EP18:弟子の嫉妬と師匠の温度差。見苦しさにも限度があるわ [LOG_RIVALRY]
滝場へ向かう直前。
バラグスは、凛を呼び止めた。
「待て、小娘。試しを受ける前に、二つだけ条件がある」
凛の足が止まる。
隣でスカイゼルも振り返った。
夜の気配が、庵の庭先に降り始めていた。
木々の隙間から覗く異世界の月は青白く、石舞台に淡い光を落としている。
遠くからは、ごうごうと水の落ちる音が聞こえていた。
滝だ。
山の奥で、夜そのものを削るように水が落ち続けている。
バラグスは腕を組み直し、鋭い眼光で凛を見つめていた。
その視線は、岩壁のように重い。
「条件?」
凛は問い返した。
「ああ」
バラグスは凛を見据えた。
「一つ目。修行中は、その異常な力を封印することだ」
「封印……?」
凛の声が、わずかに揺れた。
「ドラゴンを一撃で葬る力。砂竜を容易く沈める膂力。追尾岩を素手で砕く反応と出力」
バラグスの目が鋭く光る。
「そんなものは、この修行の妨げでしかない」
凛は黙った。
自分の力。
この世界へ来てから、彼女の身体には常識外れの能力が宿っている。
魔物を倒すことも、岩を砕くことも、以前の自分なら想像すらできなかったことだ。
その力があったから、ここまで来られた。
その力があったから、生き延びた。
だが。
「強すぎる力は、技を鈍らせる」
バラグスは続けた。
「お前は今、力で大抵のものを踏み潰せる。だからこそ、己の粗さに気づけん。拳の角度も、足の置き方も、重心の流れも、魔力の呼吸も、全部だ」
その言葉は重かった。
凛の胸の奥に、静かに刺さる。
「双神流は、力を振り回す道ではない」
バラグスの声が低く響く。
「己の身体を知り、世界の流れを読み、最小の動きで最大を崩す。そのためには、お前の異常な力は邪魔だ」
「つまり」
凛はゆっくりと口を開いた。
「私は一度、ただの私になれということね」
バラグスの眉がわずかに動く。
「……そうだ」
凛は、しばらく沈黙した。
ただの自分。
高円寺家の名でもなく。
勇者の力でもなく。
異世界から与えられた規格外の身体能力でもなく。
それらを脱いだあとに残る、高円寺凛。
それは少しだけ怖い問いだった。
だが、凛は顔を上げた。
「構いません」
その声に迷いはなかった。
「それで技が学べるなら、封印でも何でも受け入れます」
スカイゼルが、わずかに目を見開く。
「おい、本当にいいのかよ」
「何が?」
「その力がなきゃ、滝場どころか基礎鍛錬で潰れるかもしれねぇぞ」
「潰れたら立てばいいでしょう」
凛は当然のように言う。
「立てなければ?」
スカイゼルが問う。
凛は、ふっと笑った。
「立てるまで、地面に文句を言うわ」
「地面に!?」
「ええ。私を支える仕事を怠ったのだから、当然でしょう?」
スカイゼルは額を押さえた。
「すげぇ理屈だな……」
「高円寺理論よ」
「聞いたことねぇよ」
「今、聞いたでしょう?」
「無敵かよ!」
セレスティアが口元に手を当て、楽しそうに笑っている。
バラグスは渋い顔のままだったが、その目にはわずかな興味が宿っていた。
「そして、二つ目」
今度はセレスティアが、柔らかく微笑みながら口を開いた。
「修行の間、あなたは私たちの孫になること」
「……孫?」
凛は、思わず目を丸くした。
先ほどまでの重苦しい条件とは、あまりにも方向が違いすぎる。
「ええ、孫」
セレスティアはにこやかに頷く。
「弟子ではなく?」
「もちろん弟子でもあるわ。でも、修行中の生活では孫」
「なぜ?」
「可愛いから」
あまりにも迷いのない即答だった。
凛は一瞬、言葉を失う。
スカイゼルは隣で、嫌な予感がしたように尻尾を止めた。
セレスティアは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「私たちは子宝に恵まれなかったの」
その声には、柔らかな寂しさが混じっていた。
「長い時を生きて、いろいろな弟子を見てきたわ。けれど、あなたのように綺麗に背伸びをして、傷ついても傷ついていないふりをする子を見ると、つい……ね」
凛の胸が、かすかに揺れた。
綺麗に背伸びをして。
傷ついても、傷ついていないふりをする。
その言葉は、凛の奥底にしまい込んでいたものへ、そっと触れてきた。
