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EP23: 闇の序曲

王都の一角。


貴族街の奥深くに、シュタインベルク邸はあった。


白亜の王城とは対照的に、その屋敷は重い灰色の石で築かれている。


高い鉄柵。


黒く磨かれた門扉。


魔力灯に照らされた庭園には、花ひとつ咲いていない。


整えられている。


だが、生気がない。


そこは住まいというより、権力が人の形をして眠る砦だった。


その最奥。


幾重にも張り巡らされた魔力遮断結界の内側に、石造りの書斎がある。


窓は厚い遮光硝子で塞がれ、外の月明かりすら届かない。


壁一面には古い魔導書が並び、床には炎と雷を象った紋章が刻まれていた。


燭台の炎だけが、闇の中で細く揺れている。


その椅子に、一人の男が腰掛けていた。


アルフレッド・フォン・シュタインベルク。


かつて“雷火の英傑”と恐れられた老将。


そして今なお、魔導騎士団上層部に絶大な影響力を持つ、影の実力者である。


彼の前には、ひとりの青年が跪いていた。


金髪を整え、背筋を伸ばし、貴族らしい礼を崩さない。


エドガー・フォン・シュタインベルク。


アルフレッドの息子にして、火と土の二属性を扱う若き魔導士。


だが今、その顔にはわずかな緊張があった。


「エドガーよ」


アルフレッドの声が、書斎に沈む。


氷のように冷たく、地の底から響いてくるような声だった。


「近く、王の命により“異世界者”が魔導騎士団に配属される」


「はい。父上」


「その内の一人、勇者の加護を受けし少女、高円寺凛」


アルフレッドはゆっくりと目を細める。


「彼女については……まあ良い。兵器としては申し分ない。利用価値もある」


“少女”ではない。


“勇者”でもない。


兵器。


アルフレッドは、凛をそう呼んだ。


その言葉に、エドガーはわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。


「だが」


アルフレッドの声が、一段低くなる。


燭台の炎が、ひゅうと細く揺れた。


「もう一人の男。名を、海と言ったか」


空気が、さらに重くなる。


「あれは……何の価値もない」


吐き捨てるような声だった。


創造主デウス・エクスなどという仰々しい名のスキルは論外。魔術素養も皆無。戦闘にも向かぬ。異世界の知識とやらに縋る、哀れな文弱の輩よ」


アルフレッドの指が、椅子の肘掛を叩く。


こつ。


こつ。


こつ。


その音だけが、静かな書斎に響いた。


「なぜ、王はあのような役立たずを、我らの聖域に招き入れた?」


エドガーは頭を垂れたまま答える。


「王は、異世界者の知識に何らかの価値を見出しているのかと」


「価値?」


アルフレッドの唇が、わずかに歪む。


「知識など、秩序の中に置かれて初めて価値を持つ。制御できぬ知識は、ただの毒だ」


その声には、嫌悪だけではないものが混じっていた。


警戒。


いや、恐れに近い何か。


「断じて許せん」


拳が、肘掛を強く握る。


古い木材が、ぎしりと軋んだ。


「あの無様な存在。あの忌々しき眼差し。何も知らぬようで、すべてを見透かすような……あの“気配”が気に食わん」


アルフレッドの目が、暗闇の中で鈍く光る。


「分かっておるな、エドガー」


一拍の静寂。


炎が揺れる。


エドガーの喉が、小さく動いた。


そして。


アルフレッドは低く、はっきりと告げた。


「其奴を、亡き者とせよ」


その言葉は、あまりにも重かった。


冗談でも、脅しでもない。


命令。


処分。


排除。


そのどれよりも冷たい響きだった。


エドガーは一瞬、言葉を詰まらせた。


「……ですが、父上。少々、やり過ぎではございませんか」


次の瞬間。


「黙れ!」


怒号が、書斎を震わせた。


燭台の炎が大きく揺れ、壁にかかった肖像画の影が歪む。


