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EP47:紅の瞳、叡智を貪る [LOG_ARCHIVE]


王都の噂は、まだ冷めていなかった。


赤い白衣の異界娘。


五十七センチの小さな守護者。


石畳の上で五十センチほど跳んで転がった赤髪の異世界人タヤーガ


茶会の席では笑い話として語られ、廊下の隅では尾ひれをつけて囁かれ、使用人たちの間ではすでに半分ほど怪談になっていた。


だが、その噂の中心にいた者たちは、王都の甘い騒がしさから少し離れた場所にいた。


中央魔導書庫。


その深層。


古い紙と魔素の匂いが満ちる、静かな知の迷宮。


光の環が、まだ低く回っていた。


無限演算環とわのことわり


海の背後に浮かぶその環は、完全な起動ではなく、低速回転に抑えられている。


それでも空気は震えていた。


書庫の棚が、壁が、床に刻まれた古い魔導文字が、見えない風に撫でられるように微かに鳴っている。


Ω-Frameの奥で、淡い光が走った。


《Ω-Frame/Ω-Code Direct Link:Stable》


《無限演算環:低速回転維持》


《Delta:Standby》


海は、深く息を吐いた。


指先にはまだ、熱が残っている。


体の内側に、知らない演算の歯車が増えたような感覚があった。


怖い。


正直に言えば、怖い。


けれど、それだけでは止まれない。


この書庫には、答えがある。


自分たちがなぜここに呼ばれたのか。


スキルポイントという、この世界の理不尽な仕様は何なのか。


召喚術式の奥に、何が隠されているのか。


そのどこかに、凛さんへつながる手がかりもあるかもしれない。


海はΩ-Frameの位置を指先で直し、横に立つフィリアへ視線を向けた。


「そうだ。フィリアさんに、受け取ってほしいものがあるんです」


「私に、ですか?」


フィリアが瞬きをした。


治癒領域を張り続けていたせいか、その顔にはまだ少し疲れが残っている。


それでも、海を見る瞳はまっすぐだった。


海は少し照れくさそうに、コートの内側から小さなケースを取り出した。


銀細工の縁がついた、掌に収まるほどの薄い箱だった。


「一応、フィリアさんがいつも身につけている眼鏡のデザインに寄せてみたんですけど」


「眼鏡……?」


「はい。フィリアさんのために作ってみました。もしよかったら、これをつけてもらいたいんですが……迷惑ですか?」


「そ、そんな。迷惑だなんて」


フィリアの声が、少しだけ上ずった。


海がケースを開く。


中には、繊細な銀のフレームに、淡い青を帯びた薄いレンズが収められていた。


華美かびではない。


けれど、神官としてのフィリアの清廉さを壊さない、静かな美しさがあった。


フィリアは、両手でそれを受け取った。


「海様が、私のために……?」


「はい。アークレンズと名付けました」


「アークレンズ……」


「僕のΩ-Frameの派生型です。ただ、Ω-Frameみたいに高出力で解析するものじゃありません。フィリアさんの負担にならないように、共有用と支援用に絞っています」


