EP25:封じられし星、解き放たれし影──
演習場の空気は、まだ凍りついていた。
霊脈球が叩き出した数字。
《1,000,000》
それは、ただの魔力量ではなかった。
この世界が持つ測定体系そのものへの、静かな宣戦布告だった。
誰もが言葉を失っている。
魔導士たちは、ひび割れた霊脈球と、中央に立つ音無海を交互に見つめていた。
気弱そうな少年。
自分が何をしたのか、よく分かっていない顔。
だが、その少年は今、この場にいる全員の常識を踏み抜いた。
「……ユリウス博士」
その沈黙を破ったのは、エドガーだった。
声は低い。
だが、わずかに震えていた。
「あなたともあろうお方が、よくもまあ、こんな茶番に付き合いましたね」
演習場の空気が、さらに重くなる。
フィリアが息を呑んだ。
エドガーの言葉は、日頃から敬愛しているユリウスに向けるには、あまりにも無礼だった。
「王命とはいえ、度が過ぎていませんか?」
ユリウスは黙ってエドガーを見る。
紫に光るゴーグルの奥で、何を考えているのかは分からない。
だが、その沈黙が逆にエドガーを追い詰めた。
「はっ」
次の瞬間、エドガーは笑った。
「はっはっはっはっはっはっ!」
乾いた笑い声が、広い演習場に虚しく響く。
笑っている。
だが、誰の目にも分かった。
彼は、笑うことでしか立っていられなかった。
「俺としたことが、取り乱してしまったな」
エドガーは片手で髪をかき上げる。
その指先は震えていた。
「魔力量がどれだけ高かろうが、肝心の魔法が使えなければ意味がない。そうだろう?」
彼の視線が、フィリアへ向く。
「現に俺は、戦闘訓練ではフィリアにすら勝っている。なぁ、フィリア?」
鋭い視線が突き刺さる。
フィリアは一瞬、言葉に詰まった。
「……それは」
「答えろ」
エドガーの声が硬くなる。
フィリアは唇を引き結び、視線を伏せた。
「……確かに、私はエドガーには……勝てないかもしれない」
「“かもしれない”だと?」
エドガーの顔が歪む。
「違う、違う、違ぁぁぁう!」
彼の声が、演習場に跳ね返った。
「お前は、絶対に俺に勝てないんだよ!」
フィリアの肩が、小さく震える。
エドガーの目は血走っていた。
理性のタガが、少しずつ外れていく。
「落ちぶれたアークライト家の娘風情が、このシュタインベルク家の名に勝てるわけがないだろ!」
その言葉に、演習場の空気が冷えた。
海は思わずフィリアを見る。
彼女は表情を崩していない。
けれど、指先だけが強く握られていた。
「エドガー」
ユリウスが、静かに口を開いた。
その声には、いつもの飄々とした軽さがなかった。
「それは言い過ぎだ」
「……っ」
エドガーの顔が強張る。
ユリウスは一歩、前へ出た。
「君の戦闘技術が高いことは、私も認めている。だが、フィリア君は優しさを忘れずに訓練に臨む子だ」
声は穏やか。
だが、刃のように冷たい。
「常に全力で、力任せに戦う君とは違ってね」
エドガーの目が見開かれる。
「彼女は、相手を傷つけぬよう、あえて力を抑えている。それが分からないか?」
「……なに?」
エドガーの口元が引きつる。
「それじゃ、俺が手加減されていたと言いたいのか?」
「そう聞こえたなら、少しは考えるといい」
ユリウスは淡々と言った。
「そんなことも理解できないうちは、君はフィリア君に勝てはしないよ」
静かな一言。
だが、それはエドガーの誇りを深く切り裂いた。
「ユリウス様……」
フィリアが、小さく呟く。
ユリウスは彼女へ少しだけ顔を向け、すぐに海へ視線を戻した。
「それに、今は言い争っている場合ではない。海君の“属性”も、まだ鑑定が済んでいないだろう?」
エドガーは歯を食いしばった。
言い返せない。
だが、納得などできるはずがなかった。
《1,000,000》
その数字が、まだ視界に焼きついている。
海。
あの気弱そうな少年。
王城で、何の役にも立たないと判断されたはずの異世界人。
その男が。
自分を、フィリアを、ユリウスを、そしてシャルロットの記録すら霞ませた。
(……馬鹿な)
エドガーの奥歯が鳴る。
(俺が……この俺が……)
胸の奥で、何かが黒く煮え立つ。
嫉妬。
屈辱。
父の声。
シュタインベルクの名。
禁魔道具の冷たい重み。
それらが、彼の中で混ざり合っていく。
(あんな小僧が……)
海は、ただ困ったように立っていた。
誰かを見下したわけでもない。
勝ち誇ったわけでもない。
だからこそ、許せなかった。
「ふざけるなァッ!」
エドガーが吠えた。
次の瞬間、彼は海へ向かって踏み込んだ。
「えっ」
海が反応するより早く、エドガーの手が胸元を突き飛ばす。
