EP52:傘の外側、未熟な身体 [LOG_AMATERAS]
魔導士団本部、第3訓練区。
普段は詠唱と魔力制御の声が飛び交うその場所に、今日は乾いた打撃音が響いていた。
訓練用の剣がぶつかり、革製の胴当てが軋む。
床一面には、衝撃を吸収するための分厚い魔導石板が敷かれていた。
本日の訓練内容は、近接戦闘。
魔法が使えない状況。
詠唱を始めるより早く、敵に懐へ踏み込まれた状況。
あるいは、魔導具そのものを失った状況。
どれほど優秀な魔導士であっても、自分の身体だけで数秒を生き延びなければならない瞬間は存在する。
それは通常の訓練生にとって、基礎技能の確認にすぎない。
だが、今日の訓練には、もう一つの目的があった。
訓練区画の外側。
黒い布に包まれた長傘が、専用の架台へ静かに横たえられている。
天照。
杖でも、盾でも、銃でもない。
中央魔導書庫の深層から、接続していないはずの声を引き出した、分類不能の複合魔導具。
王城での審議を経て、海と天照は保護対象であると同時に、管理対象となった。
天照の力が危険だから、というだけではない。
どれほど強力な防御機構を持っていても、それを扱う海自身が不意を突かれれば意味がない。
天照を開くより先に拘束されたら。
腕を押さえられたら。
Ω-Frameへ指示を送る暇すら与えられなかったら。
あるいは、天照そのものを海から引き離されたら。
国家級の魔導具を持つ者だからこそ、その傘の外側にいる本人の弱点を確認しなければならない。
それが、王城側の判断だった。
「もう一度確認する」
訓練教官が、海と天照を交互に見た。
「本日の訓練中、天照の使用は認めない」
海は小さく頷いた。
「はい」
「攻撃魔法、身体強化術、自動防御も同様だ。Ω-Frameは記録と観測に限定する」
「分かりました」
答えながらも、海の視線は架台へ向かっていた。
すぐそこにある。
手を伸ばせば届く距離に。
けれど、今日は触れてはいけない。
天照は、海にとって武器であり、盾であり、解析端末でもある。
それを手放して訓練区画へ立つと、両手が妙に軽かった。
軽いはずなのに、どこへ置けばいいのか分からない。
「不安ですか?」
横に立っていたフィリアが、そっと尋ねた。
彼女の顔には、銀縁のアークレンズが掛けられている。
淡い青の光が、レンズの奥で小さく脈打っていた。
海の精神負荷、魔力負荷、危険反応、治癒介入の必要性。
Deltaによって選別された情報が、フィリアへ共有されている。
「少しだけ」
海は正直に答えた。
「天照が使えないことより、何をすれば正解なのか分からない方が怖いです」
「正解が分からなくても、海様はお一人ではありません」
フィリアは静かに微笑んだ。
「私にも、海様の状態は見えています」
少し離れた場所で、カスミが黒銀のアークレンズを指で押し上げた。
こちらはΩ-Frame、Ω-Code、周囲の構造負荷、魔力流路などを確認するための監視仕様だ。
「魔力と機械の負荷は見える」
カスミは海の足元へ視線を落とした。
「でも、立ち方までは直してくれない」
「立ち方?」
「右足が前に出すぎ。踵が浮いてる。肩が上がってる」
海は慌てて足を戻した。
今度は両足が一直線に並んだ。
カスミが目を細める。
「悪化した」
「難しいな……」
「まだ相手もいないのに、もう負けてる」
「始まる前から心を折らないでください」
訓練区画の反対側では、団員たちが次の組み合わせを待っていた。
その列から、エドガー・フォン・シュタインベルクが一歩進み出る。
訓練用の胴当てを身につけ、革手袋を締め直していた。
「教官」
「どうした」
「次の対戦相手を、私に指名させていただきたい」
教官は記録板から顔を上げた。
「希望があるのか」
エドガーは、フィリアへ視線を向ける。
「フィリア・アークライトを」
その場の空気が、わずかに変わった。
フィリアが目を見開く。
海も、思わずエドガーを見た。
エドガーは穏やかに微笑んでいた。
「彼女は優秀な治癒術師です。だからこそ、前衛が崩れた際の退避能力を身につける必要がある」
