EP48:知の光は刹那より早く王城へ届く [LOG_AMATERAS]
0.006秒。
刹那にも満たない、ほんの隙間。
光でさえ、その一瞬に進めるのは、およそ千八百キロメートル。
世界を一周するには、あまりにも短い。
けれど、音無海はその時間で、中央魔導書庫深層の一片に触れていた。
中央魔導書庫深層。
そこに眠る知は、四千七百八十二万三千九百九十一冊分。
それを八十四時間で処理したと仮定するなら、海が一冊に費やした時間は、わずか0.006秒だった。
それだけの知識量を、海は短時間で読み切ったわけではない。
そんな言い方をしてしまえば、きっと正確ではない。
読んだのではない。
道を作った。
中央魔導書庫深層。
無限演算環の残光は、まだ空間のあちこちに薄く残っていた。
魔導書庫そのものは沈黙している。
だが、その沈黙は眠りではない。
嵐の後、荒れた水面が一見だけ穏やかに見えるのと似ていた。
床に刻まれた魔法文字は、淡い光を明滅させながら、何事もなかったかのように通常の律動へ戻ろうとしている。
しかし、そこにいた者たちは知っていた。
何事もなかった、などという言葉で済ませられる出来事ではない。
海は、膝に手を置いたまま、ゆっくりと息を吐いた。
眼鏡型デバイス、Ω-Frameの表示はすでに落ち着いている。
けれど、彼の頭の奥ではまだ、膨大な索引情報の残響が揺れていた。
「……終わった、んですよね」
誰に向けたのか、自分でも分からない声だった。
フィリアはすぐには答えなかった。
彼女は中央魔導書庫の奥へ視線を向けている。
美しい銀の髪が、書庫の青白い光を受けて淡く揺れていた。
その横顔は静かだった。
だが、胸元に添えられた手だけが、わずかに震えている。
「海様」
ようやく、フィリアが口を開いた。
「これは……シャルロット様へ、ご報告しなければなりません」
その声は、いつものように丁寧だった。
けれど、柔らかさだけではなかった。
責任を引き受けようとする者の、細く硬い芯があった。
海は小さく頷く。
「はい。もちろんです。僕も、ちゃんと説明します」
「説明」
カスミが短く言った。
壁際に立っていた彼女は、腕を組んだまま、無限演算環の残光を見ていた。
赤い瞳は眠たげで、声も平坦だった。
「ミュートの説明は長い」
「それは、ちょっと否定しづらいです」
「しかも、だいたい途中で相手を置いていく」
「もっと否定しづらいです」
海は困ったように笑った。
だが、フィリアの表情は緩まなかった。
「カスミ様もご一緒に……」
フィリアの言葉を遮るように、カスミが声を被せた。
「嫌だ。僕を巻き込まないで」
「ですが、シャルロット様は、カスミ様が無関係であるとはお考えにならないはずです。いずれ、お話をせねばなりません」
カスミは少しだけ黙った。
赤い瞳が、無限演算環の残光を一度だけ見る。
「……行くなら、早く」
海が少しだけ目を丸くした。
「意外と素直に応じるんですね。もっとゴネるかと思っていました」
「人を子供扱いするな」
「すみません」
「怒られるのはミュート。こっちは付き添い」
「ひどい」
「事実」
短いやり取りだった。
だが、その軽さがなければ、海の足はもう少し重くなっていたかもしれない。
フィリアは小さく息を整えた。
「参りましょう。シャルロット様に、まずは事実をお伝えします」
その言葉を口にした時、彼女自身もまだ分かっていなかった。
事実を伝えるということが、どれほど難しいのかを。
*
シャルロット・デュノアの執務室は、魔導師団本部の上層にあった。
窓からは王城の尖塔と、魔導師団施設を囲む結界の光が見える。
空は静かで、遠くには薄い雲が流れていた。
部屋の中央には、整えられた書類と、魔法記録用の水晶板。
壁には古い杖と、歴代魔導師団長の紋章が飾られている。
この部屋に入るたび、フィリアは自然と背筋を伸ばしていた。
ここは、魔導師団の判断が下される場所。
