表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/63

EP48:知の光は刹那より早く王城へ届く [LOG_AMATERAS]

0.006秒。


刹那せつなにも満たない、ほんの隙間。


光でさえ、その一瞬に進めるのは、およそ千八百キロメートル。


世界を一周するには、あまりにも短い。


けれど、音無海はその時間で、中央魔導書庫深層の一片に触れていた。


中央魔導書庫深層。


そこに眠る知は、四千七百八十二万三千九百九十一冊分。


それを八十四時間で処理したと仮定するなら、海が一冊に費やした時間は、わずか0.006秒だった。


それだけの知識量を、海は短時間で読み切ったわけではない。


そんな言い方をしてしまえば、きっと正確ではない。


読んだのではない。


道を作った。


中央魔導書庫深層。


無限演算環とわのことわりの残光は、まだ空間のあちこちに薄く残っていた。


魔導書庫そのものは沈黙している。


だが、その沈黙は眠りではない。


嵐の後、荒れた水面が一見だけ穏やかに見えるのと似ていた。


床に刻まれた魔法文字は、淡い光を明滅させながら、何事もなかったかのように通常の律動へ戻ろうとしている。


しかし、そこにいた者たちは知っていた。


何事もなかった、などという言葉で済ませられる出来事ではない。


海は、膝に手を置いたまま、ゆっくりと息を吐いた。


眼鏡型デバイス、Ω-Frameの表示はすでに落ち着いている。


けれど、彼の頭の奥ではまだ、膨大な索引情報の残響が揺れていた。


「……終わった、んですよね」


誰に向けたのか、自分でも分からない声だった。


フィリアはすぐには答えなかった。


彼女は中央魔導書庫の奥へ視線を向けている。


美しい銀の髪が、書庫の青白い光を受けて淡く揺れていた。


その横顔は静かだった。


だが、胸元に添えられた手だけが、わずかに震えている。


「海様」


ようやく、フィリアが口を開いた。


「これは……シャルロット様へ、ご報告しなければなりません」


その声は、いつものように丁寧だった。


けれど、柔らかさだけではなかった。


責任を引き受けようとする者の、細く硬い芯があった。


海は小さく頷く。


「はい。もちろんです。僕も、ちゃんと説明します」


「説明」


カスミが短く言った。


壁際に立っていた彼女は、腕を組んだまま、無限演算環とわのことわりの残光を見ていた。


赤い瞳は眠たげで、声も平坦だった。


「ミュートの説明は長い」


「それは、ちょっと否定しづらいです」


「しかも、だいたい途中で相手を置いていく」


「もっと否定しづらいです」


海は困ったように笑った。


だが、フィリアの表情は緩まなかった。


「カスミ様もご一緒に……」


フィリアの言葉を遮るように、カスミが声を被せた。


「嫌だ。僕を巻き込まないで」


「ですが、シャルロット様は、カスミ様が無関係であるとはお考えにならないはずです。いずれ、お話をせねばなりません」


カスミは少しだけ黙った。


赤い瞳が、無限演算環とわのことわりの残光を一度だけ見る。


「……行くなら、早く」


海が少しだけ目を丸くした。


「意外と素直に応じるんですね。もっとゴネるかと思っていました」


「人を子供扱いするな」


「すみません」


「怒られるのはミュート。こっちは付き添い」


「ひどい」


「事実」


短いやり取りだった。


だが、その軽さがなければ、海の足はもう少し重くなっていたかもしれない。


フィリアは小さく息を整えた。


「参りましょう。シャルロット様に、まずは事実をお伝えします」


