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EP19:封力環の朝、令嬢は滝音に立つ

夜明け前。


双神流の里は、まだ眠っていた。


空は深い藍色に沈み、山の稜線だけがうっすらと白み始めている。


木々の葉は夜露をまとい、冷たい風が枝の間を静かに抜けていった。


その山道を、凛は歩いていた。


首元には、白銀のチョーカー。


封力環ふうりょくかん


昨夜、セレスティアによって装着されたそれは、凛の異常な身体能力と魔力出力を抑え込んでいる。


見た目だけなら、細工の美しい首飾りだった。


だが凛にとっては、喉元に嵌められた小さな牢獄に等しい。


「……重い」


凛は小さく呟いた。


身体が重い。


足を一歩出すだけで、普段よりもずっと力がいる。


呼吸は浅く、視界もわずかに鈍い。


息を吸うたび、首元の封力環が冷たく肌に触れる。


まるで、誇り高く上げた顎の角度まで測られているようだった。


昨日までなら、岩場など跳ぶように進めた。


砂竜の一撃すら見切れた。


追尾する岩塊を、素手で砕くこともできた。


だが、今は違う。


足元の小石ひとつに、やけに存在感がある。


まるで世界が、急に重力を思い出したかのようだった。


「封じられた令嬢、というわけね」


凛は指先で首元のチョーカーに触れる。


白銀の輪が、月明かりを受けて冷たく光っていた。


「……力の封印というのは、なかなか骨が折れるわね。まだ折れてはいないけれど」


言った瞬間。


前を歩いていたスカイゼルの足が、ぴたりと止まった。


「……今、何て?」


「何でもないわ」


「いや、言ったよな? 骨が折れる、まだ折れてねぇって言ったよな?」


「聞こえたなら、わざわざ聞き返さないで」


「聞こえたから聞き返してんだよ! お前、そんな顔して冗談言うのかよ!?」


凛は顔をそらした。


「異世界の朝が寒すぎたのよ。言葉まで凍っただけだわ」


「苦しい言い訳だな!」


「黙りなさい。高円寺家では、朝の発言には品位ある余白が認められているの」


「それ、絶対今作っただろ」


「今、完成したのよ」


「完成させんな」


スカイゼルは呆れたように頭をかいた。


だが、その表情には少しだけ安心が混じっていた。


封力環をつけた凛は、明らかに弱っている。


歩幅はいつもより小さく、呼吸もわずかに乱れていた。


それでも、口だけは相変わらず強い。


それが、スカイゼルには少しだけ頼もしく見えた。


「無理すんなよ」


彼はぶっきらぼうに言った。


「初日で倒れたら、俺が運ぶ羽目になる」


「心配?」


「違ぇ。重そうだから嫌なだけだ」


凛はじろりと睨む。


「レディに対して失礼ね」


「岩よりは軽いだろ?」


「比較対象が最悪よ」


「昨日、岩を素手で砕いてただろ」


「それとこれとは別ですわ」


軽口を交わしながら、二人は山道を進んだ。


やがて、音が聞こえてくる。


轟。


轟。


轟。


地の底から響くような水音。


それはただの滝音ではなかった。


胸の奥まで震わせるような、低く、重く、逃げ場のない音。


木々が開ける。


そこに、滝があった。


崖の上から落ちる水は、白い龍のようにうねりながら岩肌を叩いていた。


飛沫は霧となって舞い、空気そのものが冷たく濡れている。


滝壺の周囲には、苔むした石が円を描くように並んでいた。


その石ひとつひとつに、古い文字が刻まれている。


霊瀑れいばく


双神流の入門者が、最初に立たされる場所。


「来たか」


滝場の前で、バラグスが待っていた。


腕を組み、岩のように立っている。


その姿は滝の轟音の中でも、微動だにしない。