知識と責任が、ただの言葉ではなく、国の形を左右する場所だった。
扉を叩くと、内側から落ち着いた声が返った。
「入りなさい」
フィリアが先に入り、海とカスミが続く。
シャルロットは机の前で書類に目を通していた。
淡い翡翠色の髪を揺らし、シャルロットは顔を上げた。
その視線が三人を順に見た。
アストリア国魔導騎士団長。
王国の魔導士たちを束ね、中央魔導書庫の管理権限にも深く関わる者。
国の叡智にもっとも近い場所に立つ女性。
その青い瞳が、海たちを静かに捉えた。
「今日はどうしたの? 何か約束をしていたかしら」
第一声は穏やかだった。
怒っている様子はない。
むしろ、急な訪問を不思議に思っているだけの声音だった。
フィリアは一歩前に出た。
「シャルロット様。中央魔導書庫に関して、ご報告が……」
そこまで言って、彼女は言葉を続けようとした。
海も隣で、説明の準備をしていた。
Ω-Frameの記録を使えば、処理手順の一部は示せる。
何をしたのか。
どこまで踏み込んだのか。
どの範囲を索引化したのか。
言葉にするなら、それは可能なはずだった。
しかし、シャルロットは少しだけ眉を上げると、静かに椅子から立ち上がった。
「中央魔導書庫のことなら、軽い報告で済ませてよいものではないわね」
その声に、フィリアの喉がわずかに止まった。
シャルロットは窓際へ歩き、外の結界を見つめた。
「中央魔導書庫は、ただ本を保管する場所ではありません。王国の知の根。歴代の魔導師、研究者、王家が積み上げてきた叡智の堆積です」
海は黙って聞いていた。
シャルロットの声には、誇りがあった。
そして、恐れもあった。
「そこにあるのは便利な知識だけではない。未完成の術式、封じられた禁術、失敗した召喚理論、災厄に至るかもしれない研究記録。人を救うものもあれば、人を壊すものもある」
フィリアの指が、胸元で強く握られた。
「私たち魔導師団が守っているのは、本そのものではありません。知に触れる順序です。知識は、光です。けれど、強すぎる光は目を焼く」
海の胸に、その言葉が引っかかった。
強すぎる光。
そのままだと、受け取る側が壊れるもの。
「だからこそ、知に触れる者には、身を律する器が必要です」
シャルロットはそこで海を見た。
鋭いが、冷たすぎない視線だった。
「海。あなた、仮にも魔導士として魔導書庫を扱う立場になったのですから、杖の一つぐらいは持ちなさい」
「杖、ですか?」
海は思わず聞き返した。
その反応に、シャルロットは小さく息をつく。
「ええ。あなたはあまりにも無防備すぎるわ。魔力の量も、思考の速度も、扱う術式も。けれど、外から見れば、何をどう扱っているのか分かりにくい」
「す、すみません」
「謝罪を求めているのではありません。あなた自身を守るためでもあり、周囲にあなたの立場を示すためでもあります。杖は、魔導士にとって道具であると同時に、責任の印でもあるのよ」
フィリアはその言葉を聞きながら、口を開こうとした。
今だ。
今、この流れなら報告できる。
中央魔導書庫で何が起きたのか。
海様が何を成し遂げたのか。
それを、シャルロット様に伝えなければならない。
「シャルロット様、実は……」
声は出た。
だが、その先が続かなかった。
シャルロットが語った中央魔導書庫の重み。
知に触れる順序。
強すぎる光は目を焼くという言葉。
それらが、フィリアの胸の中で重なってしまった。
海がしたことを、ただ数字や処理結果として差し出してよいのか。
あの書庫が、あれほど重い場所であるなら。
あの知が、あれほど危険な光であるなら。
海様は、いったいどこまで踏み込んでしまったのか。
そして、それを自分の口から告げることで、海様はどのように見られるのか。
偉業としてか。
異常としてか。
危険としてか。
喉が、動かなかった。
フィリアは、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。詳細を整理して、改めてご報告いたします」
