EP10:「帰らずの森の厄災! 森の主の洗礼」[LOG_DISASTER]
# [LOG_RIN]
馬車が止まり、扉が開いた瞬間だった。
バルドウィンが素早く立ち上がり、御者台の箱から何かを取り出し始めた。
ざっくりとした麻布のような素材に、複雑な紋様が縫い込まれた外套だ。
「貴殿らも、これを羽織っていただきたい」
彼は無言でそれを二枚、凛と海に差し出した。
「……なんですの、これ」
凛は受け取ったローブを、指先でつまんで持ち上げた。
「対魔用の装備です。この森の気配は一般の兵士を数刻で蝕みます。装備なしでは——」
「結構よ」
「……は?」
「これ、着る必要ある?」
凛は外套をひと目見て、きっぱりと言い放った。
「動きづらそうだし、なんだってこんな匂いとデザインが酷すぎるわ。虫除けかしら。それとも嫌がらせ?」
バルドウィンの口が、わずかに開いたまま止まった。
「凛殿、冗談ではありません。装備なしで踏み込んだ兵士が、一刻と保たずに倒れた例を私は何度も見ています。貴殿は——」
「だから結構だと言っているのよ」
凛はローブをバルドウィンの胸元に押し返した。
「それより、さっきから気になっていたのだけれど。この辺りの空気、質が違うわ。腐敗に近い何かが、ずっと漂っている。木々の状態も尋常ではないし——何かが長期間、この場所の摂理を侵し続けているのね」
バルドウィンが、絶句した。
今度は言葉を失ったのではない。
驚愕で、息ができなくなったのだ。
対魔装備なしで森の前に立ち、腐敗の気配を感じ取った。
異世界から来たばかりの小娘が、この森の異変を一言で言い当てた。
[LOG_KAI - INNER VOICE]
(召喚されたばかりの異世界人が、何の備えもなく森の気配を察知する。仮面ライダーで言うなら、ベルトもスーツもない状態で怪人の気配を感じ取れるやつだ。それって変身前の主人公の中に、すでに「何か」が宿っている証拠で——)
海もまた、ローブを受け取ったまま動いていなかった。
「……僕も、着なくていいですか」
「だ、駄目です! 貴殿は——」
「いや、なんか……重くないんですよ、空気が。バルドウィンさんたちの方が、ずっと苦しそうで……僕、そこまで感じないんですが」
バルドウィンは、己の騎士人生で初めてと言っていい種類の混乱に陥った。
王国随一の精鋭を揃えた彼の護衛隊は今、全員が対魔装備を完全着用している。
それでも顔色が青ざめている者がいる。
なのに、この二人は——軽装のまま、平然と立っている。
(これが……神威というものか)
森の中を三十歩ほど進んだ時だった。
木々の間から、低い唸り声が届いた。
地面が微かに振動し、霧の中で巨大な影が蠢く。
「……何かいるわ」
凛が立ち止まった。
霧の奥から現れたのは——圧倒的な巨躯だった。
人の背丈の数倍はある四足の体躯。
赤褐色の鱗が全身を覆い、一枚一枚が鍛えられた鎧のように分厚い。
尾が地面を叩くたびに土が抉れ、その爪の一撃で大木が根ごと傾いた。口腔から漏れる熱気が、周囲の霧を一瞬だけ蒸発させる。
「ッ——!!」
バルドウィンが剣の柄を握りしめた。
その顔が、みるみる蒼白になっていく。
護衛の騎士たちが一斉に後退した。中には剣を取り落とした者もいる。
百戦錬磨の猛者たちが、ただその姿を見ただけで——動けなくなっていた。
「こ、これが……この森の主……!」
バルドウィンが、絞り出すような声で呟いた。
彼は知っていた。
帰らずの森に何かが棲んでいることを。
だがこれほどのものとは——想像をはるかに超えていた。
「この森を生き地獄に変えていたのは、お前か……! 我が王国の兵士を何人も飲み込んできた、この森の厄災……!」
バルドウィンの声には、怒りと恐怖が入り混じっていた。
彼はこの場に二人を連れてきたことを、すでに深く後悔し始めていた。
「人間よ、この森に何の用だ」
巨躯が低く唸る。
言葉を持つ——それだけで、この存在が尋常ではないことがわかる。
「理由によっては、生かして帰すつもりはない」
[LOG_KAI - INNER VOICE]
(でかい。本当にでかい。バルドウィンさんがあそこまで震えるのも無理はない。この存在が長年この森を支配してきた「厄災」だとすれば——)
