EP51:未接続領域、名を知るもの [LOG_AMATERAS]
中央魔導書庫との限定接続試験は、その場で中止された。
誰も、すぐには声を出せなかった。
天照は閉じている。
長傘の輪郭は静かで、先ほどまで試験場を圧していた光も、音も、いまは沈黙していた。
第4階層には接続していない。
第5階層など、当然、触れてすらいない。
それなのに。
何かが、海の名を呼んだ。
《ようこそ、音無海様》
《お待ちしておりました》
その言葉だけが、書庫の冷たい空気の中に残っている気がした。
海は、自分の手を見下ろしていた。
指先が、わずかに震えている。
恐怖のせいか。
それとも、自分が何かを起こしてしまったという感覚のせいか。
判別できなかった。
「接続を完全遮断。記録系統を三重に封印。天照には、いまこの場で追加照会を行わせないで」
シャルロットの声が、沈黙を切った。
震えてはいない。
けれど、その声から普段の余裕は消えていた。
魔導騎士団の責任者としての声だった。
「海。あなたは、動かないで。責めているわけではないわ。ただ、いまは何も触らないで」
「……はい」
海は小さく頷いた。
頷くことしかできなかった。
フィリアが一歩近づこうとして、途中で止まる。
その足音すら、書庫の床に吸い込まれるように小さかった。
「海様、お身体は」
「大丈夫です。たぶん」
「たぶん、で済ませてよい状況ではありません」
フィリアの声音に、普段より強い緊張が滲んでいた。
海は苦笑しようとして、失敗した。
口元だけが動いて、笑みにはならなかった。
「すみません。僕にも、何が起きたのか」
「謝る場面じゃない」
短く割り込んだのはカスミだった。
彼女は天照ではなく、海を見ていた。
その視線は冷たいわけではない。
けれど、甘くもなかった。
「ミュート。いま、何を考えてる」
「ログを見直したいです。どの時点で応答が混じったのか、切断処理が間に合っていたのか、それと」
「違う」
カスミは即答した。
「そこじゃない」
海は言葉を止めた。
カスミは天照の柄に視線を落とし、それから海の顔を見る。
「傘が危ないんじゃない」
「え?」
「危ないのは、ミュートが自分を勘定に入れてないこと」
その言葉は、剣ではなく、工具のようだった。
飾り気もなく、必要な箇所だけを叩く。
「道具が強いのと、本人が壊れないのは別」
海は何か言いかけた。
けれど、言い返せなかった。
天照を作ったとき、海はずっと「誰かに安全に知識を届けること」を考えていた。
フィリアが扱える形に。
カスミが理解できる形に。
シャルロットが判断できる形に。
でも、自分がどれだけ深い場所を覗き込むことになるかは、いつも後回しだった。
怖い。
怖いのに、見なければならないと思ってしまう。
その癖を、カスミは見抜いていた。
「……でも、見ないと分からないこともあります」
「知ってる」
「なら」
「だから危ないって言ってる」
それ以上、カスミは言わなかった。
フィリアが海のそばに立つ。
触れたいのに、触れていいのか分からない。
その迷いが、指先に出ていた。
「海様。お願いです。ご自身を、道具の一部のように扱わないでくださいませ」
その言葉で、海はようやく顔を上げた。
フィリアの瞳には、叱責よりも先に、恐れがあった。
海を責める恐れではない。
海が、自分の価値を最後に置いてしまうことへの恐れ。
「……気をつけます」
カスミが横から言う。
「信用できない」
「判断が早くないですか」
「前科がある」
「人を犯罪者扱いしないでください」
「常習犯」
「もっと悪くなってます」
「じゃあ、既往歴で」
「既往歴って……人を病人みたいに扱わないでください」
「病人だろ、半分」
「カスミ様、それはあんまりですわ」
フィリアがカスミに不安げに突っ込む。
海は今度こそ、ほんの少しだけ笑った。
その笑みを見て、フィリアの肩からも、わずかに力が抜けた。
だが、海の指先に残る震えまでは消えていなかった。
書庫の奥から向けられているような視線も、まだそこにあった。
シャルロットが記録官たちに指示を飛ばし、試験区画は速やかに封鎖された。
天照は黒い布で包まれ、魔導封印の箱へ収められる。
封印という言葉に、海は微かに肩を震わせた。
書庫の奥にある何か。
