EP55:守る選択、異国の瞳 [LOG_AMATERAS]
視察団が見ているのは、研究設備だけではありません。
誰が誰を守り、誰が何を見抜き、誰がどこまで動けるのか。
異なる思惑が交差する研究区画で、海はまた一つの選択を迫られます。
公開研究区画へ続く回廊には、二つの国の足音が重なっていた。
先頭を歩くのはシャルロット。
その半歩後ろには、ヴァルディア視察団長ルドベック・ガインズがいる。
互いに礼節を崩さず、言葉も交わしていない。
それでも二人の間には、目に見えない境界線が引かれていた。
海はフィリアとカスミに挟まれ、その後方を歩いている。
右脚には、先ほどよりも重さが増していた。
鋭い痛みはない。
ただ、膝の奥で細い糸が引かれているような違和感が残っている。
以前の海なら、大丈夫です、と笑って終わらせていた。
今は違う。
痛みの有無。
熱。
関節の動き。
接地した時の違和感。
一つずつ確認してから、自分の状態を言葉にする。
「海様」
フィリアが歩調を緩めた。
海も足を止め、自分の右膝へ視線を落とす。
「痛みはありません。ただ、少し重くなっています」
「承知いたしました。次の区画で一度お休みくださいませ」
「まだ歩けます」
「歩けることと、休まなくてよいことは別のお話でございます」
海は反論しかけて、やめた。
「分かりました」
反対側を歩いていたカスミが、海の右脚を見る。
「学習した」
「僕も少しずつ更新されています」
「遅い」
「更新には時間がかかるんです」
「Deltaより遅い」
「比較対象が悪すぎです」
海が小さく息を吐いた時、先頭を歩いていたルドベックが肩越しに振り返った。
「随分と、信頼の厚いことで」
笑みは穏やかだった。
だが、視線は海だけを見ていない。
海の隣にいるフィリア。
反対側のカスミ。
少し前を歩くシャルロット。
さらに後方から視察団へ目を配る団員たち。
海を中心として、誰がどこに立つのか。
ルドベックは、それを見ている。
「僕がよく無理をするので、見張られているだけです」
海が答えると、カスミが即座に訂正した。
「監視」
「同じ意味では?」
「違う」
フィリアもルドベックへ向き直る。
「海様がお怪我を悪化させぬよう、お支えしているだけでございます」
「なるほど」
ルドベックは微笑んだ。
「監視ではなく、支援であると」
保護。
監視。
支援。
言葉を変えれば、同じ行為も違って見える。
海は答えず、その表情だけを記憶した。
《Delta》
《はい、マスター》
《ルドベックは、僕の周囲にいる人たちの役割を確認している》
《記録しました》
《推論はまだいらない》
《アクセプト》
一行は公開研究区画へ入った。
天井の高い広間には、複数の実験台が等間隔に並んでいる。
火、水、風、土、雷。
5属性の基礎術式を検証するための装置が、それぞれ独立した結界内へ収められていた。
中央には、異なる属性を一つの出力へまとめる大型変換架台が置かれている。
現在は出力を落とされ、魔導管の内部を細い光が流れていた。
普段なら研究員の声と器材の音が絶えない場所だ。
だが、今日に限っては必要最低限の人員しか残されていない。
公開できない試作品は撤去され。
記録板は入れ替えられ。
隠せない設備だけが、何事もなかったように並べられている。
「こちらでは、複数属性間の変換効率と、魔力損失について研究しております」
シャルロットが説明する。
「実験対象は、公開基準を満たした既存術式のみです。軍事転用を前提とした研究ではございません」
「もちろんです」
ルドベックは穏やかに頷いた。
その後方で、視察団の五人がそれぞれ異なるものを見ていた。
護衛隊長ガルド・ヴァイスベルクは、実験装置より先に非常扉を見た。
続いて、入口へ配置された団員。
天井の封鎖術式。
区画責任者の立ち位置。
視線と指の動きだけで、ヴォルクたちの隊列を僅かに整える。
「緊急閉鎖の権限は、区画責任者に?」
ガルドが尋ねた。
「第一次封鎖は区画責任者。全域封鎖は団長権限です」
シャルロットが答える。
「二段階ですか。合理的です」
安全管理への質問に聞こえる。
だが、ガルドが確認したのは、誰を止めれば施設全体の判断を遅らせられるかだった。
護衛副隊長のヴォルク・ハイゼンは、装置へほとんど関心を示していない。
大柄な身体を収めた重装鎧。
両腕を覆う分厚い籠手。
彼の目が追うのは、壁際に立つ騎士の剣。
エドガーの腰にある武器。
