EP60:国家の秤、黒きΩに所有者はいない [LOG_OMEGA]
王都を救った黒きΩ。
しかし、一夜明ければ、その力は英雄譚ではなく国家間の問題として秤にかけられます。
今回は、剣も魔法も使わない戦いです。
言葉と沈黙、証拠と視線が交錯する会議卓の攻防をお楽しみください。
夜明けを迎えた王都には、まだ昨夜の匂いが残っていた。
焼けた木材。
砕けた石壁。
禁魔道具から漏れ出した、金属とも血ともつかない刺激臭。
城壁の上では騎士たちが折れた矢を回収し、市場では住民たちが互いの無事を確かめ合っている。
救護拠点には治癒術の淡い光が絶えず灯り、眠れぬ夜を過ごした者たちの顔を白く照らしていた。
その傍ら。
幼い少年が、煤で汚れた板へ何かを描いている。
黒い身体。
赤い目。
胸に輝く、金色の円環。
昨夜、王都の空を覆った正体不明の戦士だった。
少年は描き終えた板を持ち上げる。
「黒い英雄だ」
隣にいた少女が首を振った。
「違うよ。黒い魔王様」
「英雄だって」
「魔王様の方が強そう」
二人の言い争いを、通りかかった騎士が複雑な顔で見つめていた。
英雄。
魔王。
救世主。
国家級戦力。
同じ存在を指しているとは思えない言葉が、夜明けとともに王都を歩き始めていた。
王城の会議室には、冷たい朝日が差し込んでいた。
長い卓の中央に、黒い布を掛けられた物体が置かれている。
回収された禁魔道具。
表面の術式は停止しているが、その異様な形だけで昨夜の惨事を十分に思い起こさせた。
シャルロットは卓の奥に座り、正面の男を見据えていた。
ヴァルディア視察団代表、ルドベック。
昨夜から一睡もしていないはずだが、その顔には疲労も焦りも浮かんでいない。
彼の左右には、ガルド、リゼット、イングリット、ノルドが並ぶ。
ヴォルクは負傷者の搬送に協力しており、この場にはいなかった。
アストリア側には、海、フィリア、カスミ、エリアナ、エドガーが着席している。
海は杖を脇へ置き、右脚を庇うように座っていた。
一見すれば、昨夜の戦闘とは無縁の青年だった。
シャルロットは、海を見なかった。
見れば、何かが表情へ出る気がした。
会議の開始を告げる鐘が、一度だけ鳴った。
シャルロットが口を開く。
「昨夜、王都の複数地点が同時に襲撃されました」
静かな声だった。
だが、その言葉は卓上へ刃のように置かれた。
「使用された装備の一部には、ヴァルディアの軍事技術と共通する特徴が確認されています」
ルドベックは眉一つ動かさない。
「その件につきましては、我が国も全面的に調査へ協力いたします」
一拍。
「しかし、それ以上に急を要する問題が生じました」
シャルロットは、心の内で息を吐いた。
最初から来る。
襲撃の説明ではない。
責任の所在でもない。
ルドベックは、自らが守勢へ回る前に盤面を変えるつもりだ。
「昨夜、正体不明の戦士がアストリア王都に出現しました」
ルドベックの視線が、海の方角へ向いた。
正確には、海を見る一歩手前で止まる。
「その者は複数の属性を同時に行使し、王都全域へ干渉しました。一人の戦力としては、既存の軍事体系を逸脱しています」
「王都を救った方です」
シャルロットが返す。
ルドベックの眉が、わずかに動いた。
「その点は否定しておりません」
「あの方がいなければ、昨夜の被害は現在の比ではなかったでしょう」
「善意によって救われた事実と、その力が安全であるという結論は同一ではありません」
ルドベックは指を組んだ。
「個人の判断一つで、一国の首都を覆う力が動く。仮にその人物が今日まで善意を持っていたとして、明日も同じ保証があるでしょうか」
フィリアの指先が、わずかに動いた。
シャルロットは、それを視界の端で捉えた。
ルドベックは海を追及しているのではない。
人を、制度の中へ押し込もうとしている。
「したがって、ヴァルディアとしては、あの戦力に関する情報共有と安全保障上の協議を提案いたします」
「あの方です」
シャルロットは静かに訂正した。
ルドベックが目を細める。
「呼称の問題ではありません」
「呼び方は、認識の問題です」
シャルロットは視線を外さなかった。
