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EP29:夢は過去を運ぶ。泣いていた少年は、まだ変身を待っている

夜。


魔導騎士団の寮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


石造りの壁は夜気を含み、窓の外では塔の先端に据えられた魔導灯が、青白い光をゆっくりと瞬かせている。


音無海おとなし・かいは、与えられた一室のベッドに体を投げ出していた。


「……はぁ」


ため息が、天井にぶつかって消える。


今日一日だけで、情報量が多すぎた。


詠唱訓練では、相変わらず初歩の火種すら安定しなかった。


エドガーには、敵意と嫉妬を真正面からぶつけられた。


そのあと、突然現れた王国最強の魔導士、シャルロット・デュノア。


あの人の魔力は、空気そのものを塗り替えるようだった。


そして。


「……百万」


海は、ぽつりと呟いた。


魔力量測定で叩き出された、意味の分からない数字。


この世界の人々が驚き、ざわめき、畏怖し、警戒した数字。


けれど、当の本人である海には、まるで実感がなかった。


「百万って言われても……僕、詠唱もまともにできないんだけどな」


笑おうとして、失敗した。


喉の奥で、乾いた音だけが鳴る。


才能。


異常値。


規格外。


創造主デウス・エクス


この世界に来てから、海の周囲には大げさな言葉ばかりが積み上がっていく。


けれど、その下にいる自分は、何も変わっていない気がした。


赤い髪。


分厚い眼鏡。


人前でうまく話せない癖。


好きなものを好きだと言うたび、少しだけ笑われる感覚。


「……僕、なんでここにいるんだっけ」


その言葉は、誰にも届かなかった。


ただ、夜の部屋に落ちて、冷たい床の上でほどけていく。


海は、枕元に置いた小さな手帳へ視線を向けた。


今日のヒーロー手帳。


何度も開き、何度も書き足してきた、海だけの聖典きょうてん


子どもの頃から、彼の逃げ場であり、祈りであり、設計図だったもの。


「……明日も、訓練か」


まぶたが重くなる。


昼間の疲労が、遅れて全身へ染み込んできた。


青白い魔導灯の光が、視界の端でぼやける。


やがて、海は眠りに落ちた。


そして。


夢が、始まった。


◇ ◇ ◇


がやがやとした音が聞こえた。


遠くでチャイムが鳴っている。


黒板。


チョークの粉。


机の列。


窓の外に見えるビル群と、忙しなく行き交う車の列。


そこは、現代の日本だった。


海は教室の隅で、机に顔を伏せていた。


制服の袖口は少し擦り切れていて、机の上には開きっぱなしのノートがある。


周囲の生徒たちは、当たり前のように笑い、スマホをいじり、昼休みの続きを楽しんでいた。


けれど、海の席の周囲だけが、妙に空いていた。


まるで、そこだけ誰かが白線を引いたみたいに。


「またあいつ、授業中に変なこと言ってたらしいぜ」


「変身ポーズとか、マジできついって」


「もう中学生だろ。そういうの卒業しろよな」


笑い声。


ひそひそ声。


聞こえないふりをするには、近すぎる距離。


海は顔を上げなかった。


ただ、ノートの端にシャープペンを走らせていた。


そこには、幼い字でこう書かれていた。


『本日のヒーロー』


その下には、架空のヒーローの名前。


誰にも見せるつもりのない、変身ポーズの分解図。


右足の角度。


左手の位置。


ベルト型ギアの展開順。


光の軌跡。


決め台詞。


すべてが、海にとっては真剣だった。


現実の授業よりも。


昼休みの会話よりも。


誰かに合わせて笑うことよりも。


ずっと、ずっと大切だった。


「……僕には、これしかなかったんだ」


夢の中の海が、呟いた。


その声は、今の海の声でもあり、昔の海の声でもあった。


「ヒーローは、逃げなかったから」


教室の窓ガラスに、赤い髪の少年が映っている。


分厚い眼鏡。


うまく笑えない口元。


誰かと話す前から、もう少しだけ怯えている目。


「僕は逃げてばっかりだったけど」


ページの端に描かれた小さな変身ポーズが、ぼやけて見えた。


「でも、あの中では……ヒーローになれた」


それは、現実逃避だったのかもしれない。


誰にも理解されない少年が、自分だけの世界に閉じこもるための盾だったのかもしれない。


けれど、海にとっては違った。


ヒーローは、弱いまま立つ理由だった。


怖くても、泣いても、膝が震えても。


それでも前を見るための、たったひとつの形だった。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(ヒーローは、最初から強いからヒーローなんじゃない)


(倒れても、立つからヒーローなんだ)


(……そう、思いたかった)