そして、機材の間を音もなく移動するカスミの足だった。
カスミが一歩進む。
体幹はほとんど揺れない。
ヴォルクの口元が、僅かに上がった。
「何がおかしい」
エドガーが低く問う。
「別に」
ヴォルクは笑みを消さない。
「ここには、研究より面白そうなものが多いと思っただけだ」
「貴様」
エドガーの声が尖る。
「ヴォルク」
ガルドが名を呼んだ。
短い制止だった。
ヴォルクは肩を竦めたが、笑みまでは消さなかった。
淡い金髪を後ろで束ねたイングリット・ファルケは、一団の最後尾と負傷者の歩様を見ている。
視線が海の右脚へ止まった。
しかし、彼女は海へ直接触れようとはしなかった。
「アークライト殿」
フィリアへ声をかける。
「治癒介入が必要であれば、こちらの術者も補助できます」
フィリアは一瞬だけ驚き、それから丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。現時点では、痛みと関節の状態を経過観察しております」
「承知しました。必要になった際はお申し付けください」
それだけ言うと、イングリットは一歩下がった。
相手の治療領域へ踏み込まない。
だが、必要な時には手を出せる位置から離れない。
フィリアは彼女の円盾型魔導具と、仲間全体へ向けられた視線を見た。
自分と似ている。
けれど、同じではない。
イングリットが一団全体の安全を見るのなら。
自分は、海一人の小さな変化を見落とさない。
フィリアは無意識に、海との距離を半歩だけ縮めた。
その時、カスミが視察団の足元へ目を落とした。
「見学じゃない」
海は声を潜める。
「何を見てるの?」
「非常口。封鎖術式。魔力導線」
カスミは、天井へ一度だけ視線を上げた。
「事故が起きた時の避難経路?」
「逆」
カスミの声は短い。
「どこを壊せば、逃げられなくなるか」
海の背中へ冷たいものが走った。
ガルドは非常扉と指揮系統を確認している。
リゼットは大型変換架台へ伸びる魔導管の本数を数えている。
ノルド・エーベルは、壁際や柱の影を自然に選びながら歩いていた。
隠れているわけではない。
だが、団員の視線が別の場所へ移るたび、彼の姿だけが意識から抜け落ちる。
「黒髪」
カスミが言った。
「三回、消えた」
「僕には見えてたけど」
「見つけたのは三回」
「……同じことでは?」
「違う」
ノルドはカスミへ一度だけ目を向けた。
足。
肩。
手の位置。
武器ではない。
どう動けば、次の瞬間に人を倒せるか。
互いに言葉を交わさないまま、二人の視線が一度だけ重なった。
そして。
視察団の後方には、先ほどカスミが警戒していた老いた護衛もいた。
使い込まれた黒い外套。
装飾の少ない古い剣。
他の護衛と同じ列に立っている。
それなのに、重心の置き方が違う。
ノルドは見つからないために死角を選ぶ。
老いた護衛は違った。
隠れずに立ちながら。
海。
フィリア。
カスミ。
シャルロット。
二つの出入口。
そのすべてへ、最短で剣を届かせられる位置にいる。
一歩進んでも、身体がほとんど上下しない。
正面を向いたまま、死角を一つも残していない。
海が男を見る。
その瞬間。
老いた護衛の灰色の瞳が、まっすぐ海へ向いた。
深い皺。
戦場で数え切れないほどの死を見た者だけが持つ、乾いた静けさ。
ほんの一瞬。
男の呼吸が止まった。
驚いたのか。
何かを思い出したのか。
それとも、海との間合いを測ったのか。
男の右手が、僅かに収縮した。
だが、剣へは触れない。
海も見つめ返さず、視線を外した。
《Delta。記録》
《老年の護衛。マスターを視認した直後、呼吸停止0.4秒》
《右手指先に収縮を確認》
《推論は保留》
《アクセプト》
その時、ルドベックが大型変換架台の前で足を止めた。
「実に興味深い設備です」
「既存技術の応用です」
シャルロットが答える。
「複数属性の出力を混ぜる技術は、ヴァルディアでも研究されております」
ルドベックは、魔導管の中を流れる光を見つめた。
「しかし、異なる術式同士は干渉を起こしやすい。こちらでは、どのように均衡を保っておられるのでしょうか」
「公開可能な範囲では、各術式を独立させ、相互干渉を遮断しております」
「完全に独立させるのであれば、統合する意味が薄れるのでは?」
「安全性を損なってまで、出力を求める必要はございません」
「アストリアらしいお考えです」
褒めているのか。
皮肉なのか。