「人を戦力とだけ呼べば、使用し、管理し、廃棄する議論へ進むのは容易でしょう」
「国家の安全保障を論じる場です。言葉の感触を優先する余裕はありません」
「では、具体的に何をお求めですか?」
「所属と指揮系統の開示。他国領内での活動制限。国家間紛争への投入禁止。有事の際の共同運用協定」
「共同運用」
シャルロットは、その言葉だけを繰り返した。
「人間を、複数国で使用するという意味ですか?」
「国家級戦力の管理について申し上げています」
「人間である可能性を認めながら、戦力とだけ呼ぶのですね」
「一国が単独で保有してよい力には、限度があります」
海の肩が、ごく小さく動く。
シャルロットはそれを見ても、まだ彼へ視線を向けなかった。
「保有という認識から、すでに誤っています」
「では、アストリアの指揮下にはないと?」
「私たちは、その方の正体を把握しておりません」
「把握していない人物が、王都の通信網、避難路、救護拠点の位置を正確に知っていたと?」
「昨夜の王都では、多くの者が命を守るために動いていました」
「7属性を操る者も、多くいたと?」
会議室の空気が、わずかに重くなる。
ルドベックは続けた。
「術式を破壊せず、構造だけを分解する。敵を殺さずに拘束する。通信と救護を優先する。複数の処理を同時に行い、それを異常だと認識していない」
海が息を呑んだ気配がした。
「そして、必要以上に長い口上を用いる」
カスミの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
誰も笑わない。
ルドベックも、笑うために言ったのではなかった。
「顔や声、体格は偽装できます。しかし、戦闘思想は容易には隠せません」
シャルロットは微笑んだ。
「興味深い分析です」
「否定なさらないのですか?」
「正体不明の戦士と音無海に共通する要素がある。その程度の話なら、否定する必要はありません」
「では」
「ですが、それは同一人物である証明にはならない」
ルドベックが口を閉じる。
シャルロットは卓の中央へ視線を移した。
エリアナが黒い布を取り払う。
赤黒い金属球が姿を現した。
昨夜、中央通信中継所へ仕掛けられていた禁魔道具。
停止しているにもかかわらず、ヴァルディア側の空気が変わった。
リゼットの瞳が細くなる。
イングリットの背筋が伸びた。
ガルドの視線が、球体表面の術式線へ落ちる。
ノルドだけが、禁魔道具ではなく卓の端を見ていた。
「黒い戦士について論じる前に」
シャルロットは言った。
「なぜ、その方が必要となるほどの襲撃が発生したのかを確認しましょう」
ルドベックは金属球を見つめる。
「それがヴァルディア製だと?」
「ヴァルディアの技術と共通する特徴がある、と申し上げました」
「技術の由来と、国家の命令は同一ではありません」
予想どおりの返答だった。
「盗難。流出。退役軍人による横流し。軍研究施設からの廃棄品。可能性はいくつもあります」
「管理されていない技術が、他国の救護拠点を襲ったわけですね」
「だからこそ、管理の重要性を申し上げているのです」
ルドベックは禁魔道具を示した。
「管理を外れた技術が惨事を招いた。その事実は、管理されていない国家級戦力を放置すべきではないという我々の主張を補強します」
シャルロットは、胸の内で認めた。
こちらの刃を奪い、自分の武器へ変えた。
見事だった。
だからこそ、次の証拠を出す。
エリアナが、封印された薄い紙片を卓上へ置いた。
古びた暗号符。
ヴァルディアの紋章に似た刻印。
ルドベックの視線は動かなかった。
ガルドは紙片を見た。
リゼットも見た。
ノルドだけが、紙片の右下へ一瞬視線を落とした。
折り目。
あるいは、印章の位置。
シャルロットには、それが何を意味するのか分からない。
だが。
ルドベックが、ノルドを見た。
ほんの一瞬。
その視線は、シャルロットが見逃すには明瞭すぎた。
「襲撃者の所持品から回収しました」
シャルロットは言った。
「ヴァルディアで使用されている暗号符でしょうか」
ルドベックは紙片へ手を伸ばさない。
「旧式のものに見えます」
「使用されていたことは認めるのですね」
