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EP41:魔導書庫の奥にいた赤い白衣 [LOG_ENCOUNTER]


Δ(デルタ)が示した距離は、十二メートルだった。


ひどく近い。


近すぎる。


魔道書庫の奥、偽装された書架の向こう側で、何者かが動いている。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(逃げようとしている)


(ということは、隠れていた自覚がある)


(意図を持って、ここにいた)


(敵か、味方か、それ以外か)


(まだ分からない)


(でも、逃がしたらもっと分からなくなる)


海は足を速めた。


隣で、フィリアも歩調を合わせる。


その杖の握り方が、わずかに変わっていた。


いつもの丁寧な所作ではない。


戦闘に備える魔導士の手つきだった。


「海様、前方に注意してください」


「はい」


《対象、移動速度上昇》


《書架列の陰を利用した回避経路を選択》


「書庫の構造を知っている……」


海は低く呟いた。


ただ逃げているのではない。


どこに死角があり、どこに逃げ道があるか。


それを知った上で動いている。


《警告》


《前方、書架第七列。魔力流路に干渉反応》


「何かある?」


《書架の配置に不自然な重複》


《素材反応、周辺壁面と類似》


《推定:偽装書架》


海は足を止めた。


目の前には、ごく普通の書架が続いている。


古い魔導書。


巻物。


金属板。


水晶の記録媒体。


どれも、ほかの棚と変わらない。


変わらないのに、Ω-Frame(オメガフレーム)の視界では違って見えた。


本の背表紙が放つ魔素の波形が、一か所だけ逆を向いている。


まるで、本棚の一部だけが「本棚のふり」をしているようだった。


「ここだ」


海はそっと手を伸ばした。


左から三冊目。


指先が背表紙に触れる。


冷たい。


本にしては、少し冷たすぎる。


「……偽装の取っ手?」


もう少し奥まで、と手を差し込んだ。


その瞬間。


指先が、本とは違う感触に触れた。


布。


体温。


やわらかな弾力。


そして、明らかに人の気配。


「……え?」


一秒の沈黙があった。


海の頭が、理解を拒否した。


本ではない。


取っ手でもない。


金具でもない。


今、自分の指先が触れているのは、人の身体だ。


しかも。


位置が、まずい。


ものすごく、まずい。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(待って)


(今の感触)


(布)


(体温)


(やわらかい)


(人)


(しかも)


(たぶん)


(胸元)


(終わった)


(完全に終わった)