海は指先で、アークレンズの側面を示す。


「僕のΩ-Frameとリンクすると、僕が見ている情報の一部を共有できます。危険反応とか、魔力負荷とか、僕の状態とか。少しでも、フィリアさんの役に立ちたくて」


フィリアの頬が、目に見えて赤くなった。


「私の、役に……」


「フィリアさんが支えてくれるなら、僕も無茶をしすぎずに済むと思うので」


「本当に、嬉しいです」


フィリアは、アークレンズを胸元に抱きしめるようにした。


「海様が見ているものを、ほんの少しでも共に見られるのなら」


その声は小さかった。


けれど、震えていた。


海はその意味を、半分も読み取れていない顔で頷いた。


「はい。これで通信もできますし、何かあったらすぐに」


そこまで言って、海はふとカスミへ視線を向けた。


カスミは、赤い白衣の袖口を直すふりをしながら、露骨に目を逸らしていた。


下を向き、工具箱をいじり、いかにも「話しかけるな」という空気を全身で出している。


もちろん、海には通じない。


「大丈夫ですよ。ちゃんとカスミの分も用意しています」


フィリアの指先が、ぴたりと止まった。


カスミも止まった。


海だけが、気づかない。


「そんなに、いじけないでください」


ほんの数秒。


深層の書庫に、微妙な沈黙が落ちた。


カスミが、低く呟く。


「ミュート、そういうところだぞ」


「え?」


海が首を傾げる。


フィリアは慌てて微笑んだ。


「は、はい。そうですよね。カスミ様にも必要です。むしろ、私などが持つより、よほど相応しいと思いますわ」


「そ、そんな。フィリアさんにもつけてほしいんです。もちろん、カスミにも」


「本当に分かってない」


カスミは、作業台に肘をついたまま、半眼で海を見た。


「アホミュート」


「え、僕、何か間違えました?」


「道具の出来は悪くない」


カスミは、海から二つ目のケースを受け取った。


こちらはフィリア用より少し細身で、黒銀のフレームに暗赤色の細いラインが入っている。


実用寄りの、いかにもカスミ向けの作業用レンズだった。


「渡し方が最悪」


「渡し方?」


「フィリア、殴っていいよ」


「殴りませんわ!」


「じゃあ私が殴る」


「殴らないでください!」


海は両手を上げた。


本気で何が悪かったのか分かっていない顔だった。


フィリアは、赤くなった顔を隠すようにアークレンズを見つめる。


嬉しい。


それは本当だった。


海が自分のために作ってくれたという事実は、胸が苦しくなるほど嬉しい。


けれど、その直後にカスミの分もあると知って、ほんの少しだけ、胸の奥がしゅんと沈んだ。


自分だけだと思ってしまった。


そう思ってしまった自分が、少し恥ずかしかった。


けれど、海は誰かを軽く扱ったわけではない。


誰かを傷つけようとしたわけでもない。


ただ、海はたぶん、本気で二人を守ろうとしている。


その不器用な善意が分かるから、フィリアは何も言えなかった。


作業台の端で、赤い小型支援機構が小さく身じろぎした。


透明キャノピーの中で、白いウーパールーパー型の存在が低く唸る。


「坊主、女心を分解図で見るな」


「龍さんまで……」


「坂城龍壱だ」


カスミが即座に言う。


「パールは黙ってて」


「お前が一番黙れ」


「水槽」


「だから水槽って呼ぶな」


そのやり取りに、フィリアが小さく笑った。


ほんの少しだけ、胸の奥に沈んだものが軽くなる。


海が言う。


「これで、二人にも僕の情報を少し共有できます。これから書庫を走査するなら、僕一人で見ているより、その方が安全だと思って」


その瞬間、Deltaの機械音声が割り込んだ。


《MASTER》


《アークレンズへの視界共有について、提案があります》


海が顔を上げる。


「Delta?」


《Ω-Frameの取得情報をそのままフィリア様およびカスミ様へ転送した場合、情報量が過多です》


《視覚負荷、魔力酔い、認知遅延、精神疲労の発生が予測されます》


《私の側で情報を圧縮、選別、段階化し、各装着者に適した形式へダウンサンプリングして共有してもよろしいでしょうか》


カスミが、ほんの少しだけ目を細めた。


「いい判断」


フィリアも、真剣な顔で頷いた。


