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EP53:支える瞳、命を編む微細術式 [LOG_AMATERAS]

魔導士団本部、魔導医療区。


白い治療台の上で、海は右脚を伸ばしていた。


膝には固定具が巻かれ、腰には治癒術式を刻んだ魔導布が当てられている。


昨日の模擬戦で無理に身体を捻った代償は、朝になっても消えていなかった。


少し膝を曲げるだけで、奥に鈍い痛みが走る。


「海様。動かさないでくださいませ」


治療台の脇に立つフィリアが、両手を患部へかざした。


指先からこぼれた淡い光が、薄い水の膜のように膝を包み込む。


水面に月光を落としたような輝きだった。


光の膜が静かに揺れるたび、患部の奥に溜まっていた熱が、少しずつ引いていく。


「動かしていません」


海は答えた。


その視線は膝ではなく、宙に浮かぶ表示窓へ向いていた。


骨格。


筋肉。


靱帯。


魔力流路。


昨日の戦闘記録から再構築された右脚の断面が、幾層もの光として表示されている。


フィリアが目を細めた。


「では、その表示は何でしょうか」


「見ているだけです」


「治療を受けている方のお仕事ではありません」


「原因が分かれば、次から同じ壊れ方を避けられると思って」


「まず、今回怪我をなさった身体を治してくださいませ」


穏やかな声だった。


しかし、反論を許す響きではなかった。


壁際に立っていたカスミが、黒銀のアークレンズを指で押し上げる。


「フィリアが正しい」


「カスミまで」


「ミュートは、自分を修理対象に入れてない」


「入れています」


「部品として?」


海の指が止まった。


カスミは宙に浮かぶ右脚の断面を眺めた。


「昨日の動き。Ω-Frameの予測は合ってた。でも、身体がついてきてない」


「はい」


「道具が正しいのと、本人が壊れないのは別」


「分かっています」


「分かってる人間は、治療中に次の実験を始めない」


反論できない。


海は表示窓を一つ閉じた。


残りの四つは消さなかった。


フィリアが小さく息を吐く。


「海様」


「あと少しだけです」


「何を調べているのですか?」


海は一瞬迷った。


それから、右手を自分の胸元へ当てる。


「僕は、すべての属性に反応します」


フィリアが頷く。


「はい。星環盤による鑑定でも、そのように示されました」


「火も、水も、風も、土も、雷も。光も闇も」


海は自分の掌を見た。


「なら、治癒魔法も使えるはずなんです」


カスミが視線を向ける。


フィリアの表情にも、わずかな困惑が浮かんだ。


「海様。治癒術は、属性を持っていれば使えるというものではありません」


「違うんですか?」


「はい。そもそも、治癒術は一つではありません」


フィリアは患部を包む光を維持したまま、静かに説明する。


「神殿に伝わる祈りと神聖詠唱によって、命が本来持っていた姿を呼び戻す神聖治癒術」


膝を包む水の膜が、小さく波打った。


「水や光、風の精霊と心を通わせ、生命の巡りを助けていただく精霊治癒術」


フィリアの声には、教本を読み上げる硬さではなく、古くから受け継がれてきたものへの敬意が滲んでいた。


「魔力を持たない方にも施せる、薬草や霊薬、錬金術を用いた治療もございます」


「では、フィリアさんが使っているのは?」


「神聖治癒術です。水と光を道として、祈りを命へ届けています」


海は、膝を覆う淡い輝きを見つめた。


「道……」


「光や水そのものが、傷を治しているのではありません」


フィリアは目を閉じる。


唇から、小さな祈りがこぼれた。


聞き取れないほど静かな神聖詠唱。


その声に応じるように、水の膜の内側へ細い光の筋が現れた。


光は患部の奥へ向かいながら、途中で何度も揺れ、進む方向を迷うように曲がっていく。


「傷ついた身体には、命の巡りが途切れている場所があります」


フィリアは目を閉じたまま続ける。