どちらとも取れる声だった。
藍色の髪を肩口で切りそろえたリゼット・クローネが、大型変換架台の前へ一歩進んだ。
手にした薄い記録板へ、素早く線を書き込んでいく。
彼女の視線は、装置そのものではなく、魔力が交わる直前の導線へ向けられていた。
「独立させているのではありませんね」
その言葉に、シャルロットの視線が鋭くなる。
リゼットは記録板から顔を上げた。
「完全に遮断すれば、属性間の受け渡しに遅延が生じます。こちらの術式は、干渉を防いでいるのではなく、衝突する位置を固定している」
海の目が、僅かに見開かれた。
リゼットの視線が海へ向く。
「違いますか?」
「……近いです」
海は大型変換架台を見る。
「衝突させないんじゃなくて、衝突しても壊れない場所を先に決めています。完全に切り離すと、出力を渡すたびに処理が遅れるので」
「では、流量差が許容値を超えた場合は?」
「片方を止めるより、余剰分の逃げ道を用意した方が安全です。処理を止めると、その直前まで流れていた魔力が行き場を失うので」
「逃がした魔力を別属性へ渡す?」
「属性そのものを変えるんじゃありません。熱や圧力みたいに、共通して扱える部分だけを」
海の言葉が、少しずつ速くなる。
普段なら、途中で説明を諦める。
難しいですよね、と笑って会話を閉じる。
だが、リゼットは海が省いた部分を追ってくる。
「つまり、知らない術式を既存理論へ置き換えるのではなく、共通処理だけを抽出している?」
「あ、はい。僕は術式の名前より、世界に何をさせようとしているかを見るので」
海の表情が、僅かに明るくなった。
フィリアは、その横顔を見ていた。
海が技術の話をする時。
普段より声が少し高くなることを知っている。
怖さを忘れたように、言葉が前へ出ることも知っている。
けれど。
リゼットが問い返すたびに、海の説明はさらに深い場所へ進んでいく。
フィリアには、二人が交わしている言葉のすべては分からない。
術式。
干渉。
共通処理。
互換性。
海の身体のことなら分かる。
呼吸が浅くなる時。
疲労を隠している時。
無理を承知で一歩を踏み出す時。
誰かを助けるために、自分を勘定から外す時。
それなら、誰より早く気づける。
だが今。
海の中にある別の世界へ。
リゼットの問いは、自分より自然に届いていた。
胸の奥に、小さな空白が生まれる。
それが何という感情なのか、フィリアにはまだ分からなかった。
ただ。
海が右脚へ乗せている体重が、少しずつ増えている。
それだけは分かった。
「海様」
フィリアが静かに呼ぶ。
海の言葉が止まる。
「続きは、お休みになってからお願いいたします」
「あ……」
海は右膝へ視線を落とした。
「すみません。少し夢中になっていました」
「存じております」
いつもより、ほんの少しだけ丁寧な声だった。
リゼットはフィリアを見る。
続いて、海の右脚へ目を向けた。
「失礼しました。負傷中とは知らず」
「リゼット殿の責任ではございません」
フィリアは微笑んだ。
「海様は、必要と感じたことへ集中すると、ご自身の身体を後回しになさいますので」
責める声ではない。
けれど、海のことを知っている者だけが持つ確かな重さがあった。
「なるほど」
リゼットは海を見た。
「では、次は負荷を考慮して質問します」
「まだ質問するんですか?」
海が思わず聞き返す。
「聞きたいことは増えました」
その答えに、海は困ったように笑った。
フィリアも微笑みを返す。
だが、その手は海の腕を支えたまま離れなかった。
ルドベックは、一連のやり取りを黙って見ていた。
リゼットは、海の技術を理解しようとする。
フィリアは、海の身体と心を守る。
カスミは、海が見落とす構造を補う。
シャルロットは、海を国家の制度の内側へ置いている。
海一人を見ているのではない。
海を中心として成立している、一つの構造を見ていた。
視察団の後方で、エドガーが僅かに顔をしかめる。
自分には説明する役割が与えられていない。
父アルフレッドの半歩後ろに立ち、海とリゼットのやり取りを見ているだけ。
フィリアが海の身体を気遣うたび。
リゼットが海へ新たな質問を重ねるたび。
カスミが海の見落としを補うたび。
エドガーの拳が、礼装の袖の中で強く握られていた。
「父上」
エドガーが小さく呼びかける。
アルフレッドは視線を動かさない。
「今は黙って見ておれ」
「しかし、私にも説明できることが」
「見ておれと言った」
