EP36:知の聖域へ。嫉妬は扉の前で品位を落とす
中央魔導書庫へ続く回廊は、王城のほかの区画とは明らかに空気が違っていた。
天井は高く、壁面には古い魔法陣が幾重にも刻まれている。
その魔法陣の内側には、膨大な文献目録が封じられ、青白い文字列となってゆっくりと浮遊していた。
魔導史。
属性論。
召喚記録。
迷宮観測図。
古代契約書。
禁術分類。
目録だけで、ひとつの都市ができそうな密度だった。
足元の石畳には、淡い魔力の流れが絶えず走っている。
ただの装飾ではない。
認証。
監視。
防護。
侵入検知。
そして、おそらくは排除。
海は、思わず喉を鳴らした。
「……ここ、廊下じゃなくて、もうセキュリティそのものですね」
隣を歩くフィリアが、少しだけ声を落とす。
「ここから先は、王国でも限られた者しか立ち入れない領域です」
いつもの柔らかい声ではある。
けれど、その奥に緊張があった。
「シャルロット様があれほど慎重だった理由、歩くだけでも分かるでしょう?」
「はい」
海は、壁に浮かぶ目録の一つを見上げた。
文字は読める。
けれど、意味の深さまではまだ掴めない。
それでも分かる。
ここには、ただの本があるのではない。
王国という巨大な生き物の記憶が眠っている。
「ここには、王国の千年分の叡智があります」
フィリアは静かに続ける。
「そして、場合によっては国を滅ぼす知識も」
その言葉に、海の背筋が少し冷えた。
知識は便利な道具ではない。
使い方を間違えれば、刃になる。
シャルロット団長が言った通りだった。
「……この世界だと、本当に知識そのものが力なんですね」
「ええ」
フィリアは小さく頷く。
「海様のように、知を武器にする方には、きっと合っている場所です」
「知を武器にする、ですか」
「はい。でも、だからこそ危険でもあります」
フィリアは海を見る。
「海様は、知りたいと思ったら、立ち止まらずに奥まで行ってしまいそうですから」
「……否定しにくいです」
「そこは否定してください」
「努力します」
「努力ではなく、約束してください」
「約束します」
フィリアは、ようやく少しだけ笑った。
海も苦笑する。
けれど、胸の奥では別の音が鳴っていた。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(中央魔導書庫)
(王国千年分の叡智)
(国を滅ぼす知識)
(多層セキュリティ付きの知識保管施設)
(完全に重要ダンジョンだ)
(しかも戦闘力じゃなくて知識で攻略するタイプ)
(奥に絶対、封印端末か、喋る本か、古代AIみたいなのがいる)
(……行きたい)
(違う。調査だ)
(でも、心の待機音が止まらない)
胸元のΩコードが、わずかに反応した気がした。
《周辺情報密度:高》
《文献目録反応を検出》
《学習データ候補:多数》
海は小さく端末を押さえる。
「まだ。まだ入ってないから」
「海様?」
「いえ、こっちの話です」
フィリアは何かを察したように、軽く息をついた。
「Ωコードも、興奮しているのですか?」
「たぶん、僕も含めて全体的に興奮しています」
「正直ですね」
「隠しきれませんでした」
二人の足音が、静謐な回廊にゆっくりと響く。
前方には、巨大な扉が見えてきた。
黒い木材。
銀の装飾。
中央には、蒼い魔石を抱いた鍵穴。
扉そのものが、まるで眠っている巨大な獣のようだった。
その先に、海がまだ想像もしていない知の迷宮が待っている。
だが。
その二人の背中を、遠くから睨みつける視線があった。
訓練場脇へ続く階段の影。
そこに立っていたのは、エドガー・フォン・シュタインベルクだった。
「……またか」
声は、喉の奥で擦れていた。
海。
そして、フィリア。
二人が並んで、中央魔導書庫へ向かっている。
その光景は、エドガーの胸の奥に、重い澱のように沈んでいった。
(また、あいつだ)
(また、あいつが特別扱いされる)
(また、あいつの隣にフィリアがいる)
指先が震える。
昨日、ヴィルヘルムから渡された黒革の小冊子。
《対神性存在対応魔導開発計画》