「海様。私は、海様と同じものを見られなくても構いません。必要なのは、海様を支えるための情報です」


海は一度だけ息を吸った。


同期リングを壊しかけた時のことが、頭をよぎる。


同期リングは壊れた。


完璧に作りすぎた。


逃げ道がなかった。


遊びがなかった。


だから、今度は全部を渡さない。


必要なものだけを渡す。


「お願い、Delta。フィリアさんには、僕の精神負荷、魔力負荷、危険反応、治癒タイミングを優先」


《ACKNOWLEDGED》


「それと、一番大事なことだけど、フィリアさんとカスミに危険が及んだ時は、すぐ僕に知らせて」


《ACKNOWLEDGED》


「カスミには、Ω-FrameとΩ-Codeの負荷、熱、歪み、書庫結界の構造、魔力流路の詰まりを優先して」


《ACKNOWLEDGED》


《フィリア様用:支援・治癒判断モード》


《カスミ様用:構造・負荷監視モード》


《アークレンズ個別最適化を開始》


フィリアがアークレンズをかける。


淡い青の光が、レンズの奥で瞬いた。


「……視界に、文字と光が」


彼女の声が、かすかに震える。


「これは、魔法の補助……いえ、違います。もっと、整理されています。海様の状態が、色と数字で……」


カスミもアークレンズをかけた。


こちらのレンズには、青ではなく、赤と白の細い線が走る。


「熱、負荷、同期の歪み……なるほど。視界をそのまま渡してない。こっちは構造だけ見える」


カスミは、ちらりと海を見た。


「少しは学んだじゃない、ミュート」


「カスミのおかげです」


「調子に乗るな」


「はい」


フィリアが、小さく笑った。


その笑みは、まだ少し赤い。


けれど、確かに穏やかだった。


海は二人を見てから、書庫の深層へ向き直る。


「では、始めます」


Ω-Frameの奥で、赤い光が走った。


《ARCHIVE INDEXING:PRE-SCAN》


《中央魔導書庫・総収蔵推定:47,823,991冊》


《今回検出対象階層領域:1,097,246冊》


《階層構造:縦型五層》


《通常読破換算を算出中》


数字が、海の視界に浮かび上がった。


フィリアのアークレンズにも、それは淡い青の表示として共有される。


カスミのレンズにも、構造負荷の端末情報として流れる。


《通常読破換算:87年4か月》


海は、しばらくその数字を見つめた。


そして、ぽつりと呟く。


「……さすがに、八十七年は長いよね」


フィリアの声が、やけに澄んでいた。


「そこではありません。すべて読もうとしていること自体が、人智を超えております」


「えっと……」


「シャルロット様は、長寿種であり、魔導騎士団長であり、王国でも指折りの知の担い手です。その方が、一生をかけても目を通すことすら不可能だと嘆かれた書庫なのです」


フィリアは、海の視界に浮かぶ数字を見つめた。


「それを、八十七年は長い、で片づけないでくださいませ」


「……すみません」


「その規模を前にして、最初に“長い”とおっしゃる方など、海様くらいです」


カスミが低く笑った。


「ミュート基準だと、八十七年は待てないらしい」


「待てないというか……必要な時に間に合わない知識は、武器にならないので」


カスミは作業台に肘をついたまま、海を横目で見た。


「ミュート、今のはフィリアが正しい」


「僕も分かってます」


「分かってる顔じゃない」


「でも、八十七年は、さすがに長いなって」


「そこが分かってないって言われてるの」


「……え?」


フィリアが小さく息を吐いた。


カスミは肩をすくめる。


「ほら。分かってない」


海は少し困ったように笑った。


それから、視界に浮かぶ膨大な数字を見つめ直す。


「全部読むつもりはありません」


フィリアの眉が、わずかに動いた。


「海様。本当に、それだけですか?」


「はい。まずは召喚術式と、スキルポイント体系に関わる資料群だけ拾います」


カスミが即座に言った。


「“まずは”って言った」


「言いました?」


「言った。もう駄目ね」


「駄目って」


フィリアが静かに目を閉じる。


「海様。確認させてください。召喚術式とスキルポイント体系に関わる資料だけ、ですね」