その言葉を口にした時、彼女自身もまだ分かっていなかった。


事実を伝えるということが、どれほど難しいのかを。



シャルロット・デュノアの執務室は、魔導師団本部の上層にあった。


窓からは王城の尖塔と、魔導師団施設を囲む結界の光が見える。


空は静かで、遠くには薄い雲が流れていた。


部屋の中央には、整えられた書類と、魔法記録用の水晶板。


壁には古い杖と、歴代魔導師団長の紋章が飾られている。


この部屋に入るたび、フィリアは自然と背筋を伸ばしていた。


ここは、魔導師団の判断が下される場所。


知識と責任が、ただの言葉ではなく、国の形を左右する場所だった。


扉を叩くと、内側から落ち着いた声が返った。


「入りなさい」


フィリアが先に入り、海とカスミが続く。


シャルロットは机の前で書類に目を通していた。


淡い翡翠色ひすいいろの髪を揺らし、シャルロットは顔を上げた。


その視線が三人を順に見た。


アストリア国魔導騎士団長。


王国の魔導士たちを束ね、中央魔導書庫の管理権限にも深く関わる者。


国の叡智にもっとも近い場所に立つ女性。


その青い瞳が、海たちを静かに捉えた。


「今日はどうしたの? 何か約束をしていたかしら」


第一声は穏やかだった。


怒っている様子はない。


むしろ、急な訪問を不思議に思っているだけの声音だった。


フィリアは一歩前に出た。


「シャルロット様。中央魔導書庫に関して、ご報告が……」


そこまで言って、彼女は言葉を続けようとした。


海も隣で、説明の準備をしていた。


Ω-Frameの記録を使えば、処理手順の一部は示せる。


何をしたのか。


どこまで踏み込んだのか。


どの範囲を索引化したのか。


言葉にするなら、それは可能なはずだった。


しかし、シャルロットは少しだけ眉を上げると、静かに椅子から立ち上がった。


「中央魔導書庫のことなら、軽い報告で済ませてよいものではないわね」


その声に、フィリアの喉がわずかに止まった。


シャルロットは窓際へ歩き、外の結界を見つめた。


「中央魔導書庫は、ただ本を保管する場所ではありません。王国の知の根。歴代の魔導師、研究者、王家が積み上げてきた叡智の堆積です」


海は黙って聞いていた。


シャルロットの声には、誇りがあった。


そして、恐れもあった。


「そこにあるのは便利な知識だけではない。未完成の術式、封じられた禁術、失敗した召喚理論、災厄に至るかもしれない研究記録。人を救うものもあれば、人を壊すものもある」


フィリアの指が、胸元で強く握られた。


「私たち魔導師団が守っているのは、本そのものではありません。知に触れる順序です。知識は、光です。けれど、強すぎる光は目を焼く」


海の胸に、その言葉が引っかかった。


強すぎる光。


そのままだと、受け取る側が壊れるもの。


「だからこそ、知に触れる者には、身を律する器が必要です」


シャルロットはそこで海を見た。


鋭いが、冷たすぎない視線だった。


「海。あなた、仮にも魔導士として魔導書庫を扱う立場になったのですから、杖の一つぐらいは持ちなさい」


「杖、ですか?」


海は思わず聞き返した。


その反応に、シャルロットは小さく息をつく。


「ええ。あなたはあまりにも無防備すぎるわ。魔力の量も、思考の速度も、扱う術式も。けれど、外から見れば、何をどう扱っているのか分かりにくい」


「す、すみません」


「謝罪を求めているのではありません。あなた自身を守るためでもあり、周囲にあなたの立場を示すためでもあります。杖は、魔導士にとって道具であると同時に、責任の印でもあるのよ」


