表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/63

EP55:守る選択、異国の瞳 [LOG_AMATERAS]

視察団が見ているのは、研究設備だけではありません。


誰が誰を守り、誰が何を見抜き、誰がどこまで動けるのか。


異なる思惑が交差する研究区画で、海はまた一つの選択を迫られます。


公開研究区画へ続く回廊には、二つの国の足音が重なっていた。


先頭を歩くのはシャルロット。


その半歩後ろには、ヴァルディア視察団長ルドベック・ガインズがいる。


互いに礼節を崩さず、言葉も交わしていない。


それでも二人の間には、目に見えない境界線が引かれていた。


海はフィリアとカスミに挟まれ、その後方を歩いている。


右脚には、先ほどよりも重さが増していた。


鋭い痛みはない。


ただ、膝の奥で細い糸が引かれているような違和感が残っている。


以前の海なら、大丈夫です、と笑って終わらせていた。


今は違う。


痛みの有無。


熱。


関節の動き。


接地した時の違和感。


一つずつ確認してから、自分の状態を言葉にする。


「海様」


フィリアが歩調を緩めた。


海も足を止め、自分の右膝へ視線を落とす。


「痛みはありません。ただ、少し重くなっています」


「承知いたしました。次の区画で一度お休みくださいませ」


「まだ歩けます」


「歩けることと、休まなくてよいことは別のお話でございます」


海は反論しかけて、やめた。


「分かりました」


反対側を歩いていたカスミが、海の右脚を見る。


「学習した」


「僕も少しずつ更新されています」


「遅い」


「更新には時間がかかるんです」


「Deltaより遅い」


「比較対象が悪すぎです」


海が小さく息を吐いた時、先頭を歩いていたルドベックが肩越しに振り返った。


「随分と、信頼の厚いことで」


笑みは穏やかだった。


だが、視線は海だけを見ていない。


海の隣にいるフィリア。


反対側のカスミ。


少し前を歩くシャルロット。


さらに後方から視察団へ目を配る団員たち。


海を中心として、誰がどこに立つのか。


ルドベックは、それを見ている。


「僕がよく無理をするので、見張られているだけです」


海が答えると、カスミが即座に訂正した。


「監視」


「同じ意味では?」


「違う」


フィリアもルドベックへ向き直る。


「海様がお怪我を悪化させぬよう、お支えしているだけでございます」


「なるほど」


ルドベックは微笑んだ。


「監視ではなく、支援であると」


保護。


監視。


支援。


言葉を変えれば、同じ行為も違って見える。


海は答えず、その表情だけを記憶した。


《Delta》


《はい、マスター》


《ルドベックは、僕の周囲にいる人たちの役割を確認している》


《記録しました》


《推論はまだいらない》


《アクセプト》


一行は公開研究区画へ入った。


天井の高い広間には、複数の実験台が等間隔に並んでいる。


火、水、風、土、雷。


5属性の基礎術式を検証するための装置が、それぞれ独立した結界内へ収められていた。


中央には、異なる属性を一つの出力へまとめる大型変換架台が置かれている。


現在は出力を落とされ、魔導管の内部を細い光が流れていた。


普段なら研究員の声と器材の音が絶えない場所だ。


だが、今日に限っては必要最低限の人員しか残されていない。


公開できない試作品は撤去され。


記録板は入れ替えられ。


隠せない設備だけが、何事もなかったように並べられている。


「こちらでは、複数属性間の変換効率と、魔力損失について研究しております」


シャルロットが説明する。


「実験対象は、公開基準を満たした既存術式のみです。軍事転用を前提とした研究ではございません」


「もちろんです」


ルドベックは穏やかに頷いた。


その後方で、視察団の五人がそれぞれ異なるものを見ていた。


護衛隊長ガルド・ヴァイスベルクは、実験装置より先に非常扉を見た。


続いて、入口へ配置された団員。


天井の封鎖術式。


区画責任者の立ち位置。


視線と指の動きだけで、ヴォルクたちの隊列を僅かに整える。


「緊急閉鎖の権限は、区画責任者に?」


ガルドが尋ねた。


「第一次封鎖は区画責任者。全域封鎖は団長権限です」


シャルロットが答える。


「二段階ですか。合理的です」


安全管理への質問に聞こえる。


だが、ガルドが確認したのは、誰を止めれば施設全体の判断を遅らせられるかだった。


護衛副隊長のヴォルク・ハイゼンは、装置へほとんど関心を示していない。


大柄な身体を収めた重装鎧。


両腕を覆う分厚い籠手。


彼の目が追うのは、壁際に立つ騎士の剣。


エドガーの腰にある武器。


そして、機材の間を音もなく移動するカスミの足だった。


カスミが一歩進む。


体幹はほとんど揺れない。


ヴォルクの口元が、僅かに上がった。


「何がおかしい」


エドガーが低く問う。


「別に」


ヴォルクは笑みを消さない。


「ここには、研究より面白そうなものが多いと思っただけだ」


「貴様」


エドガーの声が尖る。


「ヴォルク」


ガルドが名を呼んだ。


短い制止だった。


ヴォルクは肩を竦めたが、笑みまでは消さなかった。


淡い金髪を後ろで束ねたイングリット・ファルケは、一団の最後尾と負傷者の歩様を見ている。


視線が海の右脚へ止まった。


しかし、彼女は海へ直接触れようとはしなかった。


「アークライト殿」


フィリアへ声をかける。


「治癒介入が必要であれば、こちらの術者も補助できます」


フィリアは一瞬だけ驚き、それから丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。現時点では、痛みと関節の状態を経過観察しております」