言葉だけを聞けば、間違ってはいない。
治癒術師は戦場で狙われる。
護衛が一瞬崩れただけで、部隊全体が瓦解することもある。
近接戦闘で勝つ必要はなくても、逃げる技術は必要だった。
だが、エドガーは訓練のためにフィリアを選んだのではない。
海の目の前で、彼女を徹底的に打ち負かすためだった。
逃げ道を奪う。
抵抗を潰す。
立ち上がるたびに倒す。
誰が強者で、誰が弱者なのか。
誰に従えば安全で、誰のそばにいれば傷つくのか。
言葉ではなく、痛みと恐怖によって理解させる。
海には守れない。
自分なら守れる。
家柄も、力も、地位も、自分の方が上だ。
フィリアの未来も。
アークライト家の名も。
彼女の忠誠も、感情も、その隣に立つ権利も。
強い自分が望むのなら、いずれすべて自分のものになる。
自分を拒むのは、彼女がまだ現実を知らないからだ。
ならば今日、分からせればいい。
エドガーは本気でそう考えていた。
「アークライト」
教官がフィリアを見る。
「指名を受けるか」
フィリアは一度だけ海を見た。
海が心配そうにこちらを見ている。
ここで断れば、海は自分のせいだと思うだろう。
フィリアは静かに頷いた。
「お受けいたします」
「よし。双方、前へ」
フィリアが訓練区画へ入る。
エドガーも、その正面へ立った。
「勝利条件は、本人による敗北宣言、失神などの明確な戦闘不能、または生命に危険が及ぶと教官が判断した場合の強制停止だ」
教官が二人を見る。
「これは訓練だ。重大な負傷につながる攻撃は認めない」
「承知しています」
エドガーは礼儀正しく答えた。
殺すつもりはない。
壊すつもりもない。
ただ、フィリアの中から海への信頼が消えるまで、何度でも倒すつもりだった。
「始め!」
教官の声が響く。
フィリアはすぐに退避線へ向かおうとした。
だが、エドガーは最初の一歩で進路を塞いだ。
フィリアが右へ動けば、先に右へ。
左へ切り返せば、半歩早く左へ。
攻撃するより先に、逃げ道だけを奪っていく。
フィリアが息を吸った。
簡易防御術を唱えるための呼吸。
その瞬間、エドガーの掌が肩へ触れた。
ドンッ。
鈍い衝撃。
詠唱が途切れ、フィリアの身体が横へ流れた。
倒れはしなかった。
だが、体勢を戻す前に、エドガーが懐へ入る。
訓練用の拳が、胴当てを打った。
「っ……!」
フィリアの身体が折れる。
「フィリアさん……」
海の声が漏れた。
銀縁のアークレンズに、海の精神負荷上昇を示す光が走る。
フィリアには見えていた。
海の呼吸が浅くなっている。
心拍が速くなっている。
それでも、フィリアは海へ顔を向けなかった。
見れば、海が自分を責める。
そう分かっていた。
「遅い」
エドガーが言う。
フィリアが立ち直ろうとする。
その瞬間だけを狙い、再び足元を崩す。
膝をつきかけたフィリアが、どうにか踏みとどまる。
エドガーは追撃を急がなかった。
逃げられないことを理解させるように、ゆっくりと距離を詰める。
「よく見ろ、フィリア」
その声は、海にも聞こえていた。
「お前が頼ろうとしている男は、この区画へ入っても何もできない」
フィリアの目が鋭くなる。
「海様を、侮辱しないでくださいませ」
「魔導具がなければ、自分の身すら守れない男だ」
エドガーがフィリアの詠唱を、肩への一撃で潰す。
「そんな者がお前を守れると思うのか」
「海様は、あなたとは違います」
「何が違う」
「誰かを、自分の所有物だとは考えません」
エドガーの眉が動いた。
「所有物?」
声から笑みが消える。
「俺は、お前に与えてやろうとしている」
フィリアへ一歩近づく。
「名誉も、地位も、将来もだ」
「求めておりません」
「今は、そう思っているだけだ」
エドガーの拳が胴当てへ入る。
フィリアの身体が大きく揺れた。
「奴のような男のそばにいれば、お前は何度でも傷つく」
「それでも、私は」
「黙れ」
低い声だった。
「お前はいずれ、俺を選ぶ」
エドガーの目には、確信があった。
「俺が選んだのだから、お前は俺の隣に立つ」
フィリアの顔から血の気が引く。