「光が進めない場所。水が避けてしまう場所。祈りを届けても、返事が弱い場所」


海の表示窓には、損傷した靱帯と周囲の腫れが映っていた。


フィリアが感じているものと、海が見ているもの。


同じ右膝を見ているはずなのに、二人の世界はまるで違っていた。


「私は、その途切れた場所を探します」


フィリアの指先が、わずかに動く。


淡い光が、膝の内側で細い輪を描いた。


「そして、傷ついた命へ呼びかけます。あなたは、ここで途切れるものではありません。本来の巡りを思い出してください、と」


海は、自分の掌を膝へかざした。


薄い白光が、掌の周囲へ集まる。


光そのものは強い。


魔力量にも問題はない。


それでも、傷には何も起こらなかった。


痛みも消えない。


腫れも引かない。


ただ、白い光が膝を照らしているだけだった。


カスミが短く言う。


「光ってる」


「それだけですね」


「明るい」


「分かっています」


処置室の入口から、小さな駆動音が聞こえた。


赤い小型支援機構Kが、短い脚を動かしながら入ってくる。


透明なキャノピーの中では、パールが腕を組んでいた。


「随分と派手な照明だな」


「治癒魔法の練習です」


「傷が治っていないぞ」


「見れば分かります」


「なら失敗だ」


海は肩を落とした。


フィリアは治癒の光を維持しながら、海の掌に集まった光を見つめる。


「力が不足しているわけではありません」


「僕も、そう思います」


「ですが、海様の光には、祈りも導きもありません」


「導き?」


「どこへ向かえばよいのか、光自身が分かっていないのです」


海は宙に浮かぶ右脚の断面と、フィリアの光を交互に見た。


フィリアの光は、損傷した場所へ近づくと揺れ方を変えている。


まるで、見えない流れに触れ、その形を確かめているようだった。


「Delta」


《はい、マスター》


「フィリアさんの神聖治癒術を観測できますか?」


《未知の波形を検出》


《既存の属性魔力とは一致しません》


「祈りの内容は?」


《言語情報のみでは解析不能》


フィリアが小さく目を開けた。


「神聖詠唱は、言葉だけを真似ても届きません」


「では、何が必要なんですか?」


「祈る者の意志と、受け取る命とのつながりです」


海は黙った。


演算できない。


数値にも、構造にも置き換えられない。


だが、フィリアの光が実際に傷を探し、命の流れへ触れていることだけは、アークレンズにも映っていた。


「完全に同じものは、作れない」


海は呟いた。


《肯定》


「なら、同じものを作る必要はない」


海は宙に浮かぶ右脚の断面を拡大した。


「フィリアさんの神聖治癒術が、治すべき場所と命の流れを見つける」


骨格。


筋肉。


血管。


神経。


靱帯。


海の視界の中で、人体の構造がさらに細かく分かれていく。


「海様、これは……?」


フィリアは、銀縁のアークレンズに浮かび上がった映像に息を呑んだ。


海の右脚の内側が、幾層もの淡い光となって映し出されている。


「僕らの世界にあるMRIという技術を、アークレンズ用に置き換えました」


海は、宙に浮かぶ右脚の断面を指した。


「身体の内側を画像にして、どこが傷ついているのかを確認するための技術です」


「エム、アール、アイ……?」


フィリアは、聞き慣れない響きを確かめるように繰り返した。


「これなら、僕には感じ取れない命の巡りと、実際に傷ついている身体の構造を重ねて見られると思います」


フィリアは、アークレンズの映像と、海の膝を包む神聖光を交互に見つめた。


彼女が感じ取っているものと、海が映し出しているもの。


見え方はまるで違う。


それでも、二つの視界は同じ傷へ向かっていた。


「僕たちは、それを別の形に翻訳する」


《翻訳対象の定義を要求》


「フィリアさんが感じた命の途切れを、損傷した構造と照合する」


フィリアの淡い光と、海の表示窓が重なった。


光が進めずに揺れている場所。