「承知しました。必要になった際はお申し付けください」


それだけ言うと、イングリットは一歩下がった。


相手の治療領域へ踏み込まない。


だが、必要な時には手を出せる位置から離れない。


フィリアは彼女の円盾型魔導具と、仲間全体へ向けられた視線を見た。


自分と似ている。


けれど、同じではない。


イングリットが一団全体の安全を見るのなら。


自分は、海一人の小さな変化を見落とさない。


フィリアは無意識に、海との距離を半歩だけ縮めた。


その時、カスミが視察団の足元へ目を落とした。


「見学じゃない」


海は声を潜める。


「何を見てるの?」


「非常口。封鎖術式。魔力導線」


カスミは、天井へ一度だけ視線を上げた。


「事故が起きた時の避難経路?」


「逆」


カスミの声は短い。


「どこを壊せば、逃げられなくなるか」


海の背中へ冷たいものが走った。


ガルドは非常扉と指揮系統を確認している。


リゼットは大型変換架台へ伸びる魔導管の本数を数えている。


ノルド・エーベルは、壁際や柱の影を自然に選びながら歩いていた。


隠れているわけではない。


だが、団員の視線が別の場所へ移るたび、彼の姿だけが意識から抜け落ちる。


「黒髪」


カスミが言った。


「三回、消えた」


「僕には見えてたけど」


「見つけたのは三回」


「……同じことでは?」


「違う」


ノルドはカスミへ一度だけ目を向けた。


足。


肩。


手の位置。


武器ではない。


どう動けば、次の瞬間に人を倒せるか。


互いに言葉を交わさないまま、二人の視線が一度だけ重なった。


そして。


視察団の後方には、先ほどカスミが警戒していた老いた護衛もいた。


使い込まれた黒い外套。


装飾の少ない古い剣。


他の護衛と同じ列に立っている。


それなのに、重心の置き方が違う。


ノルドは見つからないために死角を選ぶ。


老いた護衛は違った。


隠れずに立ちながら。


海。


フィリア。


カスミ。


シャルロット。


二つの出入口。


そのすべてへ、最短で剣を届かせられる位置にいる。


一歩進んでも、身体がほとんど上下しない。


正面を向いたまま、死角を一つも残していない。


海が男を見る。


その瞬間。


老いた護衛の灰色の瞳が、まっすぐ海へ向いた。


深い皺。


戦場で数え切れないほどの死を見た者だけが持つ、乾いた静けさ。


ほんの一瞬。


男の呼吸が止まった。


驚いたのか。


何かを思い出したのか。


それとも、海との間合いを測ったのか。


男の右手が、僅かに収縮した。


だが、剣へは触れない。


海も見つめ返さず、視線を外した。


《Delta。記録》


《老年の護衛。マスターを視認した直後、呼吸停止0.4秒》


《右手指先に収縮を確認》


《推論は保留》


《アクセプト》


その時、ルドベックが大型変換架台の前で足を止めた。


「実に興味深い設備です」


「既存技術の応用です」


シャルロットが答える。


「複数属性の出力を混ぜる技術は、ヴァルディアでも研究されております」


ルドベックは、魔導管の中を流れる光を見つめた。


「しかし、異なる術式同士は干渉を起こしやすい。こちらでは、どのように均衡を保っておられるのでしょうか」


「公開可能な範囲では、各術式を独立させ、相互干渉を遮断しております」


「完全に独立させるのであれば、統合する意味が薄れるのでは?」


「安全性を損なってまで、出力を求める必要はございません」


「アストリアらしいお考えです」


褒めているのか。


皮肉なのか。


どちらとも取れる声だった。


藍色の髪を肩口で切りそろえたリゼット・クローネが、大型変換架台の前へ一歩進んだ。


手にした薄い記録板へ、素早く線を書き込んでいく。


彼女の視線は、装置そのものではなく、魔力が交わる直前の導線へ向けられていた。


「独立させているのではありませんね」


その言葉に、シャルロットの視線が鋭くなる。


リゼットは記録板から顔を上げた。


「完全に遮断すれば、属性間の受け渡しに遅延が生じます。こちらの術式は、干渉を防いでいるのではなく、衝突する位置を固定している」


海の目が、僅かに見開かれた。


リゼットの視線が海へ向く。


「違いますか?」


「……近いです」


海は大型変換架台を見る。


「衝突させないんじゃなくて、衝突しても壊れない場所を先に決めています。完全に切り離すと、出力を渡すたびに処理が遅れるので」


「では、流量差が許容値を超えた場合は?」