低い声だった。
エドガーの表情が歪む。
そのやり取りを聞いていたのか。
ルドベックの視線が一瞬だけ父子へ向いた。
そして何事もなかったように、リゼットへ手を上げる。
「携行観測具を」
「承知しました」
リゼットは腰の革箱を開き、手のひらほどの金属板を取り出した。
表面には、アストリアのものとは異なる術式文字が刻まれている。
線は直線的で。
命令ごとに小さな角があり。
同じ魔導術式でありながら、文字体系も構造もまるで違っていた。
「それは何でしょうか?」
シャルロットの声が僅かに低くなる。
「ヴァルディアで一般的に使用されている観測具です。魔力出力の揺らぎを見るためのものです」
リゼットが答える。
「持ち込み機材の使用は、事前申請が必要です」
「もちろん、起動はいたしません」
ルドベックは微笑んだ。
「大きさを比較するため、並べるだけです」
リゼットは一瞬だけ手を止めた。
観測具の表面へ視線を落とす。
「待ってください」
その声と。
海が息を吸う音は、ほぼ同時だった。
海の耳には、何の音も届いていない。
光もない。
魔力が放出された気配さえ、ほとんど感じられない。
それでも。
架台の内部を流れる5本の光のうち、風属性の導線だけが僅かに細くなった。
ほんの髪一本ほど。
次に、水属性の光が脈打つ。
海の視界の中で、異なる二つの術式が一瞬だけ重なった。
ヴァルディアの観測具が発した命令。
アストリアの架台が受け取った意味。
文字は違う。
構造も違う。
だが、実行しようとしている処理は同じだった。
対象を識別する。
流れを測る。
内部へ照会する。
「今すぐ下ろしてください!」
海が叫んだ。
警報は、まだ鳴っていない。
リゼットが観測具を離そうとする。
だが、指が動かない。
「離れません……!」
変換架台の内部で光が反転した。
甲高い警報音が、遅れて広間を裂く。
《警告》
Deltaの声が、海の思考へ割り込んだ。
《外部観測波を検出》
《中央変換架台の第2遮断層と干渉》
海は答えなかった。
すでに分かっていた。
火属性の赤。
水属性の青。
風属性の緑。
独立して流れていた三本の光が、中央で絡み合い始めた。
本来なら接触しない導線同士が、観測波に引き寄せられている。
「全員、架台から離れなさい!」
シャルロットの声が響く。
ガルドが短い指揮杖を上げた。
「ヴォルク、前方を空けろ。ノルド、退路確認。イングリット、負傷者へ」
「了解!」
ヴォルクが重い籠手を突き出し、混乱する研究員たちを庇うように前へ出る。
ノルドはすでに非常扉までの導線を確認していた。
「西側通路、封鎖前。退避可能」
イングリットは円盾型魔導具を展開し、リゼットへ近づこうとする。
「触れないでください!」
海が止めた。
金属板から青白い光が伸び、リゼットの手を通して架台の術式へ接続されている。
観測具が暴走魔力を逆流させ、持ち主の身体を導線として利用し始めていた。
「腕を切れば外れるか?」
ヴォルクが低く問う。
籠手に覆われた手が、腰の剣へ伸びる。
「駄目です!」
フィリアの声が飛ぶ。
「まだ助けられます!」
「なら、早くしろ!」
リゼットの顔から血の気が引いていく。
海は一歩踏み出した。
右膝に重さが走る。
走れない。
だが、頭の中ではすでに複数の術式が展開されていた。
アストリアの5属性変換式。
ヴァルディアの観測式。
施設の安全遮断機構。
リゼットの体内を流れる魔力。
フィリアの神聖治癒術。
カスミが使う構造制御式。
シャルロットの精霊術。
異なる六つの処理系。
本来なら、共通の命令文を持たない。
専門家が集まり、数日かけて照合しても、互いの術式を理解するだけで終わる。
だが海には、文字の違いなど関係なかった。
表現が違う。
書き方が違う。
命令の順番が違う。
それでも、世界へ何を求めているかは同じだった。
「Delta」
《はい、マスター》
「ヴァルディアの観測術式を、既知体系として解析しない」
《未登録の術式言語です》
「言語じゃない。処理を見て」
《処理内容を抽出》
視界へ、無数の線が流れ込む。
リゼットが自国の観測具を理解するより早く。
アストリアの研究員が、架台の異常箇所を見つけるより早く。
海は二つの国の術式から、共通する機能だけを抜き出していく。
照会。
識別。
流量測定。
経路確保。
戻り値の取得。
「同じだ」
海が呟く。
「言葉が違うだけで、やっていることは同じなんだ」
《機能対応表、生成》
