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EP65:我が王よ! 白兎、予定外の帰還 [LOG_LEPUS]

今回は、風球スフィア修行二日目。


そして。


「あと一週間は戻らないはず」だった弟弟子が、予定を無視して帰ってきました。


白銀の兎人族、ラヴィ・フェルディナンド。


見た目は知的。

言葉遣いも丁寧。

たぶん、黙っていれば格好いい。


ただし、スカイゼルが絡むと話は別です。


そして凛との相性は。


どうやら、最悪のようです。


一方、昨日は形すら作れなかった風球スフィアにも、小さな変化が。


凛と白兎、初対面から噛み合わない二人をお楽しみください。

翌朝。


双神嶺には、まだ薄い朝靄が残っていた。


木々の隙間を抜ける風が葉を揺らし、夜露をまとった草の匂いを運んでいく。


その中で、高円寺凛は昨日と同じ修行場に立っていた。


首元には、チョーカーのように封力環ふうりょくかんが嵌められている。


身体全体へまとわりつくような重さには、まだ慣れない。


ただ。


昨日までとは違う。


重い。


苦しい。


だからといって、それを理由に立ち止まろうとは思わなくなっていた。


凛は静かに右手を差し出した。


少し離れたところでは、セレスティアが穏やかに見守っている。


そのさらに後ろ。


大きな木の幹には、スカイゼルが腕を組んでもたれかかっていた。


「……もう一度」


凛は目を閉じる。


昨日までなら、風はただ肌を撫でて通り過ぎていくだけだった。


けれど今は違う。


頬を抜けるもの。


髪の先を揺らすもの。


指と指の間をすり抜けるもの。


同じ風など一つもない。


それぞれが別の方向から訪れ、別の方向へ去っていく。


その違いが、なんとなく分かるようになってきた。


「……昨日よりは、分かるわね」


掌の周囲で、空気が微かに揺れる。


凛はゆっくりと意識を向けた。


散らばっていた風が少しずつ寄ってくる。


「そう……そのまま」


集める。


逃がさない。


掌の上へ。


丸く。


小さく。


形を。


その瞬間。


バンッ、と乾いた音が鳴った。


「きゃっ!」


押さえ込まれた風が一気に弾け、凛の白銀の髪が激しく舞い上がる。


足元の落ち葉が四方へ吹き飛んだ。


スカイゼルが片腕を顔の前へ上げる。


「おいおい。昨日より派手になってねぇか?」


凛が振り返った。


「うるさいわね」


「いや、俺様は事実を言っただけなんだが」


「じゃあ黙って見てて」


「へいへい」


セレスティアが小さく笑う。


「凛。今のは押さえすぎね」


凛は掌に残る風の感触を確かめてから、セレスティアへ向き直った。


「そうですか……ありがとうございます」


「風が逃げようとしたのは分かった?」


「はい。逃げるのは分かってました。でも、逃がしたら形にならないから……」


「だから押さえたのね?」


「はい」


「それで逃げられた」


「……そうなんです」


凛の眉間に皺が寄る。


理不尽だ。


そう顔に書いてある。


セレスティアは笑みを深くした。


「もう一度やってみなさい」


「はい」


凛は頷いた。


今度は先ほどとは逆。


捕まえない。


押さえない。


風の好きなようにさせる。


掌へ流れてきた空気へ、ほんの少し意識を添える。


「……好きにしていいわよ」


風が指先へ触れる。


そのまま。


するり。


通り過ぎた。


凛は目を開いた。


「……行っちゃった」


スカイゼルが噴き出す。


「そりゃ好きにしていいって言ったからな」


「分かってるわよ!」


「嬢ちゃん。風に律儀さを求めても仕方ねぇぞ」


「あなたは黙ってて」


「なんで俺様だけ当たりが強ぇんだよ」


凛は再び掌を見る。


押さえれば逃げる。


自由にすれば去っていく。


「……意味分かんない」


「凛」


セレスティアの声が届いた。


「球を作ることばかり見ないで」


凛が顔を上げる。


「え?」


「逃げた風が、どこへ行ったのかを見てみなさい」


「逃げた風……ですか?」


「ええ」


セレスティアは足元を示した。


一枚の葉が、朝露を弾きながら転がっていく。


右へ。


ふわりと浮いて。


今度は少し左へ。


