EP64:風を掴む者たち [LOG_AER]
王都では、海がまた一つ常識を越えました。
そして今度は、遠く離れた双神嶺へ。
海とは違うやり方で。
海とは違う理で。
凛もまた、自分だけの道を歩き始めます。
ただし今回の相手は、敵ではありません。
掌に収まるほどの、小さな風です。
王都を消し去るほどの結界。
誰が、何のために施したのか。
その謎は、深まるばかりだった。
かつては凛の背中を追い、その傍らで震えていた少年。
戦力として数えられることすらなかった音無海は、今や誰も無視できない存在となっていた。
異常とも呼べる速度で学び、考え、未曾有の危機へ食らいつき、ついには王都そのものを呑み込もうとした災厄さえ食い止めた。
彼がどこまで行くのか。
まだ、誰にも分からない。
しかし、その頃。
遠く離れた双神嶺では、もう一人の少女もまた、自分の道を歩き始めていた。
海とは違うやり方で。
海とは違う理で。
それでもやはり、常識という枠の外へ向かって。
◇
朝靄の漂う修行場。
高い岩壁に囲まれた広間は、まるで自然そのものが削り出した神殿のようだった。
まだ冷えの残る空気が肌を刺す。
静寂の中を、風だけが生き物のように吹き抜けていく。
その中心。
ひときわ大きな岩の上に腰を下ろし、脚を組んでいる男がいた。
スカイゼル・ヴァルドラグ。
龍神族特有の金色の瞳。
背に覗く鱗は朝日を受け、鈍い光を返している。
鋭い目つきに似合わず、その口元には妙に余裕のある笑みが浮かんでいた。
「よっ、嬢ちゃん。遅かったな」
修行場へ入ってきた凛が眉を上げる。
左腕には、昨日と同じ封力環。
身体を縛る重さには、まだ慣れていない。
腕を持ち上げるだけでも、身体の内側へ重いものが絡みついてくるような感覚がある。
それでも昨日の朝とは違った。
足取りに迷いがない。
「遅くないわ。あなたが早すぎるだけでしょ」
「相変わらず可愛げがねぇなぁ」
「朝からそれを言うために待ってたの?」
「違ぇよ!」
スカイゼルが岩から飛び降りる。
凛はその着地を何気なく見た。
大柄な身体。
それなりの高さから落ちてきたにもかかわらず、地面へ衝撃がほとんど伝わっていない。
その足元には、小さな風が渦を巻いていた。
凛の視線に気づいたのか、スカイゼルがにやりとする。
「気になるか?」
「別に」
「今、見てただろ」
「見てたから何?」
「素直じゃねぇなぁ」
「面倒ね……」
凛は小さく息を吐いた。
するとスカイゼルは、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「まあいい。今日はな、せっかくだから俺様が、お師匠の修行を乗り切るためのちょっとしたヒントをくれてやろうと思ってな」
「いらない」
「遠慮すんなって」
「遠慮してない。いらないって言ってるの」
「俺様も最初は苦労したもんだ。だが安心しろ。そういう時こそ頼れる兄弟子ってもんが」
「ねえ」
凛の声が低くなる。
「人の話、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてないでしょ」
「まあ見てろって!」
噛み合っていなかった。
そもそもスカイゼルの中では、この会話は昨晩のうちに完成していたのである。
本来ならば、こうなる予定だった。
『俺様がお師匠の修行のヒントをやろうか?』
『本当に? 私、あまり自信がなくて……』
『心配すんな。俺様がついてる』
『私、あなたが兄弟子で本当によかった』
完璧だった。
少なくとも、彼の頭の中では。
寝床に入ってから何度も言い回しを変え、最後には「俺様がついてる」のところで少し横を向いた方が格好いい、という結論にまで達していた。
現実は、
『いらない』
『人の話、聞いてる?』
である。
予定していた展開とは、ずいぶん違う。
だが本人は、どこで計算を間違えたのかまるで分かっていない。
龍神族。
圧倒的な身体能力を持ち、戦場では敵から恐れられる男。
義理堅く、仲間思いで、いざという時には頼りになる。
本人は気づいていないが。
どうにも残念な男だった。
現実の凛は、そんな事情など知るはずもない。
「それとも何? あなた、そんなに暇なの?」