「はい」


「それ以上は?」


「関連が必要なら、最低限だけ」


フィリアは、ゆっくりと目を開けた。


「その“最低限”が、私には一番恐ろしいのです」


カスミが口元だけで笑う。


「フィリア、正解」


「カスミ様まで……」


「ミュートの最低限は、だいたい最低限じゃない」


「そんなことは」


「ある」


「あります」


フィリアまで静かに頷いた。


海は、何か言おうとして、やめた。


Deltaがログを更新する。


《優先資料群スキャン開始》


《条件:召喚術式、スキルポイント体系、魂名関連、世界干渉術式との関連を検出》


《初期抽出対象:14,208冊》


フィリアが少しだけ安堵した。


「一万四千……それでも十分おかしいですが、まだ」


《一次参照展開》


《対象文献:92,441冊》


フィリアが固まった。


「増えておりますわ」


「関連資料です」


《二次参照展開》


《対象文献:318,420冊》


「海様」


「関連資料、その二です」


「その言葉で許される量ではありません」


カスミが口元だけで笑う。


「言い訳の形をした暴走」


海は何か言おうとして、やめた。


視界の中で、本が繋がっていく。


一冊を開けば、十冊の参照が生まれる。


十冊を追えば、百冊の前提が見つかる。


百冊を読めば、そこにない一冊の空白が目立ち始める。


知識は、本棚に並んでいるのではない。


互いに噛み合い、絡まり、欠けた場所を隠しながら、書庫全体でひとつの巨大な術式を作っていた。


海の赤い瞳に、淡い光の糸が映る。


「……本は、単独で読めない」


「海様?」


フィリアが声をかける。


海は、ゆっくりと言った。


「この書庫、本棚じゃないです。知識の回路です」


カスミの目が細くなる。


「続けて」


「一冊の中身だけ読んでも意味がありません。引用、改訂、属性分類、著者の魔力署名、封印の強度、欠落している参照番号。それが全部つながってる」


Ω-Frameの奥で、Deltaが応答する。


《解析方針更新候補を検出》


海は息を吸った。


「Delta、全部を同じ深さで読む必要はない。まず参照頻度、危険度、召喚術式との距離で重みをつけよう」


《Index Weighting Protocol:生成可能》


《実装しますか》


「実装」


《Delta Patch 1》


《Index Weighting Protocol:追加》


《重要度、参照頻度、危険度による処理深度調整を開始》


《Ω-Frame/Ω-Code Direct Link 適用》


《無限演算環:低速回転》


《処理計画を再算定》


《推定所要時間:184日と6時間》


《換算:約6か月》


フィリアが目を見開いた。


「八十七年が、半年に……」


カスミは、小さく息を吐く。


「読んでる途中で、読み方を変えた」


海は首を振った。


「まだ遅いです」


「海様」


フィリアの声が、少し低くなる。


「半年でも、王国の研究機関なら歓喜する速度です」


「でも、今必要なら間に合いません」


「今すぐ必要とは限りません」


「必要になってから探したら、遅いです」


カスミが呟いた。


「ミュート、知識を備蓄食料か何かと勘違いしてない?」


「武器です」


「もっと悪かった」


海は、視界に走る糸を見つめた。


第1階層。


公開閲覧層。


318,420冊。


基礎魔導理論。


属性分類。


初級から中級魔法。


治癒魔法基礎。


魔導具入門。


王国史。


精霊学概論。


それらが、光の粒になって浮かび上がる。


ページがめくられるのではない。


本の背表紙、紙に染み込んだ魔力、注釈の癖、引用された回数、他文献との距離。


それらすべてが、細い線になって海の視界へ流れ込んでいく。


《PHASE 1》


《第1階層・公開閲覧層:318,420冊》


《読破率:0.000%》


《索引化開始》


赤い瞳の奥で、無数の文字が砕け、再配置される。


《読破率:12.481%》


《読破率:38.206%》


《読破率:71.994%》


フィリアのアークレンズには、海の負荷が青から黄色へ傾き始めるのが見えた。