フィリアはその言葉を聞きながら、口を開こうとした。


今だ。


今、この流れなら報告できる。


中央魔導書庫で何が起きたのか。


海様が何を成し遂げたのか。


それを、シャルロット様に伝えなければならない。


「シャルロット様、実は……」


声は出た。


だが、その先が続かなかった。


シャルロットが語った中央魔導書庫の重み。


知に触れる順序。


強すぎる光は目を焼くという言葉。


それらが、フィリアの胸の中で重なってしまった。


海がしたことを、ただ数字や処理結果として差し出してよいのか。


あの書庫が、あれほど重い場所であるなら。


あの知が、あれほど危険な光であるなら。


海様は、いったいどこまで踏み込んでしまったのか。


そして、それを自分の口から告げることで、海様はどのように見られるのか。


偉業としてか。


異常としてか。


危険としてか。


喉が、動かなかった。


フィリアは、深く頭を下げた。


「……申し訳ございません。詳細を整理して、改めてご報告いたします」


シャルロットは少しだけ不思議そうにしたが、責めはしなかった。


「そう。急ぎでないなら、整理してからで構いません。中央魔導書庫に関する報告は、曖昧なまま受け取る方が危険ですから」


「はい」


フィリアの声は、かすかに震えていた。


海はその震えに気づいた。


カスミも気づいていた。


だが、シャルロットはまだ、その震えの意味までは知らない。


「それと、海」


「はい」


「杖の件は、本気で考えなさい。既製品でも構わないけれど、あなたの場合は……いえ、まずはフィリアに聞くといいわ。彼女なら、基礎から説明できるでしょう」


「分かりました」


海は頭を下げた。


訪問は、それで終わった。


報告は、できなかった。



執務室を出た廊下は、やけに静かだった。


魔導師団本部の石造りの廊下には、昼の光が斜めに差し込んでいる。


窓の外では、結界を巡回する魔導士たちの影が小さく動いていた。


フィリアは数歩進んだところで、足を止めた。


「フィリアさん?」


海が声をかける。


フィリアはすぐに返事をしなかった。


ただ、両手を胸の前で重ねたまま、俯いている。


カスミは壁にもたれ、黙って見ていた。


一滴だけ。


涙が、頬を伝っていた。


それは泣き崩れるための涙ではなかった。


こらえきれなかったものが、礼節の隙間から落ちたような涙だった。


海は息を呑んだ。


「フィリアさん……」


「申し訳、ありません」


フィリアは小さく首を振った。


「報告しなければならないと、分かっていました。分かっていたのです。けれど……」


声がそこで細くなる。


それでも、彼女は崩れなかった。


泣きじゃくることも、誰かにすがることもしなかった。


ただ、一滴だけこぼれた涙を、指先でそっと拭った。


「中央魔導書庫の重みを、シャルロット様のお言葉で改めて聞いてしまったら……海様がなさったことを、ただの成果として差し出すことが怖くなりました」


海は何も言えなかった。


自分は、やった。


必要だったから。


皆のためになると思ったから。


読めないものを読めるようにした。


迷わないために、道を作った。


それだけのつもりだった。


けれど。


叱られるかどうかの話ではない。


誰が責任を取るかの話でもない。


これは、フィリアが涙をこらえなければならないほどのことなのだ。


その理解が、遅れて胸に落ちてきた。


「僕……」


声がうまく出なかった。


「僕は、また……自分がどれくらい変なことをしたのか、分かってなかったんですね」


フィリアは首を振った。


「違います。海様が悪いという話ではありません」


「でも」


「違います」


今度は、少しだけ強かった。


フィリアは海を見た。


涙の跡はまだ残っている。


けれど、その瞳は揺れていながらも、まっすぐだった。


「海様は、必要だと思ったことをされたのです。誰かを害するためではなく、知を壊すためでもなく、迷わず進むために」


「……はい」


「だからこそ、私たちは伝え方を間違えてはならないのです」


その言葉に、海はゆっくりと頷いた。


カスミが壁から背を離した。


「重い話、終わった?」


「カスミ様」


フィリアが少しだけ困ったように名を呼ぶ。


カスミは悪びれない。


「終わってないなら、座れる場所に移動。廊下で続ける話じゃない」


その言い方は雑だった。


けれど、フィリアの足元を見ていた。