「お前の力も、家も、未来も、すべて俺が最も正しく使える」
「私は、物ではありません」
「違う」
エドガーは静かに言った。
「お前は、まだ自分の価値を理解していないだけだ」
フィリアは退避線へ向けて踏み出した。
だが、足がもつれた。
エドガーの掌が肩へ触れる。
押されたフィリアは、ついに片膝をついた。
「奴を捨てろ」
エドガーが見下ろす。
「俺を選べ」
フィリアの目に、涙が滲んだ。
痛みだけではない。
悔しかった。
海を侮辱されても、立ち上がれない。
自分の人生を、自分の意思を、目の前の男が当然のように奪おうとしている。
そして何より、海が自分を守れなかったと責めてしまうことが怖かった。
「……お断りします」
フィリアは震える声で答えた。
「私は、海様のおそばにいます」
涙が一滴。
魔導石板の上へ落ちた。
その瞬間。
カチリ。
小さな作動音が、訓練区画の外側から響いた。
海の腰に巻かれたギアが、ひとりでに噛み合っていた。
赤。
青。
白。
三色の光が、細い線となって中央へ集まる。
海が、ゆっくりと顔を上げた。
瞳から、いつもの迷いが消えていた。
「宇宙から来たぁっ!」
突然の大声が、第3訓練区全体へ響き渡った。
教官が振り返る。
訓練生たちが固まる。
フィリアも、エドガーも、一瞬だけ動きを止めた。
カスミだけが深く息を吐く。
「はぁ……また、病気が発症した」
海は訓練区画へ入った。
歩き方が違う。
背筋が伸び、肩が開いている。
普段なら視線を逸らすはずのエドガーを、真正面から見ていた。
胸を一度。
二度。
拳で強く叩く。
そして、その拳をエドガーへ突き出した。
「エドガー」
声は低い。
迷いも、恐怖もなかった。
「俺と、ケンカしようぜっ!」
一瞬。
エドガーが言葉を失った。
一人称が違う。
声も、目つきも、立ち方も。
先ほどまでの臆病な異世界人とは別人のようだった。
フィリアさえ、息を呑んでいる。
だが。
エドガーは海の足元を見た。
重心が高い。
踵が浮いている。
拳を差し出しているのに、反対側の肩が開きすぎている。
気迫はある。
だが、構えは完全な素人だ。
エドガーの口元へ、ゆっくりと笑みが戻った。
「いいだろう」
フィリアから離れ、海の前へ立つ。
「お前を叩き伏せれば、フィリアもようやく現実を理解する」
フィリアの表情が強張る。
エドガーは海だけを見て続けた。
「お前が彼女の隣に立つ資格などないと、その身体へ教えてやる」
教官が、膝をついたフィリアへ近づく。
「フィリア・アークライト。戦闘続行は可能か」
フィリアは立とうとした。
だが、足に力が入らない。
教官が首を振る。
「ここまでだ。フィリア・アークライト、戦闘続行不能」
エドガーの勝利が告げられる。
それでも、誰もエドガーへ視線を向けなかった。
全員が、海を見ていた。
「音無海」
教官が海の前へ立つ。
「これは正式な模擬戦となる。決着条件は理解しているか」
海は答えなかった。
拳を構えたまま、エドガーだけを見ている。
カスミのアークレンズに、Ω-Frameの起動状態が表示される。
演算は安定。
魔力負荷も高くない。
しかし、海本人の身体動作については、表示される情報があまりにも少なかった。
「ダメだ、完全に入ってる」
カスミが呟いた。
「始め!」
エドガーが踏み込んだ。
Ω-Frameが起動する。
海の視界へ、無数の予測線が走った。
肩の角度。
骨盤の回転。
踏み込む足。
拳が到達する位置。
次の動きは見えていた。
右へ半歩。
それだけで攻撃は外れる。
答えは出ている。
だが、足が動かなかった。
「っ!」
海が動き始めた時には、エドガーの掌が胸元へ届いていた。
衝撃。
呼吸が途切れる。
身体が後ろへ流れる。
それでも倒れまいと踏ん張った。
エドガーの姿勢が変わる。
次は足払い。
見えている。
分かっている。
それでも、腰が反応するより先に軸足を刈られた。
海の視界が反転した。
背中から床へ落ちる。
魔導石板が淡く光り、衝撃を吸収する。
「まだだ!」
海は立とうとした。