「我が国で作られた可能性までは否定しません」
「随分と親切な襲撃者です」
シャルロットは微笑んだまま、声を冷やした。
「ヴァルディアとの関係を、私たちが見落とさないよう証拠を残してくれた」
ガルドの表情が変わる。
リゼットが暗号符を見直す。
ルドベックは黙っていた。
「問題は、この暗号符が本物かどうかではありません」
シャルロットは、指先で紙片の封印箱を軽く押した。
「これを本物だと、アストリアに信じさせたい者がいることです」
沈黙。
朝日が、会議卓をゆっくりと横切っていく。
「ヴァルディアの視察団が滞在中に、ヴァルディア由来の禁制技術が使用された。さらに、あなたの派閥へ疑いが向くよう旧式暗号まで残されている」
シャルロットはルドベックを見据えた。
「随分と、あなたに都合の悪い偶然が重なりましたね」
ルドベックの指が、一度だけ組み直された。
「私を案じてくださっているのですか?」
「いいえ」
シャルロットは即答した。
「あなたを陥れるために、王都の民が利用された可能性を問題にしています」
ガルドが口を開いた。
「昨夜の襲撃は、戦力観測と呼べる規模ではありません」
ルドベックが視線を向ける。
「ガルド」
「救護拠点と避難路への攻撃は、戦力観測ではありません」
声に怒りはなかった。
だが、軍人としての断定があった。
「一般市民を標的とし、治療中の者へ禁制装備を使用した。ヴァルディア軍の規定でも、正当化できません」
ノルドの拳が、卓の下で握られる。
シャルロットは、それを見た。
ルドベックも見ていた。
しかし、誰もノルドへ問いかけない。
今ここで問い詰めれば、一人の独断として切り捨てられる。
必要なのは末端の告白ではない。
彼へ命令を渡した手だ。
今は、糸を切る時ではない。
ルドベックはガルドから視線を外した。
「我が国の関与については、調査を約束します」
「国家の関与ではなく、あなたが昨夜の襲撃計画をどこまで知っていたのかを伺っています」
シャルロットは踏み込んだ。
リゼットの呼吸が止まる。
イングリットの顔から表情が消える。
ルドベックは、わずかに顎を引いた。
「その質問へ答える義務はありません」
「では、否定はなさらない」
「否定しないことを、肯定と解釈するのは危険です」
「答えられないことを、無関係と解釈するよりは安全でしょう」
二人の視線が衝突する。
ルドベックは、初めて笑みを消した。
「では、こちらも直接伺いましょう」
彼の目が、海へ向けられる。
「昨夜の黒い戦士は、音無海殿ではありませんか?」
海が口を開くより先に、シャルロットが答えた。
「その推測を、事実として扱うことには同意できません」
「否定はなさらないのですか?」
「証明する責任があるのは、疑いを口にした側でしょう」
「共通点は、すでに申し上げました」
「推測を積み上げても、証拠にはなりません」
「では、音無海殿には昨夜の戦闘が不可能だったと?」
「音無海は昨夜、戦闘行動が不可能な状態でした」
「脚の負傷ですね」
「ええ」
「その負傷自体が、偽装であった可能性は?」
フィリアの表情が固まる。
海は、なぜか平然としている。
シャルロットは一つ息を吸った。
「私自身が状態を確認し、王城での待機を命じました」
「術式による歩行制限も施していた」
ルドベックの言葉に、シャルロットの指先が止まった。
どこまで知っている。
術式を見たのか。
リゼットが気づいたのか。
それとも、模擬戦後の海の歩行から推測しただけか。
「それが何か?」
「術式は解除できます」
「当然です」
「術者本人であれば、なおさら容易に」
ルドベックの視線が鋭くなる。
「昨夜の出撃前に、あなたが解除した可能性は否定できますか?」
シャルロットは答えなかった。
答えれば、嘘になる。
沈黙が、会議室を満たす。
ルドベックは、その沈黙を取り逃がさなかった。
「確認すれば済むことです」
彼はイングリットへ視線を向けた。
「イングリット。音無海殿の脚を診察しろ」
「お断りします」
シャルロットの声が、間を置かず響いた。
「これは外交使節の疑念を晴らすための検査です」