シャルロットは少しだけ不思議そうにしたが、責めはしなかった。
「そう。急ぎでないなら、整理してからで構いません。中央魔導書庫に関する報告は、曖昧なまま受け取る方が危険ですから」
「はい」
フィリアの声は、かすかに震えていた。
海はその震えに気づいた。
カスミも気づいていた。
だが、シャルロットはまだ、その震えの意味までは知らない。
「それと、海」
「はい」
「杖の件は、本気で考えなさい。既製品でも構わないけれど、あなたの場合は……いえ、まずはフィリアに聞くといいわ。彼女なら、基礎から説明できるでしょう」
「分かりました」
海は頭を下げた。
訪問は、それで終わった。
報告は、できなかった。
*
執務室を出た廊下は、やけに静かだった。
魔導師団本部の石造りの廊下には、昼の光が斜めに差し込んでいる。
窓の外では、結界を巡回する魔導士たちの影が小さく動いていた。
フィリアは数歩進んだところで、足を止めた。
「フィリアさん?」
海が声をかける。
フィリアはすぐに返事をしなかった。
ただ、両手を胸の前で重ねたまま、俯いている。
カスミは壁にもたれ、黙って見ていた。
一滴だけ。
涙が、頬を伝っていた。
それは泣き崩れるための涙ではなかった。
こらえきれなかったものが、礼節の隙間から落ちたような涙だった。
海は息を呑んだ。
「フィリアさん……」
「申し訳、ありません」
フィリアは小さく首を振った。
「報告しなければならないと、分かっていました。分かっていたのです。けれど……」
声がそこで細くなる。
それでも、彼女は崩れなかった。
泣きじゃくることも、誰かにすがることもしなかった。
ただ、一滴だけこぼれた涙を、指先でそっと拭った。
「中央魔導書庫の重みを、シャルロット様のお言葉で改めて聞いてしまったら……海様がなさったことを、ただの成果として差し出すことが怖くなりました」
海は何も言えなかった。
自分は、やった。
必要だったから。
皆のためになると思ったから。
読めないものを読めるようにした。
迷わないために、道を作った。
それだけのつもりだった。
けれど。
叱られるかどうかの話ではない。
誰が責任を取るかの話でもない。
これは、フィリアが涙をこらえなければならないほどのことなのだ。
その理解が、遅れて胸に落ちてきた。
「僕……」
声がうまく出なかった。
「僕は、また……自分がどれくらい変なことをしたのか、分かってなかったんですね」
フィリアは首を振った。
「違います。海様が悪いという話ではありません」
「でも」
「違います」
今度は、少しだけ強かった。
フィリアは海を見た。
涙の跡はまだ残っている。
けれど、その瞳は揺れていながらも、まっすぐだった。
「海様は、必要だと思ったことをされたのです。誰かを害するためではなく、知を壊すためでもなく、迷わず進むために」
「……はい」
「だからこそ、私たちは伝え方を間違えてはならないのです」
その言葉に、海はゆっくりと頷いた。
カスミが壁から背を離した。
「重い話、終わった?」
「カスミ様」
フィリアが少しだけ困ったように名を呼ぶ。
カスミは悪びれない。
「終わってないなら、座れる場所に移動。廊下で続ける話じゃない」
その言い方は雑だった。
けれど、フィリアの足元を見ていた。
疲労と緊張で、彼女の膝がわずかに硬くなっていることに気づいていたのだ。
海は小さく息を吐いた。
「そうですね。どこかで、杖のことも教えてもらえますか」
フィリアは目元を整え、静かに頷いた。
「はい。まずは、杖についてご説明いたします」
*
三人は魔導師団本部の小さな資料室へ移動した。
窓際の机には、訓練用の杖が数本置かれている。
木製のもの。
金属芯のもの。
水晶を先端に抱くもの。
細身の短杖から、身の丈ほどある長杖まで。
海はそれを見て、少しだけ身を乗り出した。