凛の碧い瞳が、その動きを追った。


「風は消えたんじゃないわ」


セレスティアは穏やかに言う。


「あなたの掌から離れただけ」


凛の視線が葉を追う。


「……右」


葉が浮く。


「違う。今度は上」


さらに流れる。


「そこから……左」


凛はもう一度、右手を差し出した。


今度は風を集めることより、その行き先へ意識を向ける。


掌へ来た。


指の間を抜ける。


追わない。


視線だけで、その流れをなぞる。


風が腕の外側を巡った。


「……そこ」


凛が僅かに手首を返す。


風が戻る。


ほんの一瞬。


掌の数センチ上で、小さな流れが円を描いた。


「……!」


セレスティアの緑の瞳が僅かに細くなる。


スカイゼルも木から背を離した。


球にはならない。


それでも。


昨日までただ散っていた風が、一度だけ。


凛の掌の周囲を巡った。


凛もそれに気づいた。


呼吸を止める。


「今なら……」


その瞬間だった。


「おおおおおっ! やっとお会いできました、我が王よォォォッ!」


「っ!」


森の静寂を叩き割るような声。


凛の集中が吹き飛んだ。


掌の周囲を巡っていた風が弾ける。


落ち葉が一斉に舞い上がった。


沈黙。


凛はゆっくり顔を上げる。


スカイゼルは。


固まっていた。


「……嘘だろ」


セレスティアが声のした方を見る。


「あら」


どうやら心当たりがあるらしい。


凛がスカイゼルを見た。


「知り合い?」


「……今だけ他人ってことにならねぇかな」


「無理でしょうね」


木々の間から、一人の男が姿を現した。


すらりとした体躯。


白銀の毛並み。


頭上へ伸びる長い兎耳。


切れ長の赤い瞳にはモノクルが掛けられ、黒い燕尾服には金の細い装飾が走っている。


片手には、森にはあまりにも場違いな黒傘。


もう片方の手には懐中時計。


男は時計の蓋をぱちんと閉じると、乱れひとつない動作で懐へ戻した。


その立ち姿だけなら。


知的。


冷静。


優雅。


凛が目を細める。


ずいぶん気取った兎ね。


それが第一印象だった。


ところが。


男はスカイゼルを認めた途端。


赤い瞳を輝かせた。


歩調が速くなる。


そしてスカイゼルの前まで来ると、黒傘を脇へ寄せ、片膝をついた。


胸に手を当てる。


「このラヴィ・フェルディナンド、サレム連邦よりただいま帰還いたしました!」


声だけは、端正な外見から想像できないほど暑苦しい。


「再び我が王のお側へ戻れましたこと、これに勝る喜びはございません!」


スカイゼルが額を押さえた。


「……お前なぁ」


深いため息。


「あら、ラヴィ」


セレスティアが微笑む。


「あなた、あと一週間はお休みだったでしょう?」


ラヴィはすぐにセレスティアへ向き直り、丁寧に頭を下げた。


「セレスティア様。ご無沙汰しております」


再び顔を上げる。


「ですが、休暇など我が王への忠勤に比べれば些末なもの。用が済んだ以上、一刻も早く戻るのは当然でございます」


「いや、休めって言ってんだよ」


スカイゼルが呆れた声を出した。


「俺はあと一週間休めって言ったよな?」


「もったいなきお言葉です」


「もったいなくねぇよ!」


セレスティアが口元へ手を添える。


「相変わらずね」


「お褒めいただき光栄です」


「たぶん褒めてないわよ」


凛が横から口を挟んだ。


ラヴィの長耳がぴくりと動く。


だが、それより先に。


セレスティアが凛へ向き直った。


「凛」


「はい」


「少しバラグスのところへ行ってくるわ。この子が予定より一週間も早く帰ってきたことを知らせておかないと」


「分かりました」


セレスティアは数歩進み。


ふと振り返った。


「それと」


凛を見る。


「さっきのこと、忘れないでね」


「風の行き先……ですね」


「そう」


セレスティアが微笑んだ。


「形を急がなくていいわ。まずは、風がどこへ行きたいのか見てあげて」


凛は小さく頷いた。


「はい」


セレスティアはそのまま森の奥へ歩いていった。


残ったのは。


凛。


スカイゼル。


そして、予定より一週間早く帰ってきた白兎。


ラヴィは改めてスカイゼルへ向き直った。


「ところで我が王」


「だから」


