第357話 アズトラン北州国のジレンマ
【アズトラン北州国総督ラモン・バルガス視点】
『アヴァロン帝国歴180年 10月19日 アズトラン北州 州都プエルト・ロハス』
窓の外には、どんよりとした曇り空が広がっていた。
ここ数日、私の心の中も、この空模様と同じように晴れることがない。
私はアズトラン北州国総督、ラモン・バルガス。
かつての大国アズトラン帝国が崩壊し、共和国として再編される中で、この北の大地の舵取りを任された男だ。
「……ため息ばかりついてもいられんか」
執務室の重厚な椅子に深く沈み込みながら、私は手元の書類に目を落とした。
そこには、連日のように届く地元漁業組合からの陳情書が山積みになっている。
内容は決まって同じだ。
『ノースグリーン沖の豊かな漁場を、アヴァロンの漁船から守ってくれ』というものだ。
かつて、この周辺海域は誰のものでもなかった。
ユニオン国時代には、ここまで遠征してくる漁船など皆無だったのだ。だが、アヴァロン帝国がノースグリーンを領土としてからというもの、性能の良いアヴァロンの漁船が、我々の庭先まで網を入れるようになった。
民衆の生活を守るためには、彼らを排除しなければならない。
だが、それがそう簡単ではないからこそ、私は頭を抱えているのだ。
「失礼します、閣下。コーヒーをお持ちしました」
秘書官が静かに部屋に入ってきた。
私はカップを受け取り、苦い液体を喉に流し込む。
「ありがとう。……南の共和国政府からは、何か言ってきているか?」
「はい。『アヴァロンに対して弱腰な態度は見せるな』と、相変わらず勇ましいことを言っていますよ。リカルド大統領は」
「フン、気楽なものだ。最前線にいるのは我々なのだぞ」
私は鼻を鳴らした。
我々アズトラン北州は、歴史的に親シトラリ元皇帝派が多い地域だ。現在の新アズトラン共和国大統領、リカルド・ヴァレンシアとは政治的に折り合いが悪い。先の大統領選挙でも、この北州ではリカルドが惨敗している。
リカルドとしては、我々がアヴァロンと揉めて疲弊してくれれば、好都合なのだろう。
だが、私たちには別の事情がある。
我らが敬愛する元皇帝シトラリ様は今、アヴァロン帝国の首都ハーグで、ライル皇帝の庇護のもと穏やかに暮らしておられるのだ。
アヴァロン帝国と全面的に戦争になれば、シトラリ様の立場を悪くすることになりかねない。それは、我々の本意ではない。
アヴァロンとは戦いたくない。
だが、民衆の突き上げもあり、漁場は守らねばならない。
そして南のリカルド大統領からの圧力もある。
まさに、板挟み状態のジレンマだ。
「だからこその、あの『苦肉の策』だったわけだが……」
私は窓の外、港の方角を見やった。
軍艦を使えば戦争になる。だから沿岸警備隊という「警察力」を使い、しかも発砲せずに船体をぶつけるという荒っぽい手段で、アヴァロン側に出て行ってもらおうとしたのだ。
「拿捕した漁民たちの様子はどうだ?」
「はい、市内の最高級ホテルにて、丁重におもてなししております。食事もサービスも最上級のものを提供していますので、彼らも驚いている様子でした」
「それでいい。我々は野蛮人ではないし、アヴァロン人と憎しみ合いたいわけではないのだからな。あくまで、『ここは我々の海だ』という意思表示ができればいい」
人質……いや、お客様として丁重に扱っておけば、交渉のカードにもなる。
すべては、アヴァロン帝国という巨象の足を、踏まないように、かつ自分たちの領分を主張するための、ギリギリの綱渡りだった。
その時だ。
執務室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。
「閣下! 緊急入電です!」
通信士官が、青ざめた顔で飛び込んでくる。
「騒がしいぞ。何事だ」
「き、来ました! アヴァロン帝国海軍の高速戦艦『ユリアン皇帝』より、プエルト・ロハスへ向けて通信です!」
私はカップをソーサーに置いた。
カチャリ、と乾いた音が静寂に響く。
「……ついに、来たか」
フェリクス皇子。
ライル皇帝の息子にして、戦場の英雄。
沿岸警備隊からの報告では、現場にはマルコ提督の艦隊がいたはずだが、ついに皇族自らがお出ましになられたか。
「内容は?」
「『ワレ、フェリクス。貴国トノ友好ナル対話ヲ望ム。タダチニ会談ノ場ヲ設ケラレタシ』……以上です」
「対話、か。……砲撃ではなく対話を求めてきたことだけが、唯一の救いだな」
私は立ち上がり、上着の襟を正した。
相手は超大国アヴァロンの皇子だ。対応を一歩間違えれば、この北州は地図から消滅し、我々は滅亡へと突き進むことになるだろう。
だが、ここで膝を屈して言いなりになれば、民衆の支持を失い、南のリカルド大統領に介入の口実を与えることになる。
「小国なりの、意地の見せ所というわけだ」
私は腹を括った。
曇天の空の下、巨大な戦艦がこの港に近づきつつある。
長く、重苦しい一日が始まろうとしていた。
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