次の瞬間。


「っ……!」


本棚の奥から、くぐもった声が飛んだ。


がん、と鈍い音がして、海の腕が外側に弾き飛ばされる。


工具の持ち手で叩かれたのだと、海が理解したのは、半歩よろめいた後だった。


「い、痛っ……!」


海は腕を押さえた。


痛い。


普通に痛い。


だが、それ以上に、今の状況が痛い。


フィリアが固まっていた。


状況を理解したのか、頬がかすかに赤い。


「う、海様……今のは……」


「聞かないでください。僕も聞きたくないです」


海は腕を押さえながら、涙目で首を振った。


「事故です。完全に事故です。僕は取っ手だと思って……」


そこまで言って、海はさらに青ざめた。


取っ手だと思った。


言えば言うほど、ひどい。


フィリアは、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。


その沈黙が、海には一番つらかった。


本棚の一部が横へ滑り、その奥に空間が現れる。


そこに、一人の女性がいた。


長い黒髪を、作業の邪魔にならないよう無造作に後ろで束ねている。


深くかぶった作業用キャップが、目元を半分隠していた。


細身で長身。


指先は油で薄く汚れ、掌には工具を握り続けた者だけが持つ硬さがある。


ツナギ。


その上に羽織った赤い白衣。


脇下のホルスターには二丁の銃。


さらに腰には、左右に二本の日本刀。


首には、大きめのヘッドホン。


胸元には、社員証のような金属プレートが下がっている。


ただし、今その胸元は、彼女自身の片腕で押さえられていた。


その仕草が、海にさっきの事故をもう一度思い出させる。


海は目を逸らした。


全力で。


足元には、分解された魔道具の部品が散らばっていた。


歯車。


魔石。


細い銅線。


見慣れない形の小型魔導炉。


まるで、魔道書庫の奥に勝手に工房を作ったような光景だった。


女性は、工具を構えたまま海を睨んでいる。


怒りというより、品定めをしているような目だった。


けれど、今だけはそこに、明確な警戒と苛立ちが混じっていた。


そしてもう一つ。


胸元を押さえたままの腕が、海に「何をしたのか」を容赦なく思い出させてくる。


「……今、どこ触ったか分かってる?」


「分かってます! いえ、分かりたくなかったです!」


「答えになってない」


「本当に事故です。僕は偽装の取っ手だと思って……」


「人の胸を取っ手扱い?」


「違います! 違わないですけど、違います!」


女性の目から、すっと温度が消えた。


「……胸を触ったやつに人権はない」


「事故です!」


海は反射的に叫んだ。


「事故で人の胸を触るな」


「それは本当にすみません!」


海は深く頭を下げた。


本気で。


心の底から。


床に額がつきそうな勢いだった。


フィリアが横で、どう助ければいいのか分からない顔をしている。


その沈黙が、海にはいっそうつらかった。


女性はしばらく海を見下ろしていた。


それから、工具を肩に担ぐように持ち直し、低く吐き捨てる。


「……なんで見つかるのよ」


第一声は、結局それだった。


海は反射的に、もう一度頭を下げる。


「あっ、す、すみません! 怪しい反応があったので、つい……!」


「怪しい反応?」


女性の眉が跳ねた。


「魔道書庫の偽装書架の裏に勝手に隠れ工房を作ってる人を、怪しいと言わずに何と言えば……」


海が言いかけた瞬間、女性がじろりと睨んだ。


「言い切る度胸がないなら、最初から言うな」


「ご、ごめんなさい」


海は反射的に謝った。


その様子を見て、女性はわずかに目を細める。


ほんの一瞬。


その表情に、別の時間の影が差した。


赤い髪。


分厚い眼鏡。


泥の中で泣きながらも、誰かに手を貸そうとしていた小さな背中。


突き飛ばされても謝り続けていた、あの男の子。


それを見ていた、自分。


何もしなかった、自分。


女性は、その記憶を奥歯で噛み潰すように飲み込んだ。


海は、まだ何も知らない顔で右手を差し出す。


「えっと……本当にすみません。初めまして。音無海です」


その瞬間。


女性の目から、温度が消えた。


差し出された手を、しばらく見つめる。


数秒。


ただ、見つめる。


(覚えてないんだ)


心の奥で、何かが静かに、冷たく、固まった。


(やっぱり)