「だからこそ、お断りします」
「確認されて困ることでも?」
「我が国の保護下にある者の身体を、他国の要求によって検査対象へ差し出す前例は作りません」
ルドベックは静かに言った。
「人間として尊重することと、国家級戦力である可能性を確認することは両立します」
「本人の意思を無視した時点で、両立していません」
「本人の意思一つで、大陸の安全が左右されるのであれば」
ルドベックは海を見る。
「それこそ、国際的な管理が必要です」
シャルロットの胸に、冷たい怒りが灯った。
「音無海は、ヴァルディアの資産でも、アストリアの兵器でもありません」
「しかし、彼の力によって国家間の均衡が変わる可能性はある」
「だから身体を検めると?」
「事実を確認するためです」
「人を戦力として数え、疑えば身体を調べ、危険なら複数国で管理する。それを安全保障と呼ぶのですね」
「善意を信じるだけの政治よりは、民を守れます」
「意思を奪って管理された力が、誰を守るのです?」
誰も口を挟まなかった。
カスミでさえ。
いつもなら海を刺す短い言葉を持つ彼女が、何も言わない。
それが、この場の重さを際立たせていた。
ルドベックは返す。
「制御されない力よりは、多くを守るでしょう」
「昨夜、王都を守ったのは、命令に従う兵器ではありません」
シャルロットは声を落とした。
「誰を救うか、自分で選んだ方です」
その言葉に、フィリアが海を見る。
海はシャルロットを見ていた。
やがて。
「僕は構いません」
会議室の全員が、海へ視線を向けた。
シャルロットも、今度ばかりは見ないわけにはいかなかった。
「海」
「診てもらって大丈夫です」
「必要ありません」
「あります」
海の声は静かだった。
「これは、僕の身体の話です」
ルドベックを見る。
それから、シャルロットを見る。
「診てもらうかどうかは、僕が決めます」
シャルロットは言葉を失った。
それは、彼女が守ろうとしていたものだった。
海自身の意思。
だからこそ、止めることができない。
しかし。
海の脚は治っている。
歩行制限術式も、昨夜の出撃前に解除した。
診断されれば、戦闘可能だったことが明らかになる。
海と黒い戦士を結ぶ最後の壁が消える。
(何を考えているの)
シャルロットは、海の表情を読む。
いつもの不安そうな顔。
少し緊張はしている。
だが、追い詰められた様子がない。
嫌な予感がした。
「検査を行うなら、条件があります」
シャルロットは時間を稼ぐように言った。
「海本人の同意を、改めて確認すること。診断範囲は右脚に限定。深部の魂魄、記憶、固有術式へ干渉しないこと。フィリアが同席します」
「異存ありません」
ルドベックが答える。
イングリットは席を立ち、海の前へ進んだ。
「音無海殿」
彼女は海の目を見る。
「ルドベック様の命令ではなく、あなた自身の意思で検査を受けますか?」
「はい」
「途中で拒否することもできます」
「大丈夫です。お願いします」
イングリットが片膝をつく。
フィリアも海の隣へ移動した。
「海様。痛みがあれば、すぐにお伝えください」
「うん」
イングリットの手から、水のように透き通った魔力が伸びる。
右脚の筋肉。
神経。
骨格。
魔力経路。
一つずつ、慎重に状態を確認していく。
海の眉が、わずかに歪んだ。
「痛みが?」
「少し」
フィリアの顔が曇る。
シャルロットは、目の前の光景を信じられずにいた。
演技ではない。
海の脚は、確かに検査へ反応している。
イングリットの魔力が膝を通り、足首へ流れる。
彼女の眉が、わずかに寄った。
一度確認した箇所へ、もう一度魔力を戻す。
筋出力の低下。
神経伝達の遅延。
疼痛反応。
乱れた魔力経路。
すべてが、負傷した脚として正しく繋がっている。
正しすぎるほどに。
通常の負傷なら、筋肉と神経、魔力経路の損傷には僅かなばらつきが残る。
だが海の脚は、まるで一つの設計思想によって、全ての異常が同じ結論へ収束するよう組まれていた。
戦えない。
その診断へ、無駄なく導かれる。
イングリットは顔を上げ、海を見た。
海は不安そうに首を傾げる。
彼女は何も言わず、さらに深く治癒経過を探った。