「片方を止めるより、余剰分の逃げ道を用意した方が安全です。処理を止めると、その直前まで流れていた魔力が行き場を失うので」


「逃がした魔力を別属性へ渡す?」


「属性そのものを変えるんじゃありません。熱や圧力みたいに、共通して扱える部分だけを」


海の言葉が、少しずつ速くなる。


普段なら、途中で説明を諦める。


難しいですよね、と笑って会話を閉じる。


だが、リゼットは海が省いた部分を追ってくる。


「つまり、知らない術式を既存理論へ置き換えるのではなく、共通処理だけを抽出している?」


「あ、はい。僕は術式の名前より、世界に何をさせようとしているかを見るので」


海の表情が、僅かに明るくなった。


フィリアは、その横顔を見ていた。


海が技術の話をする時。


普段より声が少し高くなることを知っている。


怖さを忘れたように、言葉が前へ出ることも知っている。


けれど。


リゼットが問い返すたびに、海の説明はさらに深い場所へ進んでいく。


フィリアには、二人が交わしている言葉のすべては分からない。


術式。


干渉。


共通処理。


互換性。


海の身体のことなら分かる。


呼吸が浅くなる時。


疲労を隠している時。


無理を承知で一歩を踏み出す時。


誰かを助けるために、自分を勘定から外す時。


それなら、誰より早く気づける。


だが今。


海の中にある別の世界へ。


リゼットの問いは、自分より自然に届いていた。


胸の奥に、小さな空白が生まれる。


それが何という感情なのか、フィリアにはまだ分からなかった。


ただ。


海が右脚へ乗せている体重が、少しずつ増えている。


それだけは分かった。


「海様」


フィリアが静かに呼ぶ。


海の言葉が止まる。


「続きは、お休みになってからお願いいたします」


「あ……」


海は右膝へ視線を落とした。


「すみません。少し夢中になっていました」


「存じております」


いつもより、ほんの少しだけ丁寧な声だった。


リゼットはフィリアを見る。


続いて、海の右脚へ目を向けた。


「失礼しました。負傷中とは知らず」


「リゼット殿の責任ではございません」


フィリアは微笑んだ。


「海様は、必要と感じたことへ集中すると、ご自身の身体を後回しになさいますので」


責める声ではない。


けれど、海のことを知っている者だけが持つ確かな重さがあった。


「なるほど」


リゼットは海を見た。


「では、次は負荷を考慮して質問します」


「まだ質問するんですか?」


海が思わず聞き返す。


「聞きたいことは増えました」


その答えに、海は困ったように笑った。


フィリアも微笑みを返す。


だが、その手は海の腕を支えたまま離れなかった。


ルドベックは、一連のやり取りを黙って見ていた。


リゼットは、海の技術を理解しようとする。


フィリアは、海の身体と心を守る。


カスミは、海が見落とす構造を補う。


シャルロットは、海を国家の制度の内側へ置いている。


海一人を見ているのではない。


海を中心として成立している、一つの構造を見ていた。


視察団の後方で、エドガーが僅かに顔をしかめる。


自分には説明する役割が与えられていない。


父アルフレッドの半歩後ろに立ち、海とリゼットのやり取りを見ているだけ。


フィリアが海の身体を気遣うたび。


リゼットが海へ新たな質問を重ねるたび。


カスミが海の見落としを補うたび。


エドガーの拳が、礼装の袖の中で強く握られていた。


「父上」


エドガーが小さく呼びかける。


アルフレッドは視線を動かさない。


「今は黙って見ておれ」


「しかし、私にも説明できることが」


「見ておれと言った」


低い声だった。


エドガーの表情が歪む。


そのやり取りを聞いていたのか。


ルドベックの視線が一瞬だけ父子へ向いた。


そして何事もなかったように、リゼットへ手を上げる。


「携行観測具を」


「承知しました」


リゼットは腰の革箱を開き、手のひらほどの金属板を取り出した。


表面には、アストリアのものとは異なる術式文字が刻まれている。


線は直線的で。


命令ごとに小さな角があり。


同じ魔導術式でありながら、文字体系も構造もまるで違っていた。


「それは何でしょうか?」


シャルロットの声が僅かに低くなる。


「ヴァルディアで一般的に使用されている観測具です。魔力出力の揺らぎを見るためのものです」


リゼットが答える。


「持ち込み機材の使用は、事前申請が必要です」


「もちろん、起動はいたしません」


ルドベックは微笑んだ。


「大きさを比較するため、並べるだけです」