ぱしん。


乾いた音が、書庫の奥に響いた。


海の手が、払いのけられていた。


「……っ」


フィリアが息を呑む。


海も目を丸くした。


女性は笑っていなかった。


怒っているようにも見えた。


傷ついているようにも見えた。


けれど、そのどちらでも足りない顔だった。


「は」


短く、声が漏れる。


「はじめまして?」


女性は、海を睨んだ。


その目の奥で、幼い日の記憶が、錆びた刃物のように光っていた。


「……本気で言ってるの、あんた」


「え……?」


「本当に、覚えてないんだ」


海は何も言えなかった。


女性は、吐き捨てるように笑う。


「そっか」


その声は軽い。


軽いのに、ひどく痛かった。


「ならいい」


「えっと……」


海は戸惑いながらも、女性の胸元に下がった社員証のような金属プレートに目を向けた。


先ほどの事故を思い出し、視線を向けるのに一瞬だけためらう。


けれど、そこには、この世界の文字と、日本語らしき文字が重なるように刻まれていた。


「……イタンジさん?」


その瞬間、女性のこめかみがぴくりと跳ねた。


「はぁ? 鋳鍛地(かなじ)よ。読めないなら無理に読むな」


「あっ、すみません。鋳鍛地さん……って、あの鋳鍛地さんですか?」


「なに。どの鋳鍛地。僕のこと知らないって顔してたくせに」


名前を聞いて、ようやく記憶の端に引っかかった。


話したことはない。


ただ、見かけたことはあった。


同じ会社にいるなら、知らない方が難しい人だった。


鋳鍛地澄架。


若くして主任研究員。


核融合という、まだ誰も正解を持っていない領域に、当然のような顔で踏み込んでいく人。


高いインパクトファクターを持つ論文誌に、何度も名前を連ねていた。


社内報でも、技術誌でも、研究ニュースでも、その名前を見ない日はない。


経済誌の「未来を変える日本人100人」に選ばれていた人。


世界的な研究者。


それなのに海が覚えている姿は、講演台の上ではなかった。


昼休みの屋上。


首に大きなヘッドホンを下げ、誰とも話さず、工具のカタログ雑誌をめくっている姿。


風で白衣の裾が揺れても、ページから目を離さない。


海は、その姿を遠くから見ただけだった。


話しかける勇気はなかった。


というより、話しかけてはいけない人だと思っていた。


あのヘッドホンは、音楽を聴くためというより、世界の雑音を遮るためのものに見えた。


何を聴いているのかは知らない。


ただ、首にかけたヘッドホンから、風に紛れて、低く静かな旋律が漏れていたことだけは覚えている。


工具カタログを読む目だけは、論文を査読している時と同じくらい真剣だった。


まるで世界の未来より、次に買うラチェットの歯数の方が大事だと言わんばかりの顔だった。


「いやいや、知ってますよ。世界的な研究者じゃないですか」


「その割には、最初に読んだのがイタンジだったけど」


「読めなかっただけです。論文ではいつもローマ字表記でしたし」


「社内報は?」


「……見出しだけ見てました」


「それを知らないって言うの」


「違います。記憶と文字情報の照合に時間がかかっただけです」


「言い訳の組み方が気持ち悪い」


「ごめんなさい」


鋳鍛地は、海の顔をじっと見た。


そして、少しだけ目を細める。


「人を変人扱いしておいて、よくそんな顔できるね」


「変人扱いというか、かなり変わった最年少主任研究員だなと……」


「同じ意味」


「すみません」


「僕、あんたの裏の顔も知ってる」


鋳鍛地は、海の腰のギアではなく、海自身を見た。


「KABUTO」


海の顔が、目に見えて引きつった。


「その名前、どこで……」


「五角形の建物で有名な、あそこの防衛網を真っ赤にした高校生ハッカー。界隈じゃ有名。知らない方が無理」


「高校生ハッカーって言い方、やめてもらえますか」


「じゃあ、変身ベルトを腰に巻いた甲虫王子」


「もっとやめてください」


「由来、隠せてると思ってた?」


「……甲虫の外骨格と突破力から取っただけです」


「そう。ならそういうことにしといてあげる」


「本当です」


「防衛網を抜いたあと、侵入経路と修正案を送り返したんでしょ」


「抜いたんじゃありません。脆弱性検証です」


「無許可で?」


「……結果的には」


「結果的に、で済む規模じゃない」


「でも、報告は大事なので」


「署名入りで?」


「匿名だと、追加確認の連絡が取れないじゃないですか」


鋳鍛地は、心底嫌そうな顔をした。


「発想が怖い」


「褒めてます?」


「褒めてない」


鋳鍛地は、海の腰を指さした。


「腰に子供が遊ぶ変身ギアつけて出勤する大人が目立たなくて、誰が目立つって言うの。納得できる理由言える……わけないよね」


「……」


海は言葉を失った。


それは、あまりにも正論だった。


フィリアが、そっと海の腰へ視線を落とす。


(え……異世界の方々は、皆さまあのようなギアを装着されているわけではないのですね……?)