隣にはセレスティアがいた。


夜明け前の冷たい光の中で、彼女の銀緑の髪が淡く揺れている。


「おはよう、凛」


セレスティアは柔らかく微笑んだ。


「眠れた?」


「ええ」


凛は涼しい顔で答える。


「寝台が少々硬かった以外は、問題ありませんでしたわ」


スカイゼルが横から小声で言う。


「めちゃくちゃ寝返り打ってたけどな」


「余計な報告をしない」


「あと、寝言で『それはガァトー・ショコラーヌではないわ』って言ってた」


「言っていない」


「言ってたぞ」


「言っていないわ」


「じゃあ、ガァトー何とかって何だよ」


「……高円寺家に伝わる高貴な寝息よ」


「寝息に名前つけんな」


セレスティアが口元を押さえ、くすくすと笑った。


バラグスは眉間に皺を寄せる。


「騒がしい」


その一言で、空気が引き締まった。


凛もすぐに表情を変える。


「それで、今日の試しは?」


「滝に立て」


バラグスは短く言った。


「以上だ」


凛は滝を見上げる。


崖から落ちる水は、岩を砕く勢いで滝壺へ叩きつけられている。


普通の人間なら、下に立つだけで一瞬で潰されるだろう。


「……あれの下に?」


「そうだ」


「なかなか豪快な朝風呂ですこと」


「風呂ではない」


バラグスは凛を見据えた。


「霊瀑の水は、ただの水ではない。微細な魔力を含み、浴びた者の魔力循環を乱す。力任せに耐えようとすればするほど、身体の内側から崩れる」


凛は首元の封力環に触れた。


「つまり、封印された状態で、魔力を乱す滝に入れと」


「そうだ」


「嫌がらせの発想が豊かですわね」


「修行だ」


「紙一重では?」


「違う」


バラグスは言い切った。


セレスティアが静かに補足する。


「凛。今日の目的は、滝に勝つことではないわ」


「勝つものではありませんの?」


「ええ。滝に勝とうとすると、あなたは負ける」


凛は眉を寄せた。


「意味が分かりませんわ」


「水は押し返すものではない。流れを感じるものよ」


セレスティアは滝へ視線を向ける。


「あなたは今まで、強すぎる力で道を開いてきた。でも双神流では、力でこじ開ける前に、流れを読む必要がある」


バラグスが低く続ける。


「立つとは、踏ん張ることではない」


凛の瞳が、わずかに動く。


「崩れ方を知ることだ」


その言葉は、滝音よりも深く響いた。


立つとは、踏ん張ることではない。


崩れ方を知ること。


凛は、その意味をすぐには理解できなかった。


けれど、何か大切なものが含まれていることだけは分かった。


「分かりました」


凛は外套を脱いだ。


朝の冷気が肌に刺さる。


旅装のまま、彼女は滝壺へ足を踏み入れた。


瞬間。


「っ……!」


足首から、冷たさが這い上がる。


ただ冷たいのではない。


水が皮膚に触れた瞬間、身体の内側に小さな針が入り込んでくるような感覚があった。


魔力が乱される。


封力環によって抑えられた力が、さらに滝の水によって撹拌される。


気持ち悪い。


自分の身体なのに、自分の身体ではないようだった。


首元のチョーカーが、ひやりと肌に食い込む。


まるで「今のお前は万能ではない」と、冷たい指で喉元を押さえられているようだった。


「どうした」


バラグスの声が飛ぶ。


「まだ滝の下ですらないぞ」


「分かっていますわ」


凛は歯を食いしばった。


一歩。


また一歩。


滝壺の中央へ近づく。


水音が大きくなる。


轟。


轟。


轟。


滝が近づくたび、音は外からではなく、頭蓋の内側から響いているように感じられた。


そして、凛は滝の下へ入った。


直後。


水が、肩を打った。


