EP35:本が眠る場所で。少年は世界の説明書を探しに行く
訓練場を出た海は、迷わずフィリアのもとへ向かった。
昼下がりの中庭。
噴水の水音が、陽射しの中でやわらかく弾けている。
石畳の脇には色とりどりの花が咲き、風が吹くたび、淡い香りが揺れた。
その奥。
花々に囲まれたベンチに、フィリアは一人で腰かけていた。
膝の上には、分厚い魔法書。
水色の外套が陽光を受け、ページをめくる指先まで、どこか絵画めいて見える。
海は、思わず足を止めた。
「……完全に、王道ファンタジーの図書館系ヒロイン待機シーンだ」
小さく呟いてから、はっとする。
違う。
観察している場合ではない。
今日は目的がある。
世界の知識を集めるため。
そして、Ωコードの奥で眠る、まだ名もない知性核に、この世界を教えるため。
海は息を整えた。
「あの、フィリアさん」
呼びかけると、フィリアが顔を上げた。
ぱたん、と静かに本が閉じられる。
「あら、海様」
彼女はにこりと微笑んだ。
「どうされました?」
「ちょっと、聞きたいことがありまして」
「はい」
「えっと……この世界に、図書館ってありますか?」
フィリアは一瞬だけ目を瞬かせた。
「図書館、ですか?」
「はい。できれば、魔法関係の本がたくさんある場所で、古い文献とか、術式資料とか、歴史書とか、神殿関係の記録とかがあると助かるんですが」
言ってから、海は自分で気づいた。
要求が多い。
しかも、かなり怪しい。
「す、すみません。急に情報収集欲が爆発しました」
「情報収集欲」
フィリアは少しだけ笑った。
「海様らしいですね」
「僕らしいですか」
「はい。とても」
フィリアは本を膝の上に置き、少し考えるように視線を上げた。
「図書館という言い方に近い場所なら、あります。正確には、中央魔導書庫と呼ばれています」
海の眼鏡の奥が、きらりと光った。
「中央魔導書庫」
その響きだけで、胸の奥に待機音が鳴る。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(中央魔導書庫)
(名前がもう強い)
(絶対に地下階層がある)
(禁書棚がある)
(閲覧許可ランクがある)
(奥に浮いてる水晶端末とか、封印された古文書とかある)
(……行きたい)
(いや違う。研究だ)
(でも、めちゃくちゃ行きたい)
フィリアは、そんな海の内心など知らず、穏やかに説明を続けた。
「魔導騎士団の管理下にある、王国最大級の知識保管施設です。古今東西の魔導書、研究文献、歴史資料、術式記録、魔物の観測記録などが収められています」
「良かった……」
海は心底安心したように息を吐いた。
「やっぱり、知識の集積所って存在するんですね」
「海様は、本当に本がお好きなのですね」
「本というか、知識がある場所が好きなんです。分からないものを分からないままにしなくて済むので」
海は、胸元にしまったΩコードにそっと触れた。
「今、少し研究をしていて……どうしてもこの世界の知識が必要なんです」
「研究」
フィリアの目が、少しだけ細くなる。
責めるようではない。
ただ、海の言葉の奥にあるものを丁寧に見ようとしている目だった。
「また、何か新しいことを始めようとしているのですね」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「自分でも、どこまで大ごとなのか分かっていなくて」
海は苦笑した。
「でも、必要なんです。この世界の魔法も、歴史も、神話も、召喚者の記録も、ちゃんと知りたい。知らないまま力だけ大きくなるのが、一番怖いので」
フィリアは、しばらく海を見つめていた。
噴水の音が、二人の間に落ちる。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「海様は、不思議な方です」
「よく言われます」
「ふふ。でしょうね」
フィリアは少しだけ笑い、それから視線を落とした。
「魔法が使えないように見えたと思えば、騎士団の記録を塗り替えるようなことをなさる。周囲が驚いても、ご自身はそれを当然のように受け止めているようで……でも、本当はとても怖がっている」
海は言葉に詰まった。
「私は、少し羨ましいと思ったこともあります」
「え?」
「海様は、知ろうとしています。変えようとしています。自分が分からないものから、目を逸らさずに向き合おうとしている」
フィリアの声は、静かだった。
「私は昔から、できることは多かったです。でも、何かを知りたい、変えたいと強く願うことは、あまりありませんでした」
風が吹く。
ページの端が、ぱらりと揺れた。
「だから、尊敬しています」
「尊敬……僕を、ですか?」
「はい」
フィリアは迷わず頷いた。
「怖がりながら、それでも知ろうとする人は、強いと思います」
海は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分は、そんな立派なものではない。
ただ、凛を助けたいだけだ。
自分の力で誰かを傷つけるのが怖いだけだ。
分からないまま進むのが、不安なだけだ。
けれど。
その怖さを、フィリアは否定しなかった。
「……ありがとうございます」
海は、少し照れくさそうに頭を下げた。
フィリアは立ち上がる。
水色の外套が、花の香りをまとって揺れた。
「ただし、海様」
「はい」