フィリアは真剣な顔で考え込む。


(では、海様は本当に……特別な存在……)


「フィリアさん?」


「は、はい。何でもありません」


何でもある顔だった。


鋳鍛地は、フィリアの反応を見て、露骨にため息をついた。


「この子も相当ね」


「フィリアさんは優秀な魔導士です」


「そういう話じゃない」


「え?」


「もういい。説明するだけ無駄」


鋳鍛地は工具を拾い上げると、分解途中の魔道具へ視線を戻した。


だが、海はそこでようやく、彼女の格好をまじまじと見た。


赤い白衣。


二丁拳銃。


腰の二刀。


首にかかったヘッドホン。


どう考えても、普通ではない。


「……でも、よくそれで僕の変身ギアを馬鹿にできますね」


「は?」


「僕の腰のギアを子供が遊ぶ変身ギアって言いましたけど、あなたも相当ですよ。赤い白衣に二丁拳銃に二刀流って……職場の服装としては、だいぶ尖ってます」


「一緒にしないで」


鋳鍛地は、ぴしゃりと言い切った。


「僕はあんたみたいに、ベルトをつけたまま出勤なんてしない」


「そこなんですか?」


「そこよ。僕はクールビューティーなの」


「自分で言うんですね」


「事実だから」


鋳鍛地は赤い白衣の襟を軽く払った。


「普段は、知性と美貌をひた隠し、インテリジェンスを隠しきれない眼鏡の下で、大人しい格好をして颯爽と出勤する。誰もが一度は振り返る、大企業勤めの美人OLよ」


「自分でそこまで言います?」


「事実だから」


「二回言いましたね」


「大事なことだから」


鋳鍛地は赤い白衣の裾を、わずかに揺らした。


「会社に着いてから、ロッカーで戦闘服に着替えるだけ」


「戦闘服……」


「そう」


鋳鍛地の目が、わずかに熱を帯びる。


「この、赤い外套の悪魔狩りに敬意を捧げた姿にね」


「……それ、かなり趣味ですよね?」


「美学よ」


「言い方を変えただけでは?」


「黙れ、ミュートのくせに」


「ミュート?」


「あんた、音無だからミュートね」


「え?」


「音が無い。だからミュート。分かりやすいでしょ」


「いや、分かりやすいですけど……それ、僕の名前を完全に機能名扱いしてませんか?」


「名前なんて、呼べればいい」


「雑ですね……」


「黙れ、ミュートのくせに」


「今、名前の意味と命令が一致してしまいましたね」


「うるさい」


海は、鋳鍛地の脇下に収まった二丁の銃へ視線を向けた。


「ところで、なんで銃な……」


「右がD。左がT。あんたの視線がうるさいから答えてあげる」


鋳鍛地は、海の疑問を遮るように言った。


「まだ最後まで聞いてませんけど」


「聞かなくても分かる」


鋳鍛地は、今度は腰の二刀へ視線を落とす。


「こっちがHe-ヘリいち。反対がHe-ヘリに


「名前があるんですね……聞いてないけど」


「特別。あんたの目が欲しがってた」


「それ、勝手に教えたかっただけですよね」


「黙れ、ミュートのくせに」


「どれも核融合に必要な元素でしょう。常識よ」


「いや、その常識はかなり限られた人類にしか通じないと思います」


「黙れ、ミュートのくせに」


「はい」


海は、少しだけ黙った。


けれど、視線は鋳鍛地の赤い白衣と、二丁の銃と、腰の二刀に向いたままだった。


「それなら、僕も言わせてもらいますけど」


「何」


「あなたはカナジじゃなくて、異端児だ」


「……」


鋳鍛地の目が、わずかに見開かれた。


一拍。


それから、彼女の口角がほんの少しだけ上がる。


「へえ」


怒るかと思った。


だが、鋳鍛地は怒らなかった。


むしろ、少しだけ楽しそうだった。


「いいじゃない。異端児。褒め言葉として取っておくわ」


彼女は、工具を指先でくるりと回す。


「尖ってなきゃ、至高品なんて作れない。そんなことも知らないの?」


「……なるほど。そこは否定しないんですね」


「否定する理由がないもの」


海は、返す言葉に困った。


フィリアは二人のやり取りを見つめながら、小さく呟いた。


「異端児……」


その言葉は、魔道書庫の奥で静かに響いた。


鋳鍛地澄架。


カナジ。


カスミ。


そして、異端児。


彼女自身もまだ知らない名前が、そこで初めて形を持った。


鋳鍛地の目が、海の服装、腰のギア、手元の装置、そして顔へと順に移る。


観察している。


いや、照合している。


「……あんたも、白い光を見たんだな」


それは問いではなく、確認だった。


海は小さく頷く。


「はい。突然、白い光に包まれて……気づいたら、この世界に」


「同じだ」


鋳鍛地は短く言った。


それきり、口を閉ざす。


海は、慎重に言葉を選んだ。


「鋳鍛地さんも……召喚されたんですか?」


「カスミ」


「え?」


「今は、そう名乗ってる」


答えになっているようで、なっていない。


けれど、それ以上踏み込ませない声だった。


「……カスミさん」


「さん付けもいらない。気持ち悪い」


「じゃあ……カスミ」


「呼び捨てにしろとは言ってない」


「えっ」


「ほんと、相変わらずね」


相変わらず。


その言葉が、海の胸に引っかかった。


覚えていないはずなのに。


知らないはずなのに。


どこかで聞いたような気がした。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(……相変わらず?)


(僕は、この人を知らない)


(いや、本当に?)


(記憶領域に該当データなし)


(でも、反応がある)


(この人は、僕を知っている)


(それも、ただの知人じゃない)


(もっと古い)


(もっと嫌な場所にある記憶だ)