「ぐっ……!」


凛の膝が沈む。


想像以上だった。


水というより、巨大な拳だ。


絶え間なく、上から叩きつけられる。


肩に、背中に、首に、頭に。


衝撃が骨まで届く。


普段の凛なら、こんなものは力で弾けたかもしれない。


身体能力で耐え、魔力で押し返し、笑って立てたかもしれない。


だが、今はできない。


封力環が力を抑えている。


霊瀑が魔力を乱している。


凛は、ただの身体で水を受けていた。


「肩に力を入れるな」


バラグスの声が響く。


「歯を食いしばるな。力むほど沈むぞ」


「言うのは……簡単ですわね……!」


凛は滝の中で声を絞り出す。


水が口に入り、息が乱れる。


「耐えるな」


バラグスが言う。


「受けろ」


「受けろって……滝に殴られているのですけれど!?」


スカイゼルが岸辺で小さく吹き出した。


「ツッコむ余裕はあるな」


「うるさいわよ、岩係!」


「まだその役職引きずってんのかよ!」


凛は睨み返そうとした。


だが、その一瞬で体勢が崩れる。


「っ!」


足が滑る。


膝が水底に触れかけた。


バラグスの眼が鋭く光る。


セレスティアは静かに見つめている。


スカイゼルが思わず一歩踏み出した。


「おい!」


だが、凛は倒れなかった。


片足を踏み直し、震える身体を無理やり立て直す。


「……触らないで」


声は小さい。


だが、確かだった。


「まだ、倒れていないわ」


スカイゼルは足を止めた。


凛は滝の中で、必死に息を整えようとする。


けれど、滝音がうるさい。


轟。


轟。


轟。


音が大きい。


大きすぎる。


水音が、いつしか別の声に変わっていく。


――凛。


胸の奥で、誰かが呼んだ。


――高円寺の名に恥じぬ者であれ。


低く、厳しい声。


祖父の声に似ていた。


凛の瞳が揺れる。


――凌雅様は、やはり素晴らしい。


――凛様も、もう少し愛想があれば。


――女の身で、どこまでやれるのかしらね。


声が重なる。


滝の音に混じって、過去の声が浮かび上がる。


現実なのか。


記憶なのか。


霊瀑が見せる幻聴なのか。


分からない。


けれど、その声たちは凛の胸を知っているように、深いところへ手を伸ばしてきた。


――泣くな。


――高円寺の娘が、人前で弱さを見せるな。


凛の奥歯が鳴る。


水が頭を打つ。


肩が軋む。


膝が震える。


封じられた身体は、思うように動かない。


今まで当然のようにあった力がない。


力は封じられた。


家名もここでは通じない。


王国の勇者という肩書きも、この滝の前では無意味だった。


残っているのは。


ただの、高円寺凛。


――お前は、何者になりたいのだ。


その声が聞こえた瞬間、凛の視界が白く滲んだ。


幼い頃の記憶が、一瞬だけ浮かぶ。


大きな膝。


温かい手。


頭を撫でる、ぎこちない指。


厳しいだけではなかったはずの祖父。


いつからか遠くなった背中。


兄の影。


家の期待。


令嬢としての仮面。


すべてが滝音に混じり、凛の足元をさらおうとする。


膝が、また沈んだ。


スカイゼルが息を呑む。


「凛……!」


凛は滝の中で、唇を動かした。


声にならない。


水が邪魔をする。


けれど、彼女は確かに言った。


「……うるさいわね」


ごう。


滝音がさらに強くなる。


凛は顔を上げた。


水が睫毛を叩き、視界はほとんどない。


それでも、青い瞳だけは消えていなかった。


(凛の矜持)


(高円寺の名ではなく)


(勇者の称号でもなく)


(誰かに望まれた私でもなく)


(私は、私の足で立つ)