そこには、模擬戦で引き伸ばされた靱帯と、細かく傷ついた筋肉があった。


海の瞳が見開かれる。


「同じ場所を見ている」


フィリアは骨や靱帯を見ているわけではない。


海は命の祈りを聞くことができない。


それでも、二人が別々の方法で見つけた傷は、同じ場所に存在していた。


「傷口全体を、一つの大きな治癒術で包む必要はない」


海は指を動かした。


表示された患部が、無数の小さな区画へ分割されていく。


「もっと小さく分ける」


筋肉。


血管。


神経。


靱帯。


さらに細かく。


肉眼では捉えられないほど小さな単位へ。


「一つひとつの損傷箇所へ、小さな術式を送り込む」


微細術式群(ナノテクノロジー)による局所再構築を提案》


「そうです」


「なの?」


フィリアが、小さく首を傾げた。


海は一瞬、言葉に迷った。


「ナノテクノロジーです。地球では、目に見えないほど小さなものを扱う技術があります」


「先ほどのエム、アール、アイとは違うものなのですか?」


「はい。MRIは、身体の内側を見るための技術です」


海は、アークレンズに映る右脚の断面を示した。


「ナノテクノロジーは、もっと小さな単位を扱うための考え方です。今回は、それを魔法の術式へ置き換えます」


「その技術で、治癒術を作るのですか?」


「いいえ」


海は首を振った。


「神聖治癒術そのものは作れません」


フィリアを見る。


「僕に祈りは再現できない。命の本来の巡りも、まだ分からない」


それは、海にしては珍しいほど明確な敗北宣言だった。


「だから、フィリアさんが見つけた命の途切れを、僕たちの理解できる身体の構造へ置き換えます」


海は右膝へ視線を落とした。


「その上で、目に見えないほど小さな術式を、一つひとつ傷ついた場所へ送り込む」


「フィリアさんが命の道を示して、僕とDeltaが、その道に沿って身体を修復します」


「治すべき場所は?」


カスミが尋ねた。


「フィリアさんに決めてもらいます」


フィリアが目を瞬く。


海は真っ直ぐに彼女を見た。


「僕には、何を優先して、どこまで戻せば命にとって正しいのか分かりません」


「海様……」


「だから、フィリアさんに教えてほしいんです」


海は膝を包む淡い光へ目を向ける。


「どこで命の巡りが途切れているのか。どこまで戻れば、光がもう迷わなくなるのか」


フィリアの胸の奥に、温かいものが広がった。


海は何でも一人で解こうとする。


分からないことすら、自分の中へ抱え込もうとする。


その海が今、はっきりと助けを求めている。


「承知いたしました」


フィリアは静かに頷いた。


「私が、海様の命の巡りを見守ります」


カスミが腕を組む。


「僕は?」


「微細術式群の制御をお願いします」


海は別の表示窓を開いた。


「術式の密度、速度、拡散範囲、魔力負荷。異常があれば、すぐに停止してください」


「止めろと言って、聞くのか?」


「聞きます」


「昨日は?」


「今日は聞きます」


「信用できない」


「では、信じてもらえる仕様にします」


カスミの口元が、ほんのわずかに動いた。


パールがKの中から手を上げる。


「待て」


三人が振り返る。


「俺の役割はどうした」


「龍さんは、そこで見守っていてください」


「なぜ俺だけ見物人扱いする!」


「神聖治癒術の知識はありますか?」


「ない」


「微細術式の制御は?」


「知らん」


「では」


「だが、俺に宿る龍の血統をもってすれば、戦場全体を見渡す目は貴様らより優れている」


パールは胸を張った。


「細部ばかりを見ていれば、外へ漏れたものを見落とす。全体を見張る者が必要だろう」


海は少し考えた。


確かに、フィリアは命の巡りを見る。


カスミは術式群の挙動を見る。


Deltaは構造を演算する。


だが、治療範囲の外側を俯瞰する者はいない。


「分かりました」


海は新しい表示窓を開いた。


治療範囲。


微細術式群の全体分布。