「なんでそうなる!?」
「朝から頼んでもいない助言を押し売りしてくるからよ」
「押し売りじゃねぇ! 兄弟子としての優しさだ!」
「結構です」
「だから最後まで聞けって!」
凛は露骨に嫌そうな顔をした。
スカイゼルは一度咳払いをすると、強引に話を続ける。
「……まあいい。口で言っても分かんねぇだろうから、見せてやる」
「何を?」
「風だよ」
スカイゼルの金色の瞳が細められた。
空気が変わった。
凛も、すぐに気づく。
先ほどまで好き勝手に岩場を吹き抜けていた風が、一斉に向きを変えた。
スカイゼルが片手を突き出す。
その掌へ。
風が集まる。
「見とけよ。これが龍神族の」
次の瞬間。
轟。
風が爆ぜた。
「っ……!」
凛の髪が一気に煽られる。
地面の砂が舞い上がり、小石が浮いた。
周囲の木々が大きくしなる。
スカイゼルの掌を中心に巨大な渦が生まれ、天へ向かって駆け上がっていく。
竜巻。
そう呼ぶ以外にない。
空そのものが捻じれたかのような風の柱だった。
太い枝が引き千切られ、一抱えもある岩が地面を転がる。
少し離れた場所では、一本の枯れ木が根元から浮き上がった。
それすら風に呑まれ、宙へと持ち上げられていく。
「……すごい」
凛の口から、素直に言葉が漏れた。
スカイゼルの口角が上がる。
「だろ?」
「ええ」
「もっと言っていいぞ」
「調子に乗らないで」
「そこは乗らせろよ!」
凛はもう一度、天へ伸びる渦を見上げた。
確かに凄まじい。
圧倒的な力だ。
あれだけの風を、片手一つで生み出している。
ただ。
「でも……これ、町の中じゃ使えないわね」
「は?」
「敵を吹き飛ばす前に、家も屋根も全部飛ぶじゃない」
「敵も飛ぶだろ」
「だから周りも全部飛ぶでしょうが」
「まとめて片づいて効率いいじゃねぇか」
「どこがよ」
凛が呆れた、その時だった。
「そうね」
柔らかな声が、背後から落ちた。
「荒っぽいだけじゃなくて、繊細な仕事もできればいいのだけれど」
スカイゼルの笑顔が固まる。
ぎこちなく振り返った。
そこに立っていたのは、セレスティアだった。
朝靄の向こう。
緑の髪が、風に静かに揺れている。
「お、お師匠……!」
「おはよう、スカイゼル」
「いや、これはその……!」
「ええ」
セレスティアは微笑んだ。
「朝から森を一つ剥がそうとしているところまでは見ていたわ」
「剥がしてねぇ!」
「まだ一本しか飛ばしていないものね」
「そういう意味じゃねぇよ!」
スカイゼルが慌てて風を止める。
巨大な竜巻が消え、遅れて大量の葉と砂が降ってきた。
凛が髪についた葉を取る。
「……ほら」
「なんだよ」
「後片づけが必要になったじゃない」
「今そこ責める!?」
セレスティアはそんな二人を見ながら、口元にわずかな笑みを残していた。
やがて修行場へ歩み出る。
「でも、凛」
「はい」
「スカイゼルの今の風から学べることもあるわ」
スカイゼルの顔がぱっと明るくなる。
「ほらな!」
「あなたは少し黙っていて」
「はい」
早かった。
凛は思わず横を見る。
スカイゼルは不満そうだったが、口は閉じている。
どうやら師には逆らえないらしい。
セレスティアが凛へ向き直った。
「今の風、どう見えた?」
凛は少し考えた。
「強いです」
「それだけ?」
「……広すぎる」
セレスティアの目が細くなる。
凛は続けた。
「必要な場所だけじゃない。周りの風まで全部引っ張っている。あれだけ大きく動かせば強いのは当然です。でも……」
スカイゼルを見る。
「無駄が多い」
「お前な!」
「黙っているんじゃなかったの?」
「ぐっ……」
セレスティアが小さく笑う。
「よく見ているわ」
そして、右手を上げた。
胸元から、ほんの少し前へ。
それだけだった。
構えもしない。
力むこともない。
何かを唱えることさえしない。
なのに。
凛の表情が変わる。
風が集まり始めていた。
ただし、スカイゼルとはまるで違う。
木々は揺れない。
砂も舞わない。
凛の髪さえ動かない。
周囲の静けさを壊さぬまま。
セレスティアの掌の数センチ上にだけ、空気が集まっていく。
小さく。
丸く。
やがてそこに現れたのは、ピンポン玉ほどの透明な球体だった。
