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EP30:観察者と、寄り添う者。少年の変身は、まだ言葉にならない

昼下がりの魔導騎士団訓練場は、朝の熱をまだ石畳の奥に残していた。


剣を打ち合う音。


詠唱の声。


魔力が空気を震わせる、かすかな唸り。


そのすべてから少し外れた場所で、音無海おとなし・かいは一人、ぎこちない動きを繰り返していた。


右手を前に出す。


左手を胸元へ引く。


足を半歩ずらし、呼吸を整える。


「変身……」


小さく呟く。


しかし、何も起きない。


「……変身」


もう一度。


指先に力を込める。


魔力の流れを意識する。


昨日、手帳に書いた言葉を思い出す。


逃げるための変身ではなく、立つための変身。


けれど、胸の奥で何かが引っかかった。


火花すら出ない。


「……うん。やっぱりダメか」


海は肩を落とした。


「力を入れようとすると、逆に出ない。というか、何をどう出せばいいのか分からない……」


彼は自分の右手を見つめた。


この手で、魔法を使う。


この手で、世界の術式を動かす。


そう考えるだけで、現実味が薄くなる。


魔力量測定では百万。


周囲は驚き、恐れ、期待した。


シャルロット・デュノアでさえ、あの鋭い目で海を見た。


けれど、本人は今もこうして、初歩の感覚すらつかめずに立っている。


百万という数字が、まるで自分ではない誰かの名札のようだった。


「……僕の力って、僕のものなのかな」


その声は、自分でも驚くほど頼りなかった。


その時。


「まるで、自分の体が自分のものではないと言っているようだね」


静かな声が、木陰から届いた。


海はびくりと肩を跳ねさせて振り返る。


訓練場の端。


大きな木の影に、白衣めいた長衣をまとった男が立っていた。


ユリウス・クロード。


魔導騎士団付きの研究者であり、観察者。


この世界の魔法を、祈りでも伝統でもなく、構造として見ようとする人物。


「ユリウス博士……」


「驚かせたかな」


「い、いえ。ただ、いつから見ていたんですか」


「君が三度目の『変身』を試みたあたりから」


「ほぼ最初からじゃないですか」


海は思わず小さく突っ込んだ。


ユリウスは悪びれない。


むしろ、興味深い実験結果を眺めるように目を細めた。


「君は奇妙だ」


「それ、昨日から何回も言われてます……」


「だろうね。だが、私の言う奇妙は、侮蔑ではない」


ユリウスはゆっくりと海へ歩み寄る。


足音は軽い。


けれど、視線だけが妙に重かった。


「君は力を“出そう”としていない。いや、正確には、出そうとしているつもりで、実際には別のことをしている」


「別のこと?」


「再現だ」


「再現……?」


海は首をかしげた。


ユリウスは海の右手を指差す。


「君は魔力を練っているのではない。記憶の中にある何かを、体の外へ写し取ろうとしている。動きも、呼吸も、指先の位置も、まるで儀式ではなく、過去に見た映像をなぞっているようだ」


