EP28:邂逅《かいこう》、最強の帰還――最強の帰還──
朝の陽光が、魔導演習場の石畳を照らしていた。
昨日の属性鑑定と魔力量測定。
その衝撃は、まだ魔導騎士団全体に残っていた。
霊脈球が示した《1,000,000》。
星環盤が告げた、五属性の完全連環。
闇と光。
そして、封じられた光。
それらは噂となり、恐怖となり、畏敬となって、演習場の空気にまで染み込んでいた。
だが。
その中心にいる当人、音無海はというと。
「うーん……やっぱり詠唱って難しいなぁ……」
木陰で一人、呑気に詠唱練習をしていた。
「火よ、灯れ……ファイヤ……えっと、ファイヤ何とか……?」
彼は右手を前に出したまま、困ったように首を傾げる。
杖はない。
教本もない。
頼りになるのは、昨日の騒動で何となく身体に残った感覚と、異世界に来る前に見てきた変身ヒーロー番組の妙な記憶だけだった。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(落ち着け音無海)
(魔法は変身ギアの音声入力じゃない)
(たぶん「ファイヤ何とか」で発動するほど、この世界は親切じゃない)
(でも昨日、火には氷かなって思ったら氷壁が出た)
(……つまり、イメージ入力方式?)
《SYSTEM NOTICE》
《術式体系:未理解》
《詠唱構文:不完全》
《感覚発動履歴:あり》
《推奨:不用意な実験を控えること》
「ですよね……」
海はひとりで小さく頷いた。
その様子を、周囲の団員たちは遠巻きに眺めている。
「……あの人、本当に昨日の?」
「魔力量百万の人よね?」
「でも今、“ファイヤ何とか”って言わなかったか?」
「天才なのか、危ない素人なのか、もう分からないわ」
「どっちにしろ、怪物なのは間違いない」
囁き声が、演習場の隅々へ広がっていく。
海はその視線に気づき、慌てて手を引っ込めた。
「す、すみません。何も出してません。たぶん安全です」
「たぶん」と聞いた数名の団員が、同時に一歩下がった。
その時だった。
空気が変わった。
音はなかった。
風もなかった。
ただ、空間そのものが一瞬、膝をついたような重みを帯びた。
演習場のざわめきが消える。
鳥の声が止まる。
魔導士たちの呼吸すら、浅くなる。
海は顔を上げた。
演習場の入口。
朝の光を背に、一人の女性が立っていた。
純白と金を基調にした軍装。
白磁のようになめらかな肌。
深緑の長い髪が、風もないのにゆるやかに揺れている。
背には、刻印入りの長杖。
その瞳は深いエメラルドグリーン。
美しい。
だが、その美しさには温度がなかった。
全てを見透かし、必要なら迷わず切り捨てる。
そんな冷たさを宿した目だった。
そして、長く繊細なエルフの耳。
彼女はそれを隠そうともせず、堂々と晒していた。
「……ふぅん」
その声だけで、演習場の空気がさらに静まる。
「これが、噂の少年?」
誰かが、震える声で呟いた。
「シャルロット様……」
シャルロット・デュノア。
魔導騎士団長。
四属性魔導士。
王国最強の魔導士。
そして、ただ一人、ルミナスの称号を与えられた存在。
数年の沈黙を経て、彼女は今、再び表舞台に立った。
団員たちは一斉に姿勢を正す。
ユリウスでさえ、演習場の端で静かに目を細めた。
そんな中。
海だけが、ぽつりと言った。
「……誰?」
あまりにも無防備な声だった。
演習場の空気が、ぴしりと固まる。
数名の団員が、顔面蒼白になった。
シャルロットの目が、細くなる。
「……知らない、って顔ね」
「す、すみません。昨日から知らない偉い方がたくさん出てきて、僕の人物認証が追いついてなくて……」
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(まずい)
(これは絶対に偉い人だ)