小さなシャボン玉のように透き通り、朝日を受けて、その表面には淡い虹色の光が揺れている。
「……綺麗」
凛が呟く。
「ありがとう」
セレスティアが微笑む。
だが凛は、すぐに気づいた。
止まっているように見える球体の内側。
そこでは幾重もの風が、絶えず巡っている。
ひとつの流れが別の流れを押し退けることもなく。
互いに絡まり。
すれ違い。
また戻ってくる。
静かだった。
小さい。
美しい。
なのに。
先ほどの巨大な竜巻とは別の意味で、怖い。
「風球よ」
セレスティアが告げる。
「風を集め、形にする。今日からあなたが学ぶ最初の課題よ」
「これが……最初?」
凛が眉を寄せる。
横でスカイゼルが目を逸らした。
「何?」
「なんでもねぇ」
凛はもう一度、風球を見る。
「風を閉じ込めているのですか?」
「いいえ」
セレスティアは静かに首を振った。
「閉じ込めてはいないわ」
「では?」
「好きに流れてもらっているだけ」
凛の眉が、さらに寄った。
「好きに?」
「そう」
セレスティアは掌の上に浮かぶ風球へ目を落とす。
「風は止まりたがらない」
その言葉とともに、球体の内部を流れる細い風が形を変えた。
それでも球体は崩れない。
「だから、止めない」
「曲がりたければ曲がる。巡りたければ巡る」
「私は、その流れを感じて、少しだけ道を作ってあげているだけ」
凛は風球を見つめたまま黙った。
理解できるようで。
理解できない。
「それでは……制御しているとは言えないのでは?」
「そう思う?」
セレスティアが微笑む。
凛は答えを待った。
だが、セレスティアは教えなかった。
代わりに、掌をほんの少し傾ける。
風球が離れた。
放ったというより。
ふわりと手を離れただけだった。
透明な球体は朝靄の中を滑っていく。
向かう先には、大きな岩。
風球が触れた。
音はなかった。
爆発もしない。
岩が吹き飛ぶこともない。
何も起きない。
そう思った。
次の瞬間。
岩の中心から、細い亀裂が走った。
一つ。
二つ。
それは一瞬で枝分かれし、岩全体を覆う。
バキン。
乾いた音。
巨大な岩が、静かに崩れた。
「……え?」
割れた。
いや。
外から叩き割ったのとは違う。
表面へ力をぶつけた様子がない。
それなのに、内部だけが支えを失ったかのように崩れ、いくつもの塊となって地面へ落ちていく。
凛は思わず一歩近づいた。
しゃがみ込み、割れた岩を見る。
指先で破断面へ触れる。
「外から壊したんじゃない……」
「そうね」
「中へ風を通した?」
セレスティアは答えなかった。
ただ微笑んだ。
それだけで、凛には十分だった。
スカイゼルの風とは正反対。
あちらは、世界ごと押し退ける力。
こちらは、必要な場所へ必要なだけ届かせる力。
どちらが強いのか。
そんな単純な話ではない。
だが。
どちらが難しいのか。
それだけは凛にも分かった。
「今日から、これがあなたの最初の課題よ」
「風球を?」
「ええ。まずは形を作るところまで」
「破壊は?」
「まだ考えなくていいわ」
「でも」
「凛」
柔らかい声だった。
それだけで、凛は口を閉じる。
「最初から全部やろうとしないこと」
「……はい」
少しだけ不満そうだった。
その横で。
「ちっ……」
小さな舌打ちが聞こえた。
凛が振り返る。
スカイゼルが、あからさまに面白くなさそうな顔で風球から目を逸らしていた。
「何?」
「なんでもねぇよ」
「今、舌打ちしたでしょう」
「してねぇ」
「したわよ」
「細けぇな、お前は!」
セレスティアが静かにスカイゼルを見る。
「……何か文句でも?」
「いや……別に……」
スカイゼルは途端に大人しくなり、そっぽを向いた。
けれど。
その胸中は、穏やかではなかった。
(……これが、俺にはできねぇんだよ)
風を生み出すことならできる。
大量の空気を巻き上げ、巨大な渦へ変える。
荒れ狂う風を力で押し切り、敵ごと薙ぎ払う。
そういうことなら、スカイゼルは得意だった。
龍神族の強靭な肉体。
並外れた魔力量。
戦場で培った直感。
そして、考えるより先に身体が動くほど研ぎ澄まされた戦闘感覚。
真正面から力をぶつけるなら、そう簡単に遅れを取るつもりはない。
だが。
風の流れを一筋ずつ感じ取る。
膨大な魔力を細く、細く削り。
崩さず。