《観測術式と変換架台の間に、一時互換層を構築可能》
「作る」
《警告。既知の設計規格に存在しません》
「今、作ります」
海の指が空中を走る。
魔力文字が浮かぶ。
アストリアの円環式でもない。
ヴァルディアの角形文字でもない。
双方の術式が理解できる、意味だけを残した仮設命令。
それは翻訳ではなかった。
二つの異なる仕組みを、互いに壊さず接続するための薄い膜。
海が一呼吸する間に。
その場に存在しなかった新しい術式体系が組み上がっていく。
ルドベックの笑みが消えた。
ヴァルディアの者たちが、海の前へ浮かぶ術式を見つめる。
誰も理解できない。
自国の文字に似ている。
アストリアの構造にも似ている。
だが、どちらでもない。
その場で生まれた、第三の答えだった。
「フィリアさん!」
海が名前を呼ぶ。
「リゼットさんの生命力を固定してください! 魔力経路ではなく、命が戻ろうとする形を守ってください!」
「承知いたしました!」
フィリアがリゼットのもとへ駆ける。
両手に集まった白い光が、その身体を包み込んだ。
「イングリットさん、フィリアさんの外側から身体を固定してください! 治癒術は重ねないでください!」
イングリットは一瞬だけフィリアを見る。
フィリアが頷いた。
「お願いいたします」
「承知しました」
円盾型魔導具から淡い金色の膜が広がり、リゼットの身体を支える。
フィリアの治癒領域へ踏み込まない。
その外側から、姿勢と呼吸だけを守る。
「カスミ!」
海は架台の側面を指す。
「第2遮断層を手動で開放! 火属性側だけ残してください!」
「水は?」
カスミはすでに工具を抜いていた。
「外周へ回します! 冷却路へ接続してください!」
「風は?」
「火へ渡す!」
カスミは、それ以上聞かなかった。
海の指示が終わる前に架台へ走り、制御板の一部を外している。
「シャルロット様!」
海は振り返らずに叫ぶ。
「東側上部の火属性導線を封じてください! 完全には閉じず、出口だけ残してください!」
「出口を?」
シャルロットが杖を構える。
「熱を風へ渡します! 閉じ切ると架台が内側から破裂します!」
シャルロットの翡翠色の瞳が、海の術式を一瞬だけ追った。
一つ目の構造を理解した時には。
海はすでに、その七つ先の処理へ進んでいる。
「分かったわ!」
杖が床を打つ。
翡翠色の光が天井へ走り、漏出した火属性の導線を包み込んだ。
昨日。
一つの命を支えた者たちが。
今度は研究区画全体を守るために動き始める。
フィリアが命を守り。
イングリットが身体を支え。
カスミが構造を開き。
シャルロットが区画を封じる。
その中心で海は、異なる力を一つの処理系へ組み替えていた。
老いた護衛の右手が、剣の鍔へ触れる。
海までの距離。
負傷した右脚。
天照なし。
Ω-Frameなし。
詠唱もない。
構えもない。
斬るなら、今しかない。
男の親指が鍔を押した。
だが。
どの瞬間に、海が戦場を変えたのか分からなかった。
海が手を上げた時には。
フィリアはすでにリゼットの命を包み。
イングリットはその身体を固定し。
カスミは架台の構造を開き。
シャルロットは天井の導線を封じていた。
海の身体を斬るより先に。
周囲の術式と人間が、すでに海の判断へ接続されている。
青年は武器を持っていない。
それでも。
この区画そのものが、海の手足へ変わっていた。
老いた護衛は、静かに鍔から指を離した。
「Delta」
《一時互換層、構築率82%》
「三属性を混ぜない」
《統合処理を中止しますか》
「違う。それぞれを、別の属性の逃げ道にする」
火は風を受け入れる。
風は熱を上へ運ぶ。
水は架台の外周を巡り、構造全体を冷却する。
異なる属性を一つにするのではない。
異なるまま。
互いを壊さない位置へ並べ替える。
《術式再配置案、完成》
海の周囲へ浮かぶ魔力文字が、一斉に向きを変えた。
ヴァルディアの観測文字が、海の互換層を通る。
意味だけを抜き取られ。
暴走の命令を失い。
アストリアの変換架台へ、ただの観測値として返される。
「カスミ!」
「切る」
金属音。
第2遮断層が開放される。
「フィリアさん、三秒だけ生命力の固定を強めてください!」
「はい!」
白い光が濃くなる。
「イングリットさん、右肩を固定!」
「承知!」
「シャルロット様、封印を一度だけ緩めてください!」
「暴走魔力が外へ出るわ!」
「出しません。風へ渡します!」