スカイゼルのこめかみが引きつる。


「“王”って呼ぶな」


ラヴィが顔を上げた。


「しかし、私が知る限り、貴方ほど王の器に相応しい御方は──」


「そういう話じゃねぇ」


「では」


「俺は王じゃねぇし、そんなもんに興味もねぇ。やめろ」


ラヴィはしばし沈黙した。


真剣な顔で考える。


そして。


「承知いたしました」


スカイゼルがほっと息を吐く。


「では、君主様と」


「……まあ、それならまだマシか」


「何が違うのよ」


二人の顔が同時に凛へ向いた。


凛は腕を組んでいた。


「王を君主に変えただけじゃない」


「嬢ちゃん、そこは流してくれ」


「なんで?」


「なんでもだ」


ラヴィの赤い瞳が、すっと細くなった。


「……ところで、そちらのお嬢様」


「何?」


「お名前を伺ってもよろしいですか?」


凛は僅かに顎を上げた。


「人に名前を聞くなら、まずは自分から名乗りなさい。それが礼儀よ」


ラヴィが一度瞬きをする。


「先ほど名乗ったつもりですが?」


凛はスカイゼルへ視線を送った。


「そこの脳筋に向かってでしょ。私はあなたから直接名乗られてないわ」


「……脳筋?」


ラヴィの長耳が、ぴたりと止まった。


モノクルの奥。


赤い瞳がゆっくり細くなる。


「まさか、我が君主様のことではありませんよね?」


凛は辺りを見回した。


そして首を傾げる。


「他に誰かいるかしら? まさか、あなたまで同類じゃないでしょうね?」


「……」


ラヴィの口元に微笑みが浮かぶ。


ただし。


目は笑っていない。


「なるほど」


「何よ」


「初対面で、ここまで言われたのは初めてですね」


「私も、初対面で名前も聞かずに説教されそうになったのは初めてよ」


「まだ説教はしておりませんが?」


「その顔はする気だったでしょ」


「……」


ラヴィが一拍だけ黙った。


そして。


黒傘を身体の脇へ寄せる。


背筋を伸ばし、改めて凛へ向き直った。


「それでは仕切り直しましょう」


胸元へ手を添える。


「ラヴィ・フェルディナンドと申します」


凛も視線を逸らさない。


「高円寺凛よ」


「高円寺凛……」


ラヴィは、その名を一度だけ口の中で確かめる。


「ずいぶんと威勢のいいお嬢様ですね」


「それで?」


「いいでしょう。では、凛殿」


ラヴィの笑みがわずかに薄くなる。


「改めて申し上げますが、先ほどから聞いていれば、君主様に対するその物言い。いささか無礼ではありませんか?」


一拍。


「万死に値します」


「万死って……大げさなんだよ、お前は」


スカイゼルが呆れたように額を押さえた。


「君主様」


ラヴィは真顔で振り返る。


「むしろ、それでも生ぬるいと思いますが?」


「だから、俺が気にしてねぇって言ってんだろ」


「君主様がお許しになることと、無礼が無礼でなくなることは別問題です」


「事実を言っただけよ」


凛があっさりと言い返す。


ラヴィの赤い瞳が細くなった。


「事実であれば礼節を欠いてよい、という理屈にはなりませんね」


「本人が気にしてないのに、どうしてあなたが怒るのよ」


「君主様が寛大であられることと、凛殿の言葉遣いは別問題です」


凛はラヴィとスカイゼルを交互に見る。


そして、小さく息を吐いた。


「脳筋の兄弟子に、その弟弟子までこれ? 揃いも揃って面倒ね。もう少しまともなのはいないの?」


「……っ」


ラヴィのこめかみに、ぴくりと血管が浮いた。


だが凛は気にも留めない。


「バカが移るのだけは、勘弁してほしいわね」


「バカ!?……移る?」


ラヴィの長耳が勢いよく跳ね上がった。


一瞬だけ。


完全に素の表情になる。


凛の視線が、ゆっくりラヴィの頭上へ向いた。


「……耳はずいぶん正直なのね」


ラヴィの耳が、ぴくりともう一度動く。


「何のことでしょう?」


「別に」


「それより」


ラヴィはモノクルを押し上げた。


「そもそも、愚鈍さに感染性などありません」


凛が目を瞬かせた。


「……そこを真面目に否定するの?」


「誤った認識は訂正すべきです」


「やっぱり面倒くさいわね」


「あなたにだけは言われたくありませんね」


ラヴィのこめかみに、また細い血管が浮く。


(……何でしょう、この胸の苛立ちは)