エドガーが肩を押さえ、身体を床へ封じる。
振りほどこうとするが、どこへ力を入れればよいのか分からない。
二呼吸。
それだけで、海は完全に押さえ込まれていた。
「終わりだ」
教官が告げる。
「音無海、戦闘続行不能。勝者、エドガー・フォン・シュタインベルク」
静寂。
エドガーが海の肩から手を離す。
「何が、ケンカしようぜ、だ」
倒れた海を見下ろす。
「貴様は、ただの素人だ」
海の瞳から、ゆっくりと光が消えた。
「……え?」
海は瞬きをした。
どうして床へ倒れているのか分からない。
胸が痛い。
背中も痛い。
フィリアが駆け寄ってくる。
「海様!」
「フィリアさん……?」
海は周囲を見回した。
「僕、どうしてここに」
カスミも近づいてくる。
「宇宙から来て、三手で沈んだ」
「宇宙?」
海の顔が青ざめる。
「僕、何をしたんですか?」
「胸を二回叩いた」
「やめてください」
「俺とケンカしようぜ、って」
「本当にやめてください!」
フィリアのアークレンズには、海の精神負荷が急上昇していることが表示されていた。
肉体的な負荷より、別の意味で危険な数値だった。
「海様。とても勇ましくていらっしゃいました」
「フィリアさんまで追撃しないでください……」
訓練区画の端で、エドガーが笑った。
その笑いには、安堵が混じっていた。
天照がなければ、海は弱い。
近接戦闘なら、自分が上だ。
ようやく見つけた。
この異世界人より、自分が確実に優れている場所を。
「俺は、五人の達人から技を授かった」
エドガーは周囲にも聞こえる声で言った。
「剣術、拳法、足技、投げ、近接戦術。すべて一流だ」
海はフィリアに支えられながら、エドガーを見た。
「昨日今日、魔導具を手にしただけの者が立てる場所ではない」
海は反論しなかった。
ただ、Ω-Frameの端で点滅する記録表示へ視線を向けた。
戦闘ログ。
三手。
海が床へ落ちるまでに、エドガーが使った三つの動き。
そこには、まだ名前のついていない何かが残っていた。
その夜。
海の自室には、何度も同じ衝撃音が響いていた。
ドンッ。
海が床へ転がる。
「痛っ……」
立ち上がる。
足の位置を戻す。
もう一度。
ドンッ。
今度は膝をついた。
《動作再現率、23パーセント》
Deltaの声が、冷静に告げる。
「低いな……」
《前回比、3パーセント上昇》
「褒められている気がしない」
《事実を報告しています》
部屋の中央には、昼間の模擬戦映像が浮かんでいた。
Ω-Frameの記録。
フィリアのアークレンズが取得した海の精神・魔力負荷。
カスミのアークレンズが取得した演算系統と機器負荷。
三つのログが、時間軸を揃えて並べられている。
だが、足りないものがあった。
海の膝に、どれだけ負荷がかかったのか。
恐怖を感じた瞬間、どの筋肉が硬直したのか。
判断から動作まで、身体側で何秒遅れたのか。
アークレンズは危険を知らせることはできる。
けれど、現在の設定では、海の身体がなぜ動かなかったのかまでは分からない。
「僕の身体については、ログが粗い」
《現在のアークレンズは、フィリア様用の支援・治癒判断モード、カスミ様用の構造・負荷監視モードとして最適化されています》
「役割はそのままでいい」
海は膝を擦りながら言った。
「共有する項目を増やせばいいんだ」
《戦闘負荷同期機能の追加を提案します》
「あとで二人と調整しよう」
海は映像へ視線を戻した。
エドガーの踏み込み。
掌。
足払い。
押さえ込み。
一つひとつを切り分ければ、無駄がない。
長い時間をかけて磨かれた動きだった。
「僕には、真似できない」
《同意します》
「少しくらい間を置いて否定してくれてもいいんだけど」
《虚偽による精神支援は推奨されません》
海はため息をついた。
映像を巻き戻す。
一度。
二度。
十度。
エドガーが掌打から足払いへ移る瞬間。
正面から圧力をかける姿勢から、足技へ重心を移す。
右足の幅が変わる。
呼吸が止まる。
視線が、海の肩から腰へ落ちる。
ほんの一瞬。
技と技の間に、小さな継ぎ目があった。
