EP17:龍人族の兄弟子
石舞台に、静かな風が流れていた。
凛の前に立つセレスティアは、銀緑の長い髪を揺らし、湖の底を思わせる深い緑の瞳で彼女を見つめていた。
質素な衣をまとっているにもかかわらず、その立ち姿には王族よりも古い気品がある。
風が、彼女の周囲だけ従者のように寄り添っていた。
「山を越え、荒野を抜け、砂竜を退け、スカイゼルの試しも越えた。ここまで来たことは認めましょう」
「ずいぶん上からね」
凛は顎を上げる。
「まあ、師匠を名乗るなら、それくらいの態度は許してあげてもいいけれど」
横でスカイゼルが、軽く額を押さえた。
「嬢ちゃん、師匠相手にもうちょい言葉を選べよ……」
「選んでいるわ。かなり丁寧に」
「どこがだよ」
セレスティアは、くすりと笑った。
「いいのよ、スカイゼル。口先だけなら、元気な子は嫌いじゃないわ」
「口先だけ?」
凛の眉がぴくりと動く。
「失礼ね。私は中身まで高品質よ」
「ほら、お前、そういうところだぜ」
スカイゼルは小さく呟いた。
その声に、凛が鋭く振り向く。
「何か言った?」
「いや。何も」
「言ったわね」
「風の音だ」
「便利な森ね」
軽いやり取りの中にも、空気は張り詰めていた。
ここは、ただの修行場ではない。
岩壁に囲まれた広間。
中央に据えられた円形の石舞台。
周囲に立ち並ぶ苔むした石碑。
どの石碑にも古い文字が刻まれており、そこから微かに魔力が滲んでいる。
ここは、武の墓標だ。
過去に挑み、届かず、あるいは辿り着いた者たちの気配が、石の奥に眠っている。
凛は肌でそれを感じていた。
強者の気配。
それも、一人や二人ではない。
この場所には、長い年月をかけて積み重なった試練の残響がある。
「それで」
凛はセレスティアを見据えた。
「あなたが双神流の師匠なのね?」
「師の一人よ」
セレスティアは静かに答える。
「双神流には、二人の師がいる。私は風と魔力の流れを教える者」
その言葉に合わせるように、空気が凛の頬を撫でた。
「そして、もう一人が」
ドン。
大地が、わずかに鳴った。
凛は目を細める。
石舞台の奥。
庵の戸口。
そこに、巨大な圧をまとった影が現れた。
「帰れ」
低く、腹の底に響く声だった。
戸口に立っていたのは、人間から見れば大柄だが、巨人族としてはあまりにも小柄な男だった。
岩のような肩幅。
丸太のような腕。
白髪混じりの髭。
褐色の肌に、無数の古傷。
その体躯は、巨人と呼ぶには足りない。
だが、ただ立っているだけで、周囲の空気を押し潰すような重さがあった。
剣も持っていない。
構えてすらいない。
それなのに、凛の本能が警鐘を鳴らす。
これは、山だ。
人の形をした山。
大きさではない。
重さそのものが、人の形をしている。
「お前みたいな小娘を相手にする暇はない」
男は凛を睨み下ろした。
「バラグス」
セレスティアが静かに名を呼ぶ。
「いきなり帰れは、あまりに不親切ではなくて?」
「親切にしたら帰るのか?」
「帰らないでしょうね」
「なら同じだ」
バラグスは腕を組んだ。
その腕の太さだけで、人間一人を握り潰せそうだった。
凛は一歩、前に出る。
「私、高円寺凛と申します」
彼女は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
それは王城で見せるような儀礼的な礼ではない。
自ら望み、学びを求める者としての礼だった。
「この力を制御するために、双神流を学びたいのです」
スカイゼルが、わずかに目を見開いた。
あの高飛車な少女が、頭を下げた。
それだけで、この場所へ来た覚悟の一端は伝わる。
だが。
「知ったことか」
バラグスは一言で斬り捨てた。
凛の眉が、ぴくりと動く。
「……今、何と?」
「知ったことか、と言った」
バラグスは一歩も動かない。
「力を制御したい? 学びたい? 立派な言葉だ。だが、言葉で山は登れん。覚悟で骨は硬くならん。根性で死は避けられん」
その声は、雷鳴よりも重かった。
「双神流は飾りではない。王侯貴族の護身術でも、勇者様の箔付けでもない」
バラグスの視線が、凛の細い腕に落ちる。
「その枯れ枝みたいな腕で、何を掴むつもりだ」
「枯れ枝?」
凛の青い瞳が、冷たく光る。
「ずいぶん無礼な物言いね。高円寺家では、女性の腕を枯れ枝呼ばわりした男性には、三日間テーブルマナーの再教育を受けさせるわ」
「ここは高円寺家ではない」
「ええ。だから今のところ許してあげているの」