海の身体がよろめいた。
「エドガー!」
フィリアの悲鳴に近い声が響く。
だが、エドガーは止まらなかった。
彼の周囲に、紅蓮の魔力が渦を巻き始める。
「我は祈りを捨てし者」
詠唱。
ユリウスの顔色が変わった。
「まずい」
エドガーの声は、怒りに濁っていた。
「焦熱は血潮、紅蓮は魂、焔は理」
空気が熱を帯びる。
足元の魔法陣が赤く輝き、演習場の防御結界が警告の光を発した。
「古の契約に従い、天と地を結ぶ業火よ」
「エドガー、やめろ!」
ユリウスが杖を構える。
だが、遅い。
エドガーの掌に炎が集まっていく。
それはただの火ではない。
魔力によって圧縮された、紅蓮の塊。
「その咆哮をもって万象を包み」
フィリアが駆け出そうとする。
「海様!」
「罪を裁き、影を焼き払え!」
ユリウスが遮断術式を展開しようとする。
しかし、詠唱は完了した。
「来たれ、烈火の奔流」
エドガーの目が、狂気に染まる。
「《フレイムバースト》!」
叫びと同時に、紅蓮の火球が放たれた。
炎の中級魔法。
だが、怒りに任せて叩き込まれたそれは、訓練用の威力ではない。
殺意を帯びた一撃だった。
「海っ!」
フィリアの声が、演習場を切り裂く。
火球が一直線に海へ迫る。
空気が焦げる。
床の魔法陣が悲鳴のような音を立てる。
海の視界が、赤で埋まった。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(熱源接近)
(距離、近い)
(回避、間に合わない)
(防御方法)
(炎には)
(……氷)
《SYSTEM WARNING》
《高熱魔力反応、接近》
《自動防衛演算、起動》
《属性干渉:火》
《対抗式:水・風複合》
《構築開始》
海は、何かを唱えたわけではない。
手を構えたわけでもない。
ただ、思った。
火には、氷かな、と。
次の瞬間。
ドオォォォォンッ!!!
豪火球が海の身体を直撃した。
爆風が演習場全体を揺らす。
石畳が砕け、熱波が壁面結界を叩いた。
紅蓮の炎が弾け、濃密な煙と水蒸気が視界を覆う。
「きゃっ……!」
フィリアが腕で顔を庇う。
団員たちは思わず後ずさった。
「何も見えないぞ!」
「直撃した……!」
「いくら魔力量が高くても、あれを受けて無事なはずが……!」
フィリアは震える手で胸元を握りしめた。
「海様……!」
声が震える。
炎と衝撃の直撃。
常識的に考えれば、助かるはずがない。
だが。
爆煙の奥で、何かが“割れる”ような音がした。
パキ。
パキパキ。
冷たい音。
炎の轟音とはまったく違う、澄んだ破裂音だった。
やがて、煙が晴れていく。
白い蒸気が渦を巻き、熱を押し返すように広がる。
その奥にあったのは。
巨大な氷壁だった。
厚さ数メートル。
大地から隆起した氷山のような結晶。
蒼白く輝く氷壁が、紅蓮の炎を完全に受け止めていた。
「こ、これは……」
「氷壁……?」
「いや、あの規模は……上級魔法だ」
ざわめきが広がる。
氷と炎がぶつかり、生じた蒸気。
それが爆煙の正体だった。
氷壁の陰から、海がゆっくりと姿を現す。
煤ひとつ付いていない。
焦げ跡もない。
驚くほど、無傷だった。
「……っ」
フィリアの頬を、涙が伝った。
「よかった……」
安堵と震えが混じった声だった。
だが、その声をかき消すように、エドガーが叫ぶ。
「き、貴様ァ!」
彼の顔は蒼白だった。
「命拾いしたな……ユリウス博士のおかげで!」
団員たちも、同じことを思っていた。
この氷壁はユリウスが展開した。
そうでなければ、説明がつかない。
だが。
ユリウスは静かに首を振った。
「それは、私ではない」
その一言で、空気が凍った。
「なっ……!?」
エドガーが目を見開く。
「では……フィリア! まさか、お前が……!?」
「あり得ないわ」
フィリアは即座に否定した。
「氷魔法は確かに扱える。でも《アイスウォール》は水属性と風属性の複合上級魔法よ」
彼女は氷壁を見る。
その瞳には、驚愕が浮かんでいた。
「使えなくはない。けれど、この規模を、あの短時間で、一瞬に展開するなんて……私にはとても」
「じゃあ、誰が……!」
エドガーの声が裏返る。
「まさか、シャルロット様が……!」
「シャルロットは、ここにはいない」
ユリウスが静かに断ち切った。
団員たちが騒然となる。
ならば。
誰が。
誰が、この氷壁を生み出したのか。
その答えは、演習場の中央に立っていた。
海は、申し訳なさそうに頭をかいていた。
「えっと……」
全員の視線が、彼に集まる。
「急に大きな炎が飛んできたので……火には氷かな、って思ったんです」