「ここ」
映像を止める。
《時間幅、0.18秒》
「技そのものには勝てない」
海は映像へ指を伸ばした。
「でも、技と技の間なら、僕にも見える」
映像の中のエドガーが、何度も同じ動きを繰り返す。
相手が後ろへ下がる。
逃げ道を塞ぐ。
上半身へ意識を向けさせる。
足元を刈る。
その選択は合理的だった。
だからこそ、同じ条件を作れば、同じ答えを選ぶ可能性が高い。
「僕が強くなる必要はない」
《訂正。長期的な身体訓練を推奨します》
「今夜の話です」
《アクセプト》
「エドガー君が、同じ動きを選ぶ入口を作る」
Deltaが演算を開始する。
複数の経路が表示され、次々と赤い警告で消えていく。
《現在の筋力では実行不能》
《関節可動域不足》
《反応遅延、0.24秒》
《連続実行時、下肢損傷リスク高》
海は表示を一つずつ削った。
すべてを避ける必要はない。
すべてに勝つ必要もない。
一度だけ。
最後の一動作だけを間に合わせる。
相手の勢いを利用する。
軸をずらす。
最小限の力を、意識を断つ一点へ通す。
《成功可能回数、1回》
「十分です」
《推奨しません》
「でも、必要なんだ」
《身体負荷を自己評価へ含めてください》
海の指が止まった。
道具が強いのと、本人が壊れないのは別。
カスミの言葉が蘇る。
「……分かってる」
海は答えた。
だが、その声は小さかった。
翌朝。
第3訓練区に、再び海とエドガーが立っていた。
「再戦?」
エドガーは笑った。
「昨日の敗北だけでは、まだ足りなかったのか」
「確認したいことがあります」
海の一人称は「僕」に戻っている。
声も、いつもの海だった。
足は微かに震えていた。
昨日受けた痛みも、まだ胸に残っている。
それでも、エドガーから視線を逸らさなかった。
「天照は使いません。魔法も、身体強化もなしでお願いします」
「当然だ」
エドガーが訓練用の手袋を締め直す。
「今度こそ、自分の立場を理解させてやる」
フィリアとカスミも、訓練区画の外に立っていた。
二人のアークレンズには、海の状態が表示されている。
心拍上昇。
精神負荷、中等度。
魔力負荷、軽度。
Ω-Frame、安定。
だが、膝や腰の状態はまだ見えない。
フィリアは不安げに海を見た。
カスミは無言でレンズの表示を確認する。
「決着条件は昨日と同じだ」
教官が二人の間に立つ。
「本人による敗北宣言、明確な戦闘不能、または生命に危険が及ぶと判断した場合の強制停止」
海とエドガーが頷く。
「始め!」
エドガーが前へ出た。
速い。
昨日と同じ速度。
海には、その速さへ対抗する身体能力はない。
最初の掌打。
完全には避けられなかった。
肩へかすり、身体が揺れる。
二手目。
海は後ろへ下がった。
足がもつれそうになる。
周囲から、息を呑む音が聞こえた。
昨日と同じだ。
誰もがそう思った。
エドガーも、そう判断した。
海は弱い。
追い詰めれば下がる。
上半身へ圧力をかければ、足元への意識が消える。
エドガーの視線が、海の肩から腰へ落ちた。
呼吸が止まる。
右足の幅が変わる。
来る。
海は恐怖で固まりそうになる身体へ、先に命令を出した。
半歩。
エドガーの軸足の外側へ入る。
遅い。
それでも、予測していた分だけ間に合った。
海はエドガーの腕を受けなかった。
肩へ手を添え、踏み込みの方向をわずかにずらす。
エドガーの身体が前へ流れた。
予想外の方向へ重心が抜ける。
「なっ……」
海は腰を捻った。
右膝に、鋭い痛みが走る。
止まりそうになる。
それでも、エドガーの前進力を殺さず、身体を回す。
エドガーの顎が上がった。
海が、息を吐く。
「技は、真似できない」
エドガーの瞳が揺れる。
「だから僕は、技と技の間を見た」
最後の一動作。
訓練用手袋に包まれた海の掌が、顎先へ短く触れた。
強く殴ったのではない。
崩れた身体。
前へ進んでいた頭部。
そこへ、計算された角度で力を加えた。
エドガーの瞳から焦点が消えた。
一歩。
二歩。
身体が揺れる。
そして、そのまま床へ倒れた。
教官が即座に駆け寄る。
「エドガー!」
