第355話 北海魚騒動(ほっかいうおそうどう)
【元探検家提督マルコ視点】
『アヴァロン帝国歴180年 10月9日 帝国西部フィオラヴァンテ軍港 提督執務室 曇り』
窓の外には、鉛色の空と、それに呼応するように重くうねる海が広がっている。
私は長い探検家生活を終えて、久しぶりにヴィンターグリュン王国軍改め、アヴァロン帝国の艦隊指揮官に戻っていた。
「……ふう」
私は執務机の上で、すっかり冷めてしまった紅茶をすすった。
正直に言えば、退屈していた。
かつては未知の大陸を求め、荒れ狂う海を越え、アズトラン新大陸を発見するという大冒険を繰り広げたこの私だ。陸の上で書類に判を押すだけの日々は、刺激が足りない。
しかし、不満はない。
ライル陛下には、海よりも深い恩があるからだ。
落ちぶれかけていた私を探検家として抜擢し、資金を援助し、世界のあらゆる航路を巡らせてくれたのは、他ならぬ陛下だ。
「私の趣味の人生は終わった。残りの余生は、陛下のために、この国を守る盾として捧げよう」
そう心に誓い、私はフィオラヴァンテの軍港で、のんきに午後のティータイムを決め込んでいた。
そう、あの音が響くまでは。
トン、トン、トン。
ツー、ツー、ツー。
トン、トン、トン。
隣の通信室から、鋭い電信音が漏れ聞こえてきた。
私はカップを置く手が止まった。このリズムは――。
バンッ!
通信士の部下が、顔色を変えて部屋に飛び込んできた。
「て、提督! 三短、三長、三短……救難信号です!」
「バカモン! それぐらい私にもわかるわ!」
私は椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。
「位置だ! 発信源の位置を割り出せ!」
「は、はい! 直ちに!」
部下が地図の上にコンパスを走らせる。
「……出ました! 周囲にいた漁船からの情報提供です。ノースグリーン沖、通称『北海』です!」
「北海だと……?」
あそこは最近、スカルディアやフィオラヴァンテの漁師たちがこぞって向かっている人気の漁場だ。
荒れる海だが、宝の山だ。まさか、遭難か?
その時、再び通信機がけたたましく鳴った。
「あっ、別の信号です! 平文で入ってきます! 読み上げます!」
部下の声が震えた。
「『ワレ、ヴィンターグリュン船ヲ……拿捕セリ』」
一瞬、思考が空白になった。そして次の瞬間、私の腹の底から灼熱の怒りが湧き上がった。
「なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
私の怒号で、窓ガラスがビリビリと震えた。
拿捕だと? 遭難ではなく、何者かが我が国の漁船を襲ったというのか?
ヴィンターグリュン船籍とはいえ、今はアヴァロン帝国の船だ。それは、皇帝陛下への挑戦に等しい。
「急いで艦隊に準備をさせろ! 全艦出撃だ! 私も旗艦『ライル一世』で出る!」
「は、はいっ!」
「あと、ハーグだ! ハーグへつなげ! 緊急回線だ! ライル陛下が良いが、捕まらなければフェリクス殿下でもグレン公でも構わん! とにかく状況を伝えるんだ!」
執務室は一瞬にして戦場のような騒ぎになった。
私は帽子を掴み、マントを翻して部屋を出た。
「くそっ、民を守れずして何が軍人か! これではライル陛下に合わせる顔がない!」
廊下を大股で歩きながら、私は拳を握りしめた。
どこの誰かは知らん。だが、平和に魚を獲っていただけの漁師に手を出したのだ。
(アヴァロン帝国へ喧嘩を売った代償は……高くつくぞ)
私の瞳には、かつて未知の海を切り開いた時のような、鋭い光が宿っていた。
ただの探検家ではない。軍人マルコの戦いが、今始まろうとしていた。
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