術式の漏出。


経過時間。


治療全体を監視するために必要な情報だけを選び、龍さんの頭部に合わせた装具の輪郭を組み上げていく。


「カスミ。アークレンズを基に、龍さん用の観測ゴーグルを設計しました」


海が指を滑らせると、設計図がカスミの黒銀のレンズへ送られた。


「錬成をお願いできますか?」


「見えてる」


カスミは設計図を一瞥した。


「重い。縁が厚い。革帯も長い」


「そこまで分かりますか?」


「使う物を、設計図どおりに作るだけなら素人でもできる」


カスミの指先が動く。


設計図から余分な線が削られ、固定具の位置が変わった。


レンズの縁が薄くなり、革帯の幅が調整されていく。


「パールの頭は人間と形が違う。ここ、このままだとずれる」


「修正をお願いします」


「もうしてる」


海が必要な機能を決める。


カスミが、それを実際に使える形へ変えていく。


「表示項目は四つだけ?」


「はい。治療範囲、微細術式群の全体分布、漏出の有無、経過時間です」


「情報が多いと?」


「龍さんが混乱します」


「誰が混乱するというのだ!」


パールがKの中から声を上げた。


カスミは視線も向けずに答える。


「じゃあ、全部表示する?」


「……必要な情報だけでいい。龍の血筋がそう言っている」


「了解」


カスミの指先から、淡い錬成光が伸びた。


光は修正された設計図をなぞり、用意されていた素材を一つずつ組み上げていく。


赤銅色の金属。


濃い茶色の革帯。


中央で左右を固定する留め具。


琥珀色を帯びた二枚のレンズ。


錬成光が収まった時、カスミの掌には一つの装具が完成していた。


それは、地球の飛行士が空を飛ぶ時に身につけていた、旧式の飛行眼鏡を思わせる形をしていた。


厚みを抑えた赤銅色の縁。


顔に沿って余計な光を遮る革製の覆い。


頭部へ固定する太い帯。


左右のレンズには、アークレンズと同じ演算補助術式が薄く刻まれている。


カスミは完成したゴーグルを持ち上げた。


「パール。顔」


「何だ、その命令は」


「合わせる。動くな」


カスミはKのキャノピー越しに、パールの頭部とゴーグルの幅を見比べた。


海が横から説明する。


「龍さん用です」


パールは、黙ってゴーグルを見た。


「僕たちと同じ情報を見る必要はありません」


海は表示項目を指し示す。


「治療範囲、微細術式群の全体分布、漏出の有無、経過時間。それだけを表示します」


「俺に装具など必要ない」


「そう」


カスミがゴーグルを引っ込める。


「なら、分解する」


「待て」


パールが即座に止めた。


「必要ないとは言ったが、受け取らないとは言っていない」


カスミが小さく呟く。


「欲しい顔」


「していない!」


カスミはKのキャノピーを開き、パールへゴーグルを渡した。


パールは咳払いを一つすると、慎重に装着する。


革帯が頭部へ沿い、琥珀色のレンズが両目を覆った。


左右の留め具が、乾いた音を立てて固定される。


《観測補助端末、接続》


レンズの内側へ、微細な光点が浮かんだ。


治療台。


海。


フィリア。


カスミ。


室内の魔力分布。


患部を中心に設定された治療範囲。


すべてが一つの視界へ重なっている。


パールが、しばらく黙った。


「どうですか?」


海が尋ねる。


「……悪くない」


「似合ってる。僕が作ったんだから、間違いない」


カスミが言う。


パールが胸を張った。


「当然だ。俺が身につければ、何であろうと龍神の装備となる」


フィリアも微笑んだ。


「とても凛々しくていらっしゃいます、龍神様」


「お嬢ちゃんは見る目がある」


パールは、すっかり機嫌を直していた。


海は、ゴーグルを装着したパールと、その隣に立つカスミを見た。


自分が設計しただけでは、まだ線に過ぎなかった。


カスミの手が加わって、初めて誰かが使える装備になった。


治療の準備が始まった。


フィリアが銀縁のアークレンズを装着する。