呼びかけへの反応はない。
呼吸はある。
防具の保護術式も正常。
だが、意識を失っている。
教官が腕を上げた。
「エドガー・フォン・シュタインベルク、戦闘続行不能!」
訓練区が静まり返る。
「勝者、音無海!」
遅れて、ざわめきが広がった。
海は倒れたエドガーを見下ろした。
勝った。
そう理解した直後。
右膝から力が抜けた。
「海様!」
フィリアが駆け寄る。
海の身体が傾き、フィリアの腕へ倒れ込んだ。
呼吸が浅い。
脚が震えている。
腰にも、焼けるような痛みが走っていた。
フィリアのアークレンズに警告が表示される。
《危険反応:上昇》
《治癒介入:推奨》
だが、どこがどれほど傷んでいるのかまでは表示されない。
「海様、右脚ですか。それとも腰でしょうか」
「両方……かもしれません」
「かもしれない、では困ります!」
カスミもしゃがみ込み、海の膝へ手を触れる。
「今の、もう一回できるのか?」
「……無理です」
「正直でいい」
「褒めてます?」
「珍しいから記録してる」
海は苦笑しようとした。
だが、呼吸が続かなかった。
カスミは倒れたエドガーと、フィリアに支えられた海を順に見る。
「勝ったのは攻略式」
海が顔を上げる。
「身体は、次の一回を持ってない」
何も言い返せなかった。
その通りだった。
しばらくして、エドガーが意識を取り戻した。
最初に見たのは、自分を囲む教官たち。
次に、フィリアに支えられている海。
そして、自分が敗北したという事実。
「……俺が」
声が震える。
「俺が、負けた?」
誰も答えなかった。
エドガーは拳を床へ叩きつける。
「今のは武術ではない!」
起き上がり、海を睨む。
「俺の動きを盗んだだけだ! 罠へ誘い込み、不意を突いただけだ!」
「そうだな」
カスミが答えた。
エドガーが振り返る。
カスミは白衣のポケットへ手を入れたまま、面倒そうに立っていた。
「ミュートは、お前専用の答えを一個作っただけ」
エドガーの呼吸が少し落ち着く。
カスミが、自分の主張を認めた。
そう思った。
「やはり、そうだろう」
「でも」
カスミが続ける。
「お前、勘違いしてる」
「何だと」
「僕は、そんなものを作らなくても勝てる」
訓練区の空気が止まった。
エドガーの顔が赤くなる。
「貴様まで、俺を愚弄するのか? 今日の俺は甘くはないぞ」
「してない。事実」
「ならば、証明してみろ!」
カスミは目を閉じた。
深いため息を吐く。
「面倒」
「逃げるのか!」
その言葉に、カスミの目が開いた。
エドガーの立ち方。
肩の位置。
呼吸。
右足へ集まっている力。
一度見れば十分だった。
「8秒だな」
「……何?」
「倒すまで」
「バカも休み休み言え! この俺様が、貴様如きにやられるものかっ!」
エドガーはすっかり頭に血が上り、冷静さを欠いていた。
訓練区の端で、赤い小型支援機構Kの透明キャノピーが閉じた。
中では、パールが腕を組んでいる。
「計ってやる」
カスミが横目で見る。
「頼んでない」
「俺が見届けると言っている」
「邪魔しないで」
「誰に向かって言っている。俺は坂城龍壱だぞ」
「パール」
「今はそれどころじゃねぇ」
「都合がいい」
教官が頭を抱えながらも、二人の間へ入った。
「双方、模擬戦の規則に従え。重大な負傷につながる攻撃は禁止する」
「分かってる」
カスミは白衣の裾を軽く払った。
エドガーが構える。
先ほどの敗北で、呼吸も足取りも完全には戻っていない。
それでも、怒りだけで身体を支えていた。
「始め!」
エドガーが半歩下がった。
カスミは足技を使う。
ならば、蹴りの間合いを外せばいい。
そう判断した瞬間。
カスミが床を蹴った。
空気が破裂したような音が鳴る。
一歩。
ただの一歩で、二人の間にあった距離が消えた。
「なっ……!」
エドガーの目の前に、カスミがいる。
蹴りが届く距離ではない。
胸と胸が触れそうなほど近い。
近すぎる。
ここからでは、長い脚を振ることなどできない。
そう思った瞬間。
カスミの身体が沈んだ。
次いで、石板を踏み切る。
ドンッ!