(でも。この声、この目。ただの獣じゃない。意思がある。言語がある。この存在には「格」がある)
「ちょっと、なんなのこれ! 生意気なトカゲね!」
凛が冷たい視線を向け、言い放った。
「凛さん! 刺激しないで!」
海が焦りながら凛の袖を引く。
「トカゲだと? 貴様、我が恐ろしさを知らぬようだな」
巨躯の目が鋭く光り、尾を地面に叩きつけた。その衝撃で周囲の木々が揺れ、地面に亀裂が走る。
バルドウィンが「ッ——!」と身を竦めた。
「力を見せろってことでしょ? いいわ、やってあげるわよ」
凛はドラゴンを睨み返し、バルドウィンに向かって問いかけた。
「これで私がこのトカゲを倒したら、私の力を認めるのよね?」
「も、もちろんだ……! 貴殿があれを倒せるというなら、私はこの身を賭して忠誠を誓おう」
その声には、彼自身がどれほど無茶なことを言っているかという自覚と、それでも認めざるを得ない何かが入り混じっていた。
凛はバルドウィンの言葉を受け、再び巨躯を睨みつけた。
「わかったわ。別に恨みはないけど、退いてもらうわよ」
しかし——凛はその場で急に立ち止まり、振り返って海を見つめた。
「ねえ」
「は、はい?」
「で、どうやって戦うの? 私、戦い方なんて知らないんだけど」
その一言に、場の空気が一瞬にして凍りついた。
バルドウィンが目を剥いた。護衛の騎士たちが顔を見合わせた。
——巨躯ですら、一瞬だけ動きを止めた。
「凛さん、それ今言うことじゃないよ!」
海が慌てふためいて凛の隣に駆け寄る。
「だって、本当に分からないのよ! 怒鳴られても困るわ!」
「凛さん、取り敢えずステータスを確認してみて! この世界の能力値が分かるはずだから!」
「ステータス? それってどうやって見るのよ?」
「まずは『ステータスオープン』って言ってみて!」
「……ステータスオープン」
その瞬間、透明なディスプレイが凛の目の前に展開された。
「レベル99」「力99999」「防御99999」——全てが常識外れの数値だ。
「何これ……私、9ばっかり?」
凛は自分のステータスに目を見開いた。
[LOG_KAI - INNER VOICE]
(ステータス全振りMAX! でも凛さんの反応が「9ばっかり?」って……もっと驚いていいと思うんだけど……)
「凛さん、思いっきり殴ってみて! その力なら絶対——!」
「ちょっと無理よ!」
凛が即座に叫んだ。
「なんかヌメヌメしてそうだし、すっごく硬そうじゃない。ネイル剥がれたらどうすんのよ! てか、そんなに言うなら、あんたがやんなさいよ!」
「ぼ、僕じゃ無理だよ! ステータス見てよ、凛さんと僕じゃ全然違うんだから!」
「知らないわよそんなの!」
「お二人とも——! 動きます——!!」
バルドウィンが絶叫した。
巨躯が跳んだ。
「来ないでっ——!」
反射だった。
意識より先に、右手が前へ出ていた。
何かが弾けた。爆音ではなかった。
それよりも深い、世界の摂理が軋むような——轟。
純粋な概念が現象へと転化するような——解放。
巨躯がいた場所に、空白が残った。
えぐれた土の直径は数メートル。周囲の木々が根ごと吹き飛び、霧が一瞬だけ晴れた。
「……あれ、どこ行ったの?」
凛が自分の右手を見た。痛みもない。熱もない。
「凛さんが……倒したんだよ……」
海が茫然と呟く。
バルドウィンは膝をつきかけた。
両の手で剣の柄を握りしめ、なんとか立っている。
「こ……これほどの力が……。この森の厄災が、たった一撃で……」
その声には、驚愕と深い安堵が入り混じっていた。
これで終わった。
この森の主が倒された。
凛と海の力は本物だ。
バルドウィンはそう確信し、震える息を整えていた。
——その時だった。
霧の奥が、揺れた。
今まで感じたことのない、圧力が来た。
バルドウィンの全身の血が、一瞬にして凍りついた。
[LOG_KAI - INNER VOICE]
(……霧の奥が揺れている)
(さっきの巨躯とは、まるで違う)
(これは——)
霧が割れた。
その奥から、漆黒の何かが、ゆっくりと姿を現し始めた。