「杖って、こんなに種類があるんですね」
「はい」
フィリアは一本の杖を手に取った。
先端に薄青い魔石がついた、細身の杖だった。
「魔導士にとって杖は、魔力の流れを整えるものです」
「魔力の流れを、整える」
海はその言葉を繰り返す。
「魔法とは、魔力をただ放つものではありません。魔力に形を与え、方向を定め、世界へ現象として届けるものです」
フィリアは杖を軽く掲げた。
先端の魔石が、淡く光る。
「杖は、そのための導線であり、器です。魔力が過剰に流れれば乱れます。方向が定まらなければ、現象は崩れます。詠唱、術式、杖、そのすべてが魔力を世界へ届けるための手順なのです」
海は真剣に聞いていた。
言葉の一つひとつを、自分の中の構造に置き換えている。
「それって、出力装置というか、制御インターフェースというか……」
「いんた……?」
「あ、すみません。えっと、魔力をそのまま外に出すんじゃなくて、扱える形に整える道具、という感じですか?」
「はい。その理解で近いと思います」
フィリアは微笑んだ。
「また、杖は魔導士の力量や系統を示す身分証でもあります。先端の魔石、刻まれた術式、素材、形状。それらを見れば、ある程度、その魔導士がどの系統を得意とするのか、どれほどの修練を積んでいるのかが分かります」
「なるほど……名刺みたいな役割もあるんですね」
「名刺、ですか?」
「自分が何者かを示すものです」
「ええ。近いかもしれません」
フィリアは机に置かれた短杖へ視線を落とした。
「戦場で杖を持たない魔導士は、剣士が刃を持たずに立つようなものです」
その言葉に、海は少しだけ肩をすくめた。
「僕、ずっと刃なしで立ってたんですね」
「海様の場合は……」
フィリアは言葉を選んだ。
「刃を持っていないというより、武器庫そのものを背負って、素手で立っているように見えます」
カスミがぼそりと言った。
「危ない」
「ですよね」
海は苦笑した。
フィリアは真剣な表情に戻る。
「ただ、既製の杖では、海様の魔力の流れに合わない可能性があります」
「合わない?」
「はい。一般的な杖は、魔力を一定方向に整え、術式へ流すことを前提に作られています。けれど、海様の魔力は量も流れ方も、通常の魔導士とは大きく異なります」
「流れが太すぎる、みたいな感じですか」
「それもあります。ですが、それだけではありません」
フィリアは海の右手を見た。
「海様は、魔力をただ強く流すのではなく、複数の処理を同時に走らせるように扱われます。索引、解析、防御、転送、共有。流れそのものが枝分かれし、戻り、また組み直される」
海は目を伏せた。
中央魔導書庫で、自分がしていたことを思い返す。
たしかに、自分の感覚では一本の流れではなかった。
何本もの細い導線。
補助線。
制限線。
隔離線。
それらが同時に動いていた。
「普通の杖だと、詰まるか、壊れるか、出力が暴れるかもしれないですね」
「はい」
フィリアは静かに頷いた。
「ですから、海様には、海様のための杖が必要なのだと思います」
海は机の上の杖を見つめた。
杖。
魔導士の器。
知と魔力を世界へ届けるための形。
シャルロットの言葉が、胸の中で再び光る。
強すぎる光は目を焼く。
中央魔導書庫の知識も、同じだ。
全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる。
なら、必要なのは。
「……傘」
海が呟いた。
フィリアが瞬きをする。
「傘、ですか?」
「はい」
海は顔を上げた。
目の奥に、少しずつ光が戻っている。
怖さは残っている。
けれど、怖いからこそ、形にしなければならない。
「強すぎる光は、そのままだと目を焼く。魔導書庫の知識も同じです。全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる」
フィリアは息を呑んだ。
それは、先ほどシャルロットが語った言葉の反響だった。
