ベレー帽の少女
夏休みも残り一週間という日。日笠真希は彼氏とともにピオレ姫路でショッピングデートを楽しんでいた。姫路駅構内と周辺に建てられているピオレ姫路は、駅の高架下と周辺の再開発に伴って建てられた比較的新しい商業施設である。ピオレ1、2、3とごちそう館、おみやげ館の五つのエリアから成る大きさを誇り、どこも連日大勢の客が出入りして賑わっている。真希が姫路に遊びに行くときは必ず立ち寄る場所であった。
「えらい買いこんでもうたな」
「タマさんもどんだけ買うんよ」
真希やタマさんと呼ばれる彼氏も、両手がいくつもの紙袋で塞がっていた。
加印高校はアルバイト禁止だが、真希は親戚が営んでいる音楽スタジオの手伝いをして「おこづかい」という名目でバイト代を稼いでいた。タマさんは同じ音楽スタジオのアルバイトであり、そこで知り合った真希と交際を始めた。地元の大学生で、大学の軽音楽部でベースを担当している。
音楽スタジオはお盆休みも営業しており、その間二人は休みなく働いてくれたというのでお盆手当てとしてバイト代とは別に少なくない臨時収入を支給した。そのお金をショッピングに注ぎ込んだ、というわけである。
二人はピオレ2から出て、駅から少し離れたところに新しくできたおしゃれなカフェに向かうことにした。ピオレ2の出入り口は駅の中央改札口の前にある。
姫路駅は新幹線停車駅でもあり、一日の乗降客は多い。そもそも姫路市の人口は加古川市のほぼ二倍、兵庫県で神戸市に次ぐ規模の都市なので駅にいる人数も比例して多くなる。さらに世界遺産の姫路城を抱えていることもあって、姫路城目当てで来たと思われる外国人観光客の姿もよく見かける。
タマさんがいきなり立ち止まった。
「なんや、急に止まって」
「いや、ちょっとな」
タマさんの視線の先、改札口の向こう側に少女がいる。髪型は二つ結び、水色のブラウスに紺のスカート、スクールバッグという出で立ちから中高生と考えられる。
「タマさん、何見とれとんねん」
真希が軽く蹴りを入れた。
「違うて。珍しい格好しとるから気になっただけじゃ」
その少女は頭に緑色のベレー帽を被っていた。側面に徽章らしきものが見える。スクールバッグを持っていることから通学もしくは何らかの学校活動の途中と思われるが。
「ファッションで被っとるだけちゃうの」
「そうかなあ。でもなんか、俺頭良くないからどう言ったらええんかわからんけど、違和感というか……」
真希には違和感がよくわからなかった。ただ、スクールバッグにアクセサリーの類は一切ついておらず、ファッションでベレー帽を被っているならスクールバッグのおしゃれにも気づかって良いのになあ、とは思う。
その少女はキョロキョロと見回した後、スッと奥の方に向かっていったが、すぐに客の中に紛れてしまい姿が見えなくなった。
「タマさん、行こか」
「キレイな子やったなあ……」
「やっぱ見とれとったんやないかい!」
真希は強めに蹴りを入れた。
同日、昼時の山本家。母親はパート仲間とランチをしにいくというので、今日は汐里が一人で昼食を作っていた。
とはいっても、作ったものは激辛インスタントラーメンである。汐里は辛いものが苦手だが、食べなければならない理由があった。文化祭の料理同好会の出し物が激辛スープに決まってしまったため、少しでも慣れようとして昼食に激辛ラーメンを食べることにしたのであった。
しかしいざ、真っ赤なスープを見ると箸を動かすのをためらってしまう。
「作った以上は食べんとバチが当たるしな……よしっ、気合や根性や!」
桃李は勇気を出して辛い過去を打ち明けてくれたのだ。自分も勇気を出して辛いラーメンを食べなければ、と謎の使命感にかられて、ひと口一気にすすった。
「んごふっ!!」
強い刺激が口の中を焼いて、つい吐き出しそうになった。しかし汐里は気合と根性でどうにか飲み込むところまでこぎつけた。すぐ麦茶に手を出す。
「こっ、これはきっつい……でも行けんことはない、はず!」
クーラーをガンガン効かせたダイニングの中、汐里は汗だくになって激辛ラーメンと戦った。その結果、なんとか麺は完食できたものの、スープまで飲むことはできなかった。
「よし、今日はこれぐらいにしといたるわ……」
捨て台詞に某芸人のギャグを吐いて、スープを凝固剤で固めてゴミ箱に捨てた。
ペットボトル一本分あったはずの麦茶はもうない。それでもまだ口の中はヒリヒリしている上に、麦茶でお腹がダブついている感じがどうも気持ちよくなかった。
「少し、運動するか……」
酷暑日だが、外に出る決意をした。
通学用の自転車に乗って、学校とは反対方向に向かって走る。目的地は全くなく、ただ腹ごなしのためにひたすら走るだけである。かなり暑いが、強めの風が吹いているので灼熱地獄というわけではない。それでも少しペダルをこぐだけで汗がどんどん吹き出てくる。お盆のときに桃李と会った際も今日と同じぐらいの気温だったが、その中でも桃李はよく自転車であちこち走り回れるなと改めて感心する。