疲労と緊張で、彼女の膝がわずかに硬くなっていることに気づいていたのだ。


海は小さく息を吐いた。


「そうですね。どこかで、杖のことも教えてもらえますか」


フィリアは目元を整え、静かに頷いた。


「はい。まずは、杖についてご説明いたします」



三人は魔導師団本部の小さな資料室へ移動した。


窓際の机には、訓練用の杖が数本置かれている。


木製のもの。


金属芯のもの。


水晶を先端に抱くもの。


細身の短杖から、身の丈ほどある長杖まで。


海はそれを見て、少しだけ身を乗り出した。


「杖って、こんなに種類があるんですね」


「はい」


フィリアは一本の杖を手に取った。


先端に薄青い魔石がついた、細身の杖だった。


「魔導士にとって杖は、魔力の流れを整えるものです」


「魔力の流れを、整える」


海はその言葉を繰り返す。


「魔法とは、魔力をただ放つものではありません。魔力に形を与え、方向を定め、世界へ現象として届けるものです」


フィリアは杖を軽く掲げた。


先端の魔石が、淡く光る。


「杖は、そのための導線であり、器です。魔力が過剰に流れれば乱れます。方向が定まらなければ、現象は崩れます。詠唱、術式、杖、そのすべてが魔力を世界へ届けるための手順なのです」


海は真剣に聞いていた。


言葉の一つひとつを、自分の中の構造に置き換えている。


「それって、出力装置というか、制御インターフェースというか……」


「いんた……?」


「あ、すみません。えっと、魔力をそのまま外に出すんじゃなくて、扱える形に整える道具、という感じですか?」


「はい。その理解で近いと思います」


フィリアは微笑んだ。


「また、杖は魔導士の力量や系統を示す身分証でもあります。先端の魔石、刻まれた術式、素材、形状。それらを見れば、ある程度、その魔導士がどの系統を得意とするのか、どれほどの修練を積んでいるのかが分かります」


「なるほど……名刺みたいな役割もあるんですね」


「名刺、ですか?」


「自分が何者かを示すものです」


「ええ。近いかもしれません」


フィリアは机に置かれた短杖へ視線を落とした。


「戦場で杖を持たない魔導士は、剣士が刃を持たずに立つようなものです」


その言葉に、海は少しだけ肩をすくめた。


「僕、ずっと刃なしで立ってたんですね」


「海様の場合は……」


フィリアは言葉を選んだ。


「刃を持っていないというより、武器庫そのものを背負って、素手で立っているように見えます」


カスミがぼそりと言った。


「危ない」


「ですよね」


海は苦笑した。


フィリアは真剣な表情に戻る。


「ただ、既製の杖では、海様の魔力の流れに合わない可能性があります」


「合わない?」


「はい。一般的な杖は、魔力を一定方向に整え、術式へ流すことを前提に作られています。けれど、海様の魔力は量も流れ方も、通常の魔導士とは大きく異なります」


「流れが太すぎる、みたいな感じですか」


「それもあります。ですが、それだけではありません」


フィリアは海の右手を見た。


「海様は、魔力をただ強く流すのではなく、複数の処理を同時に走らせるように扱われます。索引、解析、防御、転送、共有。流れそのものが枝分かれし、戻り、また組み直される」


海は目を伏せた。


中央魔導書庫で、自分がしていたことを思い返す。


たしかに、自分の感覚では一本の流れではなかった。


何本もの細い導線。


補助線。


制限線。


隔離線。


それらが同時に動いていた。


「普通の杖だと、詰まるか、壊れるか、出力が暴れるかもしれないですね」


「はい」


フィリアは静かに頷いた。


「ですから、海様には、海様のための杖が必要なのだと思います」


海は机の上の杖を見つめた。


杖。


魔導士の器。


知と魔力を世界へ届けるための形。


シャルロットの言葉が、胸の中で再び光る。


強すぎる光は目を焼く。


中央魔導書庫の知識も、同じだ。


全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる。


なら、必要なのは。


「……傘」


海が呟いた。


フィリアが瞬きをする。


「傘、ですか?」


「はい」


海は顔を上げた。


目の奥に、少しずつ光が戻っている。


怖さは残っている。


けれど、怖いからこそ、形にしなければならない。


「強すぎる光は、そのままだと目を焼く。魔導書庫の知識も同じです。全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる」