海の胸が、わずかに鳴った。


図星だった。


変身ポーズ。


ヒーローの立ち方。


ベルト型ギアの展開音。


光の軌跡。


子どもの頃、ノートの端に何度も描いたもの。


昨日の夢に出てきた、あの教室。


笑い声。


白線を引かれたような空白。


そして、あの影。


光の翼を引き裂かれた、言葉にならない存在。


「……僕は」


海は、口を開いた。


けれど、うまく言葉にならない。


ユリウスは急かさなかった。


ただ、観察する。


責めるでも、慰めるでもない。


そこにある現象を、ただ逃がさない目だった。


「音無海」


「は、はい」


「君にとって、魔法とは何だ?」


「……魔法、ですか?」


「そうだ。この世界の者にとって、魔法とは生活であり、技術であり、身分であり、祈りであり、時には武器だ。では、異世界から来た君にとっての魔法とは何だ」


海は答えられなかった。


この世界の魔法は、まだよく分からない。


詠唱も、属性も、術式も、魔力の流れも。


全部、分からないことだらけだ。


けれど。


魔法という言葉そのものなら、海は昔から知っていた。


画面の中。


玩具の中。


ノートの端。


誰にも見せられない手帳の中。


魔法はいつも、現実に馴染めない海のそばにあった。


「……僕にとっての魔法は」


喉が乾く。


でも、逃げずに言葉を探す。


「現実を、少しだけ生きられる形に変えるための……憧れでした」


ユリウスの目が、ほんのわずかに動いた。


「憧れ」


「はい。たぶん、僕はずっと逃げてたんです。教室とか、人の目とか、自分が変だって言われることとか。そういうものから」


海は右手を握った。


「でも、ヒーローとか、変身とか、魔法とか。そういうものを考えている時だけは、怖いままでも立てる気がしたんです」


風が吹いた。


訓練場の砂が、かすかに足元を流れる。


「だから、僕にとって魔法は……逃げ道で、盾で、でも、たぶん」


海は顔を上げる。


「いつか、誰かの前に立つための形でした」


ユリウスは、しばらく何も言わなかった。


沈黙が落ちる。


遠くで団員たちの詠唱が響く。


水属性の魔法が、空中で弾ける音がした。


「なるほど」


やがて、ユリウスは静かに頷いた。


「君は、知識で魔法を使おうとしているわけではない。感情を、構造に変えようとしている」


「感情を、構造に……?」


「憧れを現実にするには、ただ願うだけでは足りない。道具がいる。理論がいる。繰り返しがいる。君の言葉で言うなら、設計が必要だ」


その言葉に、海の眼鏡の奥がわずかに光った。


設計。


それなら、分かる。


魔法は分からない。


けれど、設計なら。


仕様なら。


構造なら。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(魔法を出す、じゃない)


(憧れを現実に変換するための設計)


(入力は感情)


(出力は現象)


(足りないのは、術式じゃなくて……僕専用の変換ルール?)