「海様、精神負荷が上がっています」


「まだ大丈夫です」


「大丈夫という言葉の信頼性が、今とても低いです」


カスミが、別の表示を見ながら言う。


「Ω-Frameの熱が上がってる。だけど歪みはまだ浅い。続けるなら、回転数を上げるな」


「了解」


《第1階層・読破率:100.000%》


《第1階層・索引化率:100.000%》


海は一瞬だけ目を閉じた。


第1階層が、頭の中で地図になった。


だが、それは入り口にすぎない。


《PHASE 2》


《第2階層・専門研究層:274,886冊》


《高位属性魔法、複合術式、召喚術式詳細、魔導回路設計、錬成術、魔導兵装、古代文献写本》


《読破率:0.000%》


情報の密度が上がる。


本と本の間に張られた糸が、さらに複雑になる。


海は眉を寄せた。


「Delta、順番が悪い」


《現在、重要度順に処理中》


「違う。重要度だけじゃなくて、引用される順路を追った方が速い。読み終わった本から次を選ぶんじゃない。次に必要になる本を先にキューへ入れる」


《Citation Prediction Graph:構築可能》


「実装」


《Delta Patch 2》


《Citation Prediction Graph:追加》


《引用関係に基づく先読みキュー生成》


《関連文献の前提階層を自動展開》


《処理計画を再算定》


《推定所要時間:31日と11時間》


フィリアが言葉を失った。


「一か月……」


カスミの口角が、ほんの少し上がる。


「本を読んでるんじゃない。読み順を設計してる」


海は頷く。


「本は、読む順番を間違えると、何度も戻ることになるんです。なら、戻らない順番を作ればいい」


「それを今、走りながら作ってるのが気持ち悪い」


「褒めてます?」


「今回は半分だけ」


海は苦笑し、再び視界に集中した。


第2階層の書物が、星図のように回る。


召喚術式の旧版。


属性適性と魂の接続に関する論文。


スキルポイント体系の古い注釈。


古代文字で書かれた魔導回路図。


それらが一本の線ではなく、網になって広がる。


《第2階層・読破率:23.771%》


《第2階層・読破率:49.552%》


《第2階層・読破率:82.309%》


フィリアは、アークレンズ越しに海の意識安定度を見つめていた。


青の輪郭が揺らぐたびに、治癒魔法を薄く流す。


支える。


止めるのではなく、崩れないように支える。


それが今の自分の役割だと、彼女は理解していた。


「海様。呼吸が浅くなっています」


「……はい」


「一度、深く」


海は言われた通りに息を吸う。


カスミが、Ω-Frameの側面に指を伸ばし、外装の熱を確認した。


「熱は許容範囲。だけど、同期が少し硬い。逃げ道を作れ」


「逃げ道……」


「全部きれいに繋げるな。壊れそうなところは、最初から外せるようにしておけ」


海は、少しだけ笑った。


「はい」


《第2階層・読破率:100.000%》


《第2階層・索引化率:100.000%》


《術式系統リンク生成完了》


第2階層が、頭の中で連結した。


同時に、海は気づく。


第3階層から先は、違う。


本が隠れているのではない。


閲覧そのものを拒む構造がある。


《PHASE 3》


《第3階層・制限閲覧層:196,073冊》


《閲覧権限:制限》


《本文閲覧:一部許可》


《封印反応:複数》


フィリアの表情が硬くなる。


「ここから先は、王国でも限られた者しか閲覧できません」


「分かっています」


「分かっている方の目ではありません」


「読めるところだけ読みます」


カスミが即座に言う。


「読めないところを読む気だ」


「読めないところは読みません」


「じゃあ、どうするの」


海は、視界に浮かぶ黒い欠落を見つめた。


「読めないところの、周りを読みます」


フィリアが息を呑む。


「周り……?」


「本文が読めなくても、魔力署名は残ります。封印の強度、引用の欠落、分類番号の飛び、同じ術者が書いた別資料。そこから、何が隠されているかの輪郭だけなら取れます」


カスミが低く笑った。


「ついに空白を読み始めた」