「中央魔導書庫は、簡単に入れる場所ではありません」
その声に、海は背筋を伸ばした。
「やっぱり、許可が必要ですか」
「はい。あそこは王国の叡智が眠る場所です。魔導騎士団の訓練資料だけでなく、王国の機密文献や、危険な術式記録も保管されています」
「危険な術式記録……」
海の眼鏡の奥が、また少し光る。
フィリアが即座に釘を刺した。
「海様」
「はい」
「今、興味を持ちましたね」
「持ってません」
「本当ですか?」
「……少しだけ」
「少しだけ、で済む顔ではありませんでした」
海は視線を逸らした。
フィリアは困ったように笑う。
「中央魔導書庫は、シャルロット様の管轄です。あの方は、知識をとても大切にされています」
「シャルロット団長が」
「はい。魔導書庫については、命より大切にしていると言っても過言ではありません」
「命より」
「はい」
海は想像した。
シャルロット団長。
王国最強の魔導士。
冷静で、鋭くて、戦場で一歩も引かない人。
その人が、本を守る側に立つ。
「……図書館のラスボスだ」
「らすぼす?」
「いえ、知識を守る最終関門という意味です」
「それは、たぶん合っています」
フィリアは小さく笑った。
「閲覧許可が必要です。私からも説明しますが、最終的に判断するのはシャルロット様です」
「お願いします」
海は深く頭を下げた。
「どうしても必要なんです。中央魔導書庫に入る許可をいただけるよう、シャルロット団長に会わせてください」
フィリアは少しだけ驚いたように海を見た。
それから、やわらかく微笑む。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ちょうど私も、探したい文献がありましたから。ついでに交渉役をして差し上げます」
「助かります」
「でも」
フィリアの表情が、少しだけ真剣になる。
「覚悟してくださいね。シャルロット様は、知識を守るためなら、誰に対しても容赦しません」
海は、唾を飲み込んだ。
「はい」
「それと」
「はい」
「禁書という言葉に、目を輝かせないこと」
「努力します」
「努力ではなく、約束してください」
「……約束します」
フィリアは満足げに頷いた。
二人は中庭を出て、王城の奥へと向かった。
◇ ◇ ◇
王城の奥深く。
蒼い魔力の結界が張られた廊下を、海とフィリアは進んでいた。
壁には古い魔法陣が刻まれ、一定間隔で設置された魔導灯が、青白い光を落としている。
足音が、妙に大きく響いた。
「……ここ、明らかに普通の廊下じゃないですね」
「シャルロット様の執務区画に近い場所ですから」
「防犯レベルが高そうです」
「ぼうはん?」
「えっと、不審者が入らないようにする仕組みです」
「それなら、とても高いです」
「ですよね」
海は廊下の壁をちらりと見る。
魔法陣。
結界。
認証らしき紋様。
魔力の流れ。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(この廊下、完全にアクセス制御エリアだ)
(多層認証)
(侵入検知)
(たぶん床にも罠がある)
(魔力署名が合わないと警報が鳴るタイプ)
(……見たい)
(いや、見るだけ)
(触るな音無海)
(絶対に触るな)
海は両手を体の前でぎゅっと握った。
フィリアが横目で見る。
「海様」
「触りません」
「まだ何も言っていません」
「先に宣言しておきました」
「賢明です」
やがて、二人は一枚の扉の前に着いた。
重厚な木製の扉。
銀の金具。
中央には、深緑の紋章。
扉の前に立つだけで、空気が少し冷たくなる。
フィリアが軽くノックした。
「入りなさい」
中から、静かな声がした。
扉を開ける。
そこは、簡素だが美しい執務室だった。
壁一面に書棚。
机の上には整然と積まれた書類。
窓際には、魔導水晶と羽根ペン。
そして、その机の前に、シャルロット・デュノアが座っていた。
深緑の長髪が、肩に静かに流れている。
彼女は筆を走らせていた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……何の用かしら」
その瞳は、氷のように冷ややかだった。
海は反射的に背筋を伸ばす。
昨日まで訓練場で話していた相手と同じ人物のはずなのに、今はまるで別人に見える。
戦う魔導士ではない。
知識の門番。
そう呼ぶ方が近かった。
フィリアが一歩前へ出て、恭しく頭を下げる。
「シャルロット様。海様に、中央魔導書庫の閲覧許可をいただきたく参りました」
「中央魔導書庫?」
シャルロットの眉が、ぴくりと動いた。
室内の温度が、一段下がった気がした。
「理由は?」
フィリアは海を見る。
海は小さく頷き、一歩前に出た。
「この世界の魔法体系を学びたいんです」
シャルロットは黙っている。
海は続けた。
「僕は、自分の力のことをまだ何も分かっていません。魔力の量も、Ωコードの反応も、女神様から授かったものの意味も」
言葉を選びながら、それでも逃げずに話す。
「このままでは、何かを間違える気がします。だから、知識が必要です」
「知識」
シャルロットは、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「あなたが求めているのは、ただの知識ではないでしょう」
海は息を呑む。
「中央魔導書庫は、王国の叡智が眠る聖域よ」
シャルロットは立ち上がった。
