EP54:ヴァルディア視察団、問いは解ほどに物を言う [LOG_AMATERAS]
先生、今回のEP54は情報戦と新キャラクターの初登場が中心ですので、前書きは軽く扉を開く程度が合います。
今回は、ヴァルディア王国の視察団が本格登場します。
笑顔で交わされる言葉の裏で、誰が何を見ているのか。
海たちと一緒に、その視線の行き先を追っていただければ幸いです。
朝の光が、魔導騎士団本部の高窓から差し込んでいた。
磨かれた石床へ、窓枠の形をした白い光が長く伸びている。
その上を進む海の右脚には、まだわずかな硬さが残っていた。
一歩。
もう一歩。
歩ける。
だが、いつもの歩幅へ戻そうとすると、膝の奥で細い糸を引かれるような違和感が走る。
「海様。歩調が速くなっております」
隣を歩くフィリアが、海より先に足を止めた。
「大丈夫です。痛くはありません」
「痛くなってからでは遅いのです」
「でも、昨日よりは」
「昨日より動けることと、本日ご無理をしてよいことは、別のお話でございます」
海は口を閉じた。
反対側にいたカスミが、黒銀のアークレンズを外す。
折り畳んだレンズを革張りの収納箱へ納め、留め金を閉じた。
「三歩遅い」
「何がですか?」
「返事」
「今、答えました」
「フィリアが止まってから三歩」
「歩行記録を取っているんですか?」
「見れば分かる」
カスミの視線が、海の右脚へ落ちる。
「庇ってる」
「庇っていません」
「右だけ、接地が浅い」
海は自分の歩き方を意識した。
その瞬間、かえって右脚へ余計な力が入る。
「今、もっと変になった」
「言わないでください」
フィリアが小さく息を吐いた。
「ですから、自然にお歩きくださいませ。ですが、ゆっくりと」
難しい注文だった。
海は二人に挟まれたまま、歩幅を少し狭めた。
三人が向かっているのは、魔導騎士団本部の正面迎賓区画だった。
普段なら研究員や騎士たちが行き交う回廊にも、今朝は余計な器材が一つも置かれていない。
壁際に並んでいた試作装置には布がかけられ、地下工房へ続く扉には新たな封印札が貼られている。
天照は王城管理下の封印保管庫へ。
Ω-Frameは機能を停止させ、海の私室に保管。
フィリアとカスミのアークレンズも、視察中は使用禁止。
昨日生まれた微細術式治療の記録は、シャルロットの権限で閲覧を封じられている。
隠すものが多すぎる。
それは同時に、この数日間で海たちが作ったものが、あまりにも多いということでもあった。
迎賓区画の手前で、シャルロットが待っていた。
翡翠色の髪と瞳。
白と金を基調とした礼装の胸元には、魔導騎士団長を示す紋章が縫い込まれている。
いつもの扇は持っていない。
代わりに、薄い記録板を一枚だけ手にしていた。
「そろったわね」
シャルロットの視線が、最初に海の顔へ向く。
次に右脚。
最後にフィリアを見る。
フィリアは、わずかに首を横へ振った。
戦闘は不可。
長時間の立位も避けるべき。
それだけの意思が、短い視線のやり取りで交わされた。
「今日の方針を、もう一度確認します」
シャルロットが記録板を閉じる。
「隠し通せない事実まで否定する必要はありません。否定すれば、それ自体が情報になります」
「情報に……?」
海が聞き返す。
「ええ。たとえば、あなたが5属性へ反応したという話は、すでに魔導騎士団の外にも流れているでしょう」
「鑑定には、かなりの人数が立ち会っていましたからね」
「光と闇への反応も同様です。完全な秘匿は、現実的ではありません」
フィリアの表情が曇る。
この世界で、5属性すべてに反応するだけでも異常だった。
さらに光と闇。
本来なら相反する二つの力まで、一人の人間が受け入れた。
その事実だけで、他国から見た海は、一人の青年ではなくなる。
戦力。
脅威。
研究対象。
あるいは、奪うべき資源。
どの言葉へ置き換えられても、そこには海本人の意思が含まれていなかった。
シャルロットは続ける。
「ですから、鑑定結果の存在は否定しません。ただし、属性へ反応することと、自在に扱えることは別問題です」
海は昨日の治療を思い出した。
全属性へ反応する。
光も使える。
それでも、自分には神聖治癒術を再現できなかった。
「嘘ではありませんね」
「ええ。事実のすべてを話さないことと、虚偽を述べることは違います」
シャルロットの声は静かだった。
「天照も同様です。存在自体は、すでに隠し切れないと考えなさい」
海の表情が引き締まる。
黒と銀の長傘。
杖であり。
盾であり。
射出機構であり。
刀でもある。
王国の魔導具分類を、存在するだけで破壊した装備。
その試験には、多くの団員が立ち会っていた。
中央魔導書庫での限定接続については封じられている。
だが、傘型の装備が訓練区で試験されたことまで消すのは不可能だった。
「公開上の扱いは、試作防護装備です」
シャルロットが言う。
「攻撃機構、射程、障壁範囲、認証条件、書庫接続機能は非公開。天照という名称についても、こちらからは明かしません」
「名前までですか?」
「相手が名称を知っているなら、その情報源を確認できます」
海は息を止めた。
知らない相手へ名称を教えることは、情報を一つ渡すだけだ。
だが、こちらが教える前に相手が名称を口にすれば。