ほんの一瞬。


ラヴィの表情が歪んだ。


だが。


次の瞬間には消えている。


彼は静かに息を吐き、モノクルを直した。


「……これは失礼」


いつもの穏やかな笑みに戻る。


「私としたことが、少々取り乱してしまいました」


凛が冷めた目を向ける。


「十分取り乱してたけど」


「小娘相手にむきになるなど、あってはなりませんね」


凛の眉が跳ねた。


「……今、小娘って言った?」


「事実を申し上げただけですが?」


「あなた、本当に嫌いになれそう」


「奇遇ですね。私も同じ予感がしております」


「お前ら……」


スカイゼルが深々とため息を吐いた。


「まだ会って数分だぞ?」


凛とラヴィは、同時にスカイゼルを見る。


「あなたがもう少しまともなら、こうはなってないわよ」


「君主様には何の落ち度もありません」


「なんで全部俺の話なんだよ!」


ラヴィは凛へ視線を戻した。


そして。


初めて、感情ではなく。


観察する者の目で、きちんと彼女を見た。


細身の人族の女性。


白銀の髪。


碧い瞳。


首元には、奇妙なチョーカー状の魔道具。


ラヴィには、それがただの装飾ではないことくらい分かる。


何らかの力を封じている。


それも、相当に強い。


にもかかわらず。


凛の立ち姿には、ほとんど乱れがない。


そして何より。


彼女はスカイゼルを前にして、まったく気圧されていなかった。


恐れていない、というだけではない。


まるで。


最初から対等な相手として接している。


ラヴィの赤い瞳が僅かに細くなる。


(……この娘)


(見た目ほど、単純ではなさそうですね)


だが。


ラヴィはすぐに、凛の掌へ視線を移した。


そこには、先ほど風球スフィアを作ろうとして失敗した風の残滓が漂っている。


「……風球スフィアですか」


凛の眉がわずかに上がった。


「知ってるの?」


「ええ」


ラヴィはモノクルを軽く直した。


「多少は」


「ふうん」


その程度の反応。


ラヴィは少し意外そうに凛を見る。


普通なら。


自分が風球を知っていると言えば、少しは食いつく。


だが凛はもう、自分の掌へ意識を戻そうとしている。


「悪いことは言いません」


ラヴィが言った。


凛が目だけを向ける。


「何?」


風球スフィアを、あまり簡単に考えない方がよろしいですよ」


凛の眉が寄った。


「別に、簡単だなんて思ってないわよ」


「そうですか。それなら結構です」


穏やかな声。


だが。


その言葉の奥には、明らかな余裕がある。


ラヴィは知っている。


風球スフィアがどれほど難しい技なのかを。


3属性。


ルミナスマジシャン。


魔術の才において、自分が並の術者ではないことくらい理解している。


だからこそ。


セレスティアの風球を初めて目にした時の敗北感も。


何度試しても、あの美しい球体へ届かなかった悔しさも。


誰より知っている。


現在ですら。


形にはできる。


だが、セレスティアと同じ域には届かない。


ならば。


昨日今日、修行を始めたばかりに見えるこの少女が。


自分を容易く越えられるはずがない。


(私ですら、未だセレスティア様の域には届かない)


(まして、この娘にできるはずがありません)