リゼットは一瞬だけ手を止めた。


観測具の表面へ視線を落とす。


「待ってください」


その声と。


海が息を吸う音は、ほぼ同時だった。


海の耳には、何の音も届いていない。


光もない。


魔力が放出された気配さえ、ほとんど感じられない。


それでも。


架台の内部を流れる5本の光のうち、風属性の導線だけが僅かに細くなった。


ほんの髪一本ほど。


次に、水属性の光が脈打つ。


海の視界の中で、異なる二つの術式が一瞬だけ重なった。


ヴァルディアの観測具が発した命令。


アストリアの架台が受け取った意味。


文字は違う。


構造も違う。


だが、実行しようとしている処理は同じだった。


対象を識別する。


流れを測る。


内部へ照会する。


「今すぐ下ろしてください!」


海が叫んだ。


警報は、まだ鳴っていない。


リゼットが観測具を離そうとする。


だが、指が動かない。


「離れません……!」


変換架台の内部で光が反転した。


甲高い警報音が、遅れて広間を裂く。


《警告》


Deltaの声が、海の思考へ割り込んだ。


《外部観測波を検出》


《中央変換架台の第2遮断層と干渉》


海は答えなかった。


すでに分かっていた。


火属性の赤。


水属性の青。


風属性の緑。


独立して流れていた三本の光が、中央で絡み合い始めた。


本来なら接触しない導線同士が、観測波に引き寄せられている。


「全員、架台から離れなさい!」


シャルロットの声が響く。


ガルドが短い指揮杖を上げた。


「ヴォルク、前方を空けろ。ノルド、退路確認。イングリット、負傷者へ」


「了解!」


ヴォルクが重い籠手を突き出し、混乱する研究員たちを庇うように前へ出る。


ノルドはすでに非常扉までの導線を確認していた。


「西側通路、封鎖前。退避可能」


イングリットは円盾型魔導具を展開し、リゼットへ近づこうとする。


「触れないでください!」


海が止めた。


金属板から青白い光が伸び、リゼットの手を通して架台の術式へ接続されている。


観測具が暴走魔力を逆流させ、持ち主の身体を導線として利用し始めていた。


「腕を切れば外れるか?」


ヴォルクが低く問う。


籠手に覆われた手が、腰の剣へ伸びる。


「駄目です!」


フィリアの声が飛ぶ。


「まだ助けられます!」


「なら、早くしろ!」


リゼットの顔から血の気が引いていく。


海は一歩踏み出した。


右膝に重さが走る。


走れない。


だが、頭の中ではすでに複数の術式が展開されていた。


アストリアの5属性変換式。


ヴァルディアの観測式。


施設の安全遮断機構。


リゼットの体内を流れる魔力。


フィリアの神聖治癒術。


カスミが使う構造制御式。


シャルロットの精霊術。


異なる六つの処理系。


本来なら、共通の命令文を持たない。


専門家が集まり、数日かけて照合しても、互いの術式を理解するだけで終わる。


だが海には、文字の違いなど関係なかった。


表現が違う。


書き方が違う。


命令の順番が違う。


それでも、世界へ何を求めているかは同じだった。


「Delta」


《はい、マスター》


「ヴァルディアの観測術式を、既知体系として解析しない」


《未登録の術式言語です》


「言語じゃない。処理を見て」


《処理内容を抽出》


視界へ、無数の線が流れ込む。


リゼットが自国の観測具を理解するより早く。


アストリアの研究員が、架台の異常箇所を見つけるより早く。


海は二つの国の術式から、共通する機能だけを抜き出していく。


照会。


識別。


流量測定。


経路確保。


戻り値の取得。


「同じだ」


海が呟く。


「言葉が違うだけで、やっていることは同じなんだ」


《機能対応表、生成》


《観測術式と変換架台の間に、一時互換層を構築可能》


「作る」


《警告。既知の設計規格に存在しません》


「今、作ります」


海の指が空中を走る。


魔力文字が浮かぶ。


アストリアの円環式でもない。


ヴァルディアの角形文字でもない。


双方の術式が理解できる、意味だけを残した仮設命令。


それは翻訳ではなかった。


二つの異なる仕組みを、互いに壊さず接続するための薄い膜。


海が一呼吸する間に。


その場に存在しなかった新しい術式体系が組み上がっていく。


ルドベックの笑みが消えた。


ヴァルディアの者たちが、海の前へ浮かぶ術式を見つめる。


誰も理解できない。


自国の文字に似ている。


アストリアの構造にも似ている。