「……それは、観察眼が鋭すぎませんこと?」
凛は、少しだけ視線を逸らす。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
セレスティアは微笑んだ。
バラグスが、わざとらしく咳払いをする。
「孫になれってのは、こいつの趣味だ。俺には関係ない」
「関係なくはないでしょう、あなた」
「ワシは言っておらん」
「でも、昨日の夜に『あの娘は目がいい』って言っていたじゃない」
「言っておらん」
「言ったわ」
「……言っておらん」
バラグスは頑なに否定した。
だが、耳のあたりがわずかに赤い。
凛は、それを見逃さなかった。
「つまり、バラグス様も私を気に入ったということですね」
「違う」
「照れ隠し?」
「違う」
「頑固なおじい様ね」
「誰がおじい様だ!」
バラグスの声が庭先に響いた。
その瞬間。
凛は、ほんの少しだけ目を見開いた。
おじい様。
その言葉を、自分の口から自然に出したことに、少し驚いたのだ。
高円寺家の祖父。
厳しく、冷たく、いつも遠くにいた人。
幼い頃には優しかったはずなのに、いつからか近づけなくなった人。
胸の奥に、古い記憶がよぎる。
大きな膝。
白檀の香り。
低い声。
小さな手を包んでくれた、大きな手。
だが、その記憶はすぐに霞んだ。
凛は気づかれぬように、静かに息を整える。
セレスティアはそれを見ていたが、何も言わなかった。
「それで、凛」
彼女は優しく問いかける。
「どうかしら。修行の間だけでいいの。私たちの孫として、この庵で暮らしてみない?」
凛は少しだけ沈黙した。
そして、深く頭を下げる。
「はい」
その声は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。
「私でよければ……全力でお応えします」
セレスティアの瞳が、嬉しそうに細められる。
「まあ、可愛い」
「可愛い……」
凛は小さく呟く。
普段なら、当然だと言い返すところだ。
だが、この時だけは、なぜか言葉が喉に引っかかった。
バラグスはそっぽを向きながら、ぼそりと言った。
「まあ、せいぜい途中で泣いて逃げ出さんことだな」
凛はすぐに顔を上げる。
「泣いても逃げませんわ」
「泣くのは認めるのか」
「涙腺の自由まで、あなたに管理される覚えはありません」
「口だけは一人前だな」
「口も一流です」
「面倒な孫だ」
「光栄ですわ」
その時だった。
庭先に、どこか不機嫌そうな空気が漂った。
いや。
空気ではない。
スカイゼルである。
彼は両腕をだらりと下げ、金色の瞳をぎらぎらさせ、尻尾を地面にぺちん、ぺちん、と叩きつけていた。
「……なんでだよ」
低い声。
凛が振り向く。
スカイゼルは、とうとう叫んだ。
「なんでだよっ!」
その声は庵全体に響き渡った。
木々の葉が、ふるふると震える。
まるで森全体が「まあまあ、落ち着け」と宥めているようだった。
「てかっ、何か甘すぎねぇか!? お師匠様!」
スカイゼルは鋭い爪を地面にぐっと突き立てる。
「俺ん時は一ヶ月もろくに口も聞いてくれなかったじゃねぇかっ!!」
凛は目を瞬かせた。
「一ヶ月?」
「そうだよ!」
スカイゼルは勢いよく凛を指差す。
「俺なんか、最初の一ヶ月は『邪魔だ』『うるさい』『そこに立つな』『飯を焦がすな』『岩を割るな』『扉を壊すな』しか言われなかったんだぞ!」
「……最後の方はあなたが悪いのでは?」
「うるせぇ!」
この時、すでにスカイゼルの計画は脆くも崩壊していた。
実はスカイゼルは、凛が門前払いをくらい、肩を落としてしょんぼり戻ってくる姿を想像していたのだ。
そして、その瞬間に兄貴風を吹かせる予定だった。
「ほーら言ったろ? 双神流なんざ簡単に教えてもらえねぇんだよ。俺だって血反吐を吐きながら……」
そうやって、格好よく諭す。
頼れる兄弟子。
ちょっと荒っぽいけれど、実は面倒見のいい先輩。
龍人族の誇りを背負った、孤高の兄貴分。
そのポジションを確立するつもりだった。
しかし現実は、まさかの。
即・仮・採・用。
しかも孫枠つき。
スカイゼルの計画は、秒速で木っ端微塵に砕け散った。
「納得いかねぇ……」
スカイゼルは地面を見つめて呻く。
「俺の兄貴分計画が……」
「何か言った?」