床が鳴った。
白衣の裾が大きく翻る。
カスミの身体が、エドガーの視線を追い越して空中高く舞い上がった。
エドガーが反射的に両腕を上げ、頭部を守る。
カスミの脚が、真上へ伸びる。
白い靴底が、一瞬だけ天井を向いた。
次の瞬間。
踵が、垂直に落ちた。
エドガーの頭部ではない。
顔面へ触れる寸前で、軌道がずれる。
黒い影が、エドガーの眼前を通過する。
その踵が、足元の魔導石板へ叩き込まれた。
轟音。
空気が、下から殴り上げられた。
最初に爆ぜたのは、カスミの踵が触れた石板だった。
中心が陥没した次の瞬間、黒い亀裂が稲妻のように四方へ走る。
一枚。
二枚。
三枚。
隣接する石板が次々と跳ね上がり、訓練区中央の床が円形にめくれ上がった。
石材の塊が宙へ舞う。
衝撃波が床を這い、周囲の石板を下から突き上げる。
連続する破砕音が、雷鳴のように訓練区を駆け抜けた。
白い粉塵が巨大な柱となって噴き上がり、天井近くまで到達する。
壁面を覆う保護術式が一斉に明滅した。
吊り下げられていた訓練用の剣が震え、架台の鎖が耳障りな金属音を響かせる。
離れて見守っていた団員たちの足元にも、地面が波打つような衝撃が届いた。
何人かが体勢を崩し、慌てて隣の者へ掴まる。
それでも、破壊は無秩序に広がってはいなかった。
粉砕されたのは、エドガーを中心とした一定範囲だけ。
円の外側にある石板には、亀裂一本入っていない。
力が漏れたのではない。
逃げ場のない円へ圧縮され、床の下へ叩き込まれたのだ。
土煙の中。
エドガーの身体が、大きく後ろへのけぞる。
目の前。
ほんの一瞬前まで、自分の頭があった位置。
そこへ落ちていれば、どうなっていたか。
砕け散った床が、答えを見せつけていた。
理解した瞬間、身体が恐怖に引かれた。
視線が足元へ落ちる。
防御が開く。
カスミはすでに着地していた。
舞い上がる石片の隙間を縫うように、片足が音もなく床へ触れる。
軸足が回った。
腰が続く。
肩が遅れて流れ、白衣が円を描く。
後ろ回し蹴り。
一度目の踵が、訓練区の床を砕いたのなら。
二度目の踵は、エドガーの意識だけを正確に刈り取った。
訓練用防具に守られた側頭部へ、乾いた衝撃音が響く。
エドガーの身体が宙へ浮いた。
横へ半回転し、そのまま床へ叩きつけられる。
再び粉塵が舞う。
静寂。
誰も、すぐには息を吐けなかった。
Kの中で、計測音が鳴った。
《模擬戦終了》
《経過時間、7秒》
カスミは倒れたエドガーを見下ろす。
「1秒余った」
教官が、ようやく我に返ったようにエドガーへ駆け寄る。
再び意識はない。
呼吸と保護術式は正常。
「戦闘続行不能!」
どこか疲れた声で宣言した。
「勝者、カスミ!」
海はフィリアに支えられたまま、カスミを見ていた。
自分とは違う。
Ω-Frameも、予測線も、攻略式もない。
考えていないわけではない。
見るべきものを、考えるより前に身体が知っている。
距離。
呼吸。
重心。
恐怖が生まれる瞬間。
積み重ねた時間が、そのまま一つの動きになっている。
「……すごい」
海が呟いた。
カスミが振り返る。
「勝手に盗むなよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
「構造だけでも」
「先に普通に歩けるようになれ」
海は自分の膝を見る。
フィリアの治癒の光が、震える脚を包んでいた。
「海様」
フィリアの声は優しかった。
けれど、強かった。
「アークレンズには、海様が危険な状態にあることは表示されました」
「はい」
「ですが、右脚と腰のどちらを先に治癒すべきか、すぐには判断できませんでした」
海は銀縁のアークレンズへ視線を向けた。
支援・治癒判断モード。