だが、どちらでもない。


その場で生まれた、第三の答えだった。


「フィリアさん!」


海が名前を呼ぶ。


「リゼットさんの生命力を固定してください! 魔力経路ではなく、命が戻ろうとする形を守ってください!」


「承知いたしました!」


フィリアがリゼットのもとへ駆ける。


両手に集まった白い光が、その身体を包み込んだ。


「イングリットさん、フィリアさんの外側から身体を固定してください! 治癒術は重ねないでください!」


イングリットは一瞬だけフィリアを見る。


フィリアが頷いた。


「お願いいたします」


「承知しました」


円盾型魔導具から淡い金色の膜が広がり、リゼットの身体を支える。


フィリアの治癒領域へ踏み込まない。


その外側から、姿勢と呼吸だけを守る。


「カスミ!」


海は架台の側面を指す。


「第2遮断層を手動で開放! 火属性側だけ残してください!」


「水は?」


カスミはすでに工具を抜いていた。


「外周へ回します! 冷却路へ接続してください!」


「風は?」


「火へ渡す!」


カスミは、それ以上聞かなかった。


海の指示が終わる前に架台へ走り、制御板の一部を外している。


「シャルロット様!」


海は振り返らずに叫ぶ。


「東側上部の火属性導線を封じてください! 完全には閉じず、出口だけ残してください!」


「出口を?」


シャルロットが杖を構える。


「熱を風へ渡します! 閉じ切ると架台が内側から破裂します!」


シャルロットの翡翠色の瞳が、海の術式を一瞬だけ追った。


一つ目の構造を理解した時には。


海はすでに、その七つ先の処理へ進んでいる。


「分かったわ!」


杖が床を打つ。


翡翠色の光が天井へ走り、漏出した火属性の導線を包み込んだ。


昨日。


一つの命を支えた者たちが。


今度は研究区画全体を守るために動き始める。


フィリアが命を守り。


イングリットが身体を支え。


カスミが構造を開き。


シャルロットが区画を封じる。


その中心で海は、異なる力を一つの処理系へ組み替えていた。


老いた護衛の右手が、剣の鍔へ触れる。


海までの距離。


負傷した右脚。


天照なし。


Ω-Frameなし。


詠唱もない。


構えもない。


斬るなら、今しかない。


男の親指が鍔を押した。


だが。


どの瞬間に、海が戦場を変えたのか分からなかった。


海が手を上げた時には。


フィリアはすでにリゼットの命を包み。


イングリットはその身体を固定し。


カスミは架台の構造を開き。


シャルロットは天井の導線を封じていた。


海の身体を斬るより先に。


周囲の術式と人間が、すでに海の判断へ接続されている。


青年は武器を持っていない。


それでも。


この区画そのものが、海の手足へ変わっていた。


老いた護衛は、静かに鍔から指を離した。


「Delta」


《一時互換層、構築率82%》


「三属性を混ぜない」


《統合処理を中止しますか》


「違う。それぞれを、別の属性の逃げ道にする」


火は風を受け入れる。


風は熱を上へ運ぶ。


水は架台の外周を巡り、構造全体を冷却する。


異なる属性を一つにするのではない。


異なるまま。


互いを壊さない位置へ並べ替える。


《術式再配置案、完成》


海の周囲へ浮かぶ魔力文字が、一斉に向きを変えた。


ヴァルディアの観測文字が、海の互換層を通る。


意味だけを抜き取られ。


暴走の命令を失い。


アストリアの変換架台へ、ただの観測値として返される。


「カスミ!」


「切る」


金属音。


第2遮断層が開放される。


「フィリアさん、三秒だけ生命力の固定を強めてください!」


「はい!」


白い光が濃くなる。


「イングリットさん、右肩を固定!」


「承知!」


「シャルロット様、封印を一度だけ緩めてください!」


「暴走魔力が外へ出るわ!」


「出しません。風へ渡します!」


一瞬の沈黙。


シャルロットが杖を握り直す。


「信じます」


翡翠色の封印が、僅かに開いた。


赤い光が噴き出す。


その炎へ、架台内部の風属性が巻きついた。


炎は消えない。


だが、向きを変えられる。


熱は天井へ昇り。


外周を巡る水属性が、架台の表面を冷却していく。


暴れていた三色の光が。


一本ずつ。


本来の導線へ戻っていく。


「今です! 観測具を離してください!」


リゼットが腕を振る。


金属板が指先から外れ、床へ落ちた。


乾いた音が響く。


直後。


観測具の表面へ刻まれていた術式線が焼き切れた。