凛が問いかける。
「何でもねぇよ!」
その瞬間、セレスティアが静かに口を開いた。
「そりゃそうでしょう」
その優雅な物腰と凛とした声には、絶対的な説得力がある。
「凛は可愛いもの」
スカイゼルが固まった。
セレスティアはさらに続ける。
「それに比べて、鼻息の荒い、可愛さのかけらもない、むさ苦しい龍人族の男なんかに、最初から興味が湧くはずないでしょう?」
淡々と。
しかも容赦なく。
その言葉は、スカイゼルの胸にぐさぐさと突き刺さった。
「お、お師匠様……」
スカイゼルの長い尻尾が、しょんぼりと垂れ下がる。
「その言い方、あんまりじゃねぇっすか……」
先ほどまで獲物を睨む猛禽のようだった青年が、今は雨に濡れた大型犬のようになっている。
凛は口元を手で隠した。
笑ってはいけない。
ここで笑ってはいけない。
そう思えば思うほど、肩が震える。
「何笑ってんだよ!」
「笑っていないわ」
「肩が震えてんだろ!」
「高貴な呼吸法よ」
「どんな呼吸法だ!」
バラグスが腕を組んだまま、小さくため息をついた。
「スカイゼルよ」
「はいっ!」
スカイゼルは反射的に背筋を伸ばす。
「お前はな……色々と惜しいんだ」
「な、なんすかそれ!?」
「素質はある。力もある。根性もある。情もある」
バラグスは淡々と並べる。
「だが、力加減と空気を読む能力が壊滅的だ」
「ぐっ……!」
「弟子入り初日から『お師匠様、肩揉みますね』とか言いながら、ワシの肩甲骨を鳴らしすぎて岩盤みたいな音を出した時点で、だいぶ怪しかった」
「あ、あれは……! 力加減をミスっただけっすよ!」
「その翌日、薪割りを頼んだら薪どころか薪小屋ごと割った」
「気合いが入りすぎただけっす!」
「三日目には、川で魚を獲れと言ったら水流を吹き飛ばして川底を露出させた」
「あれは効率を考えて……!」
「効率で川を殺すな」
凛はついに、耐えきれず小さく吹き出した。
「ふふっ」
「笑ったな!?」
「ごめんなさい。だって、川を殺すって……」
凛は口元を押さえたまま、肩を震わせる。
「あなた、本当に色々と惜しいのね」
「オメェに言われると腹立つな!」
セレスティアは微笑ましそうに二人を見ている。
「でも、スカイゼル」
彼女の声が、少しだけ真面目になる。
「あなたが凛に嫉妬する気持ちは、分からなくもないわ」
スカイゼルの表情が、わずかに変わった。
「師匠……」
「けれど、嫉妬している暇があるなら、一歩でも先に進みなさい」
その言葉は柔らかい。
けれど、芯は厳しかった。
「誰かが認められた時、自分が否定されたように感じることがある。でも、それは違うわ。凛が進む道と、あなたが進む道は同じではない」
スカイゼルは黙る。
セレスティアは続けた。
「あなたは凛の兄弟子になるのでしょう?」
「……一応、そのつもりっす」
「なら、妬むより先に、背中を見せなさい」
その一言に、スカイゼルの金色の瞳が揺れた。
バラグスも低く言う。
「弟子入りがどうとか、可愛さがどうとか、そんなことはどうでもいい」
「いや、可愛さは……」
「どうでもいい」
「はい」
スカイゼルは即座に折れた。
「問題は、その後どう行動するかだ」
バラグスは凛とスカイゼルを交互に見た。
「凛は力を封じられる。今までのようにはいかん。お前は兄弟子として、己の未熟さを見せてもいい。だが、逃げる背中だけは見せるな」
「……うっす」
スカイゼルは、項垂れながらも頷いた。
凛は、その横顔を見た。
先ほどまでの嫉妬に染まった顔ではない。
少し悔しそうで、少し照れくさそうで、それでも前を向こうとしている顔。
「スカイゼル」
凛が声をかける。
「あ?」
「心配しなくても、私はすぐにあなたを追い越すわ」
「慰める気ゼロかよ!」
「でも、兄弟子として敬意は払ってあげる」
「本当か?」
「あなたがそれに値する振る舞いをしたらね」
「条件付きかよ!」
凛はふっと笑う。
スカイゼルも、数秒遅れて笑った。
「……本当に、面倒な嬢ちゃんだな」
「三回目よ」
「言うと思ったぜ」
夜風が、四人の間を抜けていった。
その風は冷たい。
けれど、先ほどまでの張り詰めた空気とは違う。
どこか、家の庭先に流れるような、奇妙な温もりがあった。
その夜。
凛は、封印の儀式に臨むこととなる。