「何者になりたいか、ですって?」


震える足で、凛は立つ。


「決まっているわ」


膝が笑う。


肩が悲鳴を上げる。


呼吸は浅い。


それでも、彼女は言った。


「私は」


一歩。


足元が、わずかに定まる。


「私になるのよ」


その瞬間。


滝の水が、ほんのわずかに変わった。


弾き返したわけではない。


水流を止めたわけでもない。


魔力が爆発したわけでもない。


ただ、凛の足元が一瞬だけ安定した。


滝に逆らうのではなく。


水の落ちるリズムの中に、自分の立つ場所を見つけた。


ほんの一瞬。


けれど、確かな一瞬だった。


バラグスの眉が、わずかに動く。


セレスティアの瞳が、柔らかく細められる。


スカイゼルは、口を開けたまま滝の中の凛を見ていた。


「……マジかよ」


凛はまだ立っていた。


震えている。


顔色も悪い。


今にも倒れそうだ。


だが、倒れない。


水に打たれながら、封じられた身体で、ただ立っている。


それだけ。


それだけなのに。


その姿は、昨日の砂竜を倒した時よりも、ずっと強く見えた。


「そこまでだ」


バラグスの声が響いた。


凛は反応しない。


聞こえていないのではない。


動く余裕がないのだ。


バラグスが顎を動かす。


「スカイゼル」


「うっす!」


スカイゼルが滝壺へ踏み込む。


水飛沫をものともせず、凛の元へ向かう。


「おい、凛。終わりだ」


「……まだ」


凛は小さく呟く。


「まだ、立てるわ」


「終わりだって言ってんだろ」


「私は……まだ……」


スカイゼルは一瞬、困ったような顔をした。


そして、低く言う。


「兄弟子命令だ」


凛の瞳が、かすかに動く。


「……いつから、そんな偉そうに」


「最初からだよ。俺は一番弟子だからな」


「……生意気ね」


「オメェにだけは言われたくねぇ」


凛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


次の瞬間。


彼女の身体から力が抜ける。


スカイゼルが慌てて支えた。


「おっと」


凛は完全に倒れたわけではない。


けれど、自力で岸へ戻る力は残っていなかった。


スカイゼルは凛を抱え、滝の外へ連れ出す。


「軽っ」


「……失礼ね」


「いや、本当に軽いなって」


「当然よ。高貴さは重さに出ないの」


「今それ言う余裕あるのかよ」


凛は答えようとしたが、咳き込んだ。


セレスティアがすぐに毛布をかける。


温かな魔力が、凛の身体を包んだ。


「よく頑張ったわ」


「……頑張った、ではなく」


凛は息を整えながら言う。


「当然の結果ですわ」


「その震えた声で言われてもな」


スカイゼルが呆れる。


凛は睨もうとしたが、視線に力が入らない。


バラグスが近づいてきた。


その顔は相変わらず厳しい。


凛は見上げる。


「……失格ですか?」


バラグスはしばらく黙っていた。


滝音だけが響いている。


やがて、彼は低く言った。


「初日にしては、上出来だ」


凛の瞳が、ほんの少しだけ見開かれる。


「上出来……?」


「ああ」


バラグスは腕を組む。


「滝を耐えたからではない。倒れなかったからでもない」


彼は凛の足元を見た。


「一瞬だけ、お前は踏ん張るのをやめた。水に逆らわず、それでも流されなかった」


凛は黙って聞く。


「それが、立つということだ」


その言葉は、滝音よりも深く、凛の中に落ちた。


セレスティアが微笑む。


「ちゃんと、自分の足で立とうとしていたわね」


凛は毛布を握る。


自分の足。


封じられた力ではなく。


家名でもなく。


与えられた勇者の力でもなく。


ただ、自分の重さで立つ。


それは、想像していたよりもずっと難しかった。


そして、少しだけ嬉しかった。


「……まだ、全然足りませんわ」


凛は小さく言った。


バラグスは頷く。


「足りん」


「容赦ありませんのね」


「事実だ」


「でしょうね」


凛は薄く笑った。


「でも、足りないなら足せばいいだけですわ」


スカイゼルが肩をすくめる。


「足し算で済む修行じゃねぇけどな」


「では、掛け算にするわ」


「そういう意味じゃねぇ!」


セレスティアが楽しそうに笑う。


バラグスは呆れたように息を吐いた。


けれど、その目は先ほどよりも少しだけ柔らかかった。


夜明けの光が、山の端から差し始める。


滝の飛沫が朝日に照らされ、淡い虹を作った。


凛はそれを見上げる。


身体は冷え切っている。


腕も足も震えている。


首元の封力環は、相変わらず冷たい。


だが、胸の奥にある何かは、昨日よりもわずかに軽かった。


「凛」


セレスティアが優しく呼ぶ。


「今日はもう休みなさい」


「……嫌です」


「え?」


「歩いて帰ります」


スカイゼルが目を剥く。


「いや、無理だろ」


「無理かどうかは、私が決めるわ」


凛は毛布を肩にかけたまま、ゆっくりと立ち上がった。


膝が震える。


足元がふらつく。


それでも、一歩を踏み出す。


スカイゼルが慌てて手を出しかける。


だが、凛はちらりと睨んだ。


「支えは不要よ」


「倒れたら?」


「その時は、地面を叱るわ」


「またかよ」


凛は少しだけ笑った。


一歩。


また一歩。


歩幅は小さい。


速度も遅い。


昨日までのように、風を切って進むことはできない。


それでも。


彼女は歩いた。


バラグスは腕を組んだまま見送る。


「頑固な娘だ」


セレスティアは微笑む。


「ええ。とても」


スカイゼルは頭をかきながら、凛の少し後ろを歩いた。


「……だから言っただろ」


誰にともなく呟く。


「変な嬢ちゃんだって」


凛は振り返らない。


けれど、聞こえていた。


そして、少しだけ口元を緩めた。


滝音は、夜明けの山に響き続ける。


高円寺凛はまだ、何も掴んでいない。


けれど。


初めて、誰かに与えられた力ではなく、自分自身の重さで立った。


封じられた令嬢の修行は、ここから始まる。

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