沈黙。
「そしたら……壁が出てきて」
海は困ったように笑う。
「たぶん、まぐれですよね?」
誰も、返事をしなかった。
いや、できなかった。
魔導士たちの常識では、魔法は詠唱によって術式を構築し、魔力を流し込み、世界へ命令を通すものだ。
上級魔法ともなれば、詠唱、属性制御、魔力安定、構築時間。
そのすべてが必要になる。
ましてや、水と風の複合属性。
一瞬で展開できる者など、王国中を探しても数えるほどしかいない。
それを。
魔法知識すら持たない少年が。
ただの直感で、発動させた。
「……無詠唱魔法」
誰かが呟いた。
その言葉が、演習場に落ちた瞬間。
全員が息を呑んだ。
無詠唱。
それは、人の域を超えた存在にのみ許された特権。
古い文献では、悪魔、堕天の血脈、あるいは世界法則に干渉する存在が用いたとされる禁忌に近い技。
シャルロットですら、上級魔法を完全無詠唱で安定発動させるには、条件を必要とする。
それを、目の前の少年は。
「……馬鹿な」
エドガーが後ずさる。
「あ、悪魔じゃあるまいし……そんなこと、あってたまるか……!」
その言葉に、海の胸が小さくざわついた。
悪魔。
なぜか、その単語だけが妙に深く刺さる。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(悪魔)
(……何だろう)
(今の言葉、変に引っかかった)
《SYSTEM LOG》
《封印領域に微弱反応》
《照合不可》
《アクセス権限:不足》
海は眉を寄せた。
だが、その違和感はすぐに周囲の騒ぎに飲まれた。
エドガーは、完全に取り乱していた。
「無詠唱だと……? 馬鹿な……! 悪魔でもなければ不可能なんだ……! なのに、なぜあいつが……!」
彼の膝が震える。
先ほどまでの尊大さは、もうなかった。
あるのは、現実を拒む者の必死さだけだ。
「俺は……シュタインベルク家の誇りを背負っているんだぞ……!」
エドガーは、誰に向けるでもなく呟く。
「アークライトの落ちぶれた娘や、あんな得体の知れない小僧に……負けるわけが……!」
言葉を吐くたび、自分自身を追い詰めている。
だが、氷壁は消えない。
海は無傷のまま、そこに立っている。
それが、すべてだった。
フィリアは、海を見つめていた。
恐怖もある。
驚愕もある。
けれど、それ以上に胸を満たしていたのは、別の感情だった。
(この人は……本当に)
彼女の手が、胸元で震える。
(この世界の理を、知らないまま越えていく)
それは危険なことかもしれない。
けれど。
どうしようもなく、目を離せなかった。
ユリウスは、氷壁の表面に手を触れた。
冷気が指先を包む。
彼はわずかに笑う。
「水と風の複合。構築は粗いが、出力が桁違いだ」
ゴーグルの紫光が瞬く。
「詠唱なし。印なし。媒体なし。意図だけで術式が成立している」
彼は海へ視線を向けた。
「海君。君は本当に、魔法を知らないのかい?」
「はい……」
海は戸惑ったまま答える。
「少なくとも、この世界の魔法は全然分かりません」
「それでこれか」
ユリウスは、楽しそうに息を吐いた。
「実に面白い」
「面白いで済ませていいんですか?」
フィリアが思わず言う。
「済まないね」
ユリウスは首を横に振る。
「だからこそ、面白い」
その声に、フィリアは何も言えなかった。
演習場の中央。
紅蓮の炎の残滓と、蒼白い氷壁の冷気が混ざり合う。
熱と冷気。
怒りと無自覚。
旧い秩序と、測定不能の異物。
それらが、ひとつの場所に立っていた。
団員たちの視線は、もうエドガーには向いていない。
誰もが、海を見ていた。
彼はただ、困ったように笑っている。
「えっと……」
海は小さく手を上げた。
「これ、僕が壊しちゃったことになりますか?」
誰も答えなかった。
ひび割れた床。
そびえる氷壁。
沈黙する魔導士たち。
そのすべてが、答えだった。
海はさらに困った顔になる。
「……弁償とか、あります?」
フィリアが、涙の残る目で思わず吹き出した。
ユリウスが肩を震わせる。
演習場の空気が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、エドガーだけは違った。
彼は俯き、拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
その顔に、笑みはない。
恐怖。
屈辱。
嫉妬。
そして、憎悪。
それらが黒く沈んでいく。
彼の胸元、衣の内側。
封印箱の中で。
禁魔道具が、誰にも気づかれぬまま。
どくん、と脈打った。