しかし海は、それをただ聞いていたわけではなかった。
自分の中で、別の形に組み替え始めていた。
「だから、遮って、選んで、薄めて、必要な形にする器が必要なんです」
「知を遮る傘……」
フィリアが小さく呟いた。
海は頷いた。
その頷きには、先ほどまでの怯えとは違う色があった。
作る者の目。
恐怖を消したのではない。
恐怖を、設計へ変えようとする目だった。
「形にしてみます」
海はそう言って、資料室の机から少し離れた。
「ここでは、少し狭いかもしれません。作業区画へ戻ってもいいですか」
フィリアはすぐに頷いた。
「はい。海様の魔導具を扱うなら、その方がよろしいかと」
カスミは短く息を吐く。
「やっぱり作る顔だった」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすい」
「ちょっと恥ずかしいですね」
「直らない」
「直らない前提なんですね」
「事実」
三人は資料室を出て、作業区画へ戻った。
中央魔導書庫の近くに設けられたその区画は、通常の魔導実験室とは少し違っていた。
魔導書庫側の術式を受け止めるための記録板。
魔力の流れを逃がすための補助結界。
そして、海のΩ-Codeを展開するための机。
海はその前に立った。
一度だけ、深く息を吸う。
自分の魔力を増やすためのものではない。
自分の力を誇示するためのものでもない。
自分が足を引っ張らないために。
誰かを巻き込まないために。
必要な知識を、必要な人へ、壊さず届けるために。
「僕だけの杖」
海は、ほとんど息のように呟いた。
フィリアは、その横顔を見つめる。
海の赤い瞳の奥に、また何かが走っている。
それは恐怖ではない。
逃げでもない。
何かを作ろうとする者の目だった。
カスミが、短く言う。
「嫌な顔」
「え?」
「また作る顔してる」
「嫌な顔って」
「だいたい当たる」
「ひどいな」
海は苦笑した。
けれど否定はしなかった。
海はΩ-Veinに触れた。
手首の奥で、銀色の光が走る。
次の瞬間、小型化されていたΩ-Codeが展開され、机の上へと立体投影を広げた。
光の線が重なり、円環が組まれ、細い骨組みが空中に浮かび上がる。
最初の線は、まだ頼りなかった。
けれどΩ-Frameの補助表示が海の視界に重なり、線は少しずつ形を持ち始める。
同時に、フィリアとカスミのアークレンズにも、圧縮された設計図が共有された。
フィリアの視界には、魔力流路と安全域が淡い青で示される。
カスミの視界には、負荷、支点、破損予測、逃がしの経路が赤い線で浮かび上がる。
三人は、同じものを見ていた。
けれど、見えている意味はそれぞれ違っていた。
それは最初、杖のように見えた。
だが、次第に形が変わっていく。
長い柄。
展開する骨組み。
魔力を逃がす外縁。
光を受け、散らし、必要な分だけ内側へ落とす膜。
それは杖であり、傘だった。
ただの雨具ではない。
長傘型複合魔導具。
海が扱う知と魔力を、一度受け止めるための器。
フィリアが目を見開いた。
「これは……傘、ですか」
「はい」
海は少し照れたように頷く。
「僕の杖です」
カスミは投影図を見て、目を細めた。
「杖?」
「うん。杖だけど、傘」
「説明になってない」
「えっと。強すぎる光って、そのままだと目を焼くでしょ」
海は投影図に指を伸ばした。
長傘の骨組みが、ゆっくりと開く。
「魔導書庫の知識も同じだと思うんです。全部をそのまま渡したら、受け取る側が壊れる。だから、遮って、選んで、薄めて、必要な形にする器が必要だなって」
フィリアは、息を呑んだ。
「知を遮る傘……」
「はい」
海は静かに言った。
「名前は、天照にしようと思います」
その名を口にした瞬間、フィリアはなぜか息を止めた。
光を遮る傘に、光の神の名を与える。
矛盾しているようで、奇妙なほど似合っていた。
「天照……」
フィリアはその名を繰り返した。
知を遮る傘。