「読んでません。推定です」


「言葉を変えても危ないものは危ない」


Deltaが警告を出す。


《本文非閲覧領域の解析補助候補を検出》


海の赤い瞳が、さらに細くなる。


「Delta、魔力署名でクラスタリングして。本文が読めないものは、署名、封印構造、引用欠落で分類する」


《Mana Signature Clustering:構築可能》


「実装」


《Delta Patch 3》


《Mana Signature Clustering:追加》


《魔力署名、封印構造、引用欠落による非閲覧領域分類を開始》


《本文非閲覧領域の輪郭推定を開始》


《処理計画を再算定》


《推定所要時間:8日と21時間》


カスミの手が止まった。


「九日を切った」


フィリアが小さく首を振る。


「おかしいです。おかしいと分かっていたはずなのに、さらにおかしいです」


海は苦笑した。


「まだ、足りません」


「何にですの」


「全体の構造を見るには」


フィリアのアークレンズに、海の精神負荷が一瞬だけ橙へ振れた。


彼女は迷わず治癒領域を広げる。


「海様、負荷が跳ねました」


「大丈夫です。ありがとう、フィリアさん」


「大丈夫ではない時ほど、大丈夫とおっしゃいます」


「ログに残しておきます」


「反省なさってください」


カスミがぼそりと言う。


「今のフィリア、いい圧」


フィリアは顔を赤くする余裕もなく、海の状態を見続けた。


第3階層の文献は、素直ではなかった。


開くもの。


開かないもの。


途中から黒く塗り潰されるもの。


目録にあるのに、棚に存在しないもの。


棚に存在するのに、目録から消されているもの。


海は、それらを一冊ずつ読んだのではない。


欠け方を読んだ。


沈黙の置かれた場所を読んだ。


書庫が何を隠したいのか、その輪郭を拾っていった。


《第3階層・読破率:12.204%》


《第3階層・読破率:38.771%》


《第3階層・読破率:72.418%》


《権限制限により全文閲覧不可領域を確認》


《補完索引化を実行》


《第3階層・補完索引化率:100.000%》


海は、小さく息を吐いた。


「ここから先は、本文は読めません」


フィリアが安堵しかける。


しかし、Deltaのログは続いた。


《PHASE 4》


《第4階層・禁書層:231,904冊》


《本文閲覧:不可》


《目録閲覧:一部不可》


《封印結界を検出》


フィリアの顔から、血の気が引いた。


「禁書層……」


カスミがアークレンズの表示を覗き込む。


「結界の厚みが違う。これは本棚じゃない。隔壁」


海は頷いた。


「読みません」


フィリアが、強い声で言う。


「海様」


「本当に読みません。ただ、階層の輪郭だけ見ます」


「それも本来は危険です」


「分かっています」


カスミが短く言った。


「触るな」


その声には、冗談がなかった。


「今のは本じゃない。地雷原」


海は、ゆっくり頷いた。


「触りません」


禁書層は、黒かった。


光が当たっていないのではない。


光を拒んでいる。


書庫の中にありながら、書庫から切り離された領域。


そこには、禁呪、禁忌魔法、古代魔導文明の危険技術、世界干渉術式、魔族や天使に関わる禁制資料が眠っている。


だが、海は本文を読まない。


目録も追わない。


ただ、周囲の書物がその領域を避けている形を見た。


流れ込むはずの魔力が迂回している。


引用番号が途切れている。


時代ごとの研究系譜に、空白の谷がある。


そこに、何かがある。


《第4階層・本文読破率:0.000%》


《階層輪郭検出率:100.000%》


《封印結界構造:検出》


《禁書層存在情報:確定》


フィリアは、声を絞り出した。


「海様。そこまでです」


「はい」


海は素直に頷いた。


けれど、視界の端に、さらに深い黒があった。


禁書層の下。


あるいは奥。


そこだけ、書庫が息を止めている。


《異常領域を検出》


《第4階層の下位に、非公開深層を確認》


《権限照合》


《該当なし》


フィリアが、アークレンズ越しにその文字を見た瞬間、表情を変えた。