警報音が止まる。


変換架台の振動も消える。


広間には、冷却水の流れる音だけが残った。


海の前に浮かんでいた第三の術式が、役目を終えて静かに崩れていく。


リゼットが、消えゆく文字へ手を伸ばした。


「待って……。今の術式を記録してください」


「無理です!」


ヴァルディアの補助研究官が叫ぶ。


「文字列が固定されていません! 観測対象に合わせて、構造そのものが変化しています!」


アストリアの研究員も記録板を見下ろしている。


「こちらにも残っていません……」


「術式の起動記録は?」


「既存体系へ分類できません!」


両国の技術者が。


誰一人として。


海が今作ったものを、再現できない。


ルドベックは、消えた術式の残滓を見つめていた。


海は右脚から力が抜けるのを感じた。


身体が傾く。


「海様!」


フィリアがリゼットの固定を終え、海のもとへ駆け戻る。


肩を支え、ゆっくりと床へ座らせた。


「大丈夫です」


海はそう言いかけて、止まった。


自分の右膝へ手を当てる。


熱はない。


鋭い痛みもない。


だが、先ほど深く踏み込んだ時に負荷がかかっている。


「痛みはありません。でも、少し休ませてください」


フィリアは頷いた。


「承知いたしました」


カスミも戻ってくる。


海の右脚を見てから、床へ落ちた観測具へ視線を移した。


「無理した」


「走ってはいません」


「一歩、深い」


「見ていたんですか?」


「音が違った」


カスミは観測具を革布で包んだ。


「それ。起動してた」


リゼットが、青ざめた顔で観測具を見る。


「私は起動していません。比較のために掲げただけです」


声に恐怖だけではなく、困惑が混じっていた。


自国の機材。


自分が日常的に扱ってきた術式。


それが、自分の知らない命令を発した。


ルドベックが静かに観測具を拾い上げた。


焼け切れた術式線を確認する。


「何らかの誤作動が起きたようです」


「誤作動?」


シャルロットの声から、すべての温度が消えた。


「起動していない機材が、我が国の研究設備へ観測波を照射した。それを誤作動と呼ばれるのですか」


「原因は調査いたします」


「調査はこちらでも行います。観測具はお預かりします」


ルドベックの白い手袋が、金属板を握ったまま止まる。


「我が国の所有物です」


「事故現場に残された証拠品です」


二人の視線がぶつかる。


数秒後。


ルドベックは観測具から手を離した。


「承知しました」


カスミが観測具を回収する。


リゼットは何かを言いかけた。


だが、ルドベックの横顔を見て、口を閉じた。


ルドベックは床へ座る海へ向き直った。


その目は、もう一人の研究補助員を見ていなかった。


「音無殿」


ルドベックが静かに呼ぶ。


「今の術式は、以前から研究されていたものですか」


「いいえ」


海は首を横へ振った。


「今、必要だったので作りました」


ヴァルディアの者たちが息を呑む。


「では、我が国の観測術式を、今この場で解析したと?」


「全部を理解したわけではありません」


「一部だけで、アストリアの設備と接続した?」


「言葉が違うだけで、処理している内容には共通点がありました」


海は答える。


「必要な部分だけを取り出して、互いに壊れないよう並べ直しただけです」


だけ。


その言葉に。


リゼットが、呆然と海を見た。


自国で長年使われてきた観測術式。


その構造を。


初めて目にした異世界人が、数秒で分解した。


理解しただけではない。


別の国家の術式と接続し。


その場に存在しなかった新しい仕組みを作った。


しかも。


完成した術式は、誰にも記録できなかった。


海の頭の中にだけ残っている。


「今の互換層は」


リゼットが声を絞り出す。


「同じ条件を再現すれば、もう一度構築できますか」


海は少し考えた。


「条件が同じなら近いものは作れます。でも、あの時とまったく同じ術式にはならないと思います」


「なぜですか」


「次に作る時は、今の失敗も条件に入るからです」


リゼットの目が大きく開く。


海にとって術式は、完成品ではない。


実行するたびに更新される。


世界と状況へ合わせ、その場で形を変えるもの。


ルドベックは、中央変換架台を見る。


次に、リゼット。


フィリア。


カスミ。


シャルロット。


最後に海本人へ視線を戻した。


天照を奪う必要はない。


完成した設備を持ち帰る必要もない。