相手がすでに知っているという情報を、こちらが得られる。
「質問へ答えるだけでは駄目なんですね」
「ようやく分かりましたか」
カスミが横から言った。
「今日は説明しない訓練」
「昨日も言われました」
「まだ不合格」
「始まってもいません」
「だから不合格」
フィリアが海へ向き直る。
「海様。質問を受けましても、すぐにお答えにならないでくださいませ」
「少し考えてから答えます」
「答えてよい質問かを、先にお考えください」
「さらに一段階ありました」
シャルロットが海を見つめる。
「あなたは、正確な情報を訂正したくなる性格です」
否定できなかった。
「相手が間違ったことを言っても、訂正してはならない場合があります」
「でも、間違ったままだと」
「その間違いが、相手の仕掛けた餌かもしれません」
その言葉に、海は黙った。
間違いを置く。
相手が訂正する。
訂正された箇所だけ、情報が確定する。
質問ではない。
試験だ。
相手が知っている知識を測るための、入力値。
「もう一つ」
シャルロットは、手にしていた記録板へ指を添えた。
「中央魔導書庫について、外国向けの公式資料では4区画構造として記載されています」
「4区画……」
「一般資料区画、研究資料区画、封印資料区画、管理中枢区画。それより深い階層が存在するという情報は、国外へ公開していません」
シャルロットの声が一段低くなる。
「第5階層という呼称そのものが、外部資料には存在しないのです」
海の胸の奥へ、冷たいものが沈んだ。
第5階層。
天照が、接続していないはずの場所から応答を受けた領域。
自分の名前を知っていた何かがいる場所。
その存在を知っている者は、王国内部でも限られている。
「もし、相手がその言葉を口にした場合は」
「相手の情報源を疑う」
海が答えた。
シャルロットは頷いた。
「ただし、疑ったことを相手へ教えないでください」
「分かりました」
海は小さく息を吸った。
「今日は、まずログを取ります」
「Deltaに答えを任せるのではありませんよ」
「はい。Deltaには記録だけを頼みます。判断するのは僕です」
シャルロットの眉が、ほんのわずかに上がった。
「それでいいわ」
三度の鐘が響いた。
魔導騎士団本部の正門が開かれる合図だった。
広間に控えていた団員たちが、一斉に姿勢を正す。
シャルロットの表情から、先ほどまでのわずかな柔らかさが消えた。
「来ます」
重い扉が、左右へゆっくりと開いていった。
朝の光とともに、異国の一団が魔導騎士団本部へ入ってくる。
先頭には、黒と深紅を基調としたヴァルディア王国の旗。
その後ろを、揃いの礼装をまとった十数名が進んでいた。
記録板を抱えた文官。
技術院の徽章を胸元につけた研究官。
長剣を帯びた護衛。
全員の歩幅が、ほとんど同じだった。
誰も私語を交わさない。
視線もむやみに動かさない。
それなのに、広間へ入ってきた瞬間から、すでに何かを数えられているような感覚があった。
扉の幅。
天井の高さ。
団員の人数。
護衛の配置。
魔力導線。
非常口。
一団の中央には、灰色の髪を後ろへ撫でつけた、細身の中年がいた。
装飾を抑えた鋼色の礼装。
右手には白い手袋。
口元には、相手を安心させるために用意されたような笑みが浮かんでいた。
ヴァルディア王国魔導技術視察団長、ルドベック・ガインズ。
その右後方を歩くのは、護衛隊長のガルド・ヴァイスベルク。
細身の片刃剣と短い指揮杖を帯びている。
視線は正面へ向けたまま。
それでも、広間の扉と護衛の間隔、非常口へ続く導線まで、すでに把握しているように見えた。
ガルドがわずかに指を動かす。
その合図だけで、後方を歩く護衛たちの間隔が整った。
反対側には、副隊長のヴォルク・ハイゼン。
礼装の上からでも分かるほど肩幅が広い。
大型武器は帯びていない。
だが、両腕を覆う重い籠手だけで、正面の壁くらいなら殴り崩せそうだった。
ヴォルクが見ているのは魔導具ではない。
迎賓列に並ぶ騎士たちだった。
その二人より少し後ろを、術式解析官のリゼット・クローネが歩いている。
藍色の髪を肩口で切りそろえた、若い女性だった。
胸元には、王立魔導院の徽章。
両手には薄い記録板を抱えている。
彼女の視線が、天井の防護術式から海へ移る。
海の顔。
黒縁眼鏡。
右脚。
そして、衣服の下へ隠された装備の輪郭。
ほんの一瞬だけ。
リゼットの目から、外交の場にふさわしい静けさが消えた。
何かを見つけた者の目だった。
リゼットの横には、護衛兼治癒補助を担当するイングリット・ファルケがいる。
淡い金髪を後ろで束ねた女性だった。
円盾を思わせる小型の魔導具を左腕へ装着し、仲間の歩調と呼吸を見ている。
イングリットの視線がフィリアへ向く。
治癒術者。
負傷者の隣。
互いに、相手が何を守る者なのかを測るような視線だった。
列の外縁を歩く黒髪の男は、偵察担当のノルド・エーベル。
壁際。
柱の影。
護衛同士の視線が途切れる位置。
目につかない場所を自然に選びながら、それでいて隊列からは一度も遅れない。
カスミの目が、ノルドの靴へ落ちた。
一度だけ。
すぐに前へ戻る。
ルドベックが一歩前へ出た。
「アストリア王国の皆様。このたびは、早朝より丁重なるお出迎えを賜り、心より感謝申し上げます」