(しかも、登場演出が完全に最強幹部)
(背中の杖、名前付き武器の気配しかしない)
(この人を怒らせたら、たぶん研究施設ごと消し飛ぶ)
シャルロットは、かすかに笑った。
「まあ、いいわ」
彼女は一歩、演習場へ足を踏み入れる。
その瞬間、石畳に刻まれた防御結界が淡く反応した。
まるで、彼女の魔力を恐れているかのように。
「いきなり本題に入るけれど」
シャルロットは、背の杖へ手を伸ばす。
「少し、試させて?」
海は瞬きをした。
「試すって……何をですか?」
「あなたが危険なのか」
杖が、彼女の手に収まる。
「それとも、ただ興味深いだけなのか」
深緑の瞳が、海を射抜いた。
「私の判断基準は、それだけよ」
「えっ、待っ――」
次の瞬間。
地面が光った。
海の足元を中心に、巨大な魔法陣が展開される。
火の朱。
風の翠。
二つの属性光が絡み合い、螺旋を描きながら上空へ昇る。
そして。
重力の向きが一瞬反転したような錯覚と共に、上空から紅蓮の暴風が降り注いだ。
火と風の融合魔法。
《クリムゾンゲイル》。
「退避!」
団員たちが悲鳴に近い声を上げ、結界の外へ飛び退く。
熱風が演習場を薙ぎ、石畳の表面が赤く焼ける。
海は完全に反応が遅れた。
「うわっ、待って、なんか来たっ!」
咄嗟に両手を前に出す。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(熱源、上空)
(火と風の複合)
(回避不能)
(防御)
(防御)
(防御!)
《SYSTEM WARNING》
《高密度複合魔法を検知》
《属性干渉:火・風》
《通常防御:不適合》
《自動防衛演算、起動》
《闇属性反応》
《光属性反応》
《防壁構築》
海の手の先に、光が生まれた。
氷ではない。
炎でもない。
風でもない。
それは、闇と光が交差したような、深銀色の防御壁だった。
星の裏側を薄く削り取ったような色。
黒ではない。
白でもない。
その中間にありながら、どちらでもない。
深銀の膜が海の前に展開され、《クリムゾンゲイル》を受け止める。
紅蓮の暴風が防壁に叩きつけられた。
轟音。
火花。
風圧。
だが、防壁は割れない。
むしろ、炎と風を表面でほどくように受け流し、光の粒へ変えていく。
シャルロットの眉が、ほんの一瞬だけ上がった。
「……へえ」
演習場の空気が震える。
深銀の防御壁は、数秒後、静かにほどけるように消えた。
海はその場に立っていた。
またしても無傷。
ただし、本人は完全に目を回していた。
「ちょ、何するんですか!」
海は両手をぶんぶん振る。
「命に関わるやつですよ!? 今の絶対、訓練用じゃなかったですよね!?」
シャルロットは涼しい顔で答える。
「殺す気はなかったわ」
「殺す気がなければ大丈夫、みたいな言い方やめませんか!?」
「大丈夫だったでしょう」
「結果論です!」
「でも結果は大事よ」
「凛さんみたいなこと言わないでください!」
思わず出た名前に、シャルロットの目が少しだけ動いた。
「凛?」
「あ、えっと……一緒に召喚された人です。すごく強くて、怖くて、でも優しくて……たぶん今の言い方をしたら『勝てば過程は美しくなるのよ』とか言いそうな人です」
ユリウスが、端で小さく吹き出した。
「実に興味深い人物評だね」
シャルロットは海をじっと見つめていた。
その視線は、先ほどよりも深い。
(この子は、“知らない”まま扱っている)
彼女は、深銀の防壁が消えた空間を見る。
(火にも氷にも寄せなかった)
(昨日は火に対して氷壁)
(今日は火と風に対して、闇と光の複合防壁)
(しかも、詠唱なし。構築の自覚もなし)
彼女の中で、警戒と興味が同時に膨らんでいく。
(人間として育ったとは思えない)
(でも、目は人間のまま)
(この子……本当に、何?)