「海様」


その声は、先ほどよりさらに低い。


「それ以上、言葉にしてはいけません」


「フィリアさん?」


《PHASE 5》


《第5階層・王国最重要機密層》


《推定冊数:75,963冊》


《本文閲覧:不可》


《目録閲覧:不可》


《警告:存在情報そのものが秘匿対象です》


沈黙が落ちた。


禁書層の黒よりも、さらに深い黒。


そこは、本が隠されているのではなかった。


階層そのものが、存在しないことにされていた。


海は息を呑む。


「読めない」


フィリアが、わずかに震えた。


「読めなくてよろしいのです」


「でも、ある」


その一言で、フィリアの顔からさらに血の気が引いた。


「海様。それ以上は、本当に」


カスミは、じっと表示を見ていた。


その目は、恐怖ではなく、理解に近かった。


そして、低く一言だけ漏らす。


「興味がある」


「カスミ様!」


フィリアの声が裏返った。


「今の発言は、絶対に聞かなかったことにいたします」


「聞いたのはそっち」


「なおさら困ります!」


カスミは、アークレンズの奥に走る黒い線を見つめたまま言った。


「読めないものほど、構造が見たい」


「見てはいけません!」


「分かってる。今日は見ない」


「今日は、という言い方をやめてくださいませ!」


海は、表示に手を伸ばしかけて止めた。


自分でも、危ないと思った。


怖い。


でも、気になる。


閉じられた扉は、どうしてこんなに気になるのだろう。


けれど、今は違う。


海は唇を噛み、手を下ろした。


「Delta、第五階層への接触を禁止。存在情報だけをログ化。本文、目録、封印内部へのアクセスはしない」


《ACKNOWLEDGED》


《第5階層:存在感知のみ成立》


《本文読破率:0.000%》


《目録閲覧率:0.000%》


《接触禁止フラグを設定》


フィリアが、ようやく小さく息を吐いた。


「……ありがとうございます」


「僕も、今は触るべきじゃないと思いました」


「今は、ではなく、できれば永遠にそう思ってくださいませ」


カスミが横から言う。


「無理でしょ」


「カスミ様」


「ミュートは、扉があると気にする」


「そんなことは」


海は言いかけて、黙った。


否定できなかった。


Deltaが最終ログを表示する。


《ARCHIVE INDEXING:FINAL CALCULATION》


《総検出階層領域:1,097,246冊》


《通常読破換算:87年4か月》


《Delta Patch 1:Index Weighting Protocol》


《Delta Patch 2:Citation Prediction Graph》


《Delta Patch 3:Mana Signature Clustering》


《処理計画を再算定》


《推定処理時間:302,399.847秒》


《換算:三日半》


フィリアは、声を失った。


カスミも、しばらく何も言わなかった。


三日半。


八十七年四か月と表示された領域を。


シャルロットでさえ、一生かけても目を通すことすら不可能と嘆いた書庫を。


海は、読みながら、読むための仕組みを作り替えた。


読めるものは読んだ。


読めないものは、読まないまま輪郭を取った。


沈黙は沈黙として記録した。


空白は空白として索引化した。


それは、読書ではなかった。


研究でもなかった。


知識の海に沈みながら、その海図をその場で描き換えていく行為だった。


《第1階層・公開閲覧層:318,420冊》


《読破率:100.000%》


《索引化率:100.000%》


《第2階層・専門研究層:274,886冊》


《読破率:100.000%》


《索引化率:100.000%》


《第3階層・制限閲覧層:196,073冊》


《読破率:72.418%》


《補完索引化率:100.000%》


《第4階層・禁書層:231,904冊》


《本文読破率:0.000%》


《階層輪郭検出率:100.000%》


《第5階層・王国最重要機密層:75,963冊》


《本文読破率:0.000%》


《目録閲覧率:0.000%》


《存在感知:成立》