胸へ手を当て、隙のない一礼をする。
「ヴァルディア王国魔導技術視察団を代表いたします、ルドベック・ガインズと申します」
シャルロットも一礼を返した。
「アストリア王国魔導騎士団長、シャルロット・デュノアです。王国を代表し、皆様のご来訪を歓迎いたします」
「かの《ルミナス》にお迎えいただけるとは、光栄の至りです」
「本日は、両国の相互理解へつながる時間となることを願っております」
「私どもも、同じ思いでございます」
言葉だけを聞けば、穏やかな挨拶だった。
けれど、二人は互いの目を見たまま、笑みの深さを変えなかった。
先に目を外した方が、何かを隠していると認める。
そんな規則でもあるかのようだった。
「同行しておりますのは、護衛隊長ガルド、副隊長ヴォルク。王立魔導院のリゼット、治癒補助のイングリット、偵察担当のノルドです」
名を呼ばれた五人が、それぞれ短く頭を下げた。
全員が同じ礼をしている。
それでも、海にはまったく違う動作に見えた。
ガルドは、次の命令へ移れる姿勢を崩さない。
ヴォルクは、礼を終える前から騎士たちを見ている。
リゼットは、広間の術式と海を交互に見ている。
イングリットは、仲間の位置と負傷者の有無を確認する。
ノルドは、頭を下げながらも周囲の死角を失わない。
五人とも、見る場所が違う。
だからこそ。
この視察団が、一つの目的だけで来たのではないことが分かった。
ヴォルクが顔を上げ、迎賓列の騎士たちへ歯を見せて笑う。
「良い面構えがそろっている」
外交辞令なのか。
戦う相手を品定めしているのか。
海には判断がつかなかった。
ガルドが横目で見る。
「ヴォルク」
声を荒らげたわけではない。
だが、それだけでヴォルクは口を閉じた。
笑みまでは消さなかった。
「シュタインベルク宰相にも、受け入れに際して多大なるご尽力をいただきました」
ルドベックが視線を移す。
迎賓列の右端には、アルフレッド・フォン・シュタインベルクが立っていた。
濃紺の礼服。
穏やかな表情。
王国の政治と外交を担う者として、欠点のない立ち姿だった。
その半歩後ろには、エドガーが控えている。
「両国の友好に資することであれば、当然の務めでございます」
アルフレッドは静かに答えた。
ルドベックは笑みを崩さず、短く頷く。
ほんの一瞬だった。
だが海には、挨拶というより、何かの確認に見えた。
予定どおりか。
情報に誤りはないか。
それとも。
まだ契約は生きているか。
判断する材料はない。
海は決めつけず、その視線の往復だけを記憶した。
《Delta》
心の中で呼びかける。
《はい、マスター》
《今は記録だけ。推論はしないで》
《アクセプト》
ルドベックが広間を見渡した。
壁面を走る魔力導線。
天井の防護術式。
迎賓列に並ぶ団員たち。
その視線は滑らかで、特定の何かを凝視することはない。
けれど、その後方では、五人が別々の場所を見ていた。
ガルドは、団員たちの立ち位置と指揮官の配置。
ヴォルクは、騎士たちの体格と武器。
リゼットは、壁面の術式と海。
イングリットは、フィリアと海の右脚。
ノルドは、扉と柱の影、そこから続く死角。
一つの視線ではない。
五つの視線が、魔導騎士団本部を別々の角度から切り取っている。
「さすがは、アストリアの知と力を支える魔導騎士団」
「過分なお言葉です」
「いいえ。近頃は、異界より招かれた方の知識も加わり、目覚ましい成果を上げておられるとか」
来た。
広間の空気が、目に見えないまま硬くなった。
ルドベックはシャルロットを見ている。
だが、その質問に誰が反応するのかを、広間全体で待っているようだった。
「噂は、国境を越える足が速いようですね」
シャルロットが答えた。
「足が速いだけならよいのですが、旅の途中で姿を変えることもございます」
「それは失礼」
ルドベックは悪びれずに笑った。
「私どもの耳へ届いた話では、音無海殿は火、水、風、土、雷の5属性に加え、光にも適性をお持ちだとか」
六つ。
闇が抜けている。
海は反射的に口を開きかけた。
その瞬間、先ほどのシャルロットの言葉が蘇る。
相手の間違いが、餌かもしれない。
海は息を吸うだけに留めた。
視界の端で、エドガーの唇もわずかに動いていた。
だが、アルフレッドの杖先が、石床を一度だけ叩く。
乾いた小さな音。
エドガーは口を閉じた。
視察団側でも、リゼットの指が記録板の上で止まっていた。
彼女は書き込まない。
海の反応を見ている。
その横で、ガルドは視線すら動かさなかった。
動かなかったからこそ。
彼もまた、誰が反応するのかを待っているのだと分かった。
ルドベックはシャルロットだけを見ていた。
少なくとも、顔は。
「属性への反応と、術式適性は同義ではありません」
シャルロットは答えた。
「ましてや、個人の鑑定結果は、外交視察における公開情報ではございません」
「なるほど。では、光に反応したという話も、誇張である可能性があると」
「私は、誇張とも事実とも申し上げておりません」
「これは一本取られました」
ルドベックが、わずかに笑みを深めた。
だが、海にはそう見えなかった。
一本取られたのではない。
反応を得た。
海が訂正しかけた。
エドガーも訂正しかけた。