ラヴィの中では。


それは慢心ですらなかった。


単なる事実だった。


「焦らないことです」


ラヴィが続ける。


「私もずいぶん長く取り組みましたが、未だセレスティア様には及びません」


「そう」


凛は短く答える。


「なら、数年単位で考えることをお勧めしますね」


凛がラヴィを見る。


ラヴィは穏やかに微笑んでいた。


親切心。


少なくとも本人は、そのつもりなのだろう。


「……余計なお世話」


「忠告ですよ」


「頼んでないわ」


スカイゼルが苦笑する。


「まあまあ。ラヴィも悪気はねぇんだから」


「君主様」


「なんだよ」


「私は事実を申し上げているだけです」


凛が鼻から小さく息を吐いた。


「それなら」


掌を出す。


「今日一日で、どこまで行けるか試してみるわ」


ラヴィの長耳が僅かに動いた。


「……そうですか」


諦める。


落胆する。


あるいは、自分へ教えを請う。


そのどれでもない。


ラヴィは少しだけ、凛を見る目を変えた。


(諦めるという選択肢そのものがないのですか、この娘は)


だが。


それだけだ。


才能があるとは思わない。


できるとも思わない。


ただ。


妙に負けず嫌いな娘らしい。


その程度の評価だった。


するとスカイゼルが横から口を挟む。


「こいつも昔は風球で──」


「君主様」


ラヴィの声が、すっと低くなる。


笑顔のまま。


「……なんでもねぇ」


スカイゼルが目を逸らした。


凛が二人を交互に見る。


「何なの?」


「お気になさらず」


ラヴィはモノクルを直した。


「ところで、君主様」


「ん?」


「凛殿は、いったい?」


「ああ」


スカイゼルが凛へ視線を向けた。


「嬢ちゃんは俺の兄弟弟子だ」


ラヴィの長耳が止まった。


「……兄弟弟子?」


「ああ」


「ということは」


ラヴィの視線が凛へ戻る。


「セレスティア様とバラグス様。両師が、凛殿を弟子としてお認めになったと?」


「そういうことだ」


沈黙。


ラヴィは凛を見る。


首元の封力環を見る。


掌を見る。


散った風を見る。


もう一度、凛を見る。


妙な圧を持つ少女。


しかし。


風球すら形になっていない。


両師が。


この少女を。


なぜ?