一瞬の沈黙。
シャルロットが杖を握り直す。
「信じます」
翡翠色の封印が、僅かに開いた。
赤い光が噴き出す。
その炎へ、架台内部の風属性が巻きついた。
炎は消えない。
だが、向きを変えられる。
熱は天井へ昇り。
外周を巡る水属性が、架台の表面を冷却していく。
暴れていた三色の光が。
一本ずつ。
本来の導線へ戻っていく。
「今です! 観測具を離してください!」
リゼットが腕を振る。
金属板が指先から外れ、床へ落ちた。
乾いた音が響く。
直後。
観測具の表面へ刻まれていた術式線が焼き切れた。
警報音が止まる。
変換架台の振動も消える。
広間には、冷却水の流れる音だけが残った。
海の前に浮かんでいた第三の術式が、役目を終えて静かに崩れていく。
リゼットが、消えゆく文字へ手を伸ばした。
「待って……。今の術式を記録してください」
「無理です!」
ヴァルディアの補助研究官が叫ぶ。
「文字列が固定されていません! 観測対象に合わせて、構造そのものが変化しています!」
アストリアの研究員も記録板を見下ろしている。
「こちらにも残っていません……」
「術式の起動記録は?」
「既存体系へ分類できません!」
両国の技術者が。
誰一人として。
海が今作ったものを、再現できない。
ルドベックは、消えた術式の残滓を見つめていた。
海は右脚から力が抜けるのを感じた。
身体が傾く。
「海様!」
フィリアがリゼットの固定を終え、海のもとへ駆け戻る。
肩を支え、ゆっくりと床へ座らせた。
「大丈夫です」
海はそう言いかけて、止まった。
自分の右膝へ手を当てる。
熱はない。
鋭い痛みもない。
だが、先ほど深く踏み込んだ時に負荷がかかっている。
「痛みはありません。でも、少し休ませてください」
フィリアは頷いた。
「承知いたしました」
カスミも戻ってくる。
海の右脚を見てから、床へ落ちた観測具へ視線を移した。
「無理した」
「走ってはいません」
「一歩、深い」
「見ていたんですか?」
「音が違った」
カスミは観測具を革布で包んだ。
「それ。起動してた」
リゼットが、青ざめた顔で観測具を見る。
「私は起動していません。比較のために掲げただけです」
声に恐怖だけではなく、困惑が混じっていた。
自国の機材。
自分が日常的に扱ってきた術式。
それが、自分の知らない命令を発した。
ルドベックが静かに観測具を拾い上げた。
焼け切れた術式線を確認する。
「何らかの誤作動が起きたようです」
「誤作動?」
シャルロットの声から、すべての温度が消えた。
「起動していない機材が、我が国の研究設備へ観測波を照射した。それを誤作動と呼ばれるのですか」
「原因は調査いたします」
「調査はこちらでも行います。観測具はお預かりします」
ルドベックの白い手袋が、金属板を握ったまま止まる。
「我が国の所有物です」
「事故現場に残された証拠品です」
二人の視線がぶつかる。
数秒後。
ルドベックは観測具から手を離した。
「承知しました」
カスミが観測具を回収する。
リゼットは何かを言いかけた。
だが、ルドベックの横顔を見て、口を閉じた。
ルドベックは床へ座る海へ向き直った。
その目は、もう一人の研究補助員を見ていなかった。
「音無殿」
ルドベックが静かに呼ぶ。
「今の術式は、以前から研究されていたものですか」
「いいえ」
海は首を横へ振った。
「今、必要だったので作りました」
ヴァルディアの者たちが息を呑む。
「では、我が国の観測術式を、今この場で解析したと?」
「全部を理解したわけではありません」
「一部だけで、アストリアの設備と接続した?」
「言葉が違うだけで、処理している内容には共通点がありました」
海は答える。
「必要な部分だけを取り出して、互いに壊れないよう並べ直しただけです」
だけ。
その言葉に。
リゼットが、呆然と海を見た。
自国で長年使われてきた観測術式。
その構造を。
初めて目にした異世界人が、数秒で分解した。
理解しただけではない。
別の国家の術式と接続し。
その場に存在しなかった新しい仕組みを作った。
しかも。
完成した術式は、誰にも記録できなかった。
海の頭の中にだけ残っている。
「今の互換層は」
リゼットが声を絞り出す。
「同じ条件を再現すれば、もう一度構築できますか」
海は少し考えた。
「条件が同じなら近いものは作れます。でも、あの時とまったく同じ術式にはならないと思います」
「なぜですか」