フィリアは息を呑んだ。


それは、先ほどシャルロットが語った言葉の反響だった。


しかし海は、それをただ聞いていたわけではなかった。


自分の中で、別の形に組み替え始めていた。


「だから、遮って、選んで、薄めて、必要な形にする器が必要なんです」


「知を遮る傘……」


フィリアが小さく呟いた。


海は頷いた。


その頷きには、先ほどまでの怯えとは違う色があった。


作る者の目。


恐怖を消したのではない。


恐怖を、設計へ変えようとする目だった。


「形にしてみます」


海はそう言って、資料室の机から少し離れた。


「ここでは、少し狭いかもしれません。作業区画へ戻ってもいいですか」


フィリアはすぐに頷いた。


「はい。海様の魔導具を扱うなら、その方がよろしいかと」


カスミは短く息を吐く。


「やっぱり作る顔だった」


「そんなに分かりやすいですか」


「分かりやすい」


「ちょっと恥ずかしいですね」


「直らない」


「直らない前提なんですね」


「事実」


三人は資料室を出て、作業区画へ戻った。


中央魔導書庫の近くに設けられたその区画は、通常の魔導実験室とは少し違っていた。


魔導書庫側の術式を受け止めるための記録板。


魔力の流れを逃がすための補助結界。


そして、海のΩ-Codeを展開するための机。


海はその前に立った。


一度だけ、深く息を吸う。


自分の魔力を増やすためのものではない。


自分の力を誇示するためのものでもない。


自分が足を引っ張らないために。


誰かを巻き込まないために。


必要な知識を、必要な人へ、壊さず届けるために。


「僕だけの杖」


海は、ほとんど息のように呟いた。


フィリアは、その横顔を見つめる。


海の赤い瞳の奥に、また何かが走っている。


それは恐怖ではない。


逃げでもない。


何かを作ろうとする者の目だった。


カスミが、短く言う。


「嫌な顔」


「え?」


「また作る顔してる」


「嫌な顔って」


「だいたい当たる」


「ひどいな」


海は苦笑した。


けれど否定はしなかった。


海はΩ-Vein(オメガヴェイン)に触れた。


手首の奥で、銀色の光が走る。


次の瞬間、小型化されていたΩ-Codeが展開され、机の上へと立体投影を広げた。


光の線が重なり、円環が組まれ、細い骨組みが空中に浮かび上がる。


最初の線は、まだ頼りなかった。


けれどΩ-Frame(オメガフレーム)の補助表示が海の視界に重なり、線は少しずつ形を持ち始める。


同時に、フィリアとカスミのアークレンズにも、圧縮された設計図が共有された。


フィリアの視界には、魔力流路と安全域が淡い青で示される。


カスミの視界には、負荷、支点、破損予測、逃がしの経路が赤い線で浮かび上がる。


三人は、同じものを見ていた。


けれど、見えている意味はそれぞれ違っていた。


それは最初、杖のように見えた。


だが、次第に形が変わっていく。


長い柄。


展開する骨組み。


魔力を逃がす外縁。


光を受け、散らし、必要な分だけ内側へ落とす膜。


それは杖であり、傘だった。


ただの雨具ではない。


長傘型複合魔導具。


海が扱う知と魔力を、一度受け止めるための器。


フィリアが目を見開いた。


「これは……傘、ですか」


「はい」


海は少し照れたように頷く。


「僕の杖です」


カスミは投影図を見て、目を細めた。


「杖?」


「うん。杖だけど、傘」


「説明になってない」


「えっと。強すぎる光って、そのままだと目を焼くでしょ」


海は投影図に指を伸ばした。


長傘の骨組みが、ゆっくりと開く。


「魔導書庫の知識も同じだと思うんです。全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる。だから、遮って、選んで、薄めて、必要な形にする器が必要だなって」