乱さず。
絶えず微調整し続ける。
そういう作業になると、途端に話が変わる。
(繊細な魔力制御なんざ、俺にとっちゃ蜘蛛の糸を素手で編むようなもんだ……)
セレスティアは、そんな弟子の内心などとうに見抜いているようだった。
「スカイゼル」
「……なんすか」
「あなたは確かに優れた戦士よ」
思いがけない言葉に、スカイゼルが顔を上げる。
「膨大な魔力を一気に動かす力もある。身体能力も高い。実戦で培った感覚も、あなた自身が思っている以上に優れているわ」
「お、おう」
わずかに胸を張る。
だが。
「でも、繊細さが致命的にないのよね」
「やっぱりそこに戻るのかよ!」
セレスティアはくすりと笑った。
「だから言っているでしょう。これは力の大小ではないの」
彼女は自分の掌を凛へ向ける。
先ほどまで風球が浮かんでいた場所。
そこにはもう何もない。
それでも凛の目には、あの透明な球体が残像のように焼き付いていた。
「風が何をしようとしているのか。それを感じ続けること」
「自分の都合で押さえつけるだけでは、風は応えてくれないわ」
凛が黙って聞いている。
「凛。あなたはスカイゼルとは違う」
横からスカイゼルが反応する。
「おい」
「あなたはよく見ている」
セレスティアは続けた。
「さっきの竜巻を見た時も、ただ『強い』で終わらなかったでしょう?」
凛はスカイゼルへちらりと視線を向ける。
「……無駄が多いと思いました」
「もう一回言う必要あったか!?」
「事実でしょう」
「お前なぁ!」
セレスティアは二人を気にすることなく続ける。
「見ること。感じること。そして、自分なりに考えること」
その緑の瞳が、凛を真っ直ぐに捉えた。
「まずは、それで十分よ」
凛は小さく頷いた。
そして。
もう一度、セレスティアの掌があった場所を見る。
ピンポン玉ほどの小さな球。
あれだけなら。
そう思いかけて、やめた。
隣には、それができないままの龍神族がいる。
ならば。
見た目ほど簡単ではない。
「……やってみてもいいですか?」
「もちろん」
セレスティアが一歩下がった。
「ただし、今日の課題は岩を壊すことではないわ」
「では」
「まずは形にすること」
風球。
凛はセレスティアの掌にあった、小さな球体を思い浮かべる。
「それだけ?」
セレスティアが笑った。
「それだけよ」
少し不満だった。
けれど。
それだけのはずのものを、隣のスカイゼルは未だ完成させられない。
凛は右手を胸元から少し前へ出した。
一瞬迷って、左手を補助するように添える。
目を閉じた。
風。
頬を通る。
腕を撫でる。
足元を抜ける。
昨日の霊瀑とは違う。
水には、大きな流れがあった。
上から下へ。
激流の中にも、はっきりとした向きがある。
けれど風は違う。
右から来る。
岩へぶつかる。
返る。
上へ逃げる。
木々の間を抜ける。
また別の風と重なる。
一つではない。
凛は意識を掌へ向けた。
「……集まって」
風が動く。
一筋。
二筋。
掌へ集まり始める。
「凛」
セレスティアの声。
けれど凛は止めなかった。
集める。
逃がさない。
丸く。
もっと小さく。
もっと綺麗に。
「そこにいなさい……!」
風が軋んだ。
球体になりかけた流れが大きく歪む。
凛は眉間に力を込めた。
逃げるなら、さらに押さえる。
散るなら、もっと強くまとめる。
次の瞬間。
弾けた。
「きゃっ!」
爆風。
凛の身体が後ろへ押される。
「おっと!」
スカイゼルが背後から受け止めた。
砂と葉が一斉に舞い上がる。
そして。
ひらり。
何かが空を飛んだ。
三人の視線が上を向く。
布。
スカイゼルの上着だった。
風に巻かれながら、妙に優雅に朝空を漂っていく。
「あ」
凛が言った。
「俺の服!」
上着はくるくると回りながら、少し離れた高い木の枝へ引っかかった。
沈黙。
スカイゼルが凛を見る。
凛も見る。
「……ごめん」
「今の間はなんだ!?」
「悪いとは思ってる」
「絶対そんなに思ってねぇ!」
「あとで取るから」
「飛ばしたのはお前だろ!」
「今、集中したいの」
「理不尽!」
凛は乱れた髪を直しながら、もう一度自分の掌を見る。
失敗した。
それも、かなり派手に。
何がいけなかった。
魔力が足りない?