この青年さえ手に入れれば。


次の天照も。


次の変換架台も。


まだ世界に存在しない技術さえ。


必要になったその場で、生み出される。


海は一人の魔導士ではない。


研究室でもない。


この青年一人が。


歩く研究都市だった。


「見事なご判断でした」


ルドベックが言う。


「異なる国家の術式を即時に接続し、複数の術者を一つの処理系として運用する。これほどの技術は、我が国にも存在しません」


海はリゼットを見る。


フィリアとイングリットの処置により、呼吸は安定している。


腕も残っている。


命も失われていない。


「僕は、リゼットさんを助けたかっただけです」


海が答える。


ルドベックの笑みが、僅かに薄くなった。


「他国の人間であっても?」


「今は、視察に来た人です」


「将来、あなたへ刃を向ける可能性があったとしても?」


広間の空気が硬くなる。


海はすぐには答えなかった。


相手が何を知りたいのか。


何を測ろうとしているのか。


先ほどの応接で学んだことを、忘れてはいない。


「刃を向けられた時に、どうするかは考えます」


海はルドベックを見つめた。


「でも、まだ何もしていない人を、未来の可能性だけで見捨てる理由にはなりません」


ルドベックは何も答えなかった。


その後方で。


老いた護衛も海を見ている。


先ほどまでより、さらに深く。


海の強さではない。


力を使う理由を測っている。


やがて老いた護衛は、ほんの僅かに目を伏せた。


その表情に浮かんだものを、海は読み取れなかった。


失望。


安堵。


苦悩。


あるいは、そのすべて。


「視察は一時中断します」


シャルロットが告げた。


「負傷者の確認と、設備および持ち込み機材の調査を行います」


「中央魔導書庫の予定はいかがいたしましょう」


ルドベックが尋ねる。


「本日の現地視察は中止します」


シャルロットは即答した。


「未確認の持ち込み機材による事故が発生した以上、中央魔導書庫へ視察団を案内することはできません」


ルドベックの目が僅かに細くなる。


「外郭資料区画だけでも?」


「認めません」


声は穏やかだった。


だが、退く余地はなかった。


「承知しました」


ルドベックに焦りはない。


まるで。


中央魔導書庫へ入れなくとも。


ここで見たかったものは、もう十分に見た。


そう言っているようだった。


休憩室へ移動した後。


リゼットと海は、互いに椅子へ座ったまま向かい合っていた。


フィリアは海の右脚を確認している。


イングリットはリゼットの手に残った魔力損傷を調べていた。


「軽度の逆流損傷です」


イングリットが告げる。


「術式行使は本日中止してください」


「記録も?」


「筆記まで止めるとは言っていません」


「では問題ありません」


リゼットは即座に記録板を開く。


イングリットが小さく息を吐いた。


フィリアは、そのやり取りに少しだけ目を細めた。


似ている。


技術のことになると自分を忘れる人間は、海だけではないらしい。


「先ほどの処理について、もう一つだけ」


リゼットが海へ顔を向ける。


「一つだけですか?」


海が尋ねる。


「今は」


「増える前提なんですね」


「はい」


フィリアの手が、海の右膝を包む。


強く握ってはいない。


だが、逃げ道はなかった。


「海様」


「休みながら話します」


「約束してくださいませ」


「はい」


その様子を、ルドベックは少し離れた場所から見ていた。


やがて彼は、部屋の壁へ掛けられた訓練区画の案内図へ目を向ける。


同じものを見ていたヴォルクが、にやりと笑った。


「研究設備の評価は、実際に動かしてみなければ分からない」


ルドベックが静かに言う。


シャルロットが視線を向けた。


「何をおっしゃりたいのですか」


「本日の視察は中止となりました。ですが、両国の交流まで中止する必要はないでしょう」


ルドベックの視線が、海。


エドガー。


フィリア。


カスミ。


そしてエリアナへ順番に移る。


「技術とは、運用されて初めて価値が分かるものです」


ヴォルクが両腕の籠手を鳴らした。


「要するに、手合わせだろ?」


「品位を欠く言い方ではありますが」


ルドベックは否定しなかった。


「双方の若い戦力による模擬戦を提案いたします」


部屋の空気が変わる。


エドガーが最初に立ち上がった。


「受けましょう」


「エドガー」


シャルロットの声が止める。


「我が国の魔導師団が、視察団の前で退く理由などございません」