海の名を知っていた何か。
それがいまもこちらを見ているような気がした。
見られている。
その感覚だけが、まだ消えなかった。
数刻後。
王城の奥、臨時の小会議室には、重い空気が沈んでいた。
王レオポルド三世は、机上に置かれた記録板を見つめていた。
シャルロットが報告を終えても、すぐには口を開かなかった。
その沈黙は、怒りではない。
判断のために、感情を奥へ押し込める沈黙だった。
「第4階層には接続していなかったのだな」
「はい。記録上、第一階層から第三階層までの限定照会です。第4階層以降への接続命令は出しておりません」
シャルロットが答える。
「にもかかわらず、応答は返った」
「はい」
「そして、その応答は音無海の名を知っていた」
「はい」
会議室の空気が、さらに重くなる。
海は端の席に座っていた。
正確には、座らされていた。
本人としては立って説明したかったが、フィリアとカスミの両方から座れと言われ、シャルロットからも目で命じられたため、従うしかなかった。
フィリアは海の斜め後ろに控えている。
カスミは壁際に寄りかかり、腕を組んでいた。
エドガーもその場にいた。
本来なら、彼がこの会議に同席する必要はなかった。
だが、訓練区画と魔導騎士団側の記録確認という名目で、席を与えられていた。
彼は海を見ていた。
いや、睨んでいた。
なぜ、またこいつなのだ。
その感情が、隠しきれていない。
天照。
中央魔導書庫。
未定義応答。
騎士団長の関心。
フィリアの心配。
父の警戒。
そのすべてが音無海へ向いている。
自分が長い年月をかけて積み上げてきたものが、異世界から来た一人の青年の周囲で、軽々と組み替えられていく。
そんな気がしていた。
アルフレッド・フォン・シュタインベルクは、静かに口を開いた。
「陛下。まず申し上げるべきは、此奴に明確な悪意が確認されたわけではない、という点でしょう。……そうあって欲しいものです」
言葉の前半だけを拾えば、海を擁護しているようにも聞こえた。
だが、その眼差しだけは海の答えを待っていなかった。
すでに疑いを事実として扱う者の目だった。
海の手元から、その表情へ。
アルフレッドの視線は、証拠になり得るものを探すように、ゆっくりと移っていく。
緩みかけていた海の呼吸が、再び浅くなった。
「ですが、善良であることと、安全であることは同義ではございません」
会議室の温度が、目に見えないまま下がった。
フィリアの指が、わずかに動く。
カスミは目を細めた。
アルフレッドは海を責めてはいない。
少なくとも、言葉の上では。
だからこそ、危うかった。
「この傘の性能は、従来の魔導具の範疇を明らかに越えております。さらに、中央魔導書庫の深層らしきものが、彼の名を認識していた。これは個人の善意だけで扱ってよい問題ではありません」
アルフレッドは、天照とは呼ばなかった。
まるで、その名を認めることさえ避けるように。
「侯爵」
シャルロットの声が鋭くなる。
「海を危険因子として扱うには、根拠が不足しています」
「危険因子と断じてはおりません、団長殿」
アルフレッドは丁寧に頭を下げた。
その所作は完璧だった。
完璧すぎて、逆に冷たい。
「ただ、国家として記録すべき事象だと申し上げております」
記録。
その言葉に、海の胸が微かに沈んだ。
記録される。
自分の行動が。
天照の性能が。
あの声が。
自分の名前が、封印層に知られていたという事実が。
それらが、誰かの手に残る。
それが必要なことだとは分かる。
でも、怖かった。
記録は、真実を守るためのものだ。
同時に、真実を切り取って別の形にするための刃にもなる。
海はそのことを、ログという言葉を使う人間だからこそ知っていた。
「僕が、説明します」
海は静かに言った。
フィリアがすぐにこちらを見る。
「海様」
「大丈夫です。今度は、立ちません」
「そこではありません」
小さく返された言葉に、海は少しだけ目を伏せた。
それでも、王の方を見る。
「僕は、第4階層以降には接続していません。天照にも、その命令は出していません。第3階層までの照会を切断したあと、未定義応答が割り込んできました」
「割り込んだ、という認識なのだな」
王が問う。