銀縁のレンズに映ったのは、海の脚の断面だけではなかった。


患部を包む神聖治癒術の光。


命の巡りに沿って流れる、淡い水の筋。


その途中で揺らぎ、途切れ、進めずにいる場所。


海とDeltaが、フィリアの見ている光を人体構造へ重ね合わせていく。


黒銀のアークレンズをつけたカスミには、魔力流路と微細術式群の制御領域が表示される。


パールのゴーグルには、治療範囲全体を包む円と、外部へ流出する魔力の経路が示された。


海は治療台へ腰を下ろした。


「実験対象は、僕の右膝です」


「海様」


フィリアの声が硬くなる。


「安全域は設定します」


「自分の身体だからと、軽く扱わないでくださいませ」


「軽く扱ってはいません」


海はフィリアを見た。


「僕一人では始めません」


フィリアの言葉が止まる。


「フィリアさんが命の巡りを確認して、カスミが制御可能と判断して、龍さんが外部への漏出がないと判断した時だけ開始します」


それは、これまでの海にはできなかった言い方だった。


フィリアはゆっくりと頷いた。


「分かりました」


「僕も準備できてる」


カスミが答える。


「外周、異常なし」


パールも続いた。


海は小さく息を吸う。


「Delta。試作微細術式群を生成」


《アクセプト》


海の掌に、白い光が生まれた。


今度の光は、先ほどの治癒魔法とは違っていた。


一つの大きな輝きではない。


無数の小さな光点。


夜空を切り取ったような粒子が、掌の上で静かに渦を巻いている。


《微細術式群、12,000基生成》


粒子は細い光の流れとなり、海の膝へ近づいていく。


皮膚へ触れた瞬間、消えた。


いや。


消えたのではない。


内部へ入ったのだ。


フィリアの銀縁のレンズへ、無数の光点が映し出される。


小さな術式は、フィリアの神聖治癒術が揺れている場所へ集まっていく。


その光景をDeltaが別の形へ翻訳する。


筋肉の間。


細い血管の周囲。


傷ついた靱帯の表面。


命の巡りを示す淡い光と、構造を修復する白い光点。


二つの異なる治癒が、海の膝の中で重なり始めていた。


「海様。神聖光が届かなかった場所へ、術式が入っています」


「構造との照合は?」


《損傷部位との一致を確認》


フィリアは目を閉じ、祈りを深める。


「右側の巡りが、特に弱くなっています。先に、こちらをお願いします」


海の表示には、右側の靱帯損傷が強調された。


「Delta。治療順序を更新」


《アクセプト》


光点の流れが変わる。


カスミは黒銀のレンズに表示される数値を追っていた。


「密度、安定。速度も問題なし」


「外周への漏れはない」


パールが報告する。


海の膝の奥へ、かすかな熱が生まれた。


痛みではない。


細い糸で、内側から何かを縫い合わせているような感覚。


「動いてる……」


海が呟く。


フィリアの目に、驚きと喜びが浮かんだ。


彼女の神聖治癒術では、傷ついた命へ本来の巡りを呼びかけることはできる。


だが、激しく傷ついた場所では、祈りが届くまでに時間がかかる。


海の微細術式群は、その届かなかった場所へ入り込み、構造そのものへ手を伸ばしていた。


しかし。


フィリアの表情が、すぐに変わった。


「待ってください」


銀縁のレンズに、赤い線が走る。


一度は穏やかになった命の光が、右膝の一部で押し広げられ始めている。


「海様。光の巡りが乱れています」


カスミの表示にも警告が出た。


《局所密度、上昇》


《再構築処理、継続》


「停止」


カスミが即座に指を動かした。


だが、光点は完全には止まらない。


「停止命令が通らない」


「なぜ?」


「ミュートの魔力供給と、自動再構築が直結してる」


海の膝に、強い圧迫感が走った。


修復が進みすぎている。


傷ついた部位を治すのではなく、一度つなぎ終えた場所へ、さらに術式が集まり続けている。


《損傷構造を検出》


《再構築を継続》


「違う」