リゼットは、その二人を見た。
アルフレッドは息子を止めた。
シャルロットは数を答えなかった。
それだけでも、相手にとっては十分な情報になる。
質問に対する答えより、答えようとした人間の方を見ている。
海の背中を、薄い冷気が流れた。
カスミが、ほとんど唇を動かさずに言った。
「質問を聞いてない」
海も前を向いたまま尋ねる。
「では、何を?」
「答える人間」
海は小さく息を吐いた。
自分の推測が、輪郭を持った。
ルドベックの視線が、ようやく海へ向く。
「あなたが音無海殿ですね」
「はい。音無海です」
「お目にかかれて光栄です。異界の知識を、こちらの魔導技術へ応用しておられると伺いました」
「皆さんに教えてもらいながら、研究のお手伝いをしています」
「お手伝い」
ルドベックは、その言葉を静かに繰り返した。
「実に謙虚でいらっしゃる」
「知らないことの方が多いので」
「しかし、知らないものを形にする才能をお持ちだ」
海は返答しなかった。
その時。
リゼットが、ほんのわずかに身を乗り出した。
「知らないものを、既存の理論へ置き換えているのですか?」
質問は短かった。
だが、海の中で、答えが反射的に組み上がる。
置き換えるのではない。
仕様を読み直す。
成立条件を分解する。
既存の術式を、別の構造へ再配置する。
「それは」
言いかけたところで、ガルドが静かに名を呼んだ。
「リゼット」
声を荒らげたわけではない。
それだけで、リゼットは口を閉じた。
「失礼いたしました」
彼女は頭を下げる。
けれど、その瞳から好奇心は消えていなかった。
フィリアが、海の半歩前へ出る。
まだ、ルドベックとの間を遮るほどではない。
ただ、リゼットから海へ伸びる視線の途中へ、自分の肩を置いた。
海はその動きに気づいた。
だが、理由までは分からなかった。
ルドベックは少しだけ首を傾ける。
「たとえば、先頃試験されたという、白銀の傘型防護具」
今度は、色が違う。
天照は黒と銀。
外側には淡い金色の術式線が走っている。
白銀ではない。
海の舌先まで、訂正が上がってきた。
だが、それを飲み込む。
視察団の誰かが天照を見たのか。
伝聞なのか。
あえて色を変えたのか。
相手の情報精度を、こちらから完成させる必要はない。
リゼットの眉が、ほんのわずかに動いた。
彼女もまた、色の違いに気づいているように見えた。
だが、何も言わない。
ガルドも。
ヴォルクも。
誰一人、ルドベックの言葉を訂正しなかった。
「白銀ではなく、黒銀です」
アルフレッドの声が、海より先に広間へ落ちた。
シャルロットの視線が、わずかに動く。
アルフレッドは穏やかな笑みを保ったまま、続けた。
「もっとも、あれを単なる防護具と呼ぶのは、少々正確さを欠きますが」
そこで、言葉が止まった。
ほんの一瞬。
アルフレッド自身も、口にした内容を測り直したようだった。
装備の正確な色。
単なる防護具ではないという分類。
視察団側からは、まだ示されていなかった二つの情報を、自ら確定させている。
海を不用意に答えさせないため。
あるいは、王国側の説明を自分が管理していると示すため。
アルフレッドは先に割って入った。
だが、その一手は、ルドベックが置いた餌を拾うものでもあった。
ルドベックの笑みが消えた。
一瞬にも満たない変化。
驚きではない。
新しい情報を得た者の反応でもない。
灰色の瞳が、鋭くアルフレッドへ向けられる。
なぜ、それを今ここで口にした。
言葉にすれば、その一文になる。
アルフレッドも、その視線の意味を理解したらしい。
杖を握る指が、わずかに深く沈んだ。
視察団の後方で、ガルドの顎がごくわずかに動く。
リゼットは記録板へ何も書かない。
ヴォルクだけが、何が起きたのか分からないという顔で二人を見比べた。
その横でイングリットが、わずかに肘を動かす。
ヴォルクは口を開くのをやめた。
だが、両者はすぐに元の表情へ戻る。
「これは失礼」
ルドベックは穏やかな声で答えた。
「どうやら噂は、形ばかりか色彩まで塗り替えて届いたようです」
「遠く離れた国の話です。多少の違いは避けられますまい」
アルフレッドも微笑んだ。
表向きには、それだけだった。
誤った情報を宰相が訂正し、視察団長が謝罪した。
どこにも不自然なところはない。
その時、シャルロットの記録板を持つ指が、一度だけ止まった。
海には、彼女も同じ違和感を拾ったように見えた。
ルドベックは、黒銀という訂正に驚かなかった。
本当に初めて正確な情報を得たのなら、記録官へ書き留めるよう合図を送っても不思議ではない。
だが、彼が見せたのは、新しい情報への関心ではなかった。
アルフレッドへ向けた、短い苛立ち。
情報そのものではなく、それをこの場で口にしたことへの反応。
ルドベックは、すでに知っていたのではないか。
少なくとも、天照の外観を。
そしてアルフレッドも、ルドベックが知っていることを承知していた。
そうでなければ、あの短い視線に、あれほど明確な意味は生まれない。
海はシャルロットの横顔を見た。
表情は変わらない。
記録板を持つ指も、すでに元の位置へ戻っている。
断定できる材料ではない。
視察団を迎えるにあたり、王国宰相が事前資料を渡していた可能性はある。
外交上、必要な情報共有だったと説明されれば、それまでだ。