新しい傷ではない。
魔力反応には、数日前から治療が進んできた痕跡がある。
昨夜の戦闘後に作られた状態には見えない。
少なくとも。
通常の術式で、一夜のうちに再現できる経過ではなかった。
イングリットは手を離さないまま、ルドベックへ尋ねた。
「昨夜の戦闘後に、負傷を作った可能性まで確認しますか?」
「可能ならば」
「確認しています」
もう一度、魔力が海の脚を巡る。
長い沈黙の後。
イングリットは、ようやく手を離した。
それでも立ち上がらない。
膝をついたまま、海の脚を見つめている。
診断に迷っているのではない。
結果が、あまりに整いすぎている。
だが、整っていることは偽りの証明にはならない。
「イングリット」
ルドベックが促す。
彼女はゆっくり立ち上がった。
「診断できる範囲では、右脚の負傷状態は昨夜以前から継続しています」
慎重に選ばれた言葉だった。
「現在も筋出力が著しく低下しています。神経伝達にも遅延があり、荷重時の疼痛反応、魔力経路の乱れが確認されます。強化術式を使用すれば、状態はさらに悪化するでしょう」
フィリアが海の腕へ手を添える。
イングリットはルドベックを見た。
「この状態で、高速移動、跳躍、戦闘行動を行うことは不可能です」
沈黙が落ちる。
ルドベックはイングリットを見た。
「昨夜の戦闘後に、現在の状態を作り出した可能性は?」
「治癒経過が一致しません」
「断言できるか」
「通常の治癒術や偽装術式では、不可能です」
通常の。
その言葉に、リゼットの視線が海へ向いた。
イングリットも一度だけ海を見た。
海は、心配されていると思ったのか、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
イングリットの瞳が、さらに細くなる。
この青年は、自分の脚へ何をしたのか。
疑問は残る。
だが、診断結果に嘘はない。
「昨夜の黒い戦士と同じ動きを行うことも?」
ルドベックが尋ねる。
「不可能です」
リゼットが海の脚へ視線を落とした。
ガルドは、短く息を吐く。
ノルドは顔を伏せたまま動かない。
シャルロットだけが、海を見ていた。
海は、少し痛そうに右脚をさすっている。
どういうことなのか。
彼女にも分からない。
ルドベックは、自らが指名したイングリットの診断を否定できない。
否定すれば、自国の専門家の技量と誠実さを、自分で傷つけることになる。
彼は長い沈黙の後、口を開いた。
「診断結果は受け入れます」
完全な敗北を認める声ではなかった。
「黒い戦士と音無海殿が同一人物であるという追及は、現時点で控えましょう」
現時点で。
その言葉を、シャルロットは聞き逃さなかった。
ルドベックは納得していない。
証明できなくなっただけだ。
「ただし」
彼は席を立つ。
「黒い戦士がアストリアと無関係であるとの結論まで、受け入れたわけではありません」
「証明できるものをお持ちになってから、改めてどうぞ」
「そのためにも、一点だけ確認しておきたい」
ルドベックはシャルロットを見た。
「アストリア王国は、正体不明の戦士について今後も調査を継続する。そう理解してよろしいでしょうか」
シャルロットは答えなかった。
無関係だと言い切れば、昨夜の英雄を放置する国家になる。
調査すると答えれば、アストリアも黒い戦士を自国の管理外とは断定できないと認めることになる。
小さな言葉だった。
しかし、ルドベックがこの会議から持ち帰ろうとしている唯一の公的成果かもしれない。
「王都内へ正体不明の人物が侵入し、国家級の術式を行使したのです」
ルドベックは続けた。
「調査しないという選択は、あり得ないはずです」
シャルロットは、胸の内で息を吐いた。
この男は敗北したのではない。
自らが必要とする情報を、すでに十分に集めた。
海が自分の身体について自ら決断する人物であること。
シャルロットが海を守るためなら、国際的な圧力にも退かないこと。
リゼットとイングリットが、海に不利となる断定を避けたこと。
ガルドが昨夜の作戦へ明確な異議を持っていること。
そして。
ノルドが、どの証拠へ反応したか。
脚の検査は、一つの勝負にすぎなかった。