海が息を呑む。


「もう治った場所まで、傷として読み続けている」


微細術式群は、壊れた構造を見つけることができる。


だが、どこまで戻せば完成なのか分からない。


命の巡りが戻ったことも、祈りが届いたことも、Deltaには判断できない。


「治す基準がない」


海が気づいた。


「Delta。修復終了条件は?」


《設定されていません》


「正常構造の参照先は?」


《設定されていません》


「神聖治癒術による生命状態の判定は?」


《未定義》


海の顔から血の気が引いた。


「僕の設計ミスだ」


「反省は後」


カスミの声が鋭くなる。


「今は止める」


カスミが魔力供給を絞る。


だが、微細術式群は海の魔力と直結したまま、患部の中で増え続けている。


「フィリアさん」


海は膝の痛みに耐えながら呼びかけた。


「命の巡りが戻った場所を、示せますか?」


フィリアは一瞬だけ息を呑んだ。


それから、両手を海の膝へかざす。


「できます」


声に迷いはなかった。


「海様。私の祈りを、追ってください」


フィリアの神聖詠唱が、先ほどよりも強く響いた。


淡い水の膜が膝全体へ広がる。


その内側に、細く柔らかな光が生まれた。


光は人体の形を正確に描くものではなかった。


骨や筋肉の名前を示すものでもない。


海の足に宿る生命が、本来どのように巡り、どこへ戻ろうとしているのか。


その道筋だけを、淡い光として浮かび上がらせていた。


傷ついている場所では、光が細い。


すでに祈りが届いた場所では、光が穏やかに満ちている。


そして、過剰修復が始まった場所では、本来の流れから押し出された光が激しく揺れていた。


《未知波形の変化を検出》


「Delta。フィリアさんの光が穏やかになった領域を、修復完了候補として扱って」


《根拠情報が不足しています》


「今は仮定でいい」


《誤判定の危険があります》


「分かっています」


海は奥歯を噛んだ。


「だから、一人で決めない」


フィリアを見る。


「フィリアさん。終了位置を教えてください」


「はい」


フィリアは祈りを絶やさず、光の揺れを追った。


「そこは、もう命が応えています」


アークレンズ上で、一つの領域が淡い青へ変わる。


「その場所は止めてください。ですが、その奥はまだ光が届いておりません」


海の表示上で、損傷構造と生命の光が重なる。


骨格や靱帯を示す構造図。


フィリアの祈りが示す命の巡り。


二つの異なる地図から、初めて一つの治療目標が生まれた。


《暫定終了領域を設定》


「Delta。再構築目標を更新」


《アクセプト》


「カスミ。密度を下げてください」


「もうやってる」


カスミは指を滑らせ、微細術式群への魔力供給を細く絞る。


急激に増えていた光点が、数を減らしていく。


「速度、半分。フィリアが完了と判断した領域への再侵入を遮断」


「龍さん、外側は?」


パールのゴーグルに、治療範囲を示す円が揺れていた。


一部の光点が、膝の外側へ押し出されようとしている。


「左後方へ漏れる!」


「位置を教えてください」


「患部の外縁、下側だ。今だ!」


海が指を動かす。


漏れ出しかけた光点が、細い帯となって内部へ引き戻された。


「外周、閉じた!」


パールが叫ぶ。


三つの視界。


フィリアは、命が戻ろうとする道を見る。


カスミは、術式群の流れと負荷を見る。


パールは、治療範囲の全体を見る。


海とDeltaが、そのすべてを一つの処理へまとめ上げる。


神聖治癒術の淡い光が、命の巡りを導く。


白い微細術式群が、その光の届かない隙間へ入り込む。


切れかけた繊維を結び。


潰れた血管を開き。


歪んだ筋肉の走行を戻す。


それは、既存の治癒術のどれか一系統だけで成立するものではなかった。


フィリアの祈りだけでは、深く傷ついた構造へ届くまでに時間がかかる。


海の微細術式だけでは、命がどこへ戻ろうとしているのか判断できない。