だが、天照の正確な外観は、外国向け資料に含まれていない。
単なる防護具ではないことも。
海には、シャルロットもその一瞬を、表へ出さず記憶へ沈めたように見えた。
海も二人の反応を見ていた。
ルドベックは、色を知らなかったのではない。
アルフレッドが訂正したことに困った。
そこまでは分かる。
だが、理由まではまだ断定できない。
海は事実だけをDeltaへ残した。
《記録》
《ルドベック・ガインズ。黒銀という訂正への驚愕反応なし》
《アルフレッドへの視線変化を確認》
《推論は保留》
《アクセプト》
「試作防護具は複数あります」
カスミが短く答えた。
アルフレッドが広げてしまった情報を、再び曖昧な場所へ戻すような一言だった。
ルドベックの視線が、初めてカスミへ向く。
同時に。
列の外縁に立つノルドも、カスミを見た。
「複数、ですか」
「試作だから」
「なるほど。では、私が聞いたものが、どれを指すかは分からない」
「そういうこと」
カスミは、それ以上何も話さなかった。
嘘はついていない。
魔導騎士団には、研究途中の防護具が複数存在する。
だが、天照と同じものが複数あるとは言っていない。
ノルドの視線が、カスミの手元から足へ移る。
武器を持っていない。
術式も展開していない。
それでも、カスミが言葉一つで流れを変えたことを見ている。
カスミはノルドを見返さなかった。
ただ、右足の位置を半歩だけ変えた。
「では、その傘型装備は、まだ小規模な防護実験の段階でしょうか」
ルドベックが尋ねる。
小規模。
その言葉にも、数字はない。
海が最大障壁範囲を訂正すれば、相手は性能を得る。
訂正しなければ、相手は小規模という仮説を持ち帰る。
「試作段階の装備について、性能評価は公開しておりません」
シャルロットが答えた。
「ですが、王城管理下へ移されたと伺っております」
「国家機密に指定された試作装備は、規模を問わず王城管理の対象となります」
「性能ではなく、機密指定ゆえに?」
「質問の数が増えておりますね、ガインズ殿」
シャルロットが微笑んだ。
「失礼。技術者の悪い癖ということにしておいてください」
ルドベックも微笑みを返した。
技術者。
その肩書さえ、本当かどうか分からない。
海はルドベックの質問を、頭の中で並べ直した。
属性の数。
光と闇。
天照の外見。
性能。
王城管理となった理由。
聞いているようで、どの質問にも確定した答えを求めていない。
こちらが、どの情報を守るか。
誰が、どの話題へ割って入るか。
それを測っている。
そして、その観察対象にはアストリアだけでなく、アルフレッドも含まれている。
内通者と、情報を受け取る側。
そう仮定すれば、先ほどの視線にも説明がつく。
だが、説明がつくことと、事実であることは違う。
海は仮説を確定させなかった。
「開発には、音無殿も携わられたのですか?」
ルドベックが尋ねた。
海は一拍置いた。
「仕様の整理と、基礎設計の一部を担当しました」
「一部」
「はい」
本当は、中心設計のほとんどを海が行った。
だが、天照は海一人では完成していない。
カスミが構造を実装し。
フィリアの助言が、杖という発想の起点となり。
Deltaが演算を支え。
シャルロットが性能を検証した。
「最終的な実装と安全確認は、魔導騎士団全体の管理下です」
海は続けた。
リゼットの指が、記録板の縁をなぞる。
海の説明に、納得していない。
一部という言葉を、そのまま受け取っていない顔だった。
ルドベックはカスミを見る。
次にフィリア。
最後にシャルロット。
「つまり、音無殿お一人を欠いても、同種の装備は再現可能であると」
問いの形をしている。
だが、本当に聞きたいのは逆だ。
海一人を手に入れれば、再現できるのか。
カスミが答える。
「同じものは無理」
広間の空気が、わずかに動いた。
海がカスミを見る。
カスミは平然としていた。
「同じ条件、同じ材料、同じ使用者は再現できない」
ルドベックの目が細くなる。
リゼットも顔を上げた。
「ですが、技術の継承は可能であると?」
「技術は残る」
カスミは海を見ない。
「判断は残らない」
短い言葉だった。
だが、海には意味が分かった。
設計図は残る。
構造も残る。
作り方も記録できる。
それでも、何を作るか。
何を作らないか。
どこまでの力を許すか。
最後の判断は、海本人にしか残せない。
リゼットの目が、わずかに見開かれた。
装備そのものではない。
設計した人間の判断。
それを理解した者の反応だった。
ルドベックも、その意味を理解したようだった。
笑みは変わらない。
ただ、視線の置き場所だけが、天井の術式から海本人へ移っていた。
装備ではない。
開発室でもない。
音無海。
相手が見ようとしているものが、少しずつ絞られていく。
海はようやく理解した。
天照を隠せばいいと思っていた。
Ω-Frameを止め、設計図を封じれば、守れると思っていた。
完成した武器さえ渡さなければ、相手の手には何も残らないのだと。
違った。
彼らが見ているのは、完成した装備ではない。
次の装備を生み出せる人間。
壊れた理論を読み。
異世界の知識を持ち込み。
既存の魔導体系を組み替え、新しい答えを作り出す存在。