《総合処理結果:通常換算不能》


カスミが、低く笑った。


「読んでる途中で、読むための頭を作り替えたわけね」


海は、小さく頷いた。


「全部を読もうとしたら、間に合わない。だから、読めないものの扱い方を変えました」


「気持ち悪い」


「褒めてます?」


「今回は、かなり褒めてる」


フィリアは、アークレンズ越しに海の負荷を確認していた。


精神負荷は高い。


魔力負荷も高い。


けれど、破綻はしていない。


カスミの表示でも、Ω-Frameは限界寸前ではなかった。


危うい。


だが、壊れてはいない。


フィリアは両手を胸元で握りしめた。


「海様」


「はい」


「三日半で、本当にこれを行うおつもりですか?」


「はい」


「止めても?」


「必要なら、止めてください」


その返事に、フィリアは目を見開いた。


海は、静かに続ける。


「僕はたぶん、気になったら止まれなくなることがあります。だから、フィリアさんとカスミに見ていてほしいんです」


カスミが鼻で笑った。


「自覚はあるんだ」


「少しは」


「少しじゃ足りない」


「努力します」


フィリアは、ゆっくり頷いた。


「分かりました。私は、海様の負荷を見ます。危険だと判断したら、止めます」


「お願いします」


カスミが工具を鳴らす。


「私は壊れそうなところを見る。Ω-Frameも、無限演算環も、ミュート本人も」


「本人も?」


「壊れるでしょ、あんた」


「壊れません」


「その返事がもう信用できない」


海は少し笑った。


その笑みは、怖がっている少年のものだった。


けれど、逃げようとはしていなかった。


《ARCHIVE INDEXING:PHASE EXECUTION STANDBY》


《推定完了時間:302,399.847秒》


《支援者:フィリア様》


《構造監視:カスミ様》


《危険発生時:即時停止推奨》


海は、赤い瞳で書庫を見た。


棚が遠くで揺れる。


本の背が、星のように光る。


深層の底で、誰にも読まれてはならない階層が、静かに沈黙している。


海は囁く。


「始めよう、Delta」


《ACKNOWLEDGED》


《ARCHIVE INDEXING:START》


その瞬間、魔導書庫が動いた。


本が一冊、海の前に浮かぶ。


ページが開く。


文字は、光になる。


光は線になり、線は網になり、網は階層になって、海の赤い瞳へ流れ込む。


フィリアは、アークレンズ越しに海の負荷を見続けた。


カスミは、構造の歪みを見続けた。


Deltaは、流れ込む知識を削り、分け、繋ぎ、圧縮し続けた。


そして海は、書庫を読んだ。


いや。


書庫に沈んだ。


一日目。


第1階層が地図になった。


二日目。


第2階層が網になった。


三日目。


第3階層の欠落が、黒い輪郭を持ち始めた。


そして三日目の夜。


禁書層の下にある、存在してはならない沈黙が、海の視界の端に再び浮かんだ。


触らない。


読まない。


開かない。


そう決めている。


けれど、向こうもまた、こちらを認識した。


《警告》


《存在秘匿階層への外部認識を確認》


表示は、一瞬だけ走った。


次の瞬間、消えた。


海は気づかない。


フィリアも、カスミも、別の警告に目を奪われていた。


ただ、魔導書庫のさらに奥で。


誰にも読まれてはならない階層が。


ゆっくりと、目を開いた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


いいねやリアクションは、

海が勝手にログへ保存しておきます。

凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。


続きが気になりましたら、

下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。


いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。

たぶん爆発はしません。

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