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太鼓の少女  作者: 森新児
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第9話 不知火

 旅を始めて四日目の夜だった。

 一座は宇城市にある小さい神社で演奏した。

 二十人ほど聴衆がいた。

 聴衆はいつものように無反応で肩を揺らすことさえなく、不気味なほどお行儀よく一座の奏でるブルースを聴いていた。

 一時間ほどで演奏が終り、聴衆は無言で帰っていった。

 これもいつものことだ。

 しかしその夜は、それから後が少し違った。


「ねえ、あの人」

 

 境内を掃除するため竹ホウキを手にした僕は、チーちゃんがオー姉さんにこっそり小声で囁く声を聞いた。


「あたし、あの人がいい」


(あの人?)


 昼間は涼しい日陰を作ってくれる、豊かに葉を繁らせたエノキの前で顔を寄せ合うオー姉さんとチーちゃんの視線を辿ると、そこに大学生らしい若い人がいた。

 青いポロシャツを着た、痩せて背が高いその人は、演奏を聞きにきた聴衆の一人だった。

 彼だけ何故か帰らないでそこに残っている。


「ねえ、お姉ちゃんはどう思う?」


「そうね……」


 オー姉さんはお伺いを立てるようにマダムを見た。すると、


「あなた」


 突然マダムがすんなりと長い右手の人差し指で、若者の胸をひたっと差した。


「あなたにするわ。ついてらっしゃい」


 それから僕らは境内をていねいに掃き清めて拝殿と小屋の扉に鍵をかけ、最後にいつものように神様に対し感謝のかしわでをぱんぱん、と打った。

 かしわでを鳴らし、一座のみんなは合掌の姿勢のまましばらく待った。

 今夜もオー姉さんが鈴を使った吉凶占いを行うのだ。

 夜風に吹かれて鳴る鈴の音色で、次に訪れる神社の吉凶を占うのだが、


「……」


 その夜はいつまで待っても風が吹かず、拝殿の鈴は鳴らなかった。

 鳴らない鈴を見て僕はのんきに、今夜は鳴らないな、ということは占いは凶……と思っていたら、


「占いなしです」


 オー姉さんは平泳ぎで水をかくときのように両手を左右に広げて宣言した。

 いつもおだやかな話し方をするオー姉さんだが、そのとき姉さんの声は妙に切迫した感じがあった。

 姉さんが「なしです」と宣言するのと同時に、チーちゃんが「チチッ」と鋭い舌打ちを打った。

 さらにコウが手にしたドラムスティックで、オー姉さんとチーちゃんの鎖骨をそれぞれ軽くぽん、と打った。


「占いは無効になった」


 夜空を見上げてマダムが叫び、それで今夜の儀式は終了した。





 僕らは次の神社を目指して夜道を歩いた。

 不意に視野が開けた、と思ったら海が見えた。

 八代海、通称不知火(しらぬい)と呼ばれる海だ。

 僕らは宇土半島の端に着いたのだ。

 半島の先の海を渡ると、そこはもう天草である。

 一座は海に面した細い国道を歩いた。

 いつも裏道ばかり歩くから、一気に視野が開けて気分がよかった。

 海に向ってなだらかに迫る山並みが、道に沿ってずっと続いている。

 堤防の向うに不知火の海が広がっている。

 天草方面に向かうトレーラーが走り去ると、辺りはほとんど夜風の音しか聞こえなくなった。


「潮の香りがする」


「懐かしいわね」


 うれしそうに頷きあうチーちゃんとオー姉さんを見て、一座は元々海の近くで暮らしていたに違いない、と僕は推察した。


「とっても静かな海、こういう海なら荒れないね」


 チーちゃんは月の光にキラキラ目を輝かせて、海を賛美した。


「……」


 チーちゃんとオー姉さんは潮の香りを喜んでいたが、マダムは二人と対照的な表情を浮かべていた。

 夜の海を間近に見るマダムの眉根には、淡い月の光で見てもはっきりわかるほど、緊張が宿っていた。



 チーちゃんがいうとおり不知火の海は潮騒さえヒソヒソ遠慮がちに聞こえる、そんな一見おだやかな内海だ。

 だからこの海が荒れるとは信じられないが、数年前台風で高潮が発生し、今僕らがいる不知火の町にも多くの死傷者が出た。


(どんなに大人しそうに見えても、海は必ず荒れるんだな)

 

 今それをいったらチーちゃんたちが怯えると思い、僕は何もいわなかった。

 やがてまた一台、大きなトレーラーが僕らを追い越した。

 この先にある天草は日本で一番大きな島で、今島々は五つの橋でつながっている。

 トレーラーはその天草へ物資を運んでいるのだ。

 闇に吸い込まれるように遠ざかってゆくトレーラーの音を聞きながら、きっと一座の旅の目的地は天草なんだろう、と僕は推察した。

 方角がそうだし、さっきのオー姉さんとチーちゃんの会話から察するに一座は元々海の近くで暮らしていた人たちなのだ。

 それに天草というエキゾチックな土地柄に、ブルースの音色はよく似合う。


「気持ちいいね」


 五郎さんは珍しく夜風に顔をさらした。

 間近に海を見て、彼も生気を取り戻したようだ。


「今夜は不知火の火は見えないね」


「不知火の火?」


「うん。沖に浮かぶ謎の火影のことだよ。不知火は『日本書紀』に出てくる」


 五郎さんは沖の海を望みながら語った。


「熊襲を退治した景行天皇が船で八代を訪れる。夜の海を移動していると方向がわからなくなる。一行が困っていたら沖に火が浮かび、その明かりを頼りに船は無事陸地に着く。景行天皇は『あの火を灯していたのは誰か?』と尋ねる。しかし知る者は一人もいない。それであの火は『知らず(不知)の火、不知火』と呼ばれるようになったんだ」


「へえー、五郎さん物知りですね」


「たいしたことないって。今ぐらいの季節は見えるらしいけど、今夜は出てないな」


 五郎さんは海を見つめる目をさらに細めた。

 僕もいっしょに堤防越しに眺めたが、沖のほうは闇と海が溶けあったままで不知火は見えない。


「見えないね」


「ええ、見えないわ」


 チーちゃんとオー姉さんも沖を見つめて残念そうに呟いている。

 僕はそこでそっと背後を振り返った。

 視線の先に、一人の若者がいた。

 さっきマダムに指差されたあのポロシャツの若者だ。

 若者はさっきの神社からずっと僕らについてきた。

 一座は誰も彼に話しかけない。

 彼のほうからも何もいわない。

 若者はただ影のように黙って僕らについてきて、そして今は海も見ないである一点を熱心に見つめている。

 僕は彼の視線を辿った。

 彼の視線の先に、赤い浴衣姿のコウがいた。

 うつむいていた彼女は僕の視線に気づくと顔を上げた。


「……」


 しばらくの間黙って僕の目を見つめ返し、それからコウはまた静かにまぶたを伏せた。

 まぶたを伏せる直前、コウの瞳が青く光った。

 先日のオー姉さんのように。

 やっぱり今夜もまわりに走り去る車や街燈はない。

 なのにコウの目は鮮やかに光った。


(きっと月の光が目に映ったんだ)


 僕はそう考えて、無理やり自分を納得させた。


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