第10話 子踊の豆伊
夜明け前僕らは次の神社に到着した。
それはなだらかに海に迫った山のふもとにある神社で、境内は洞窟のように暗かった。
僕はいつものようにエアコンがついた小屋に一人で上がった。
今夜の小屋は拝殿の入口が見える位置にあった。
一座が全員拝殿に上がると、五郎さんは格子戸の内側にぴったり暗幕を張った。
するとその暗幕の向うから、チーちゃんの陽気な声が聞こえてきた。
「もう潮騒も聞こえない。子犬みたいにおとなしい海だよ、うれしいね」
不知火の海がおだやかであることがチーちゃんはよほどうれしいようだった。
するとその暗幕の裾が、不意に持ち上げられた。
長い腕が白々と闇に浮かぶ。
手はひらひらと何かをまねいた。
紺色の着物の袖が揺れている。
(マダムの手だ)
その手にまねかれ、境内に一人ポツンと立っていた若者はうつろな表情のまま短い階段を登り、這いつくばって暗幕をくぐった。
小屋の窓から、僕はその光景を黙って見ていた。
天井からぶら下がった裸電球の明かりを消し、布団に横になった。
暗幕の向う側の闇の中に、今若者といっしょにコウもいる。
そう思うと、目をつむってもなかなか眠れなかった。
翌日いつもより早く目が覚めた。
いつもは起きてすぐ五郎さんに渡されたメモをチェックするのだが、今朝五郎さんは僕に何も渡さなかった。
小屋の窓から拝殿を見ると、そちらは不気味に静まり返ったままだ。
特にすることもなくひまなので、昨日五郎さんに借りた昭和の作家の文庫本を畳に寝転がって読むことにした。
吉行淳之介や開高健という初めて聞く名前の作家だったが、読んでいる間は時がたつのを忘れた。
森で騒ぐセミの声も聞こえないほど夢中になって読んだのだが、聞こえなかったそのセミの声が、ある瞬間突然聞こえてきた。
集中力が切れた、つまり腹が減った。
Gショックの腕時計を見ると午後一時を回っている。
僕は読みかけの頁に栞をはさんだ。
栞には英国の童謡マザー・グースのこんな言葉が載っていた。
「ねんねんころりよ きのこずえ
かぜがふいたら ゆりかごゆれる
えだがおれたら ゆりかごおちる
あかちゃん ゆりかご なにもかも」
境内から去るとき拝殿を見たが、暗幕の向うは相変わらずひっそりと静まり返っていた。
海沿いの細い道を歩いた。
夜の間に洗って干したTシャツは朝のうちに乾いていた。
しかし歩き始めたら、たちまちシャツは汗でびしょ濡れに濡れて肌に張りついた。
ほとんど真上から夏の陽射しが降りそそいでいた。
影は僕の足もとに、猫のように小さくなってうずくまった。
陽炎が立ち、走り去る車の姿が汗ばむように滲んでいる。
一日でもっとも暑い時間で、道を歩く人影は僕以外になかった。
風が凪いだ静かな海でカモメの集団が羽根を畳み、ブイのように水面に浮かんで休んでいた。
そのうちの一羽が道を歩く僕の姿に驚いたらしく、急に海面から飛び立った。
一羽が飛び立つと、ほかのカモメも後に続いた。
カモメの集団は海岸から少し離れた水面に着水し、そこでまたひとかたまりになって休んだ。
鼻の頭や首筋をジリジリ焼きながら道を歩いた。
不思議に咽の渇きは覚えなかった。
歩きながらついさっき読んだ開高健の『一日の終わりに』という短編の冒頭を思い出した。
終戦直後の日本。
どこへ続いているともわからない、まだ新しい線路を、浮浪者みたいな若者と老人が歩いている。
若者は、自分は寂しくなると無性に小便がしたくなる、と老人に告げる。
すると老人は若者に聞こえないように、こんな言葉を呟く。
そういうとき、自分はせんずりしたくなる。
「……」
僕は国道を離れると人目のない裏道で、こっそり立ち小便した。
ドライブインのレストランで大盛りのカレーライスを食べ、神社に戻った。
肉体労働者向けの濃い味付けのカレーで、たくさん汗をかいた体にその辛さがうれしかった。
小屋の窓辺に寄りかかり、五郎さんに借りたギターをポロポロと爪弾いた。
本当はもっと派手にかき鳴らしたいのだが、一座のみんながまだ眠っているからそうもいかない。すると、