海自身だった。
武器を奪われるのではない。
自分自身が、武器を収める保管庫へ入れられる。
扉を閉ざされ。
鍵をかけられ。
必要な時だけ、開けられる。
そんな未来が一瞬、脳裏をよぎった。
背中に冷たい汗が滲む。
それでも、海は視線を逸らさなかった。
「お怪我をされていると伺いました」
ルドベックが話題を変えた。
視線が海の脚へ落ちる。
その瞬間。
イングリットも、海の右脚を見た。
「左脚でしたかな」
右だ。
フィリアの指先が、わずかに動いた。
銀縁のアークレンズは外している。
それでも彼女の視線は、反射的に海の右膝へ向かいかけた。
途中で止まる。
イングリットの視線が、その動きを追う。
「治療記録は、個人情報にあたります」
フィリアは穏やかに答えた。
「ご本人の許可なく、私からお話しすることはできません」
「これは失礼いたしました。神殿の治癒術で、すでに回復されたのでしょうか」
「必要な処置を継続しております」
「それにしては、翌日とは思えぬ足取りです」
翌日。
ルドベックは、怪我をした日を知っている。
模擬戦の見学者は魔導騎士団員だけだった。
公式報告では、海の負傷は軽度。
視察団へ通知する必要のない情報だった。
海の視線が、わずかにアルフレッドへ向く。
ルドベックも同じ瞬間に、アルフレッドを見た。
ほんの一瞬。
アルフレッドの微笑は崩れなかった。
「若者の回復力は、時として我々の予測を超えるものです」
アルフレッドが答える。
「ましてや、神殿の優秀な術者がついておりますれば」
フィリアの表情は変わらない。
だが、海には分かった。
アルフレッドは知らない。
昨日、何が行われたのか。
神聖治癒術だけではない。
微細術式群。
カスミによる制御。
パールの監視。
四人で成立させた、新しい治療。
アルフレッドは、海が歩いている理由を知らない。
だから、神殿の治癒術という、もっとも自然な答えを選んだ。
そしてルドベックは、その答えを聞くために、海の怪我へ触れたのではない。
アルフレッドの情報が、どこまで新しいかを確かめた。
イングリットは、なおも海の右脚を見ていた。
怪我の位置を確認したのではない。
歩行の癖。
体重のかけ方。
フィリアの制止。
それらをまとめて見ている。
同じ支援役だからこそ、言葉以外の治療情報を読んでいるのかもしれない。
フィリアがイングリットを見る。
二人の目が合う。
イングリットは、ほんのわずかに顎を引いた。
相手の領分へ踏み込まない。
そう示したように見えた。
海の胸の中で、ばらばらだった点が一つにつながった。
天照の色を誤った時。
ルドベックは、アルフレッドが正確な情報を口にしたことへ苛立った。
怪我の話題では。
アルフレッドが回復理由を知らないことを確かめた。
ルドベックはアストリアだけを試しているのではない。
アルフレッドも試している。
二人の間には情報の流れがある。
だが、完全な信頼はない。
ルドベックは、受け取った情報が正しいかを、自分の目で確かめに来ている。
アルフレッドの杖を握る指が、わずかに深く沈んだ。
同じ時、シャルロットの記録板を持つ指も、一度だけ止まった。
海には、それが同じ解へ近づいた合図に見えた。
だが、それだけでは証拠にならない。
偶然。
外交上の事前連絡。
王城内の別の情報源。
いくらでも説明できる。
だから誰も、口にしなかった。
誰も嘘はついていない。
それでも、誰一人として真実を語っていなかった。
「海様」
フィリアが小さな声で呼ぶ。
海は、自分が無意識に右脚へ体重をかけすぎていたことに気づいた。
「大丈夫です」
そう答えかけて、やめる。
一度、膝の状態を確かめた。
痛みはない。
熱もない。
ただ、長時間立ったことによる重さが少しある。
「もう少しなら立てます。でも、見学中に一度座った方がいいと思います」
フィリアの目が、わずかに和らいだ。
「承知いたしました」
そのやり取りを、ルドベックが見ていた。
リゼットも。
イングリットも。
海は気づいた。
フィリアが治療担当であること。
自分が完全には回復していないこと。
そして、自分がフィリアの判断を受け入れること。
いまの短いやり取りだけで、それらを渡した。
隠そうとすればするほど。
守ろうとすればするほど。
人間は、何を大切にしているかを見せてしまう。
ならば。
守るだけでは、少しずつ削られる。
海はルドベックを見た。
「一つ、こちらから聞いてもよろしいですか?」
ルドベックの眉が、ほんのわずかに上がった。
「もちろんです。異界の知を持つ方から質問をいただけるとは、光栄です」
「ヴァルディアでは、同じものを再現できない発明を、技術と呼びますか?」
広間が静かになった。
一見すると、ただの学術的な問いだった。
だが、問いの先にあるものを、ルドベックはすぐに理解したらしい。
リゼットも海を見た。
今度は研究対象へ向ける視線ではない。
問いの意図を読もうとする目だった。
「興味深いご質問です」
ルドベックは少しだけ考える素振りを見せた。
本当に考えているのか。
答えを選んでいるだけなのか。
海には分からない。
「再現可能なものを、我々は技術と呼びます」
ルドベックは答えた。
「設計を共有し、工程を整え、同じ結果を繰り返せるものです」