会議全体が、彼にとっての観測装置だったのだ。
「王都の安全に関わる事案です」
シャルロットは答えた。
「アストリアとして、必要な調査は継続します」
ルドベックの口元に、ごく薄い笑みが戻る。
「承知しました」
たったそれだけ。
だが、彼は言質を得た。
アストリア自身も、黒い戦士を完全に無関係とは扱えない。
シャルロットは海の自由を守った。
ルドベックは、次の交渉へ繋がる扉を一つ残した。
「昨夜の襲撃については、ヴァルディア国内でも調査を行います」
ルドベックが言う。
「こちらが納得できる形での報告を期待します」
彼は机上の禁魔道具と旧暗号符を見た。
それから、ノルドへ一瞬だけ視線を向ける。
「一つだけ、ご忠告を」
再びシャルロットを見る。
「あれほどの力が、一国の命令にも、条約にも、制度にも属さないのであれば」
朝日の中で、ルドベックの瞳だけが冷たく見えた。
「それは兵器より安全なのではありません」
一拍。
「兵器より、はるかに危険です」
シャルロットは立ち上がらなかった。
「命令に従うだけの力より」
彼女は答える。
「自ら誰を守るか選べる力の方を、私は信じます」
「それが、いつまであなたの望む者を守るか」
ルドベックは微かに笑った。
「見届けさせていただきましょう」
ヴァルディア側の者たちが退室していく。
リゼットは扉を出る直前、海を振り返った。
何も言わない。
だが、黒い戦士の正体へ疑問を持っていない目だった。
イングリットはフィリアへ一礼する。
その後、海へ視線を向けた。
「右脚は、必ず休ませてください」
「はい。ありがとうございます」
海は素直に頭を下げる。
イングリットは答えなかった。
診断を信じている。
同時に、その診断結果を作り出した何かを疑っている。
ガルドはシャルロットへ礼をした後、机上の禁魔道具をもう一度見た。
ノルドは最後まで、誰とも目を合わせなかった。
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
それでも、誰もすぐには口を開かなかった。
張り詰めていた空気が、会議室に居残っている。
シャルロットは海を見る。
海も、なぜか気まずそうに目を逸らした。
「海」
「はい」
「私は、あなたの脚にかけた術式を解除したはずよ」
「はい」
海は素直に頷いた。
「癪だったので、解析しておきました」
シャルロットは瞬きをした。
「癪だった?」
「僕だけ事情を知らされていなかったので」
「それで?」
「僕が自分で、術式をかけ直しました」
フィリアの表情が凍る。
「海様?」
「大丈夫。組織そのものは傷つけていないから」
「では、なぜ痛みがあるのですか?」
「痛覚信号を再現したから」
シャルロットは、ゆっくりと額へ手を当てた。
「あなたは、自分の身体へ何をしたの」
「診断上、戦闘不能と判断される状態を作りました」
海は指を一本ずつ立てる。
「第一層が筋出力制限」
二本目。
「第二層が神経伝達遅延」
三本目。
「第三層が疼痛反応の再現」
四本目。
「第四層が魔力経路の擬似損傷」
最後に、五本目。
「第五層が経時整合層です」
「経時……?」
「実際に負傷していた時の記録を使って、治癒過程まで再現しました」
誰も言葉を発しない。
「いつ負傷したのか。どの順番で回復したのか。昨夜の時点で、どの程度の出力制限が残っていたのか。診断術がどの深さまで入っても、時間経過と矛盾しないように調整しています」
エリアナが、ゆっくりと瞬きをした。
エドガーは海と扉を交互に見る。
フィリアの顔から血の気が引いていく。
シャルロットは、声を絞り出した。
「つまり、現在の状態だけではなく、数日前から負傷していた経過まで作ったの?」
「作ったというより、再現です」
「同じことよ」
「でも、イングリットさんの診断は正確です」
海は念を押す。
「検査を受けていた時点では、本当に戦えない状態でした。治癒経過も、記録どおりです」
「診察を欺いたのではなく」
シャルロットは頭痛を堪えるように言った。
「自分の身体を、診断結果へ合わせて作り替えたと言いたいの?」