けれど、ただ隠すのではない。
強すぎる光を、誰かが受け取れる形に変えるもの。
「美しい名前です」
フィリアの声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
投影図の中央に光が走った。
《Amaterasu》
文字列が浮かび、すぐに淡い金色へ変わる。
フィリアは、その名を祈るように見つめた。
カスミは、別のところを見ていた。
天照の美しさではない。
その内側に通された魔力流路。
負荷逃がし。
障壁層。
骨組みの支点。
展開部の歪み。
カスミは無言で投影図に指を伸ばした。
赤い補助線が、天照の骨組みに重なる。
「少し、直す」
「え?」
海が顔を上げる。
「ここ、弱い」
「どこですか?」
「全部」
「全部……」
海がしょんぼりした。
カスミは気にしない。
「最初の案としては悪くない」
「それ、褒めてます?」
「最低限」
「最低限」
「このままだと折れる」
「折れるんですか」
「たぶんミュートごと」
「それは困ります」
「だから直す」
カスミの指先が動く。
面倒くさそうな顔をしているくせに、補助線は一度も迷わない。
外縁の角度。
骨組みの重なり。
魔力を受ける膜の張力。
流れを逃がすための溝。
柄の中心を通っていた太い流路が、いくつかに分けられる。
支点の負荷が分散され、骨の節目に小さな余白が作られていく。
「傘は雨を消さない。流す」
カスミが言った。
海の目が、ぱっと明るくなる。
「それ、すごくいいです」
「何が」
「思想です」
「思想じゃない。構造」
「でも、今の言い方、天照の考え方そのものです。知を消すんじゃなくて、流す。受け止めて、逃がして、必要な分だけ落とす」
「勝手に盛るな」
「すみません。でも、気に入りました」
カスミは面倒くさそうに鼻を鳴らした。
それでも、手は止まらない。
海もすぐに投影図へ意識を戻した。
「じゃあ、この外縁部で過剰な魔力を散らして、中心軸で必要な情報だけ抽出して……」
「……ここ、落とす」
「落とす?」
「伝導効率が高すぎる」
「そのままだと、扱いにくい」
「じゃあ、少し抑える?」
「少しじゃない」
「えっと、かなり?」
「かなり」
フィリアは二人のやり取りを見つめていた。
性能を上げる相談ではない。
落とす相談をしている。
それなのに、投影図の光は、見れば見るほど美しく、危うくなっていく。
海は真剣だった。
カスミも、面倒くさそうにしながら、明らかに本気だった。
「ここまで落としたら、通常出力はかなり安定しますね」
「通常なら」
「通常じゃない場合は?」
「ミュートが持つから」
その一言に、フィリアの胸が小さく跳ねた。
海は少し首を傾げる。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのまま」
カスミは視線を逸らした。
「ミュートが持つなら、壊れにくくしないと面倒」
「天照が?」
「それも」
言葉がそこで止まった。
海は気づかなかった。
あるいは、気づきかけて、別の線を追ってしまった。
だが、フィリアには分かった。
カスミが言わなかった続きを。
天照だけの話ではないのだと。
「なら、壊すな」
カスミが短く言った。
海が顔を上げる。
「天照を?」
「……それも」
再び、その先は言わない。
資料室ではない。
作業区画に、投影図の淡い光だけが揺れていた。
海は、少しだけ真面目な顔で頷いた。
「はい。壊さないようにします」
カスミは返事をしなかった。
フィリアも、何も言わなかった。
ただ、天照という名の構想が、机上で少しずつ形になっていくのを見守っていた。
知を受け止める傘。
強すぎる光を、人の手に届く明るさへ変える器。
それはまだ完成品ではない。
けれど、確かに始まっていた。
*
その頃。
シャルロット・デュノアは、一人で中央魔導書庫へ戻っていた。
執務室でのフィリアの様子が、どうにも引っかかっていた。