「では、再現できないものは?」
「奇跡」
ルドベックは微笑んだ。
「あるいは、その人だけに属する個人技能でしょう」
「奇跡を生む人間は、どう扱われますか?」
フィリアが海を見る。
カスミは黙っている。
シャルロットも止めなかった。
海の質問は、もう技術の話ではない。
自分自身の話だった。
ルドベックの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「国家には、稀有な才能を保護する責任があります」
保護。
その言葉が、海の胸へ沈む。
王城でも聞いた言葉だった。
保護と監視。
どちらも、表面は優しい。
「本人が、その保護を望まなかった場合もですか?」
エドガーが息を止めた。
アルフレッドの目が、初めて明確に海へ向く。
問いが鋭すぎた。
外交の場で口にするには、少しだけ踏み込みすぎている。
だが、海は視線を逸らさなかった。
ルドベックもまた、すぐには答えない。
最初の挨拶から絶やさなかった笑みが、その瞬間だけ完全に止まった。
白い手袋に包まれた右手。
胸元に添えられていた人差し指が、一度だけ動きを止める。
ほんの一秒。
それまでのルドベックなら、沈黙と呼ばれる前に言葉を返していた。
だが今回は違った。
彼の瞳が、ごくわずかに細くなる。
用意していた答えを、そのまま使うのをやめた。
別の言葉を選び直している。
海には、そう見えた。
ガルドがルドベックを見る。
ヴォルクは腕を組んだまま、黙っている。
リゼットは記録板へ何も書かない。
イングリットも。
ノルドも。
誰一人として、この沈黙を埋めようとしなかった。
一拍。
二拍。
やがて、ルドベックは静かに口を開く。
「望まぬ保護は、束縛と呼ばれることもございます」
否定しなかった。
「ですが、優れた力が個人の意思だけで動けば、周囲の自由を奪うこともある。国家とは、その両者の間に立つものです」
整った答えだった。
どこにも破綻がない。
けれど、海の質問には答えていない。
本人が拒んだ時。
国家は手を離すのか。
それとも、本人の自由を奪ってでも管理するのか。
ルドベックは、そこだけを語らなかった。
「なるほど」
海は頷いた。
「よく分かりました」
ルドベックが目を細める。
「何が、お分かりになりましたか?」
今度は、海が少しだけ笑った。
「ヴァルディアでは、技術そのものより、それを再現できる人間を重く見るということです」
広間の空気が、ほんの少しだけ変わった。
ルドベックの白手袋の指が、再び止まる。
今度は一瞬にも満たない。
それでも、海は見逃さなかった。
彼の問いは、海から情報を引き出すためのものだった。
だが今。
海もまた、ルドベックの答えから、ヴァルディアの価値観を一つ抜き取った。
ルドベックの後方に立つ記録官が、記録板へ何かを書き込もうとした。
リゼットではない。
外交記録を担当する文官だった。
その直前。
ルドベックが左手をわずかに下げる。
記録官の指が止まった。
記録しない。
少なくとも、公式の記録には残さない。
その判断自体が、海の問いが触れてはならない場所へ届いた証拠だった。
ルドベックはしばらく海を見つめた。
それから、ゆっくりと笑みを戻す。
「謙虚な研究補助員と伺っておりましたが」
「まだ勉強中です」
「ええ。そのようですね」
言葉だけなら、海の未熟さを認めたように聞こえる。
しかし、その目はもう海を未熟な青年として見ていなかった。
フィリアが、海の半歩前へ出る。
今度は反射ではない。
自分の意思で選んだ位置だった。
リゼットの視線が、その動きを追う。
ほんの少しだけ目を瞬かせる。
フィリアは見返さなかった。
カスミは海の反対側に立ったまま、ルドベックではなく、視察団の後方を見ている。
ノルドは、相変わらず列の外縁にいる。
壁際。
死角。
人の視線が途切れる場所。
見つからないための立ち位置だった。
そのさらに後ろ。
護衛たちの列に、年嵩の男が一人混じっている。
使い込まれた黒い外套。
飾りの少ない古い剣。
白髪の混じった髪。
他の護衛と同じように立っている。
隠れようとしてはいない。
目立たない場所を選んでもいない。
それなのに。
男の立つ位置からは、広間の入口も。
シャルロットも。
海も。
すべてが、一歩で剣の間合いへつながっているように見えた。
ノルドが見つからないために死角を選ぶのなら。
その男は、どこからでも斬れる場所を選んでいる。
男は前を向いたまま、わずかに立ち位置を変えた。
後ろを通る給仕の進路を空けただけにも見えた。
カスミの視線が、その男の靴へ一度だけ落ちる。
すぐに戻った。
何も言わなかった。
上階の観測室から、既設の団内通信術式を通して、パールの声が小さく届く。
《海。あの男、気に入らん》
どの男か。
海が尋ねる前に、パールは続けた。
《視察団長の方だ。笑っているのに、鱗が逆立つ》
海は少しだけ肩の力を抜いた。
老いた護衛ではなく、ルドベックのことだった。
「同感です」
海は小さく答えた。
ルドベックが、わずかに首を傾げる。
「何か?」
「いえ。こちらの連絡です」
「高度な通信術式をお持ちなのですな」
海は答えなかった。
また一つ。
ルドベックは、存在しない扉を叩くように質問を置いた。