やがて、ため池のある少し開けた場所に出た。汐里はこの近くを通ることはあるが、ため池があったのは知らなかった。気づいていなかっただけかもしれないが。
兵庫県はため池の数が約二万一千箇所と日本一多くあり、そのほとんどが南部、瀬戸内側に集中している。瀬戸内海式気候に属する兵庫県南部は降水量が少ないため、農業用水の確保のためにため池を必要としていたからである。
当然ながら加古川市にも多くのため池があり、その数は三百を超える。その中でも汐里がたどり着いたのは比較的小さいため池であったが、池の周辺は遊歩道が整備され、池の名前を記した看板にはどのような水生生物が住み着いていて、どのような野鳥が飛来がしてくるのかという説明書きまで添えられている。ここはちょっとした野生生物の観察スポットでもあるらしい。
汐里は邪魔にならない場所に自転車停めて、歩いてみることにした。
風を受けて水草が揺れている。水面では時折同心円状の波紋があちこち発生しているが、魚か何かがいるようだ。
反対側まで歩いたら、麦わら帽子を被った人物がいた。汐里の足音に気づいてこっちを見てきたときに顔がはっきりとわかった。
「誰かと思ったら井置くんやん、何しとんの?」
井置隆聖が折りたたみ式のアウトドアチェアに腰をかけていた。白いシャツとハーフパンツ、サンダルというかなりラフな格好だが、シャツはヨレヨレになっている。普段からおしゃれに気を使っていないと見えた。もっとも汐里も今は似たような格好なので人のことは言えない。
「山本先輩じゃないですか。先輩も見に来たんですか、ヌシを」
「ぬ、ぬし?」
「そう、ここにはでっかい池のヌシがいるらしいんですよ。こんぐらいの」
隆聖は肩幅より少し大きめ程度まで腕を広げて見せた。ヌシというからには魚だろう、と汐里は思い込んでいた。
「そっか、科学部やったら生物の観察も好きそうやもんな」
「そうですね。僕の家の側にもため池が多くて、小さいときによくそこで遊んでましたよ。カイツブリやカワセミを観察したり、ザリガニ釣りをしたり、アカミミガメを捕まえてペットにしたこともありました。カメはまだ生きてますけど」
「へー、井置くんカメ飼うとるんや。何か名前つけとるん?」
「はい、トーリンって呼んでます」
「とーりん!?」
トーリン、という単語が聞こえた瞬間に、汐里は反応した。それ以上に汐里の大声に驚いたのは隆聖で、ビクついてひっくり返りそうになった。
「どないしたんですか、いきなり……」
「いやその、私のクラスに転校生来たの知っとるよな?」
「はい、あちこちで噂になってますから」
「その子の名前が桃李やから、私らはとーりんって呼んどるんよ」
「へー、それは偶然ですね」
「てか、なんでとーりんにしたん……?」
「タウリンの英語読みがトーリンなんです。あの栄養ドリンクに含まれている成分のことですよ。IUPAC名は2-アミノエタンスルホン酸といって」
「と、とにかく英語やとそういう読み方するんやな。でも普通通りタウリンでええんちゃうの?」
「それだと芸がないじゃないですか」
あはは、と隆聖は笑う。彼なりにこだわりがあるのだろうが、偶然だったにしろ、カメの名前に友達のあだ名が使われているのは複雑な気持ちだ。彼はまったく悪くはないのだが。
バシャンッ、と水で何か跳ねたような音がした。
「お、何や今の」
「しっ!」
隆聖が唇に指を当てる。池の方に目をこらす隆聖。
「いましたよ、多分ヌシです。水草のところを見てください」
汐里が自転車を置いている方角に生えている水草。その下に大きな波紋ができている。何か黒っぽいものが水面下で動いていた。
それは汐里たちの方に向かってきたが、いきなり汐里から見て右手へと進路を変え、岸の方にたどり着いた。
魚ではなかった。水しぶきを上げてヌッと現れたのは、濃い茶色い毛で覆われた、大きなヒゲとむき出しの歯と尻尾を持つ生き物であった。
「ひっ!? なっ、何あれ!? ネズミ!?」
「ヌートリアですよ。あれが間違いなく池のヌシです」
ヌートリアは左右を見渡した後、ちょこちょこと短い手足で走り、茂みの中に消えていった。
「普段は大きくても胴体と尻尾含めて一メートル程度なんですけど、ここのヌシは一回り大きいんです。生で見られて良かったですよ」
隆聖は感動しているようであった。
「あんなごっついのが池に住み着いとるなんて信じられへん……」
「元々外国から毛皮の採取のために持ち込まれた外来種ですけど、捨てられたり逃げ出したりしたのが野生化して繁殖して西日本に定着しちゃったんです。加古川とその周辺の水場にも結構いますよ。放っておいたら田んぼを荒らすんで市が駆除してはいるんでいすけどね」
「まあ、見た目的にムカデよりはマシやけど、あんなのがいきなり出てきたらびっくりするわ」
そう言った途端に物音が聞こえたので、汐里は思わず飛び上がりかけた。
「あの、すみません」
ヌートリアではなかった。声をかけてきたのは緑のベレー帽を被った少女であった。