《E・G・S》
その文字は、まだ脳裏に焼きついている。
自分は終わらない。
そう決めた。
それなのに。
また、目の前で音無海が扉を開こうとしている。
自分が長年かけて許可を得た場所へ。
自分たち貴族魔導士が、敬意と段階を踏んで近づく場所へ。
あの異世界人が。
フィリアに導かれて。
簡単に。
「……ふざけるな」
エドガーは、足を踏み出した。
回廊へ、割って入る。
「少し待っていただこうか」
その声に、フィリアが振り返った。
海も足を止める。
「エドガー……?」
エドガーは、海の呼び方に苛立ったように眉を動かした。
「お前に名を呼ばれる筋合いはない」
海は困ったように口を閉じる。
フィリアが一歩、前に出た。
「何か御用ですか、エドガー」
その声は丁寧だった。
けれど、温度は低かった。
エドガーは冷笑を浮かべる。
「御用? それはこちらの台詞だ」
彼は海を睨んだ。
「お前は、何の権限があって中央魔導書庫へ入ろうとしている?」
海は答えようとした。
だが、エドガーは続ける。
「まさかとは思うが、異世界から来たというだけで、王国の叡智に触れられると思っているのか?」
回廊の空気が、重くなる。
「中央魔導書庫は、我が国の知の中枢だ。そこには王国の機密も、古代の術式も、神殿関連の文献もある」
エドガーは、一歩近づく。
「そんな得体の知れない輩に、やすやすと触れさせていいものではない」
「得体の知れない……」
海の肩が、わずかに縮こまる。
その反応を見て、エドガーの目が細くなった。
「もちろん、許可は取ってあるのだろうな?」
彼の声には、勝ち誇った響きがあった。
(どうせ取っていない)
(フィリアを頼って、ここまで来ただけだ)
(そうだろう)
(そうであってくれ)
エドガーは、自分の中にある願望に気づかないふりをした。
「父上なら、きっと私と同じ賢明な判断を下すだろう」
その言葉に、フィリアの表情が変わった。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
いつもの柔らかさが、すっと引いた。
「エドガー」
「何だ」
「それは、あなたの見解ですね」
「……は?」
フィリアは、静かに言った。
「海様は、王直下魔導騎士団の正式団員です」
エドガーの眉が動く。
「さらに、シャルロット団長の直接認可のもと、研究支援のため中央魔導書庫の条件付き閲覧許可を得ています」
「な……」
「同行者は私。閲覧範囲は指定区画内。Ωコードによる記録、複写、解析にも制限が設けられています」
フィリアの言葉は淀みなかった。
「すべて正式な手続きです」
エドガーの口元がひくついた。
「正式……だと?」
「はい」
フィリアは一歩も引かない。
「ですので、あなたの意見が入る余地は、最初から存在しません」
その言葉は、刃のようだった。
静かで。
細くて。
正確に急所へ届く刃。
エドガーの顔から、血の気が引いていく。
「フィリア……お前」
「もう一つ」
フィリアは、彼の言葉を遮った。
「嫉妬は、誰にでもあります」
その声は、責めるためだけのものではなかった。
けれど、優しくもなかった。
「ですが、それを正義の顔で語り始めると、とても見苦しいです」
海は息を呑んだ。
エドガーの目が、見開かれる。
「……この俺様が、嫉妬だと?」
「違いますか?」
「違う!」
声が回廊に響いた。
浮遊する文献目録の文字列が、わずかに揺れる。
「私は王国のために言っている! 得体の知れない異世界人に、王国の叡智を」
「王国のため」
フィリアは、静かに繰り返した。
「それは本当に、王国のためですか?」
エドガーの喉が詰まる。
「それとも、海様があなたより先に扉を開くのが、悔しいだけですか?」
その一言が、エドガーの胸を抉った。
海は何も言えない。
フィリアの横顔を見ていた。
そこにあるのは、ただの優しさではなかった。
寄り添う者は、必要な時には人の前に立つ。
今のフィリアは、まさにそうだった。
エドガーは、震える拳を握った。
(違う)
(違う)
(俺は王国のために)
(シュタインベルク家の名にかけて)