海は、自分の右手を見た。


先ほど払いのけられた手。


そこに残る痛みは、ほんのわずかだった。


けれど、胸の奥に、別の痛みが生まれていた。


フィリアは黙って二人を見ていた。


この女性は、海を責めている。


けれど同時に、自分自身も責めている。


そう感じた。


カスミは背を向け、分解途中の魔道具を乱暴に掴む。


「用があるなら、さっさと言って。ないなら出ていって」


「カスミさん」


「さん付けするなって言った」


「……カスミ」


「何」


「僕は、本当に覚えていない。でも、もし昔、僕が何かしたなら」


「違う」


カスミの声が、鋭く落ちた。


海は口を閉じる。


「何かしたのは、あんたじゃない」


その声は怒っていた。


けれど、怒りの向きが海だけではないことを、フィリアは感じ取っていた。


カスミは低く続ける。


「何もしなかったのは、僕の方」


海は、その意味をまだ理解できなかった。


だが、フィリアは息を呑んだ。


魔道書庫の奥に、重い沈黙が落ちる。


古い本を縛る鎖が、どこかでかすかに鳴った。


フィリアは、その声を聞いて、杖を握る手をわずかに緩めた。


これは敵意ではない。


少なくとも、海様だけへ向けられたものではない。


彼女は、海様を責めながら、それ以上に自分自身を責めている。


そう感じた。


やがて海は、気まずさを振り払うように周囲の書架へ視線を向けた。


「あの……僕がここへ来たのは、まずこの世界の知識を知るためなんです」


「知識?」


「はい。魔導理論、古代術式、魔道具工学、召喚に関する記録……この世界の仕組みを、できるだけ正確に理解したくて」


カスミは鼻を鳴らした。


「いい判断ね」


「え?」


「知らない世界で一番危ないのは、力がないことじゃない。知らないまま動くこと」


その一言に、海は思わず黙った。


乱暴な口調なのに、言っていることは驚くほど正確だった。


「……カスミも、そうやって調べたんですか?」


「他に方法がなかったから」


カスミは短く答えた。


「気づいたらここにいた。外の出方も、この世界の常識も、誰が敵で誰が味方かも分からない。だから読んだ。読んで、試して、壊して、また読んだ」


その声は淡々としていた。


けれど、海は気づいた。


それは淡々としているのではない。


そう言うしかなかった時間が、長すぎただけだ。


「そのうち分かった。この世界は、僕にも何かを押しつけてるって」


「押しつけてる……」


「召喚されたんだから、何かあるんでしょ。力とか、役割とか、意味とか」


カスミは吐き捨てるように言う。


「知らないけど」


その言い方は冷たい。


だが、その冷たさの奥に、捨てきれない怒りがあった。


海は思わず書庫を見渡した。


天井まで届く書架。


無数の魔導書。


古代文字。


術式記録。


それを、一人で読み解いた。


誰の助けも借りずに。


「……すごいですね」


海が呟くと、カスミは鼻を鳴らした。


「こうするしかなかったから」


「外に出なかったんですか?」


「出方が分からなかった。でも、そのうち、出なくてもよくなった」


淡々とした声だった。


だが、その奥に何かが沈んでいる。


フィリアは黙って聞いていた。


この女性は、召喚されてからずっと一人だった。


知識だけを頼りに、この世界を生き延びてきた。


その孤独の重さを、言葉にしていない。


やがて、海は小さく息を吸った。


「それで……実は、もう一つ見てもらいたいものがあります」


「何」


「ここに来た目的とは別なんですけど、僕が作っているΩ-Frame(オメガフレーム)の部品です。昨日、試作した同期リングが壊れてしまって」


「壊れた?」


その言葉に、カスミの目が変わった。


さきほどまでの冷淡さが消える。


職人の目だった。


「見せて」