フィリアは、息を呑んだ。


「知を遮る傘……」


「はい」


海は静かに言った。


「名前は、天照(アマテラス)にしようと思います」


その名を口にした瞬間、フィリアはなぜか息を止めた。


光を遮る傘に、光の神の名を与える。


矛盾しているようで、奇妙なほど似合っていた。


「天照……」


フィリアはその名を繰り返した。


知を遮る傘。


けれど、ただ隠すのではない。


強すぎる光を、誰かが受け取れる形に変えるもの。


「美しい名前です」


フィリアの声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。


投影図の中央に光が走った。


《Amaterasu》


文字列が浮かび、すぐに淡い金色へ変わる。


フィリアは、その名を祈るように見つめた。


カスミは、別のところを見ていた。


天照の美しさではない。


その内側に通された魔力流路。


負荷逃がし。


障壁層。


骨組みの支点。


展開部の歪み。


カスミは無言で投影図に指を伸ばした。


赤い補助線が、天照の骨組みに重なる。


「少し、直す」


「え?」


海が顔を上げる。


「ここ、弱い」


「どこですか?」


「全部」


「全部……」


海がしょんぼりした。


カスミは気にしない。


「最初の案としては悪くない」


「それ、褒めてます?」


「最低限」


「最低限」


「このままだと折れる」


「折れるんですか」


「たぶんミュートごと」


「それは困ります」


「だから直す」


カスミの指先が動く。


面倒くさそうな顔をしているくせに、補助線は一度も迷わない。


外縁の角度。


骨組みの重なり。


魔力を受ける膜の張力。


流れを逃がすための溝。


柄の中心を通っていた太い流路が、いくつかに分けられる。


支点の負荷が分散され、骨の節目に小さな余白が作られていく。


「傘は雨を消さない。流す」


カスミが言った。


海の目が、ぱっと明るくなる。


「それ、すごくいいです」


「何が」


「思想です」


「思想じゃない。構造」


「でも、今の言い方、天照の考え方そのものです。知を消すんじゃなくて、流す。受け止めて、逃がして、必要な分だけ落とす」


「勝手に盛るな」


「すみません。でも、気に入りました」


カスミは面倒くさそうに鼻を鳴らした。


それでも、手は止まらない。


海もすぐに投影図へ意識を戻した。


「じゃあ、この外縁部で過剰な魔力を散らして、中心軸で必要な情報だけ抽出して……」


「……ここ、落とす」


「落とす?」


「伝導効率が高すぎる」


「そのままだと、扱いにくい」


「じゃあ、少し抑える?」


「少しじゃない」


「えっと、かなり?」


「かなり」


フィリアは二人のやり取りを見つめていた。


性能を上げる相談ではない。


落とす相談をしている。


それなのに、投影図の光は、見れば見るほど美しく、危うくなっていく。


海は真剣だった。


カスミも、面倒くさそうにしながら、明らかに本気だった。


「ここまで落としたら、通常出力はかなり安定しますね」


「通常なら」


「通常じゃない場合は?」


「ミュートが持つから」


その一言に、フィリアの胸が小さく跳ねた。


海は少し首を傾げる。


「それ、どういう意味ですか?」


「そのまま」


カスミは視線を逸らした。


「ミュートが持つなら、壊れにくくしないと面倒」


「天照が?」


「それも」


言葉がそこで止まった。


海は気づかなかった。


あるいは、気づきかけて、別の線を追ってしまった。


だが、フィリアには分かった。


カスミが言わなかった続きを。


天照だけの話ではないのだと。


「なら、壊すな」


カスミが短く言った。


海が顔を上げる。


「天照を?」


「……それも」


再び、その先は言わない。


資料室ではない。


作業区画に、投影図の淡い光だけが揺れていた。


海は、少しだけ真面目な顔で頷いた。


「はい。壊さないようにします」


カスミは返事をしなかった。


フィリアも、何も言わなかった。


ただ、天照アマテラスという名の構想が、机上で少しずつ形になっていくのを見守っていた。


知を受け止める傘。


強すぎる光を、人の手に届く明るさへ変える器。


それはまだ完成品ではない。