(正しいことを言っているだけだ)
だが、心の奥に別の声があった。
フィリアが、自分ではなく海の隣にいる。
その事実が、どうしようもなく腹立たしい。
彼女の微笑みを、自分に向けられた特別なものだと勝手に思っていた。
自分こそ、彼女にふさわしい魔導士だと信じていた。
けれど、それは幻想だった。
その幻想を、今、本人の言葉で叩き割られている。
「……あり得ない」
エドガーは小さく呟いた。
「何ですか?」
「あり得ないと言ったんだ」
顔が歪む。
誇りを保とうとする表情と、傷ついた少年の顔が、同じ場所でぶつかっていた。
「フィリア。お前は分かっていない」
「何をですか」
「あいつは危険だ」
エドガーは海を指差した。
「百万の魔力量。未知の武器。詠唱なしの複合制御。そんな存在を無条件に信用する方がどうかしている」
「無条件ではありません」
フィリアの声は揺れない。
「私は、海様が怖がりながらも知ろうとしていることを知っています。力を振るう前に、学ぼうとしていることを知っています」
彼女は、海の前に立ったまま言う。
「だから同行します。だから見届けます」
海の胸が、静かに熱くなった。
「フィリアさん……」
フィリアは振り返らない。
ただ、背中で彼を守るように立っていた。
エドガーは、その光景を見てしまった。
完全に。
自分ではなく、海を守るフィリア。
それが、彼の中で最後の何かを軋ませた。
「……ふん」
エドガーは、吐き捨てるように笑った。
「勝手にすればいい」
声は震えていた。
「どうせ、お前たちのような連中が長く続くとは思えんがな」
「ご忠告、痛み入ります」
フィリアは淡々と返した。
「ですが、私たちの行く先は、私たちで決めます」
エドガーの顔が、さらに歪む。
だが、それ以上は言わなかった。
言えば、自分が壊れる。
それを本能で理解したのかもしれない。
彼は踵を返した。
黒い感情を、背中に貼りつけたまま回廊を去っていく。
その足音が遠ざかる。
海は、しばらく動けなかった。
「……フィリアさん」
「はい」
「僕のせいで」
「違います」
即答だった。
フィリアは振り返る。
その表情は、先ほどまでの冷たさが嘘のように柔らかかった。
「海様のせいではありません」
「でも、エドガーさんは」
「エドガー様が何を感じるかは、エドガー様のものです」
フィリアは静かに言う。
「あなたが知りたいと思ったことに、間違いはありません」
海は、唇を噛んだ。
「僕は、ただ……」
「はい」
「分からないまま、誰かを傷つけたくないだけなんです」
「分かっています」
フィリアは微笑む。
「だから、私は同行するのです」
その言葉は、海の胸に深く沈んだ。
守られている。
同時に、任されている。
ただ慰められているのではない。
ちゃんと見られている。
ちゃんと、信じられている。
「……ありがとうございます」
海は小さく頭を下げた。
フィリアは首を振る。
「行きましょう。扉は、もう目の前です」
海は頷いた。
中央魔導書庫の扉が、静かに佇んでいる。
黒い木。
銀の装飾。
蒼い魔石の鍵穴。
その向こうには、王国千年分の叡智が眠っている。
海は鍵を握りしめた。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(エドガーさんの言うことも、全部間違いじゃない)
(僕は危険かもしれない)
(だからこそ、知る必要がある)
(力を使う前に)
(世界を壊す前に)
(自分の仕様書を書くために)
胸元のΩコードが、静かに脈打つ。
《CENTRAL MAGICAL ARCHIVE》
《アクセス権限:条件付き》
《同行者:フィリア》
《警告:知識領域は高危険度を含みます》
《学習準備:待機》
海は息を吸った。
そして、フィリアとともに、中央魔導書庫の扉へと歩みを進める。
背後には、嫉妬の火種。
前方には、知の迷宮。
その狭間で、少年はただひとつのことを思っていた。
知りたい。
怖いからこそ。
知りたい。
そして、その願いは今。
王国の最も深い扉に、手をかけようとしていた。