シャルロットは、ふっと笑った。
冷たい笑みではなかった。
だが、優しいとも言い切れない。
獲物を見つけた研究者と、迷子を見つけた教師の、ちょうど中間のような笑みだった。
「気に入ったわ」
「えっ」
「あなた、私が面倒を見る」
演習場がざわめいた。
「しゃ、シャルロット様が……?」
「団長自ら……?」
「音無海を?」
海は一歩下がった。
「えっと、面倒って……具体的には……?」
「魔法、戦闘、魔力制御、暴走防止」
シャルロットは杖を肩に乗せる。
「あと、あなたが自分を壊さないための最低限の知識」
「急に重い項目が混ざりましたね」
「必要よ」
彼女は海の胸元を見た。
まるで、そこに封じられている何かを見ているかのように。
「あなたは、自分の内側にあるものを知らなすぎる」
その言葉に、海の表情がわずかに変わった。
胸の奥が、また小さく鳴った気がした。
《SYSTEM LOG》
《封印領域に外部視線干渉を確認》
《対象:シャルロット・デュノア》
《警戒レベル:上昇》
海は、無意識に胸元へ手を当てる。
「……今の」
「何か聞こえた?」
シャルロットが尋ねる。
「いえ……気のせい、かもしれません」
「そう」
彼女はそれ以上、追及しなかった。
だが、その目は何も見逃していなかった。
その日の夕刻。
魔導演習場を見下ろす高台に、二人の魔導士が並んでいた。
一人はシャルロット・デュノア。
もう一人は、ユリウス・クロード。
眼下では、海が団員たちに囲まれ、困ったように笑っている。
先ほどの一件以来、彼への視線はさらに変わった。
恐怖。
興味。
畏敬。
そして、わずかな親近感。
「……あの子」
シャルロットが口を開く。
「何かに似ているわ」
ユリウスは横目で見る。
「何に?」
「記憶の底にある、誰かに」
ユリウスの表情が、少しだけ変わる。
「君も、そう感じたか」
シャルロットは海から視線を外さない。
「昔、少し似た存在に会った気がするのよ」
夕陽が、深緑の髪を朱に染める。
「“外”から来た、理の枠を壊すものに」
「……あれのことかい?」
ユリウスのゴーグルが、夕陽を受けて鈍く光った。
シャルロットは笑わなかった。
ただ、まっすぐに海を見つめ続ける。
「あの時と違うのは、彼がそれを知らないこと」
「無自覚な力は、最も制御しがたい。暴走すれば、理を破壊する」
「でも」
シャルロットは静かに言う。
「ちゃんと導けば、理そのものを変えられる」
ユリウスは少しだけ肩をすくめた。
「どちらになるかは、導く者次第か」
「そうね」
風が吹いた。
シャルロットの長い髪が、ゆっくりと揺れる。
「だから、戻ってきたのよ。あの子が、私の中の何かを呼び起こした」
彼女はユリウスを見る。
「あなたは、どう思う?」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと答える。
「神の記憶に触れたかもしれない」
その言葉に、シャルロットの瞳がわずかに細くなる。
「だが、まだ人の形をしている」
「だからこそ、怖いのよね」
二人の会話は、そこで途切れた。
高台の石の台座には、一冊の魔導書が置かれている。
封印指定禁書。
《アビス・エレメント》。
開かれたページには、古い文字でこう記されていた。
《光を拒絶し、闇が喜ぶ時》
《天を追われし者は、人の中に目覚めん》
その項目名は。
堕天の記憶。
夕陽が、禁書の文字をゆっくりと照らしていた。
眼下では、海がまだ困ったように笑っている。
自分が何を呼び起こしつつあるのか。
まだ、何も知らないまま。