報告があると言いながら、言葉を止めた。
隠したのではない。
あれは、隠蔽の沈黙ではなかった。
恐れた者の沈黙。
あるいは、守ろうとした者の沈黙。
シャルロットは、長く魔導師団を率いてきた。
人の沈黙にも種類があることくらいは分かる。
中央魔導書庫の扉の前に立つと、管理術式が淡く反応した。
彼女の権限を確認し、重い扉がゆっくりと開く。
奥から、古い紙と魔力の匂いが流れてきた。
シャルロットは杖を掲げ、深層記録への閲覧権限を開いた。
「中央魔導書庫、深層干渉記録。直近の異常反応を表示」
空中に、淡い光の板がいくつも浮かび上がる。
最初に映ったのは、閲覧記録だった。
どの区画に触れたか。
どの分類へアクセスしたか。
どの深層索引が開いたか。
シャルロットは、最初それを「閲覧記録」だと思った。
次に、「事故」だと思った。
深層索引の一部が異常反応を示し、補助術式が過剰に起動した。
そう解釈すれば、まだ理解できた。
その次に、「何者かによる異常干渉」だと考えた。
なぜなら、記録の奥に見慣れない線があったからだ。
魔導書庫の管理術式ではない。
王国式の補助演算でもない。
だが、無秩序ではなかった。
むしろ、恐ろしいほど整っている。
深層索引を安定化させるための補助線。
踏み込んではならない領域へ、入らないために引かれた制限線。
異常な応答を外へ漏らさないための隔離線。
シャルロットは息を止めた。
「これは……」
杖の先端がわずかに震える。
彼女は記録をさらに拡大した。
補助線は、ただ強引に深層へ入り込んだ痕跡ではなかった。
むしろ逆だった。
入りすぎないための線。
壊さないための線。
読まれるべきではないものを、無理にこじ開けないための線。
そして、必要な知識へ辿り着くための道筋。
そんなものが、中央魔導書庫の深層に残されている。
「いったい……何をしたら、こんなことができると言うの」
声は、書庫の静寂に吸い込まれた。
シャルロットは、自分の理解が追いつかないことを認めざるを得なかった。
しかし、それでも最後まで一つだけ、考えなかった。
中央魔導書庫そのものに、道が通された可能性を。
そんなことは、魔導師団長である彼女の常識の外にあった。
魔導書庫とは、読む場所である。
調べる場所である。
許可された知識へ、手順を踏んでアクセスする場所である。
そこに道を作る。
知の海に航路を引く。
そんな発想は、王国魔導理論の中にはない。
これは、人が本を読んだ記録ではない。
魔導士が術式を扱った記録でもない。
知識の海に、別の理を持ち込んだ痕跡だった。
人の領域の外。
その言葉が、シャルロットの喉元まで上がり、飲み込まれた。
言ってしまえば、戻れなくなる気がした。
代わりに、彼女は記録を閉じた。
そして、しばらく目を閉じる。
フィリアが報告できなかった理由が、少しだけ分かった気がした。
あの子は、これを見たのだ。
あるいは、これに近いものを隣で感じたのだ。
そして、海をただ称えることも、ただ危険視することもできず、喉を止めた。
シャルロットは静かに目を開けた。
彼女は、もう見て見ぬふりはできなかった。
中央魔導書庫は、誰かに読まれたのではない。
別の理によって、組み替えられようとしていた。
だからシャルロットは、二度目の呼び出しを命じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
いいねやリアクションは、
海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
続きが気になりましたら、
下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。
いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。
たぶん爆発はしません。