スカイゼルが尻尾をぴたりと止めた。
「お、おい嬢ちゃん……」
バラグスの眼光が、さらに鋭くなる。
「口は達者だな」
「それも長所の一つですわ」
「死ぬぞ」
「脅し?」
「警告だ」
バラグスは凛を見下ろしたまま言った。
「この道は、覚悟だけじゃどうにもならん。死と隣り合わせだ。甘くはない。お前が今まで越えてきた山も、荒野も、魔物も、双神流の入り口ですらない」
凛は黙って聞いていた。
「お前は強いのかもしれん。だが、強いだけの者ほど早く折れる。自分を信じる者ほど、自分が通じぬ場所で砕ける」
バラグスの声が、さらに低くなる。
「双神流はな、己の力を増やす技ではない。己という器を、何度も壊し、組み直す道だ」
その言葉に、凛の胸の奥がわずかに揺れた。
己を壊す。
組み直す。
それは、ただ強くなるという言葉よりも、ずっと重い。
「バラグス」
セレスティアが穏やかに口を挟む。
「この娘は、ただの客ではないわ」
「だからといって、簡単に教えるわけにはいかん」
バラグスは渋い顔で腕を組んだ。
「お前も知っているだろう。双神流を極めた者など、誰一人いない」
その言葉に、スカイゼルの表情が曇る。
「ワシらを含めて、誰一人としてだ」
凛は目を細めた。
「師匠であるあなたたちも?」
「そうだ」
バラグスは即答した。
「双神流は完成された流派ではない。完成できぬからこそ、双神流だ。肉体と魔力。剛と柔。破壊と調和。その相反するものを一つの身に宿す」
彼は自分の胸を拳で軽く叩く。
「ワシは剛を極めた。肉体と大地の力なら誰にも譲らん」
次に、セレスティアへ視線を向ける。
「セレスティアは柔を極めた。風と魔力の流れなら、この世界で右に出る者はいない」
セレスティアは何も言わず、静かに微笑んだ。
「だが、二つを完全に一つにした者はいない」
バラグスは凛へ視線を戻す。
「だから双神流は、いまだ未完。未完であるがゆえに、最も危険な道だ」
凛は、ゆっくりと息を吸った。
未完。
その言葉は、不思議と彼女の胸を躍らせた。
完成された道をなぞるだけなら、退屈だ。
誰かがすでに極めたものを教わるだけなら、それは安全で、正しいのかもしれない。
けれど。
未完なら。
まだ誰も届いていないなら。
「いいじゃない」
凛の口元が、わずかに吊り上がった。
「未完成。素敵な響きだわ」
スカイゼルがぎょっとする。
「そこ、喜ぶところか?」
「当然でしょう」
凛は胸を張る。
「誰かが完成させた道を歩くだけなら、私である必要がないもの」
バラグスの眼が、わずかに細くなった。
「大きく出たな、小娘」
「私は高円寺凛よ」
凛は青い瞳でバラグスを真正面から見返す。
「高円寺家の後継者候補。そして、今は私自身の意思でここに立っている」
その声には、王城で名乗った時とは違う響きがあった。
家名を盾にしているのではない。
家名も、自分の一部として背負っている。
けれど、それに縛られてはいない。
「文句があるなら、聞いて差し上げるわ」
沈黙。
風が、石碑の間を通り抜ける。
スカイゼルは、思わず凛を見た。
ただの高飛車ではない。
威勢がいいだけでもない。
自分の傷も、誇りも、弱さも、全部抱えたまま前に出ている。
だから、折れそうで折れない。
だからこそ、危うい。
「大体、スカイゼル」
バラグスの低い声が飛んだ。
「なぜお前ともあろう者が、こんな小娘を連れて来た」
スカイゼルの背筋が、ぴんと伸びた。
「いや、その……門が開いたんで」
「それだけか」
「いや……まあ……」
バラグスの鋭い眼光がスカイゼルを射抜く。
「お前が判断したのだろう」
「……はい」
スカイゼルは観念したように息を吐く。
「最初は追い返すつもりでした。岩で試して、ダメならそのまま帰らせるつもりで」
凛が横から口を挟む。
「殺すつもりだったそうよ」
「言い方!」
スカイゼルが慌てて振り向く。
「事実でしょう?」
「いや、まあ、そうだけどよ!」
バラグスの視線が、さらに冷たくなる。
スカイゼルの尻尾が、わずかに丸まった。
「……ですが、こいつは退かなかった」
スカイゼルは真面目な声に戻る。
「力だけじゃありません。兄じゃ……グランゼルのことを話した時も、逃げませんでした。憎まれる覚悟も、責められる覚悟も、こいつは真っ直ぐ受け止めた」
凛は少しだけ目を伏せた。
スカイゼルは続ける。
「だから、連れてきました」
バラグスは黙っていた。
セレスティアは、静かに凛を見ている。
「この娘の目を見て」