「作り替えたというほどではありません。一時的な機能制限です」
「それを偽装と言うのよ」
「でも、うまくいきました」
海が少しだけ胸を張る。
シャルロットは、その顔を見た。
昨夜、王都を救った顔。
先ほど、自分の身体について自分で決めると言った顔。
そして今。
自らの身体を、国家間の疑いを退けるための証拠へ変えた顔。
「あなたは」
シャルロットの声が低くなる。
「自分の身体まで、証拠品にしたのよ」
海の表情から、僅かに笑みが消えた。
「他に、僕が出せる証拠がなかったので」
「だから、自分を使った?」
「僕の身体なら、誰かを危険に巻き込まずに済みます」
フィリアが海の腕を掴む。
「海様」
その声が震えていた。
「それは、ご自分なら傷ついてもよいという意味ですか?」
「傷つけてはいません」
「痛みを作り、神経を遅らせ、魔力経路を乱したのでしょう?」
「制御できる範囲で」
「答えになっておりません!」
フィリアの声が、会議室へ響いた。
海は言葉を失う。
カスミが腕を組んだまま、海を見る。
「道具が強いのと、本人が壊れないのは別」
以前と同じ言葉だった。
だが今は、装備の話ではない。
海自身が、自分の身体を道具にしたことへの指摘だった。
シャルロットは、別の疑問へ辿り着いた。
「あの術式は文献に載っていない、私独自の術式よ」
「はい」
「どうして再現できるの」
「凄くよくできていたので、かけられた時に解析しました」
「いつ解析したの?」
「模擬戦の前には終わっていました」
フィリアが海を見る。
エリアナも海を見る。
エドガーでさえ、言葉を失っている。
シャルロットは、声を低くした。
「なら、歩行制限の意味にも気づいていたの?」
「何か理由があるのかな、とは思っていました」
「気づいていなかったのね」
カスミが言う。
「解析しただけ」
海が不満そうに見る。
「でも、改良はしましたよ」
「余計悪い」
「5層構造なら、絶対に見破れませんよ」
海は少し考えた後、小さく付け加えた。
「きっと」
カスミが顔を上げる。
「絶対の後に、きっと付けるな」
「念のためです」
「絶対じゃない」
「今回は見破られなかったじゃないですか」
「イングリット、気づいてた」
「えっ」
海の顔が固まる。
「どこまで?」
「知らない」
「じゃあ、見破られたとは限らないですよね?」
「その希望、捨てろ」
「でも、診断は正確だったんです」
「もっと悪い」
フィリアが海の前へ移動した。
笑顔だった。
だが、目が笑っていない。
「海様」
「はい」
「すぐに、その術式を解除してください」
「もう少し維持しておいた方が、ヴァルディアの人たちが戻ってきた時にも」
「解除してください」
「はい」
海が術式を解除する。
右脚に絡んでいた偽装回路が消えた瞬間。
足先が痺れたのか、海の身体がわずかに傾く。
フィリアが支える。
「ほら、やはり負荷があるではありませんか!」
「軽い神経疲労だけです」
「軽いかどうかは、私が判断します!」
カスミは無言で、会議室の床を指差した。
海が首を傾げる。
「何?」
「正座」
「脚を診てもらった直後なんですけど」
「治った」
「そうだけど」
「正座」
海は助けを求めるようにシャルロットを見る。
シャルロットは深く息を吐いた。
昨夜、海は王都を救った。
今朝、海を巡って国家同士が刃を交えた。
その戦いで、彼女は海の自由を守った。
ルドベックは、次の交渉へ繋がる言質を持ち帰った。
そして、その全てを切り抜けた本人は。
自分の身体を証拠に使い。
会議室の床で、正座を命じられている。
「従いなさい」
シャルロットは静かに告げた。
「はい……」
音無海は、国家級戦力とは思えないほど素直に床へ座った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「凛と海を見守りたい」と思っていただけましたら、
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この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