「はい。ただ、通常の外部割り込みとは違います。侵入というより、待っていたものが、こちらの光を見つけたような」
言ってから、海は自分の表現に眉を寄せた。
あまりにも感覚的すぎる。
「すみません。うまく言葉にできません」
「いや」
王は首を振った。
「続けよ」
海は息を整えた。
「僕は怖いんです。正直に言えば、もう一度見るのも怖い。でも、怖いから見ない、それではたぶん駄目です。あれが僕を知っていた理由を調べないと、次に誰かが触れたとき、もっと危ないことになるかもしれません」
アルフレッドの眉が、ほんのわずかに動いた。
エドガーは唇を噛む。
フィリアは何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。
カスミだけが、壁際から短く言った。
「そこが危ない」
海が振り返る。
カスミは淡々と続けた。
「自分が怖いかどうかは言う。でも、壊れるかどうかは後回し」
「……すみません」
「なら仕様変更」
海は一瞬だけ目を丸くした。
「仕様変更?」
「自分も保護対象に入れろ」
その言葉は、命令というより設計条件だった。
天照でも、書庫でも、王国でもない。
海自身を、守るべきものの一覧から外すなという意味だった。
海は、ゆっくりと頷く。
「努力します」
「信用はしない、けど記録はする」
カスミの言葉に、シャルロットが小さく息を吐いた。
フィリアも、海の斜め後ろで静かに頷いた。
張り詰めた空気の中で、そのやり取りだけが、わずかに人間らしかった。
王はしばらく海を見ていた。
そして、低く告げた。
「音無海を裁く場ではない」
その一言で、フィリアの肩から少し力が抜けた。
だが王の言葉は、救済だけでは終わらなかった。
「しかし、放置できる事象でもない。天照の扱いは当面、王城管理下とする。音無海本人についても、保護と監視を兼ねた扱いが必要だ」
保護と監視。
その二つの言葉が並んだ瞬間、海は自分がどこか細い橋の上に立たされたような気がした。
守られている。
同時に、見張られている。
どちらも間違いではないからこそ、息が苦しかった。
シャルロットが頷く。
「私の責任で、海の行動範囲と天照の使用条件を整理します。無用な拘束は不要です。彼を孤立させることは、むしろ危険です」
「よかろう」
王はそう答えた。
その場の空気が、わずかに落ち着きかけた。
そのとき、扉の外で控えていた文官が、静かに入室した。
「会議中、失礼いたします」
王が目を向ける。
「何事か」
「ヴァルディア王国より、正式な通達が届きました」
シャルロットの表情が変わった。
アルフレッドは動かなかった。
まるで、その報告が来ることを知っていたかのように。
文官は続ける。
「予定されていた魔導技術視察団が、予定を早めて王都へ入るとのことです。表向きは、両国間の技術交流および防衛協力の確認。視察対象には、王城魔導設備、魔導騎士団訓練区画、ならびに中央魔導書庫の外郭資料区画が含まれております」
誰も、すぐには返答しなかった。
中央魔導書庫。
その名が出た瞬間、海は背筋が冷えるのを感じた。
シャルロットが低く言う。
「今、このタイミングで?」
文官は困惑したように目を伏せる。
「先方は、日程変更は困難とのことです。すでに国境を越えたとの報も」
エドガーが、ちらりと父を見る。
アルフレッドは静かに目を伏せていた。
祈る者のように。
けれど、その口元には、ほとんど見えないほど薄い影があった。
海は、その影に気づかなかった。
ただ、胸の奥に残る未定義の感覚だけが、また小さく疼いた。
見られている。
書庫の奥からだけではない。
別の場所からも。
別の誰かが、自分を見ようとしている。
天照が閉じても。
ログを封じても。
呼ばれた名前は、もう消えない。
そして、王城の外では。
まだ誰も知らない形で、次の視線がアストリアへ向かっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
いいねやリアクションは、
海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
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たぶん爆発はしません。