違う。
集まってはいた。
形も。
途中まではできていた。
なら。
「もう一度」
凛が構える。
二度目。
今度は先ほどより弱く風を集めた。
一筋。
二筋。
掌の上へ重ねる。
けれど。
形を丸くしようとした瞬間。
ふっ。
風が指の間から抜けた。
「あ……」
消えた。
凛の眉がわずかに動く。
「もう一度」
三度目。
今度は逃げる風を追った。
右へ流れれば右へ。
上へ逃げれば上へ。
掌を微妙に動かして流れを捕まえる。
しかし一方を追えば、別の風が抜ける。
そして。
また散った。
「……もう一度」
四度目。
散る。
五度目。
崩れる。
六度目。
形になる前に、細い風が凛の頬を叩いた。
「っ……」
凛は手を下ろした。
頬に張りついた白銀の髪を払う。
セレスティアは何も言わない。
スカイゼルも、今度ばかりは茶化さなかった。
彼には分かる。
目の前の少女が今、何に苛立っているのか。
自分も散々味わってきたからだ。
力を込めれば込めるほど、遠ざかる。
できそうに見えるからこそ、余計に腹が立つ。
「……どうして」
凛の声が、小さく落ちた。
もう一度、掌を見る。
勇者として魔物と戦った。
自分より遥かに大きな敵にも立ち向かった。
昨日は霊瀑の中で、自分の身体を流れへ合わせる感覚も掴んだ。
なのに。
作れない。
ピンポン玉ほどの。
掌の上に収まる、ほんの小さな風の球。
ただ、それだけのものが。
作れない。
「凛」
セレスティアの声がする。
「もう一度やります」
凛は顔を上げずに答えた。
「まだできる?」
「できます」
「そういう意味ではないわ」
凛が顔を上げる。
セレスティアは変わらず穏やかだった。
「今、何を見ている?」
「風です」
「本当に?」
答えようとして。
凛は止まった。
「さっきからあなたが見ているのは、自分の失敗よ」
「……」
「形にならない」
「逃げる」
「散る」
「そればかり気にしている」
凛は何も言えなかった。
「悔しい?」
「……はい」
少しの沈黙のあと。
凛は素直に答えた。
「かなり」
セレスティアが微笑む。
「それも修行よ」
「でも」
凛は食い下がった。
「さっきの失敗で、少し分かったこともあります」
「何かしら」
「力が足りないんじゃない」
凛は掌を開く。
「私が押さえつけたから……風が逃げた」
セレスティアの目が、わずかに細くなった。
「そう思ったのね」
「はい」
凛は周囲を流れる風へ目を向けた。
昨日。
霊瀑の中で、自分は水へ逆らった。
押し返そうとした。
だから立てなかった。
流れの中へ身体を合わせた時、初めて立つことができた。
なら。
風も同じなのだろうか。
いや。
同じではない。
水には水の流れがある。
風には風の流れがある。
それなら。
「……押さえつけなければいい」
凛が呟いた。
再び手を前へ出す。
今度は集めない。
まず風を待つ。
頬を通るもの。
指の間を抜けるもの。
掌へ触れて。
また離れていくもの。
追わない。
止めない。
ただ、見る。
どうしてそちらへ行くのか。
何を避けたのか。
どこなら通れるのか。
一筋。
風が掌の上を通り過ぎた。
もう一筋。
ほんの少し重なった。
「……」
凛の眉が動く。
追いたい。
捕まえたい。
丸くしたい。
だが、その衝動を抑える。
風が掌へ触れる。
抜ける。
戻る。
また離れる。
「……行きたいなら、行けばいい」
小さく呟いた。
風は本当に行ってしまった。
凛の掌には何も残らない。
「…………」
思っていたのと違う。
横でスカイゼルが何か言いたそうに口を開いた。
しかしセレスティアに視線だけで止められた。
凛はもう一度試す。
風を待つ。
触れる。
抜ける。