異世界の祈りが、命の道を示し。


地球の知識と演算が、その道に沿って身体を編み直す。


神聖治癒術と微細術式治療。


異なる二つの治癒が、互いに欠けたものを補いながら、一人の身体の中で初めて重なっていた。


無数の小さな術式が、命の内側で一本ずつ糸を渡していく。


それは、治癒というよりも織物に近かった。


壊れた身体を、元の姿へ編み直している。


やがて、膝を包んでいた光が静かに収束した。


《微細術式群、活動停止》


《試作治療処理、完了》


一拍遅れて、Deltaの声が続く。


《未定義項目を記録》


《修復終了条件》


《正常構造参照》


《生命状態判定》


《独立停止処理》


《優先学習ログとして保存します》


海は、膝へ視線を落とした。


失敗は消えない。


けれど、失敗した場所は記録された。


次に同じ間違いをしないための形へ、少しずつ変わり始めていた。


処置室に沈黙が落ちた。


海は恐る恐る、右膝を曲げた。


鋭い痛みはない。


ゆっくりと伸ばす。


治療前まであった強い引っかかりも、ほとんど消えている。


治療台から立ち上がり、床へ足をつく。


体重を乗せる。


膝の奥へ、わずかな違和感が残っていた。


だが、歩くことはできる。


海は慎重に一歩進んだ。


もう一歩。


「……歩ける」


声に、喜びが滲んだ。


フィリアがすぐに膝へ手をかざす。


銀縁のレンズではなく、自らの神聖治癒術によって、命の巡りを確かめる。


「先ほどまで途切れていた光が、つながっています」


フィリアは海へ顔を向ける。


「ですが、まだ弱いままです。命の巡りが戻ったからといって、身体が元の強さを取り戻したわけではありません」


カスミも黒銀のレンズを確認する。


「構造上の断裂は減ってる。でも、負荷上限は低いまま」


「つまり?」


「歩ける。戦えない」


カスミは短く結論を告げた。


パールもゴーグルの表示を確認する。


「微細術式群の残留はない。外部への漏出もなし」


海は自分の膝を見た。


完治ではない。


魔法のように、一瞬で元通りになったわけでもない。


神聖治癒術だけで全てが戻ったわけでもない。


微細術式が、あらゆる傷を治せるようになったわけでもない。


それでも、歩くことすら難しかった身体が、自分の足で立てるところまで戻っている。


「試作としては、成功ですね」


「はい」


フィリアが柔らかく微笑む。


「ですが、これからも私の神聖治癒術を受けていただきます」


「分かりました」


「薬草と魔導布による処置も続けます」


「はい」


「安静にもしていただきます」


「努力します」


フィリアの笑顔が消えた。


「安静にしていただきます」


「はい」


今度は、すぐに答えた。


カスミが微細術式群の記録を閉じる。


「次は停止処理を独立させる」


「はい。それから、構造だけではなく、フィリアさんが見ていた命の巡りも記録できるようにしたいです」


「勝手に自分で試すなよ」


「三人がそろっている時にします」


カスミは少しだけ目を細めた。


「四人」


パールが訂正した。


「俺を忘れるな」


「はい。四人です」


海は三人を見た。


自分一人では、できなかった。


Deltaと演算するだけでも完成しなかった。


命の道を知る者。


力を制御する者。


全体を見る者。


そして、そのすべてを別の形へ翻訳する者。


すべてがそろって、初めて治療になった。


「成功です」


海は静かに言った。


フィリアが、海の右膝へ視線を落とす。


「海様の術式が、命を治したのですね」


海は首を振った。


「僕の術式だけでは、治療になりませんでした」


フィリアを見る。


「命が戻ろうとする道を示したのは、フィリアさんです」


次にカスミへ向く。


「暴走を抑えて、術式群を制御したのはカスミです」


最後に、ゴーグルをつけたパールを見る。


「外へ漏れた光を見つけたのは、龍さんです」


パールが腕を組んだ。