セレスティアが庵の奥から持ってきたのは、白銀の細いチョーカーだった。
表面には複雑な紋様が刻まれており、淡い光が脈打っている。
「これは封力環」
セレスティアが説明する。
「あなたの異常な身体能力と魔力出力を、一時的に抑えるものよ。完全に消すわけではないけれど、少なくとも今までのように力任せで突破することはできなくなる」
凛は腕輪を見つめる。
美しい。
だが、その美しさの奥に、拘束具の冷たさがあった。
バラグスが言う。
「怖いか」
凛は即答しなかった。
少しだけ、自分の右手を見つめる。
今の力を封じられたら、自分はどこまでできるのか。
本当に立っていられるのか。
本当に、ここで学ぶ資格があるのか。
そんな問いが、一瞬だけ胸をよぎった。
だが。
凛は腕を差し出した。
「怖くないと言えば、嘘になるわ」
スカイゼルが、目を見開く。
凛は続ける。
「でも、怖いからやめるほど、私は安くない」
セレスティアの瞳が細められる。
バラグスは、わずかに口角を上げた。
「なら、受けろ」
セレスティアが封力環を凛の首元へそっと装着する。
次の瞬間。
カチリ。
小さな音がした。
その直後、凛の身体から、何かが一気に抜け落ちた。
「っ……!」
膝が沈む。
呼吸が重い。
身体が急に鉛になったように感じる。
今まで自然にできていたことが、遠くなる。
岩を砕く感覚も。
風を裂く反応も。
魔物を圧倒する出力も。
すべてが厚い布の向こうへ押し込められたようだった。
凛は一瞬、膝をつきかける。
だが。
つかない。
足に力を込め、背筋を伸ばす。
顔を上げる。
「……なるほど」
凛は息を整えながら、笑った。
「これは、なかなか不愉快ね」
スカイゼルが呆れたように笑う。
「普通、きついとか苦しいとか言う場面だろ」
「不愉快よ。私の身体なのに、私の思い通りに動かないなんて」
「そこがムカつくのかよ」
「当然でしょう」
凛は封力環を見下ろす。
「でも、悪くないわ」
「悪くない?」
「ええ」
凛の青い瞳に、再び光が宿る。
「思い通りに動かないなら、思い通りに動くまで躾けるだけよ」
バラグスが低く笑った。
「いい顔だ」
セレスティアも微笑む。
「では、今夜は休みなさい。滝場での試しは、夜明け前から始めるわ」
「夜明け前?」
「一番、心が冷える時間よ」
セレスティアは穏やかに言った。
「その時間に、水の音を聞き、自分の中の雑音と向き合うの」
凛は封力環の重さを感じながら頷いた。
「分かりました」
「無理はしないこと」
「善処します」
「それ、無理をする人の返事ね」
「高円寺家では前向きな返事と言います」
「便利な家ね」
セレスティアはくすりと笑った。
* * *
その頃。
スカイゼルは庭先の木の上にいた。
太い枝に腰を下ろし、片膝を立て、夜空を見上げている。
尻尾は、力なく枝から垂れていた。
「はぁ……」
深いため息。
「結局、俺は可愛さで負けたってことかよ……」
彼は自分の尻尾をちらりと見る。
「でも、俺だって……尻尾とか……鱗とか……」
少しだけ尾を持ち上げる。
月明かりに、黒い鱗が鈍く光った。
「可愛くねぇ……か……」
自分で言って、さらに落ち込む。
その様子を、庵の縁側からセレスティアが見ていた。
彼女はくすくすと笑う。
「可愛いわよ、スカイゼル」
木の上のスカイゼルが、ばっと振り返る。
「本当っすか!?」
「ええ」
セレスティアは微笑んだ。
「拗ね方が」
「そこっすか!?」
バラグスは縁側に座り、茶をすすりながら遠い目をしていた。
「……明日から騒がしくなるな」
「ええ」
セレスティアは庵の奥へ視線を向けた。
そこでは、封力環をつけた凛が、静かに自分の手を見つめている。
力を封じられた少女。
けれど、その瞳の光は少しも弱まっていない。
むしろ、燃え方が変わった。
炎ではなく、芯に残る炭火のように。
静かで、しぶとく、消えにくい光。
「楽しみね」
セレスティアが呟く。
バラグスは、茶碗を置いた。
「楽しいだけで済めばいいがな」
その声は重い。
だが、どこか期待も混じっていた。
庵の外では、夜風が木々を揺らしている。
遠くの滝は、変わらず轟いていた。
ごうごうと。
まるで、凛の内側に眠る何かを呼び覚ますように。
高円寺凛の修行は、ここから本当の意味で始まる。