けれど、確かに始まっていた。



その頃。


シャルロット・デュノアは、一人で中央魔導書庫へ戻っていた。


執務室でのフィリアの様子が、どうにも引っかかっていた。


報告があると言いながら、言葉を止めた。


隠したのではない。


あれは、隠蔽の沈黙ではなかった。


恐れた者の沈黙。


あるいは、守ろうとした者の沈黙。


シャルロットは、長く魔導師団を率いてきた。


人の沈黙にも種類があることくらいは分かる。


中央魔導書庫の扉の前に立つと、管理術式が淡く反応した。


彼女の権限を確認し、重い扉がゆっくりと開く。


奥から、古い紙と魔力の匂いが流れてきた。


シャルロットは杖を掲げ、深層記録への閲覧権限を開いた。


「中央魔導書庫、深層干渉記録。直近の異常反応を表示」


空中に、淡い光の板がいくつも浮かび上がる。


最初に映ったのは、閲覧記録だった。


どの区画に触れたか。


どの分類へアクセスしたか。


どの深層索引が開いたか。


シャルロットは、最初それを「閲覧記録」だと思った。


次に、「事故」だと思った。


深層索引の一部が異常反応を示し、補助術式が過剰に起動した。


そう解釈すれば、まだ理解できた。


その次に、「何者かによる異常干渉」だと考えた。


なぜなら、記録の奥に見慣れない線があったからだ。


魔導書庫の管理術式ではない。


王国式の補助演算でもない。


だが、無秩序ではなかった。


むしろ、恐ろしいほど整っている。


深層索引を安定化させるための補助線。


踏み込んではならない領域へ、入らないために引かれた制限線。


異常な応答を外へ漏らさないための隔離線。


シャルロットは息を止めた。


「これは……」


杖の先端がわずかに震える。


彼女は記録をさらに拡大した。


補助線は、ただ強引に深層へ入り込んだ痕跡ではなかった。


むしろ逆だった。


入りすぎないための線。


壊さないための線。


読まれるべきではないものを、無理にこじ開けないための線。


そして、必要な知識へ辿り着くための道筋。


そんなものが、中央魔導書庫の深層に残されている。


「いったい……何をしたら、こんなことができると言うの」


声は、書庫の静寂に吸い込まれた。


シャルロットは、自分の理解が追いつかないことを認めざるを得なかった。


しかし、それでも最後まで一つだけ、考えなかった。


中央魔導書庫そのものに、道が通された可能性を。


そんなことは、魔導師団長である彼女の常識の外にあった。


魔導書庫とは、読む場所である。


調べる場所である。


許可された知識へ、手順を踏んでアクセスする場所である。


そこに道を作る。


知の海に航路を引く。


そんな発想は、王国魔導理論の中にはない。


これは、人が本を読んだ記録ではない。


魔導士が術式を扱った記録でもない。


知識の海に、別の理を持ち込んだ痕跡だった。


人の領域の外。


その言葉が、シャルロットの喉元まで上がり、飲み込まれた。


言ってしまえば、戻れなくなる気がした。


代わりに、彼女は記録を閉じた。


そして、しばらく目を閉じる。


フィリアが報告できなかった理由が、少しだけ分かった気がした。


あの子は、これを見たのだ。


あるいは、これに近いものを隣で感じたのだ。


そして、海をただ称えることも、ただ危険視することもできず、喉を止めた。


シャルロットは静かに目を開けた。


彼女は、もう見て見ぬふりはできなかった。


中央魔導書庫は、誰かに読まれたのではない。


別の理によって、組み替えられようとしていた。


だからシャルロットは、二度目の呼び出しを命じた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


いいねやリアクションは、

海が勝手にログへ保存しておきます。

凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。


続きが気になりましたら、

下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。


いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。

たぶん爆発はしません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