「次に作る時は、今の失敗も条件に入るからです」
リゼットの目が大きく開く。
海にとって術式は、完成品ではない。
実行するたびに更新される。
世界と状況へ合わせ、その場で形を変えるもの。
ルドベックは、中央変換架台を見る。
次に、リゼット。
フィリア。
カスミ。
シャルロット。
最後に海本人へ視線を戻した。
天照を奪う必要はない。
完成した設備を持ち帰る必要もない。
この青年さえ手に入れれば。
次の天照も。
次の変換架台も。
まだ世界に存在しない技術さえ。
必要になったその場で、生み出される。
海は一人の魔導士ではない。
研究室でもない。
この青年一人が。
歩く研究都市だった。
「見事なご判断でした」
ルドベックが言う。
「異なる国家の術式を即時に接続し、複数の術者を一つの処理系として運用する。これほどの技術は、我が国にも存在しません」
海はリゼットを見る。
フィリアとイングリットの処置により、呼吸は安定している。
腕も残っている。
命も失われていない。
「僕は、リゼットさんを助けたかっただけです」
海が答える。
ルドベックの笑みが、僅かに薄くなった。
「他国の人間であっても?」
「今は、視察に来た人です」
「将来、あなたへ刃を向ける可能性があったとしても?」
広間の空気が硬くなる。
海はすぐには答えなかった。
相手が何を知りたいのか。
何を測ろうとしているのか。
先ほどの応接で学んだことを、忘れてはいない。
「刃を向けられた時に、どうするかは考えます」
海はルドベックを見つめた。
「でも、まだ何もしていない人を、未来の可能性だけで見捨てる理由にはなりません」
ルドベックは何も答えなかった。
その後方で。
老いた護衛も海を見ている。
先ほどまでより、さらに深く。
海の強さではない。
力を使う理由を測っている。
やがて老いた護衛は、ほんの僅かに目を伏せた。
その表情に浮かんだものを、海は読み取れなかった。
失望。
安堵。
苦悩。
あるいは、そのすべて。
「視察は一時中断します」
シャルロットが告げた。
「負傷者の確認と、設備および持ち込み機材の調査を行います」
「中央魔導書庫の予定はいかがいたしましょう」
ルドベックが尋ねる。
「本日の現地視察は中止します」
シャルロットは即答した。
「未確認の持ち込み機材による事故が発生した以上、中央魔導書庫へ視察団を案内することはできません」
ルドベックの目が僅かに細くなる。
「外郭資料区画だけでも?」
「認めません」
声は穏やかだった。
だが、退く余地はなかった。
「承知しました」
ルドベックに焦りはない。
まるで。
中央魔導書庫へ入れなくとも。
ここで見たかったものは、もう十分に見た。
そう言っているようだった。
休憩室へ移動した後。
リゼットと海は、互いに椅子へ座ったまま向かい合っていた。
フィリアは海の右脚を確認している。
イングリットはリゼットの手に残った魔力損傷を調べていた。
「軽度の逆流損傷です」
イングリットが告げる。
「術式行使は本日中止してください」
「記録も?」
「筆記まで止めるとは言っていません」
「では問題ありません」
リゼットは即座に記録板を開く。
イングリットが小さく息を吐いた。
フィリアは、そのやり取りに少しだけ目を細めた。
似ている。
技術のことになると自分を忘れる人間は、海だけではないらしい。
「先ほどの処理について、もう一つだけ」
リゼットが海へ顔を向ける。
「一つだけですか?」
海が尋ねる。
「今は」
「増える前提なんですね」
「はい」
フィリアの手が、海の右膝を包む。
強く握ってはいない。
だが、逃げ道はなかった。
「海様」
「休みながら話します」
「約束してくださいませ」
「はい」
その様子を、ルドベックは少し離れた場所から見ていた。
やがて彼は、部屋の壁へ掛けられた訓練区画の案内図へ目を向ける。
同じものを見ていたヴォルクが、にやりと笑った。
「研究設備の評価は、実際に動かしてみなければ分からない」
ルドベックが静かに言う。
シャルロットが視線を向けた。
「何をおっしゃりたいのですか」
「本日の視察は中止となりました。ですが、両国の交流まで中止する必要はないでしょう」
ルドベックの視線が、海。
エドガー。
フィリア。
カスミ。
そしてエリアナへ順番に移る。
「技術とは、運用されて初めて価値が分かるものです」
ヴォルクが両腕の籠手を鳴らした。
「要するに、手合わせだろ?」
「品位を欠く言い方ではありますが」