「当然だ。俺の目から逃れられるものなどない」


カスミが空中の記録へ文字を入力する。


「パール。治療補助機器」


「待て!」


パールがゴーグルをずらした。


「なぜ俺が機器に分類されている!」


「制御系と接続済み」


「俺は龍神だ!」


「装着型観測装置」


「それはゴーグルの方だろうが!」


フィリアが笑いを堪えながら口元へ手を添える。


「とてもお似合いです、龍神様」


パールは一瞬で機嫌を直した。


「そうだろう。これは俺のために作られた装備だからな」


「試作品」


カスミが言う。


「今、何と言った?」


「正式名称もない」


パールはゴーグルの縁へ手を添えた。


しばらく考え込み、重々しく口を開く。


「ならば、龍帝天眼」


カスミが即座に答える。


「却下」


「まだ全部言っていない!」


「長い」


「せめて最後まで聞け!」


海は思わず笑った。


大きな戦いに勝ったわけではない。


敵を倒したわけでもない。


完全な治癒術を作ったわけでもない。


それでも、一つの答えが生まれた。


自分に祈りが分からないなら、祈りを知る者に教えてもらえばいい。


命の本来の姿が見えないなら、その光を見つめる瞳を借りればいい。


一人で完成できないなら、誰かと一緒に作ればいい。


海がずっと避けてきたその答えは、想像していたよりも温かかった。


Deltaの記録領域には、初めての治療ログが残っている。


フィリアの祈り。


カスミの停止判断。


パールの警告。


そして、自分一人では命の正しさを決められなかったという事実。


それは、まだ小さな記録だった。


だが、いつかDeltaが今より多くを学び、今より遠くへ進むとしても。


この日の失敗と、三人の瞳だけは、消してはならないと海は思った。


その時。


処置室の扉が、二度叩かれた。


笑い声が止まる。


入ってきた魔導士団の伝令が、姿勢を正した。


「失礼いたします。シャルロット団長より、緊急通達です」


フィリアとカスミの表情が引き締まる。


パールもゴーグルを目元へ戻した。


「ヴァルディア王国の魔導技術視察団が、王都へ到着しました」


海の胸の奥が、わずかに冷える。


予定よりも早い。


「明日、魔導士団本部および中央魔導書庫の視察が行われます」


伝令は続けた。


「天照、Ω-Frame、アークレンズ、および本日確認された新規治療術式については、すべて秘匿対象とするよう命令が出ています」


海は治療台のそばに漂う、最後の白い光点を見た。


生まれたばかりの技術。


命を救うための、小さな術式群。


まだ不完全で。


一人では動かせず。


命がどこへ戻ろうとしているのかさえ、自分では判断できない。


それでも、それを見たいと望む者が、必ずしも救うために見るとは限らない。


パールが琥珀色のレンズ越しに、伝令を見つめる。


「気に入らんな」


「何がですか、龍さん」


「見せてはならんものほど、見たがるやつが寄ってくる」


誰も否定しなかった。


窓の外。


夕暮れに染まった王都の空を、黒い鳥の影が横切る。


三つの瞳が、海の命を支えるために開かれたその日。


彼らを見定めようとする別の視線もまた、王都の門をくぐっていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


いいねやリアクションは、

海が勝手にログへ保存しておきます。

凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。


続きが気になりましたら、

下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。


いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。

たぶん爆発はしません。

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