その時だった。


教室の音が、遠のいた。


笑い声が、水の中へ沈むように歪んでいく。


黒板の文字が溶ける。


机の輪郭が崩れる。


窓の外のビル群が、青白い魔法陣の線に変わっていく。


現実と夢。


記憶と異世界。


過去と現在が、同じ画面の上で乱れ始めた。


「……なに、これ」


海は立ち上がろうとした。


けれど、足が動かない。


床が、黒く染まっていた。


影だった。


教室の床に広がった影が、海の足元からじわじわと這い上がってくる。


その中心に、何かがいた。


人の形をしている。


けれど、人ではない。


背には、翼のようなものがあった。


ただし、それは美しい翼ではなかった。


光の翼を、誰かが力ずくで引き裂いたような姿。


羽根は欠け、輪郭は燃え残りの紙のように揺れ、そこから黒い粒子がこぼれ落ちている。


声はなかった。


けれど、言葉だけが、海の頭の奥へ直接流れ込んできた。


――君の力を、受け継がせてもらう。


「……僕の、力?」


海は震える声で言った。


「僕には、そんなもの……」


ない。


そう言おうとした。


けれど、言葉は途中で止まった。


黒い影の奥で、何かが光った。


それは、魔法陣ではなかった。


この世界の術式でもない。


もっと古く、もっと深く、もっと異質なもの。


海の額の奥で、忘れていた熱がうずいた。


子どもの頃から前髪で隠してきた、あの痣。


誰にも説明できなかった印。


「……あれが」


息が詰まる。


「僕の……?」


影が近づいてくる。


翼を失った何かは、笑わなかった。


怒ってもいなかった。


ただ、底のない暗闇のように、海を見ていた。


その瞬間。


教室の窓に、もう一つの景色が映った。


白銀の髪。


碧眼。


幼い少女の声。


――ヒーローって泣くの?


海の胸が、強く跳ねた。


「……っ」


夢の中の空気が割れる。


教室も、影も、黒板も、魔法陣も。


すべてが砕けて、光の粒になった。


◇ ◇ ◇


「……!」


海は、勢いよく目を開けた。


朝の光が、窓から差し込んでいる。


青白い魔導灯は消え、代わりに淡い金色の陽射しが、石造りの部屋を照らしていた。


「……夢、か」


息が荒い。


額に汗が浮かんでいた。


海は上体を起こし、無意識に前髪へ手を伸ばす。


指先が、額の辺りに触れた。


そこには、今も確かに何かがある。


見えなくても。


忘れていても。


ずっと、自分の一部だったもの。


「変な夢……いや」


海は、小さく首を振った。


「懐かしい夢、だったのかな」


教室。


笑い声。


ノートの端に描いた変身ポーズ。


誰にも見せられなかった、今日のヒーロー手帳の原型。


そして、あの影。


光の翼を引き裂かれた何か。


「……僕の力を、受け継ぐ?」


口に出しても、意味は分からなかった。


ただ、胸の奥に妙なざらつきが残っている。


昨日の魔力量測定。


一〇〇万という数字。


シャルロットがこちらを見た時の、あの鋭い視線。


すべてが、一本の見えない線でつながっている気がした。


([LOG_KAI - INNER VOICE])


(夢にしては、情報量が多すぎる)


《魔力量測定値:1,000,000》


(額の痣)


(翼を失った影)


(そして、僕に“力を受け継ぐ”と言った存在)


(……これ、ただの回想イベントじゃない)


(たぶん、伏線だ)


海は、自分で思ってから、少しだけ苦笑した。


「夢にまで伏線とか言い出すの、だいぶ重症だな……」


でも、笑えたのは一瞬だった。


窓の外には、魔導騎士団の訓練場が見える。


すでに何人かの団員たちが、朝の基礎訓練を始めていた。


剣の音。


詠唱の声。


魔力が空気を震わせる気配。


海はベッドの端に座ったまま、しばらくその景色を見つめた。


もう、あの教室には戻れない。


戻れたとしても、自分はきっと同じ場所には立てない。


現実に馴染めなかった少年は、異世界で本当に力を持ってしまった。


けれど、その力の意味を、まだ何も知らない。


「……変身、か」


海は小さく呟いた。


かつて、それは空想だった。


誰にも笑われないための盾だった。


けれど今は違う。


この世界では、空想が現実の骨を持ち始めている。


なら。


逃げるためではなく。


誰かの前に立つために。


もう一度、その言葉と向き合う必要があるのかもしれない。


海は、枕元の手帳を手に取った。


表紙を撫でる。


そして、震える指で新しいページを開いた。


そこに、ゆっくりと文字を書く。


『本日の課題』


少し迷ってから、その下に一行を足した。


『逃げるための変身ではなく、立つための変身』


海はペンを止めた。


しばらくその文字を見つめる。


それから、眼鏡をかけ直し、立ち上がった。


「……行こう」


声はまだ小さい。


けれど、昨日よりは少しだけ芯があった。


扉を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。


廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。


海は手帳を胸にしまい、訓練場へ向かう。


王国最強の魔導士がいる場所へ。


嫉妬も、疑念も、異常値も、自分自身の過去も。


全部まとめて、もう一度向き合うために。


泣いていた少年は、まだヒーローにはなれていない。


けれど。


変身を待つだけの少年でも、もうなかった。

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