海の中で、何かが小さく噛み合った。


まだ形にはならない。


けれど、何もない暗闇に一本だけ線が引かれた感覚があった。


「ユリウス博士」


「何かな」


「僕の魔法って、この世界の魔法じゃないんですか」


ユリウスは即答しなかった。


その沈黙だけで、答えの半分は伝わっていた。


「少なくとも、既存の分類では説明しきれない」


「……やっぱり」


「君の魔力量は異常だ。だが、問題は量ではない。昨日の百万という数字は、むしろ表層にすぎない」


「表層……?」


「真に異常なのは、君が魔力を“現象の素材”として扱っていないことだ」


ユリウスは空を見上げた。


「君は、魔力を言語のように見ている。あるいは、記述可能な構造体として認識している。我々が火を呼ぶところを、君は火が成立する条件を探している」


海は息を呑んだ。


それは、誰にも言っていない感覚だった。


この世界の魔法は、美しい。


けれど同時に、どこか読めそうだった。


詠唱の言葉。


魔法陣の線。


魔力の流れ。


それらが全部、ひとつの巨大な仕様書に見える瞬間がある。


「……僕、そんなに変ですか」


「変だね」


「即答……」


「だが、変であることは価値だ。少なくとも研究者にとっては」


ユリウスは、薄く笑った。


温かい笑みではない。


けれど、冷たいだけでもなかった。


「君の理論は、まだ言葉になっていない。君自身も、自分が何をしているのか分かっていない。だが、もし君がそれを言語化した時」


彼の声が、少しだけ低くなる。


「我々は、君を恐れるだけでは済まなくなる」


「僕を……?」


「そうだ」


ユリウスは背を向けた。


「恐怖は、理解できないものに向けられる。しかし、理解できた時、人は次に利用を考える。管理を考える。支配を考える」


海の背筋に、冷たいものが走った。


「私は君を観察する」


ユリウスは振り返らない。


「君が何者で、何に至るのか。研究者として、見届けたい」


「それは……味方ってことですか」


「観察者だよ」


その答えは、優しくなかった。


けれど、嘘でもなかった。


ユリウスはそのまま歩き去っていく。


白衣めいた長衣の裾が、訓練場の風に揺れた。


海は、その背中を見送った。


どこか寂しくて。


どこか恐ろしい。


あの人は、自分を助けたいのか。


それとも、知りたいだけなのか。


分からない。


ただひとつだけ、はっきりしたことがある。


自分の力は、自分が思っているよりずっと危うい場所にある。


「……僕専用の変換ルール、か」


海はもう一度、右手を見た。


その手は、まだ何も起こせない。


けれど、何かを始める前の手に見えた。


◇ ◇ ◇


その夕方。


訓練の終わった海は、寮へ戻らず、湖畔に腰を下ろしていた。


魔導騎士団の敷地の外れにある、小さな湖。


水面は夕陽を受けて、淡い金色に揺れている。


遠くの塔が、逆さまに映っていた。


海は膝の上に手帳を置き、何度も同じ言葉を見ていた。


『逃げるための変身ではなく、立つための変身』


その下に、昼間書き足した文字がある。


『入力は感情。出力は現象。必要なのは変換ルール』


「……いや、完全に怪しい研究メモだな、これ」


自分で書いて、自分で少し引いた。


けれど、消す気にはならなかった。


今の海にとって、それは初めて自分の力を自分の言葉で捕まえようとした記録だった。


湖面を渡る風が、手帳のページを揺らす。


その時。


小さな足音が近づいてきた。


「こんなところにいたのですね」


やわらかな声。


振り向くと、フィリアが立っていた。


水色の外套が夕風に揺れ、淡い髪が湖の光を受けてきらめいている。


「フィリアさん」


「隣、よろしいですか」


「あ、はい。もちろん」


フィリアは海の隣に腰を下ろした。


距離は近すぎず、遠すぎない。


誰かが一人でいたい時間を壊さない、ぎりぎりの近さだった。


しばらく、二人は黙って湖を見ていた。


訓練場の音は、ここまでは届かない。


聞こえるのは、風と水の音だけだった。


「今日も、ユリウス博士と話していましたね」


「見てたんですか」


「少しだけ。博士は、海様を見る時だけ目が違います」


「やっぱり、怖い感じですか」


フィリアは少し考えた。


「怖いというより……逃さない目、でしょうか」


「逃さない目」


「はい。海様の中にあるものを、ひとつも取りこぼしたくないような」


海は小さく笑った。


「研究対象って感じですね」


「そう見える時もあります」


フィリアは正直に言った。


その正直さが、海には少しありがたかった。


優しい言葉だけでは、不安は消えない。


けれど、正直な言葉は、自分の立っている場所を教えてくれる。


「フィリアさんは」


海は湖面を見たまま言った。


「僕のこと、どう見えてますか」


フィリアはすぐには答えなかった。


水面に映る夕陽が、二人の沈黙を薄く染めていく。


「特別な方だと思います」


「やっぱり、そう見えるんですね」


「はい」


「僕、自分では全然そんな感じがしないんです。百万とか、創造主デウス・エクスとか、みんなが大げさに言うけど」


海は手帳を閉じた。


「僕は、普通でした。いや、普通にもなれなかったのかもしれないです。元の世界では、好きなものを好きって言うだけで浮いて、変身ポーズひとつで笑われて」


指先に、手帳の角が当たる。


「こっちに来ても、結局よく分からない力を持ってるだけで、使い方も分からない。すごいって言われても、僕自身は置いてけぼりです」


フィリアは、海の横顔を見ていた。


その目に、同情はなかった。


代わりに、静かな痛みがあった。


「私は」


彼女は、ゆっくり口を開いた。


「昔から、器用でした」


海は顔を向ける。


フィリアは湖を見つめたまま続けた。


「魔法も、礼儀作法も、勉学も、だいたい人より早くできました。褒められることも多かったです」


「すごいですね」


「そう言われるたびに、私は少し困りました」


「困る?」


「はい。できることと、したいことは違うからです」


風が吹く。


フィリアの外套の裾が、草の上を撫でた。


「私は、何でも器用にできました。でも、何かをしたいと思ったことが、あまりなかったのです」


その声は、とても静かだった。


「人から求められることをして、褒められて、期待されて。それで十分なはずなのに、心のどこかが空いたままでした」


海は言葉を挟めなかった。


フィリアは優秀で、穏やかで、いつも周囲をよく見ている。


けれど、その穏やかさの奥にある空白までは、海は知らなかった。


「でも」


フィリアは少しだけ海を見る。


「海様を見ていると、初めて思ったのです」


「何を、ですか」


「私も、何かしたいと」


その言葉は、湖面に落ちた小石のように、海の胸へ小さな波紋を広げた。


「海様は不器用です」


「うっ」


「魔法も、立ち回りも、人との距離の取り方も、とても不器用です」


「そ、そこまで言いますか……」


「でも」


フィリアの声が、少しだけ柔らかくなる。


「不器用なのに、逃げないようにしている。怖がりながらも、何かを理解しようとしている。自分の力が分からなくても、それを誰かのために使えないか考えている」


海は、何も言えなくなった。


「だから、見ていると……私も隣に立ちたいと思うのです」


フィリアの頬が、ほんのり赤く染まる。


夕陽のせいかもしれない。


けれど、そうではない気もした。


「私は、海様を研究対象として見たいわけではありません。守られるべき異常値として見たいわけでもありません」


フィリアは、両手を膝の上でそっと重ねた。


「ただ、海様が何かに巻き込まれて傷つくのを、見たくないのです」


湖の風が、二人の間を通り抜けた。


「だから、隣にいようと思いました」


海は、目を瞬かせた。


胸の奥が、じんわりと熱くなる。


ユリウスの言葉は、海の力の危うさを教えた。


フィリアの言葉は、海が一人ではないことを教えた。


同じ一日なのに、まるで別の角度から世界を照らされたみたいだった。


「……ありがとうございます」


海は、少し照れくさそうに笑った。


「僕、まだ自分のことも、自分の力のことも、全然分かってません。でも」


手帳を胸に抱く。


「一緒にいてくれると、安心します」


フィリアは、少しだけ目を伏せた。


「それなら、よかったです」


沈黙が落ちる。


けれど、さっきまでの沈黙とは違った。


空白ではない。


誰かが隣にいる沈黙だった。


やがて、空の端に一番星が滲み始めた。


湖面に映ったその光は、小さく揺れている。


それが光なのか。


闇の前触れなのか。


まだ、誰にも分からない。


ただ、音無海はその日、ひとつだけ知った。


観察する者がいる。


測ろうとする者がいる。


恐れる者がいる。


そして。


寄り添おうとする者も、確かにいる。


少年の変身は、まだ言葉にならない。


けれど、その隣にはもう、ひとつの足音があった。


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