ルドベックは否定しなかった。
「双方の若い戦力による模擬戦を提案いたします」
部屋の空気が変わる。
エドガーが最初に立ち上がった。
「受けましょう」
「エドガー」
シャルロットの声が止める。
「我が国の魔導師団が、視察団の前で退く理由などございません」
「勝手に決めることではありません」
「ですが!」
「団長命令です。座りなさい」
エドガーは歯を食いしばり、椅子へ戻った。
ヴォルクは、その姿を面白そうに見ている。
ガルドはヴォルクへ一度だけ視線を向けた。
それだけで、ヴォルクの笑みが僅かに薄くなる。
ルドベックは海を見る。
「音無殿にも、参加していただければ興味深い」
「海様は負傷中です」
フィリアが即座に答えた。
海本人より早かった。
「右脚へ負荷をかける戦闘は認められません」
「もちろん、無理にとは申しません」
ルドベックの笑みは崩れない。
「音無殿が、動かずに何をなされるのか。それも技術の運用でしょう」
フィリアの表情が硬くなる。
相手は海の負傷を弱点として見ている。
同時に。
負傷していても海が何をできるか、測ろうとしている。
「僕は」
海が口を開く。
自分の右脚を見る。
走れない。
長時間立つことも難しい。
だが。
戦うことと、前へ出ることは同じではない。
「僕自身が移動しない条件なら、支援はできます」
「海様」
「脚へ負担はかけません」
「海様がご自身でおっしゃる『負担をかけない』を、わたくしは信用しておりません」
「そこまでですか?」
「そこまででございます」
カスミが短く加える。
「動かない方が危ない」
「どうして?」
「全部見るから」
海は返す言葉を失った。
自分が動かないなら。
その分、仲間全員の動きを見る。
痛み。
魔力消費。
攻撃の軌道。
敵の選択。
守るべきものが増えるほど。
海は自分を後回しにする。
シャルロットは、しばらく海を見つめていた。
「条件を設けます」
全員の視線が集まる。
「海は所定の位置から移動しない。右脚への荷重を最小限とする。身体状態はフィリアが継続監視。中止判断は私、フィリア、カスミのいずれかが下せるものとします」
「僕の判断は?」
「含めません」
「即答ですか」
「当然です」
シャルロットはルドベックへ向き直る。
「それでよろしければ、模擬戦をお受けします」
ルドベックは優雅に頭を下げた。
「異存ございません」
ヴォルクが大きく笑う。
ガルドは静かに目を細め。
リゼットは海とエリアナへ視線を移し。
イングリットは既に負傷時の対応手順を確認していた。
ノルドは壁際に立つカスミの足元を見ている。
老いた護衛だけが。
訓練区画ではなく。
閉ざされた回廊の向こう。
中央魔導書庫がある方向へ、一度だけ視線を向けた。
そこには何も見えない。
厚い石壁と。
幾重もの封印術式があるだけだった。
だが男の灰色の瞳は。
そのさらに奥にある何かを、確かめるように細められていた。
やがて視線を戻す。
海は、その一瞬を見逃さなかった。
《Delta》
《はい、マスター》
《老年の護衛。中央魔導書庫の方向を確認》
《記録しました》
《意味はまだ決めない》
《アクセプト》
模擬戦の準備が始まる。
海は椅子へ座ったまま、選ばれた仲間たちを見る。
エドガー。
フィリア。
カスミ。
カイ。
エリアナ。
対するヴァルディアの五人。
ガルド。
ヴォルク。
リゼット。
イングリット。
ノルド。
勝つために。
一人を囮にする選択もある。
敵の攻撃を受けさせ、その間に別の者を進ませる方法もある。
模擬戦なら、軽傷は許容される。
戦術としては正しい。
けれど。
海の右手は、オメガコードの上で止まっていた。
仲間を傷つけずに。
相手も壊さずに。
それでも勝つ。
まだ存在しない答えを探すように。
海は静かに、戦場となる訓練区画を見つめた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
いいねやリアクションは、
海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
続きが気になりましたら、
下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。
いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。
たぶん爆発はしません。