セレスティアが言った。
「バラグス」
バラグスは渋々、凛の顔を真正面から見た。
凛もまた、逸らさない。
紺碧の瞳。
そこにあるのは、諦めではない。
迷いでもない。
誰かに選ばれたいという弱さでもない。
ただ、自分で選ぶという意志。
バラグスは低く呟いた。
「……紺碧の瞳か」
「目の色で決めるの?」
凛が問い返す。
「違う」
バラグスは即座に答えた。
「目は、隠せん。口は嘘を吐く。姿勢は飾れる。だが、追い詰められた時の目だけは、その者の芯を映す」
「つまり、私の目が美しいということね」
「誰がそう言った」
「今の流れなら、そう受け取るのが自然でしょう?」
「自然ではない」
スカイゼルが小さく吹き出した。
セレスティアも、口元を手で隠している。
バラグスだけが、眉間に深い皺を刻んでいた。
「……やはり面倒な小娘だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めておらん」
「では、今後に期待しておくわ」
バラグスは、しばらく凛を睨んでいた。
やがて、重々しく息を吐く。
「いいだろう」
スカイゼルが顔を上げる。
「師匠」
「ただし、弟子にするとは言っておらん」
バラグスは凛を指差した。
「試す」
凛の瞳が鋭く光った。
「望むところよ」
「今から一晩、お前にはこの修行場の外れにある滝場へ向かってもらう」
「滝?」
「そこには、双神流の入門者が最初に受ける試しがある」
バラグスの声が重く響く。
「水の落ちる音を聞きながら、自分の中の雑音を消せ。夜明けまで立ち続けろ」
「それだけ?」
凛は拍子抜けしたように言う。
スカイゼルが顔をしかめた。
「嬢ちゃん、それ言わねぇ方がいいぞ」
「なぜ?」
「双神流で“それだけ”は、大体それだけじゃねぇ」
バラグスは無表情のまま続けた。
「滝場の水は、普通の水ではない。肉体の熱を奪い、魔力の流れを乱し、心の奥に沈めた感情を引きずり出す」
「……趣味が悪いわね」
「入門の試しだ」
「入門前から嫌がらせが濃厚すぎないかしら」
「嫌なら帰れ」
凛は一瞬、黙った。
そして、ふっと笑う。
「帰らないわ」
その声に、迷いはなかった。
「夜明けまで立てばいいのね?」
「立つだけではない」
バラグスは告げる。
「逃げず、崩れず、叫ばず、己の内側から目を逸らすな」
凛の胸の奥が、わずかにざわついた。
己の内側。
その言葉が、鋭く刺さる。
兄の影。
家の重圧。
祖父の冷たい眼差し。
後継者候補という肩書き。
そして、自分自身ですら見ないふりをしてきた孤独。
凛は、それらを一瞬で押し込めた。
「いいわ」
彼女は顔を上げる。
「その程度、受けて立つ」
バラグスは無言で背を向けた。
「スカイゼル。案内しろ」
「了解っす」
スカイゼルが凛の横へ立つ。
「行くぞ、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃないわ。凛よ」
「はいはい、凛嬢ちゃん」
「混ぜるな」
セレスティアが静かに声をかけた。
「凛」
その声に、凛は振り向く。
「夜の滝場では、あなたが隠してきたものが見えるかもしれない」
セレスティアの瞳は、深く、柔らかかった。
「怖くなったら、逃げてもいいのよ」
凛は一瞬、目を見開いた。
それは、バラグスの厳しさとは違う言葉だった。
甘やかしではない。
逃げ道を示しているようで、同時に覚悟を問う言葉。
凛は、静かに笑った。
「怖くなったら?」
そして、いつものように顎を上げる。
「その時は、怖がっている自分ごと連れて行くわ」
セレスティアの瞳に、かすかな光が宿った。
バラグスの背中が、ほんの少しだけ止まる。
スカイゼルが、小さく息を呑んだ。
凛は歩き出す。
滝場へ続く、暗い森の道へ。
夜はすでに深くなり始めていた。
枝葉の隙間から、異世界の月が覗いている。
その光は青白く、どこか冷たい。
スカイゼルは凛の少し前を歩きながら、ぼそりと呟いた。
「……死ぬなよ」
凛は横目で彼を見る。
「あなた、さっきからそればかりね」
「忠告だ」
「心配?」
「違ぇ」
即答だった。
凛はふっと笑う。
「そう。では、忠告として受け取っておくわ」
スカイゼルは振り返らない。
だが、その尻尾が少しだけ気まずそうに揺れた。
森の奥から、滝の音が聞こえ始める。
ごうごうと。
地の底から響くように。
まるで、凛の内側に眠る何かを呼び覚ますように。
高円寺凛の入門試験は、まだ始まったばかりだった。