「貴様、このわしに口答えをする気か?」


「滅相もございません」


「愚か者め。王命に隠された真意も読めぬとは」


アルフレッドは、椅子からわずかに身を乗り出した。


「よいか、あの男は“異質”なのだ」


異質。


その言葉だけが、書斎の闇に沈まず残った。


「この世界の秩序に、ひびを入れる可能性を秘めた危険因子よ。魔力があるかないかではない。戦えるかどうかでもない」


アルフレッドの眼光が、エドガーを射抜く。


「あれは、この世界の仕組みを疑う目をしている」


エドガーは息を呑んだ。


「仕組みを疑う者は、やがて仕組みを壊す。王がその危うさに気づいておらぬなら、我らが先に動かねばならん」


「……父上のご意思、肝に銘じます」


「よい」


アルフレッドは深く息を吐いた。


そして、机の引き出しに手を伸ばす。


重い金属音がした。


彼が取り出したのは、黒い封印箱だった。


箱の表面には、古い禁呪文字が刻まれている。


蓋の継ぎ目には、血のように赤い封蝋。


そこから漏れる魔力は、冷たい。


いや、冷たいだけではない。


触れていないのに、皮膚の内側を這うような嫌悪感があった。


「万一に備え、これを持て」


エドガーの目が、わずかに見開かれる。


「これは……」


「禁魔道具」


アルフレッドの声が、闇に沈む。


「《イグザイル・コア》」


その名が告げられた瞬間、封印箱の中で何かが微かに脈打った。


どくん。


エドガーの背筋に、冷気が走る。


「対象の魔力循環を逆流させ、精神核を破壊する道具だ」


アルフレッドは淡々と説明する。


「発動には代償が必要だが、相手を一撃で沈めるにはこれしかない」


「精神核を……」


「肉体を壊す必要はない。心を壊せば、人は立てぬ」


その言い方には、感情がなかった。


まるで、不要な部品を外す手順を説明しているかのようだった。


エドガーは慎重に封印箱を受け取る。


その瞬間。


冷気が指先から腕へ、腕から背筋へ駆け上がった。


「っ……」


箱の中から、何かがこちらを見ている。


そんな錯覚があった。


明らかに、これは普通の魔道具ではない。


呪い。


その言葉が、最も近かった。


「くれぐれも、我がシュタインベルク家の名に恥じぬようにな」


アルフレッドの声が戻る。


「醜態は許さん。あのような下賤な輩に、我が名を穢されてはならぬ」


「もちろんでございます」


エドガーは箱を胸に抱え、深く頭を下げた。


「ご安心ください。このエドガー、火と土の二属性魔導士(デュアルマジシャン)にして、“エレメンタル”の称号を与えられた者」


彼は顔を上げる。


その瞳には、必死に作った自信が宿っていた。


「異世界の落ちこぼれごときに、後れを取るなどあり得ませぬ」


「ならば証明しろ」


アルフレッドは冷たく言った。


「お前が、シュタインベルクの名に相応しい男であることを」


「はい」


エドガーは、もう一度深く頭を下げる。


だが。


その瞳の奥に宿る、かすかな焦燥を。


アルフレッドは見逃していた。


なぜ、王はあの異世界の少年を選んだのか。


なぜ、ユリウスはあの少年に興味を示したのか。


なぜ、自分は。


あの気弱そうな男を前にして、ほんの一瞬だけ胸の奥がざわついたのか。


(……まさか)


エドガーは唇の内側を噛む。


(本当に、只者ではないとでもいうのか……?)


箱の中で、《イグザイル・コア》がまた小さく脈打つ。


どくん。


それは、彼の不安に応えるようだった。


胸の奥に、小さな棘が刺さる。


嫉妬。


恐怖。


屈辱。


そして、父の期待。


そのすべてが、エドガーの中で黒く混ざり始めていた。


やがてそれが。


彼自身の運命を大きく狂わせる火種になることを。


この時の彼は、まだ知らない。

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