また何も残らない。
三度目。
四度目。
結果は同じ。
それでも凛は、先ほどまでとは違っていた。
力ずくで捕まえようとはしない。
風がどこから来て。
どこへ行くのか。
それだけを見続けている。
やがて。
凛はゆっくりと手を下ろした。
「……分からない」
初めて出た言葉だった。
できない、ではない。
分からない。
セレスティアは静かに待つ。
凛は自分の掌を見る。
「押さえれば逃げる」
「追えば散る」
「自由にすれば、そのままどこかへ行く」
少し考える。
「風を好きにさせるのに……」
眉を寄せた。
「どうやって形にするのよ」
答えは返ってこない。
凛が顔を上げる。
「セレスティア様?」
「何?」
「今、教えてくださらないのですか?」
「ええ」
即答だった。
「どうして?」
「その顔をしているなら、自分で考えた方が面白いでしょう?」
凛が言葉に詰まった。
反論できない。
悔しい。
できない。
分からない。
なのに。
胸の奥には、それとは別の感情も生まれている。
知りたい。
どうすればできるのか。
なぜ、自分にはできないのか。
あの小さな球体の中で、いったい何が起きているのか。
凛はもう一度、朝靄の向こうへ目を向けた。
風は相変わらず勝手だった。
岩へぶつかる。
木々を揺らす。
頬を撫でる。
どこにも留まらない。
こちらの都合など、まるで気にしていない。
「……面白い」
凛がぽつりと言った。
セレスティアが横を見る。
「風が?」
「ええ」
凛は少しだけ口元を緩めた。
「全然、言うことを聞かない」
「そうね」
「こんなに小さなもの一つ作れないなんて、気に入らない」
セレスティアが小さく笑う。
「そっち?」
「でも」
凛は風を見る。
「だから、面白い」
セレスティアの表情が、少しだけ柔らかくなった。
この日。
高円寺凛は、
風球を作れなかった。
一度も。
ほんの一瞬でさえ、形にはならなかった。
それでも。
初めて凛は、
「風をどう動かすか」ではなく。
「風とは何なのか」
それを考え始めていた。
少し離れた木の上では、スカイゼルがようやく自分の上着を回収していた。
枝の上で葉を払いながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういや、お師匠」
「何?」
「あいつ、まだ休暇中だったよな?」
セレスティアが顔を上げる。
「ええ。あと一週間くらいは戻らないはずよ」
凛が見上げた。
「誰の話?」
スカイゼルは枝を蹴った。
大柄な身体が落下し、着地の直前。
足元に小さな風が生まれる。
今度の凛は、その風を先ほどより注意深く見ていた。
「俺の弟弟子だ。……まあ、ちょっと暑苦しい奴だけどな」
「弟弟子?」
「ああ。俺と同じで、お師匠たちに教わってる奴だ」
「どんな人です?」
セレスティアがくすりと笑った。
「そうね……とても真面目な子よ」
その言葉を聞いたスカイゼルの顔が、なぜか引きつった。
凛は見逃さなかった。
「……何、その顔」
「なんでもねぇ」
「絶対何かあるでしょ」
「ねぇよ!」
朝の双神嶺を、風が抜けていく。
凛はその流れを目で追った。
まだ、掴めない。
まだ、形にもできない。
けれど。
昨日までとは違う。
逃げていく風が、ただの失敗には見えなくなっていた。
そして翌日。
「あと一週間は戻らないはず」の弟弟子が、
誰よりも暑苦しく帰ってくることになる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。
この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