「何か問題でも?」


凛が眉を寄せた。


「……失礼ながら、凛殿」


「何?」


ラヴィは至って真剣だった。


「一つ、確認させていただいても?」


「内容によるわね」


「幻術」


「は?」


「精神干渉」


「……何の話?」


「あるいは、色香による懐柔などを用い、両師より弟子としての承認を得た事実はございますか?」


凛の表情が止まった。


風が吹く。


葉が一枚、二人の間を横切った。


「……は?」


「んなわけねぇだろ!」


なぜかスカイゼルが先に叫んだ。


「嬢ちゃんはそういう女じゃねぇ!」


ラヴィの赤い瞳が、すっとスカイゼルへ向く。


「……ずいぶん即答なさいますね、君主様」


「違ぇ!」


「何がでしょう?」


「だから、そういう意味じゃねぇんだ!」


凛が冷たい目を向ける。


「何の話?」


「いや、だからな、嬢ちゃん」


「誰もあなたには聞いてないけど」


「……」


スカイゼルの肩が落ちた。


「……お前ら、もう勝手に話してろ」


ラヴィは気にした様子もなく、再び凛を見る。


そして。


モノクルへ指を添えた。


観察する。


白銀の髪。


碧い瞳。


顔立ち。


姿勢。


立ち居振る舞い。


視線が上から下へゆっくりと移動していく。


凛が一歩退いた。


「……何なの、その目」


「検証しております」


「何を?」


「先ほど申し上げた仮説を」


「やめなさい」


「まず」


まったく聞いていない。


「白銀の髪。光の加減によって微妙に色合いを変える。悪くありません」


「誰が評価していいって言ったのよ」


「碧眼も鮮やかですね。姿勢、所作から見ても、相応の教育を受けた家柄の出身と推察されます」


凛の眉間に皺が寄っていく。


「ねぇ、人の話聞いてる?」


「容姿そのものについても、人目を引く水準にあると言って差し支えないでしょう」


そこで。


ラヴィの視線が少し下がった。


一拍。


「……ただし」


嫌な予感がした。


スカイゼルの顔から血の気が引く。


「胸元は控えめ」


森が静まり返った。


ラヴィは続ける。


「したがって、色香によって両師を籠絡したという仮説には、いささか説得力が──」


「ねぇ……ところで今、何て言った?」


凛の声が低い。


ラヴィは首を傾げる。


「あなたが色香を用いた可能性は低い、と」


「そこじゃなくて」


「?」


「その前よ」


ラヴィは少し考える。


「胸元は控えめ、と?」


凛のこめかみが跳ねた。


「繰り返さなくていいから!」


「ですが」


ラヴィは至って真面目である。


「ご安心を。これで疑いが一つ晴れました」


「私の胸で無実を証明しないでくれる?」


「事実に基づく客観的評価ですが」


「もっと悪いわよ!」


スカイゼルが顔を覆った。


「ラヴィ……お前、本当にやめとけ」


凛がラヴィを睨む。


「黙りなさい、このエロ兎」


ラヴィの長耳がぴくりと動いた。


「エロ兎とは心外ですね」


「何が心外なのよ」


「私は極めて客観的に観察したまでですが?」


「なおさら黙りなさい」


「ラヴィ!」


ついにスカイゼルが二人の間へ割って入る。


「お前、初対面の女に何言ってやがる!」


「私は君主様の安全を確認しているだけです」


「どこに危険があった!?」


ラヴィは静かに凛を見る。


「目の前に」


凛の目が細くなる。


「喧嘩売ってる?」


「警戒しております」


「同じでしょ」


「いいえ。違いますね」


「どこが?」


「主観と客観の差です」


「面倒くさい兎ね」


「あなたにだけは言われたくありませんね」


スカイゼルが天を仰いだ。


「……頼むから、二人とも少し黙ってくれ」


凛はラヴィをじっと見る。


数秒。


やがて、深いため息を吐いた。


「はぁ……私、決めたわ」


ラヴィがモノクルを直す。


「何をでしょう?」


「私、この白兎、嫌い」


声音は静かだった。


だが、迷いは一切ない。


ラヴィの長耳が僅かに揺れる。


「奇遇ですね」


彼もまた姿勢を正した。


「私も凛殿については、相応の警戒が必要と判断しました」


「好きにすれば」


「ええ」


ラヴィは薄く笑う。


「いずれ、その化けの皮を剥いで差し上げましょう」


「勝手にすれば」


凛はそれだけ言うと、ラヴィに背を向けた。


そのまま歩いていく。


ラヴィが僅かに眉を上げる。


「……お帰りになるのですか?」


凛は答えない。


数歩。


先ほどまで立っていた場所へ戻る。


そして。


再び右手を差し出した。


ラヴィが目を細めた。


「……何を?」


スカイゼルが肩をすくめる。


「見りゃ分かるだろ」


凛の周囲に風が集まり始める。


「風球だよ」


ラヴィは思わず凛を見る。


「まだ続けるのですか?」


「だから、見りゃ分かんだろ」


凛は二人の会話など聞いていない。


目を閉じる。


風を感じる。


ただ。


今度は、すぐに形を作ろうとはしなかった。


一筋の風が掌を抜ける。


凛の視線が動く。


近くの落ち葉が、ころりと転がった。


「……右」


ラヴィの耳が僅かに動く。


凛は手首の角度を変える。


もう一度。


風が掌を抜けた。


葉がふわりと浮かぶ。


「今度は上……」


ほんの少しだけ。


指先の位置を変える。


風が寄る。


腕の外側を巡る。


戻る。


だが。


球体にはならない。


ふっ。


散った。


失敗。


ラヴィの口元に、薄い笑みが浮かぶ。


(やはり)