精神負荷、魔力負荷、危険反応、治癒タイミング。
その役割は、すでに決まっている。
問題は、今回のような身体動作による損傷を、共有項目へ十分に組み込んでいなかったことだった。
カスミも黒銀のレンズを軽く叩いた。
「僕の方も同じ」
海が顔を上げる。
カスミは、レンズに浮かぶ表示を指先で払った。
「Ω-Frameが正常なのは分かった。演算も、魔力流路も、機械の負荷も問題なし」
そこで、フィリアに支えられている海の右脚へ視線を落とす。
「でも、ミュートの身体までは見えてない」
「範囲外、ということですか?」
「そう」
カスミは短く答えた。
「構造・負荷監視モードは正常。役割も変えなくていい」
「では、見る範囲を増やす」
海が続けると、カスミは一度だけ頷いた。
「関節負荷。筋肉の硬直。呼吸の停止。反応遅延。演算結果と実際の動作のずれ」
フィリアが海の腕を支える力を少し強めた。
「私の方には、治癒箇所の優先順位が必要です」
海は二人のレンズを見た。
すでに存在している支援の目。
海が見ているものを、必要な形へ圧縮し、二人へ届けるための装置。
不足していたのは、道具でも役割でもない。
共有する情報の設計だった。
「既存の役割は変えません」
海が言った。
「フィリアさんの支援・治癒判断モードには、戦闘時の身体負荷と治癒優先順位を追加します」
フィリアが頷く。
「カスミの構造・負荷監視モードには、Ω-Frameの演算と僕の実際の動作のずれを追加する」
「戦闘負荷同期」
カスミが短く言った。
「はい。アークレンズを再調整します」
「それなら、壊れる前に止められる」
「動く前は止めないでください」
「壊れる前」
「それならお願いします」
フィリアは真剣な表情のまま、海を見つめた。
「海様。今度は、必ず私たちにも止めさせてくださいませ」
海は少しだけ目を伏せる。
自分の身体を、自分一人のものとして扱わない。
それは、天照を作ることよりも難しい課題に思えた。
「……努力します」
「信用できない」
カスミが言う。
「では、信じてもらえる仕様にします」
その答えに、カスミはほんの少しだけ目を細めた。
足元で、小さな駆動音がした。
Kが歩いてくる。
透明キャノピーの中で、パールが胸を張っていた。
「まあ、悪くない動きだった」
カスミが見下ろす。
「誰の話?」
「お前だ、カスミ」
「上から目線」
「俺が見込んだだけのことはある」
「見込まれてない」
フィリアが微笑む。
「龍神様の計測も、お見事でした」
「お嬢ちゃんは見る目がある」
カスミがキャノピーを指で軽く叩いた。
「ありがとう、パール」
パールは少しだけ黙った。
それから、低い声で答えた。
「……返事はするが、認めたわけじゃねぇ」
カスミは呆れたように目を細めた。
けれど、その声にはほんの少しだけ笑いが混じっていた。
その向こうでは、二度目の失神から目覚めていないエドガーを、教官たちが静かに運び出している。
海はフィリアに支えられながら、その姿を見送った。
一度目は、何もできずに負けた。
二度目は、エドガー一人だけに通じる答えを作って勝った。
だが、それは強くなったということではない。
傘の外側にいる自分は、まだ未熟だった。
見えても、動けない。
分かっても、耐えられない。
それでも。
弱さを隠すのではなく、誰かと共有することはできる。
海は銀と黒銀、二つのレンズを見た。
次に進むための答えは、もう一人で見るものではなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
続きが気になりましたら、
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たぶん爆発はしません。