「ねえ」
僕はキョロキョロ周囲を見渡した。
どこかで声が聞こえた。
しかしその声がどこからくるのかわからない。
するとまた聞こえた。
「ここよ」
小屋の窓から拝殿を見上げた。
それからギターを置いて小屋を出て、足音忍ばせ階段を登るとそこにうずくまった。
急に訪れた参拝者に賽銭どろぼうと間違われないかな、と気にしながら小声で、内側に暗幕を張った格子戸に向かって囁いた。
「何?」
「ああよかった。聞こえたのね」
暗幕の向こうの小さな声が、安心したように呟いた。
僕は始めのうちそれが誰の声かわからなかった。
初めて聞く女の子の声だ。
一座にいる女の子は三人だけだ。
そのうちオー姉さんとチーちゃんの声は、僕の耳にすでに学校のチャイムのように馴染んでいる。
だからこれはコウの声、と気づいたとき、
「ねえ、そこに本があるでしょ」
「本?」
見ると拝殿の格子戸の前に、置き忘れたみたいに一冊の単行本が置かれていた。
(古い)
と、ややくたびれた本を見て咄嗟に思った。
もしかしたら戦前の本かもしれない、と思ったのはタイトルと著者名が右から左に書かれているからだ。
白い表紙に「子踊の豆伊」「成康端川」とある。
本は川端康成の『伊豆の踊子』だった。
何度も映画化された有名な小説だ。
表紙は色あせ、紙も古びて黄色くなっている。
しかし大切に扱われた本のようで汚れや破れは見当たらない。
ただ表紙に点々と数滴の茶色いしみがあるだけだ。
「読んでくれない?」
コウは小声で僕に朗読を頼んだ。
ふだんの彼女のたたずまいがクールなせいか、ヒソヒソ囁かれるその声は、僕の耳に意外に幼く聞こえた。
僕はずっとコウは自分より年上と思っていたが、ひょっとしたら同い年くらいかもしれない……と考えていると唐突にコウがいった。
「お願い。わたし、字読めないの」
一瞬、頭がまっしろになった。
僕は年老いた本を傷めないよう慎重に開くと、『伊豆の踊子』を読んだ。
『道がつづら折れになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さでふもとから私を追って来た……』
『伊豆の踊子』の有名な冒頭が、まっしろになった自分の心に染みてゆく。
乾いた地面に染み込む雨のように。
言葉に対してそんな風に感じるのは、初めてだ。
そのとき暗幕の向うから、今度はコウの声とは違う別の音が聞こえてきた。
「ぴちゃ……ぴちゃ……」
猫がミルクを啜るような音だ。
何だろう? と僕は一瞬朗読をやめ耳を澄ませた。
すると、
「読んで」
コウの声は相変わらず小さく、しかし切迫していた。
「お願い、読んで」
コウの声はかすかに震えていた。
彼女を安心させるため僕は本を読んだ。
『私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺がすりの着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた……』
読みながらあることに気づいた。
本にかすかに、ある匂いが染みついていることに。
甘いような、酸っぱいような匂い。
それが一座の楽器に染み込んだ「あの」匂いと同じであることに、僕は気づいた。
僕は小声で本を読み続けた。
自分がすぐそばで聞いていることを知らせたいのか、コウは時折、
「うん……うん」
と、相槌を打った。
その相槌の向こうから、ぴちゃぴちゃという奇妙な音は、絶えることなくずっと聞こえた。
僕は本を読み続けた。
いつの間にか奇妙な音は聞こえなくなり、やがてコウの静かな寝息が聞こえてきた。
僕は頁に栞をはさみ、本をその場にそっと置いた。
それから足音を忍ばせ小屋へ戻った。
窓辺に寄りかかり、拝殿を見上げた。
屋根瓦で山から降りてきたらしい、赤い羽根の小鳥が何かをついばんでいる。
「わたし、字読めないの」
「……」
僕はさっきコウがいった言葉を頭の中で繰り返し反芻した。
屋根瓦の赤い鳥はいつの間にかいなくなった。