当然だ。


風球スフィアは、その程度で完成するものではない。


3属性を持つルミナスマジシャンである自分ですら、どれほど苦労したことか。


この少女に。


それも始めたばかりの人族の娘に。


そう簡単にできるはずがない。


「無理でしょうね」


ラヴィが静かに言った。


凛は返事をしない。


風球スフィアは、努力だけでどうにかなるほど素直な術ではありません」


だが。


凛は振り返らない。


散った風を見る。


葉を見る。


そして。


また手を出す。


風が寄る。


先ほどより弱い。


散る。


凛は眉を寄せた。


今度は掌の位置を少し下げる。


また。


風が巡る。


今度は反対側へ逃げた。


「……そっちね」


凛は、すぐには次を始めなかった。


足元を転がる葉を追う。


先ほど右へ逃げた風。


今度は左。


そのさらに後ろを、別の流れが追っている。


凛の目が細くなった。


「……逃げたんじゃない」


ラヴィの耳が微かに動く。


凛は独り言のように続けた。


「回ってる……?」


右手を差し出す。


風が来る。


今度は押さえない。


追いかけない。


掌を抜けた流れを、ただ感じる。


右へ。


後ろへ。


上へ。


そして。


「……戻ってきた」


指先に。


ほんの僅かな冷たさが触れた。


凛は動かない。


戻ってきた風へ手を伸ばさない。


ただ。


通る場所だけを作る。


一つの流れが。


もう一つを追う。


別方向へ散った風が。


再び掌の上へ戻ってくる。


次の瞬間。


ラヴィの赤い瞳が見開かれた。


凛の掌。


その数センチ上。


何もないはずの空間に。


淡い虹色の光が浮かんだ。


一本の線。


それは風の軌跡をなぞるように、ゆっくり曲がっていく。


四分の一。


さらに。


半分。


透明な球体の輪郭を描こうとするかのように。


淡い円弧が伸びていく。


「……なっ」


ラヴィの声が漏れた。


三分の二。


そこから。


さらに少し。


円が閉じようとする。


あと僅か。


凛の瞳が見開かれる。


「……これ」


その瞬間だった。


ふっ。


光が消えた。


風が弾けることもない。


ただ。


何事もなかったかのように。


森へと戻っていった。


凛は、しばらく掌を見つめていた。


そして。


小さく眉を寄せる。


「……今の、少し違った」


「少し……?」


思わず口にしたのは、ラヴィだった。


凛が振り向く。


「何?」


「……いえ」


ラヴィは答えなかった。


モノクルへ伸ばしかけた指が、途中で止まっている。


(今のは……)


風球ではない。


輪郭は閉じていない。


形にもなっていない。


失敗。


紛れもなく失敗だ。


だが。


(風が、戻った……?)


形を作ることより難しいのは。


逃げようとする風を、力で押さえず。


それでも同じ場所へ戻すこと。


ラヴィは。


それを嫌というほど知っていた。


自分が最初に、あの流れを一巡させるまで。


何度失敗したかなど、もう覚えていない。


なのに。


目の前の少女は。


「少し違った」


その程度の認識しかしていない。


(惜しい、ではない)


ラヴィの笑みが完全に消える。


(あの流れを……意図して作ったのですか?)


凛は再び右手を差し出している。


「……もう一度」


ラヴィがゆっくりスカイゼルへ顔を向けた。


「……君主様」


「ん?」


「凛殿が、この修行を始めてどれほどになります?」


スカイゼルが首を傾げる。


「昨日」


ラヴィの長耳が。


ぴたりと止まった。


モノクルを直そうとしていた指まで、宙で止まる。


「……昨日?」


「ああ」


ラヴィは数秒、黙った。


「昨日というのは……昨日、ですか?」


スカイゼルが怪訝そうに眉を寄せる。


「他にどんな昨日があんだよ」


「……いえ」


ラヴィは凛を見る。


凛はもうこちらを見ていない。


風を感じ。


逃げた流れを追い。


また掌を差し出している。


昨日。


たった一日。


風球は完成していない。


形にすらなっていない。


ならば。


自分の見立ては、まだ間違っていないはずだ。


この少女には、できない。


少なくとも。


今は。


できるはずがない。


なのに。


先ほどまでの、


絶対に無理だ。


という確信だけが。


どうしても戻ってこなかった。


嫌いだ。


その評価は、まだ変わらない。


実力についても、今のところ認める理由はない。


ただ。


首元の封力環。


君主様を前にしても揺らがない目。


何度失敗しても、当然のように差し出される右手。


そして。


ほんの一瞬。


閉じる寸前まで描かれた、虹色の円弧。


ラヴィはモノクルをそっと直した。


その長耳が。


ほんの僅かに。


凛の方へ傾いていた。


凛がそれを見ることはない。


そしてラヴィ自身も。


まだ認めてはいなかった。


自分の中に生まれたものが。


警戒だけではないことを。


ほんの少しだけ。


この生意気な少女の先を。


見てみたいと思い始めていることを。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、

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この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。

凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。


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