「え?」


「壊れたものがあるなら、見せなさい」


海は鞄の中から、割れたリングの破片を取り出した。


黒銀の細い輪。


ほんの一瞬だけ機能して、砕けた試作品。


カスミは海の手から破片を取り上げ、光にかざした。


細い目で、断面を確認する。


指先で触れ、割れ方を確かめる。


匂いを嗅ぐように近づけ、魔石粉の残留を確かめる。


海とフィリアは、思わず黙った。


「……逃げ道がない」


「え?」


「素材の結合が均一すぎる。だから、負荷が一点に集中して割れた」


海の呼吸が止まった。


昨夜、自分がたどり着けなかった答えを、彼女は破片を見ただけで言った。


「魔力の逃げ場を設けていない。理論上は完璧に見えるけど、実際に使う人間の揺らぎを受け止める余白がない」


「余白……」


「完璧に作りすぎたのよ。それが失敗の原因」


カスミは破片を海に返した。


その目に、かすかな熱がある。


怒りではない。


興味でも足りない。


職人が、壊れたものの中に可能性を見つけた目だった。


「理論上は綺麗。でも、実物は綺麗すぎると壊れる」


その言葉は、破片に向けたものだった。


けれど海には、なぜかカスミ自身のことを言っているようにも聞こえた。


「もう一度、作るつもり?」


「はい」


「どうせ同じ失敗をする」


「え……」


「あんたは理論で組む。だから、使う人間の手触りが入っていない」


カスミはそう言って、足元の工具箱を見下ろした。


しばらく黙る。


やがて、ため息をついた。


「……見せてあげる」


「え?」


「素材工学なら、少しは分かる。あんたの失敗、たぶん直せる」


海は目を見開いた。


「本当ですか?」


「疑ってるなら別にいいけど」


「いえ、是非お願いします」


「面白そうだから。それだけ」


その声は冷たかった。


だが、工具を手に取る指先は、すでに動く気でいた。


《MATERIAL ANALYSIS SUPPORT READY》


デルタの声が響く。


カスミはぴくりと眉を動かした。


「その声、さっきからうるさい」


《COMMENT:音声出力レベルを調整可能》


「しゃべるなとは言ってない。余計なことを言うなって言ってる」


《ACKNOWLEDGED》


「……妙に素直で腹立つ」


《補足。対象カスミの判断は、素材破損解析において高精度と推定》


「推定じゃない。見れば分かる」


《ACKNOWLEDGED》


「だから妙に素直で腹立つって言ってるの」


海は苦笑する。


「デルタは補助演算なので」


「補助演算ね」


カスミは海の腰のギアを見る。


「玩具みたいな見た目のくせに、中身は馬鹿みたいに高度」


「玩具みたい……」


海は少しだけ胸を押さえた。


その言い方は、褒めているのか、貶しているのか、判断が難しかった。


やがて、通路の先に小さな作業台が現れた。


工具。


魔石。


紙片。


分解途中の魔道具。


壁には、無数の設計図が貼られている。


この世界の文字。


日本語。


数字。


図形。


歯車の構造図。


魔力流路。


材料強度のメモ。


それらが乱雑に貼られ、しかし明らかな秩序を持って配置されていた。


海は息を呑んだ。


「これ、全部……カスミが?」


「ほかに誰がいるの」


「……すごい」


「二回目」


「でも、本当にすごいです」


「褒めても何も出ない」


「いえ、出してほしくて言ったわけじゃ……」


「そういうところ」


「え?」


「相変わらず、調子狂う」


カスミは工具箱を作業台に置いた。


フィリアは、その光景を黙って見ていた。


二人の召喚者。


片方は魔道書庫の外で、力と仲間を得た。


もう片方は書庫の中で、知識と技術だけを磨いた。


まったく違う場所にいたのに、同じ世界から来た。