開ければ、中を見られる。
開けなければ、そこに扉があることだけは知られる。
「それでは」
シャルロットが会話を切った。
「これより、公開研究区画、一般訓練区画、魔導具整備区画の順にご案内いたします」
「中央魔導書庫も、予定に含まれていると伺っております」
ルドベックが尋ねる。
「午後より、外郭資料区画および一般閲覧区画のみをご案内します」
「深層区画は?」
「視察協定の対象外です」
「第5階層も、ですかな」
空気が止まった。
海の胸の奥で、あの声が蘇る。
《ようこそ、音無海様》
《お待ちしておりました》
第5階層。
接続していない。
存在情報すら参照していない。
それでも、何かは海の名を知っていた。
外国向け資料では、中央魔導書庫は4区画構造としか記されていない。
第5階層という呼称そのものが、国外には存在しないはずだった。
なぜ、ルドベックがその階層を口にした。
アルフレッドから漏れたのか。
別の内通者がいるのか。
ヴァルディアが独自に調べたのか。
あるいは。
存在するかも分からない番号を投げ、誰が反応するかを見ただけなのか。
どれもあり得る。
だから、まだ何も断定できない。
シャルロットは表情を変えなかった。
「中央魔導書庫の階層構造については、公開しておりません」
「これは失礼」
ルドベックは、あっさりと頭を下げた。
「他国の書庫資料と、取り違えたようです」
間違えるはずがない。
そう思った。
だが、それも罠かもしれない。
海は、今度こそ訂正しなかった。
ルドベックは何も得られなかったように見える。
しかし、広間にいた何人が息を止めたか。
誰が第5階層という言葉を知っていたか。
誰が知らなかったか。
彼は、すでに数えているのかもしれない。
海は、視察団の後方を見た。
先ほどまで記録を続けていた文官の筆が、止まっている。
リゼットの記録板も動いていない。
ガルドは表情を変えなかった。
ヴォルクは、初めてルドベックを横目で見た。
イングリットの眉が、わずかに寄る。
ノルドの視線だけが、ルドベックではなく、広間にいる者たちをなぞっていた。
第5階層という発言を記録しなかったのか。
それとも、記録する必要がないほど、初めから知っていたのか。
視察団の全員が知っているのか。
ルドベックだけが知っているのか。
見ただけでは分からない。
問いは、答えを求めるためだけにあるのではない。
どの問いを選んだか。
どこを間違えたか。
誰へ向けたか。
何を聞かなかったか。
問いそのものが、問いかけた者の持つ解を語っていた。
シャルロットが歩き出す。
視察団も、その後へ続いた。
ガルドが一歩踏み出すだけで、五人の隊列が自然に整う。
ヴォルクは、一般訓練区画の方向を見ている。
リゼットは、まだ海を見ていた。
海がその視線へ気づいた瞬間。
フィリアが、歩調をわずかに速める。
海とリゼットの間へ、自分の肩を入れるような位置だった。
リゼットは少しだけ首を傾げた。
けれど、何も言わず、礼儀正しく一礼する。
フィリアも微笑みを返した。
笑顔の形は、どちらも崩れていない。
それでも海には、二人の間へ見えない細い線が引かれたように見えた。
理由は分からなかった。
カスミが海の隣を通り過ぎる。
「鈍い」
「何がですか?」
「全部」
「説明してください」
「時間の無駄」
カスミは、そのまま歩いていった。
礼節を保った足音が、魔導騎士団本部の石床へ響く。
公開するために整えられた研究室。
布をかけられた試作品。
封じられた記録。
午後には、中央魔導書庫が待っている。
アストリアは、天照の性能を明かさなかった。
Ω-Frameも。
アークレンズも。
微細術式治療も。
Deltaの存在も。
守るべき情報は、一つも渡していない。
少なくとも、形のある情報は。
だが海には分かっていた。
ルドベックはもう、天照だけを見てはいない。
ガルドは、魔導騎士団の指揮と配置を見ている。
ヴォルクは、騎士たちの強さを見ている。
リゼットは、海が何を考え、何を作る人間なのかを見ている。
イングリットは、海を守る者たちと、その弱点を見ている。
ノルドは、施設の死角と、カスミの歩き方を見ている。
そして。
黒衣の老いた護衛だけは。
何を見ているのか、まだ分からなかった。
設備も。
研究室も。
魔導騎士団の兵力も。
それらより先に、視察団の視線は、そこに立つ人間へ向けられている。
隠したのは、兵器の性能だった。
けれど。
その兵器が、どこから生まれるのか。
そこまで隠し通せたとは、もう思えなかった。
笑顔と礼節を崩さないまま。
ヴァルディア王国による魔導騎士団の視察が、静かに始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
いいねやリアクションは、
海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
続きが気になりましたら、
下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。
いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。
たぶん爆発はしません。