「寿命の長いエルフでさえ、読破という概念を持たない。数百年をかけて知を積み重ねる場所。魔導書、古文献、術式記録、戦争記録、神殿資料、契約書、迷宮図。そこには、王国の骨が眠っている」
王国の骨。
その表現に、海の背筋が冷えた。
「その価値を、あなたが理解しているとは思えない」
シャルロットの声は厳しい。
だが、侮っているわけではない。
試しているのだ。
海が、本当に知識に触れる覚悟を持っているのか。
「分かっている、とは言えません」
海は正直に答えた。
フィリアが少しだけ目を見開く。
シャルロットの瞳が、わずかに細くなる。
「僕は、この世界の人間ではありません。魔導書庫がどれほど大切なのか、全部は分かっていません」
海は頭を下げる。
「でも、分かっていないからこそ、軽く扱いたくないんです」
部屋が静まった。
「危険な書物があるなら触れません。許可された範囲だけを読みます。記録していいものと、いけないものを確認します。勝手に持ち出しません。勝手に解析もしません」
そこで、海は少しだけ苦い顔をした。
「昔、知りたいという気持ちだけで、よくない場所に踏み込みかけたことがあります。だから、今回はちゃんと許可を取りたいんです」
シャルロットは、海を見つめた。
その瞳の冷たさが、ほんの少しだけ変わる。
「あなたにしては、ずいぶん慎重ね」
「怖いからです」
海は即答した。
「知識も、力と同じだと思います。使い方を間違えたら、人を傷つける。だから、ちゃんと学びたいんです」
フィリアの表情が、わずかに和らいだ。
シャルロットは、しばらく何も言わなかった。
沈黙が長い。
長すぎる。
海の胃が、内側から小さく潰れていく。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(これ、完全に入場許可判定イベントだ)
(選択肢を間違えたら、図書館ルートが閉じるやつ)
(頼む)
(中央魔導書庫ルート、開いてくれ)
(まだ名もない相棒に、世界の説明書を読ませたいんだ)
やがて、シャルロットは小さく息を吐いた。
机の引き出しを開ける。
そこから、細長い鍵を取り出した。
銀色の鍵。
先端に、青い魔石が埋め込まれている。
「いいでしょう」
海の顔が上がる。
「本当ですか」
「ただし、条件があります」
シャルロットの声が鋭くなる。
海は即座に背筋を伸ばした。
「はい」
「一つ。必ずフィリアを同行させること」
「はい」
「二つ。指定区画以外へ立ち入らないこと」
「はい」
「三つ。危険書物には触れないこと。特に、迷宮図と契約書には絶対に手を出さないこと」
「迷宮図と契約書……」
「海様」
フィリアの声が横から刺さる。
「今、少し興味を持ちましたね」
「持ってません」
「本当ですか」
「……名称だけ、少し」
シャルロットの目が冷たくなる。
「触れたら、書庫から叩き出すわ」
「触りません!」
「四つ。読んだ内容を、許可なく口外しないこと」
「はい」
「五つ。Ωコードによる記録、複写、解析は、許可した文献に限ること」
海は息を呑んだ。
そこまで見抜かれている。
「……はい。約束します」
シャルロットは鍵を差し出した。
海は両手でそれを受け取る。
鍵は、思ったより冷たかった。
そして、思ったより重かった。
「あなたがどれほどの知を求めているのか」
シャルロットは、静かに言った。
「見極めさせてもらうわ」
海は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に扱います」
「当然よ」
シャルロットは椅子に戻る。
「知識は、刃より危険なことがある。忘れないで」
その言葉は、海の胸に重く残った。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が閉まったあと、海はようやく息を吐いた。
「……試験を受けてるみたいだった」
「ふふ」
フィリアが小さく笑う。
「あれでも、だいぶ優しい方ですよ」
「本当ですか」
「本当です」
フィリアは廊下を歩き出す。
海も慌てて隣に並んだ。
「本来のシャルロット様は、知識を守るためなら、誰であろうと容赦しません」
「そんなに」
「はい。中央魔導書庫で規則を破った魔導士が、三日間、入門魔導理論の写本をさせられたことがあります」
「罰が図書館らしい……」
「しかも、誤字一つにつき最初からやり直しです」
「怖い。普通に怖い」
フィリアは楽しそうに笑った。
廊下の先。
蒼い結界の向こうに、別の通路が見える。
そこから先は、空気が違った。
湿った紙の匂い。
古い木の香り。
かすかな魔力の気配。
海の胸が高鳴る。
「……本当にあるんですね」
「はい」
フィリアが頷く。
「本が眠る場所です」
その言葉に、海は鍵を握りしめた。
本が眠る場所。
世界の記憶が、棚の奥で息を潜めている場所。
まだ名もない知性核に、この世界を教えるための場所。
そして。
音無海が、自分自身の仕様書を書くための場所。
「行きましょう」
フィリアが言った。
海は頷く。
「はい」
二人は、中央魔導書庫へと歩き出した。
このあと、海がその場所でどれほど規格外のことをしでかすのか。
まだ、誰も知らない。
ただ、Ωコードの奥深くで。
名もない知性核だけが、静かに瞬いていた。
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