「勝手に決めることではありません」


「ですが!」


「団長命令です。座りなさい」


エドガーは歯を食いしばり、椅子へ戻った。


ヴォルクは、その姿を面白そうに見ている。


ガルドはヴォルクへ一度だけ視線を向けた。


それだけで、ヴォルクの笑みが僅かに薄くなる。


ルドベックは海を見る。


「音無殿にも、参加していただければ興味深い」


「海様は負傷中です」


フィリアが即座に答えた。


海本人より早かった。


「右脚へ負荷をかける戦闘は認められません」


「もちろん、無理にとは申しません」


ルドベックの笑みは崩れない。


「音無殿が、動かずに何をなされるのか。それも技術の運用でしょう」


フィリアの表情が硬くなる。


相手は海の負傷を弱点として見ている。


同時に。


負傷していても海が何をできるか、測ろうとしている。


「僕は」


海が口を開く。


自分の右脚を見る。


走れない。


長時間立つことも難しい。


だが。


戦うことと、前へ出ることは同じではない。


「僕自身が移動しない条件なら、支援はできます」


「海様」


「脚へ負担はかけません」


「海様がご自身でおっしゃる『負担をかけない』を、わたくしは信用しておりません」


「そこまでですか?」


「そこまででございます」


カスミが短く加える。


「動かない方が危ない」


「どうして?」


「全部見るから」


海は返す言葉を失った。


自分が動かないなら。


その分、仲間全員の動きを見る。


痛み。


魔力消費。


攻撃の軌道。


敵の選択。


守るべきものが増えるほど。


海は自分を後回しにする。


シャルロットは、しばらく海を見つめていた。


「条件を設けます」


全員の視線が集まる。


「海は所定の位置から移動しない。右脚への荷重を最小限とする。身体状態はフィリアが継続監視。中止判断は私、フィリア、カスミのいずれかが下せるものとします」


「僕の判断は?」


「含めません」


「即答ですか」


「当然です」


シャルロットはルドベックへ向き直る。


「それでよろしければ、模擬戦をお受けします」


ルドベックは優雅に頭を下げた。


「異存ございません」


ヴォルクが大きく笑う。


ガルドは静かに目を細め。


リゼットは海とエリアナへ視線を移し。


イングリットは既に負傷時の対応手順を確認していた。


ノルドは壁際に立つカスミの足元を見ている。


老いた護衛だけが。


訓練区画ではなく。


閉ざされた回廊の向こう。


中央魔導書庫がある方向へ、一度だけ視線を向けた。


そこには何も見えない。


厚い石壁と。


幾重もの封印術式があるだけだった。


だが男の灰色の瞳は。


そのさらに奥にある何かを、確かめるように細められていた。


やがて視線を戻す。


海は、その一瞬を見逃さなかった。


《Delta》


《はい、マスター》


《老年の護衛。中央魔導書庫の方向を確認》


《記録しました》


《意味はまだ決めない》


《アクセプト》


模擬戦の準備が始まる。


海は椅子へ座ったまま、選ばれた仲間たちを見る。


エドガー。


フィリア。


カスミ。


カイ。


エリアナ。


対するヴァルディアの五人。


ガルド。


ヴォルク。


リゼット。


イングリット。


ノルド。


勝つために。


一人を囮にする選択もある。


敵の攻撃を受けさせ、その間に別の者を進ませる方法もある。


模擬戦なら、軽傷は許容される。


戦術としては正しい。


けれど。


海の右手は、オメガコードの上で止まっていた。


仲間を傷つけずに。


相手も壊さずに。


それでも勝つ。


まだ存在しない答えを探すように。


海は静かに、戦場となる訓練区画を見つめた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


いいねやリアクションは、

海が勝手にログへ保存しておきます。

凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。


続きが気になりましたら、

下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。


いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。

たぶん爆発はしません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