ視線を移す。
「あなたも」
スカイゼルが目を丸くした。
「二人同時?」
「時間をずらして。凛がどこまで維持できるか確認するだけよ」
「なるほど」
スカイゼルが拳を鳴らし、ラヴィも杖を構えた。
「凛どの。危険と判断した場合は即座に解除してください」
「分かっているわ」
凛は構えることもなく、修行場の中央に立ったまま二人を待った。
周囲には確かに風が流れている。しかし凛の近くでは木の葉一枚揺らさないほど静かで、その静けさがかえって外側を巡る風の激しさを際立たせていた。
先にラヴィが魔力を高める。
先ほどとは比較にならない量の水が空中へ集まり、凛の頭上で巨大な水塊を形成していく。滝から飛び散る水飛沫まで吸い寄せられ、青く透き通った塊の内部では幾重もの流れが絡み合い、その圧に押された空気が低い唸りを上げていた。
「行きます!」
巨大な水塊が落ちる。
ほぼ同時に、スカイゼルの前方でも炎が膨れ上がった。
「次、俺様だ!」
熱で景色が歪み、地面の草から水分が奪われていく。岩肌まで赤く染める炎を前に、スカイゼルが大きく腕を振った。
「喰らうなよ、嬢ちゃん!」
炎が放たれた。極大の水塊が頭上から崩れ落ちる一方で、スカイゼルの炎は地面を焦がしながら一直線に凛へ迫る。
二つを別々に逸らすことはできる。凛の風はすでに反応し、頭上から来る水には左右へ逃げる道を作り、正面から迫る炎には上空へ抜ける流れを与えようとしていた。
そのはずだった。
二つの攻撃が凛の目前へ達し、予定されていた軌道がわずかに交差した瞬間、セレスティアの表情が変わる。
高熱の炎と、大量の水。触れれば水は一瞬で蒸気へ変わり、逃げ場を塞ぐ風の中で膨れ上がる。
「二人とも、止めなさい!」
声は届いた。しかし、その時にはもう水と炎は触れていた。
遅かった。
白い光が弾けた直後、修行場そのものを叩き割るような轟音が響いた。水が一瞬で蒸気へ変わり、急激に膨れ上がった圧力が滝壺の水面を大きく抉る。
周囲の木々は幹ごと倒れそうなほどしなり、地面から剥がれた石片が無数の弾丸となって白い蒸気の中を飛び交った。
「凛!」
セレスティアが前へ出る。
バラグスがその肩を掴んだ。
「待て」
「離して!」
「見ろ」
「何を」
バラグスは答えなかった。
爆心地を覆い尽くす白い蒸気の中で、何かがおかしい。本来なら四方へ無秩序に吹き荒れているはずの蒸気も熱も砕けた石も、ある一点へ近づくと滑らかに流れを変え、そこだけを避けるように左右へ分かれている。
まるで、見えない境界がそこにあるようだった。
やがて白煙が薄くなり、その奥から地面へまっすぐ立つ靴が見えた。さらに蒸気が左右へ流れるにつれて衣服が現れ、肩が見え、最後に白銀の髪が陽光の中へ戻ってくる。
焦げ跡はなく、水に濡れた様子さえない。
髪は、一本も乱れていない。
凛はそこに立っていた。
表情だけが、僅かに驚いている。
「……今の」
ラヴィの顔から血の気が引く。
「凛どの……ご無事、なのですか?」
「ええ」
凛は自分の肩を見て、それから手を見る。セレスティアが駆け寄った。
「本当に? 痛いところは? 息は苦しくない? 熱は?」
「大丈夫です」
「本当に!?」
「はい」
凛は周囲を見た。
地面は抉れ、岩は砕け、木々は大きくしなっている。先ほどまで草の生えていた場所には熱い水が流れ、爆発の激しさを示す傷跡が修行場のあちこちへ残されていた。それなのに、凛が立っている場所だけは何事もなかったように静かだった。
「……今のが一番強かったわね」
凛は少し考えてから言った。
「ひやっとしたわ」
「ひやっとで済ませないでください!」
ラヴィの絶叫が滝壺へ響く。
スカイゼルも真っ青な顔で駆け寄ってきた。
「悪ぃ嬢ちゃん! 俺様、水とぶつかるとは思ってなくて!」
「私もです! まさかあの距離で同時に接触するとは!」
「だから二人とも時間をずらせと言ったでしょう!」
セレスティアの怒声に、二人の背筋が同時に伸びた。
「「申し訳ございません!」」
凛は三人を見ていなかった。視線は、自分の周囲へ残る風へ向いている。
今までなら、水が来れば水を見て、炎が来れば炎を見て、それぞれに答えを出していた。けれど今は、自分が危険だと認識してから命じたのではないのに、風はすでに必要な場所へ動いていた。
だからといって、風が勝手に凛を守ったわけでもない。
通してよいものと通してはいけないもの、動かすものと静めるもの、集めるものと切るもの、そして守るもの。それらは別々の術として並んでいるのではなく、凛がこれまで一つずつ選び取り、自分なりに理解してきた判断そのものが、ひとつの理として彼女の周囲に残っている。
《風風フンワリドレス》も、空を駆ける風も、《集積暴風》も、《蒼空斬》も、本当は別々のものではなかった。
一つの風だった。
凛は静かに息を吸った。
周囲の風が、その呼吸に合わせるように僅かに揺れる。それは命令を待っているというより、凛が動くことと風が動くことの境目そのものが、もうなくなり始めているようだった。
そして凛は、ほんの少しだけ笑った。
「でもおかげで、だいたい分かったわ」
ラヴィの耳がゆっくり伏せられ、スカイゼルの顔が引きつる。その隣で、セレスティアだけが言葉を失ったまま凛を見つめていた。
凛は再び、自分の掌へ視線を落とす。
その周囲にはもう、荒れ狂う暴風も派手な光もなかった。ただ静かな風だけが、今ではそれが当然であるかのように、彼女のそばにいた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。
この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