そして今、割れたリング一つを挟んで向き合っている。


海はカスミを見る。


「カスミ」


「……何」


「さっき、相変わらずって言いましたよね」


カスミの指が止まった。


「覚えてないのに、何でそれを聞くの」


「分からないからです」


海は正直に答えた。


「でも、分からないまま終わりにしたくないので」


沈黙が落ちた。


カスミはしばらく、工具箱を見下ろしていた。


答えは出なかった。


だが、逃げるような気配もなかった。


「……あとで」


かすかな声が、書庫の奥に落ちた。


「今は、これを直すのが先」


海は頷いた。


「はい」


カスミは破片を作業台に置き、細い工具を選び取る。


その手つきは、鋭く、迷いがない。


傷ついたものを前にしたときだけ、彼女は驚くほど静かだった。


「まず、素材を変える」


「何に?」


「硬すぎるものじゃない。少し歪むもの。衝撃を逃がせるもの」


「魔力伝導率は落ちませんか?」


「落ちる。でも割れるよりマシ」


「確かに」


「あと、内部に逃がし溝を入れる」


「逃がし溝?」


「負荷を一か所に溜めないための通路。人間で言うなら、息継ぎみたいなもの」


「息継ぎ……」


海はその言葉を反芻した。


魔道具に息継ぎをさせる。


理論だけでは出てこない発想だった。


海は、その一言を頭の中で何度も転がした。


息継ぎ。


逃げ道。


余白。


それは、ただリングを直すための言葉ではない気がした。


自分が見ている世界を、誰かと共有するために必要な考え方。


そして、いつか自分自身が壊れないためにも、必要な考え方だった。


「カスミは、すごいですね」


「三回目」


「でも、やっぱりすごいです」


「うるさい」


そう言いながら、カスミの耳がわずかに赤くなっていた。


フィリアはその変化を見逃さなかった。


けれど、何も言わなかった。


この女性は、褒められることに慣れていない。


認められることにも、きっと慣れていない。


カスミは工具を動かしながら、ぼそりと呟いた。


「……あんた、昔からそうだった」


海は顔を上げる。


カスミはしまったという顔をしたが、今度は取り消さなかった。


「昔から?」


「あとでって言った」


「……はい」


「今は黙って見てて。ミュート」


「それ、やっぱり定着させるんですね」


「嫌なら音を出せば?」


「無理です」


「じゃあ決定」


カスミは小さく息を吐いた。


今度は、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


魔道書庫の深層で、細い光が揺れる。


割れたリングは、まだ直っていない。


過去の記憶も、まだ明かされていない。


けれど、何かが動き始めていた。


知識だけを頼りに生きてきた異端児と、仲間を得ながらもまだ迷っている少年が、同じ破片を前にして、初めて同じ方向を向いた。


それだけで、今日は十分だった。


海にとっては。


鋳鍛地カスミが、まだ一度も過去から目を逸らせていないことを除けば。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


いいねやリアクションは、

海が勝手にログへ保存しておきます。

凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。


続きが気になりましたら、

下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。


いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。

たぶん爆発はしません。

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