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太鼓の少女  作者: 森新児
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第5話 旅の始まり

「じゃあご迷惑にならないようにちゃんとやりなさいよ」


 それは僕が一座に仲間入りした翌朝のことだった。

 昨晩遅く「友人の家に泊まる」と噓の電話を家に入れた。

 そして翌日の午前中、また家に電話した僕は母に、


「自分が旅する音楽一座に仲間入りしたこと」


「どこまで行くかわからないが夏休みの間彼らといっしょに旅をすること」


 を今度は正直に告げた。

 僕は過去の体験から、こういうことはへたに隠しだてしないほうがいい、と学んでいた。

 社会勉強のため、と一座の手伝いを志願した動機を説明すると果たして、


「学校の宿題は終ってるのね? 英語はそっちでもきちんと勉強しなさい」

 

 母は僕が一座の旅に同行することをあっさり許してくれた。

 女手一つで二人の子供を育てた母は基本的に放任主義だった。

 若い頃自分が相当無茶をやったから、我が子の無茶にも甘いのだ。


「え、お兄ちゃん? お兄ちゃんからの電話?」


 そのとき母のそばで妹が騒ぐ声が聞こえた。


「お兄ちゃん昨日よそんちにお泊まりしたんでしょ? 今どこからかけてるの? 女の子の家?」


「じゃ、そういうことだから」


 僕はすぐ緑色の受話器を伏せた。

 妹が電話に出ると長いのだ。

 タバコ屋の店先に置かれた公衆電話から離れ、一つ大きく伸びをした。

 店先には電話のほかに白いホーロー看板が飾られていた。

 その中で僕が知らない女優さんが上品な微笑を浮かべてレトルトカレーを傾け、そのそばでやはり僕が知らない男の人(歌手?)が、悠然と殺虫剤をかざしていた。

 女優さんと歌手の人は二人とも着物姿だった。

 近くで稲が風に騒いでいる。

 まだ午前中だが夏の陽射しはすでに厳しく、乾いてひび割れた田んぼを容赦なくジリジリ焼いていた。

 田んぼの眺めは痛々しいが風は爽やかで、電話をかけている間に流した汗がみるみる乾いた。



 田んぼの近くにキリシタン大名として有名な小西行長の宇土城跡があった。

 今は公園になっている城跡へさっき登ってみたのだが、かつてここが城だったことを連想させるものは、何もなかった。

 関が原の戦いで石田三成側についた行長は敗れて京で処刑され、徳川家康側について勝者となった加藤清正は宇土城を自分の隠居城と定めて使用する。

 その清正の死後、城は解体された。

 解体された宇土城の天守閣は熊本城へ移され、宇土櫓と呼ばれて今もその美観を称えられている。

 清正が築城した熊本城は今も国内外の観光客で毎日大にぎわいだが、宇土城の跡に人は僕以外誰もいない。

 ただ日に焼けた草の匂いが、辺りにひっそり立ち込めているだけだ。

 勝者と敗者のあまりの違いに呆然となる僕の目の前で、青い銅像の行長さんは太刀を杖のようにつき、西の空を孤独に睨んでいた。

 その胸元に、大きな十字架のペンダントがあった。

 城跡がある丘を下ったところに、僕らが泊まった神社があった。

 木々が繁った鎮守の森は昼間でも薄暗い。

 その暗い森にある神社の拝殿の中で、一座のみんなが今もひっそりと眠っている。





 僕らはまだ真っ暗な時刻にこの神社に着いた。

 到着すると一座はまず境内の手洗い場で入念に手や顔を洗い、うがいをした。

 それから少女たちは着ている着物のたもとから布袋を取り出し、そこから一掴み塩をつまむと慣れた仕草で互いの体に「ぱっぱっ」とかけあった。

 清めの塩だ。

 そうやって身を清めたら今度は一人ずつゆっくり階段を登り、きちんと一礼して「ぱんぱん」とかしわでを打ち、もう一度一礼してから履物を脱ぎ拝殿へ上がった。

 もちろんきたとき格子戸に鍵がかかっていたのだが五郎さんが持参した、妙に細長い鍵を鍵口に差し込むと、扉はあっけなく開いた。

 彼らは自分の荷物を拝殿の奥へ置いた。

 僕は移動中にそれとなく観察したのだが、彼らは楽器以外特に荷物は持っていないようだった。

 五郎さんは合成革のケースに入れたギターを片手に持ち、さらに青いリュックを背負って夜道を歩いた。

 彼のもう一本のギターはやはり革のケースへ収め、僕が背中に担いだ。

 チーちゃんは茶色い革の鞄を一つだけ手に持っていた。

商売道具のブルースハープが十数本中に入っているのだが、移動の途中陽気な彼女が大きく鞄を振り上げると「シャリン」と涼しげな音が聞こえてきた。


「タンバリンも入っているの」


 と、チーちゃんは僕に説明した。

 オー姉さんとコウは赤い革の大きなキャリーバッグにそれぞれの楽器を収め、取っ手を引き出し引きずって運んでいた。

 ウッドベースは僕がケースを引きずって運んだから、マダムは今夜はずっと手ぶらだった。

 そういう風に夜道を歩いていたら、ときおりパタパタと、鳥が羽ばたくようなかわいい音が聞こえてきた。

 それは血色がいいチーちゃんのピンクのかかとを、彼女が履いている草履が叩く音だった。

 女性たちはみんな黒い草履を履いていた。

 マダムは白い足袋を履いていたが、後の三人は裸足に草履を履いている。

 そしてほかの人の鼻緒は白いが、ただ一人コウの草履の鼻緒だけ赤かった。

 五郎さんはシャツと同じ真っ黒なスニーカーを履いている。

 ようやく辿り着いた神社の拝殿を僕は階段下から見上げた。

 ここも昨夜泊まった神社と同じく板の間で、やはり特に物はなかった。

 壁にたくさんお札が貼られ、今夜は天井に獅子の絵が描かれている。

 神社の拝殿というのはどこでも似たような作りになるようだ。

 拝殿の明かりをつけると、五郎さんは青いリュックから真っ黒な暗幕を取り出した。

 映画館などで使用する完璧に光をさえぎる幕で、五郎さんはそれを拝殿の格子戸や窓に内側から隙間なくぴったり張った。

 壁や柱のちょっとした突起に紐を結びつけるのだ。

 五郎さんは毛一筋の光の侵入さえ許さない気迫をみなぎらせ手早く、しかし慎重に暗幕を張った。

 五郎さんが暗幕を張り終えると、拝殿の内部は外から完璧に見えなくなった。

 こんなところに勝手に泊まって大丈夫なのかな、と初めて神社に泊まる僕は心配したが、拝殿の縁側に出てきたマダムは「平気よ」と、気楽な口調でいった。


「悪いけど坊やはこっちで寝てちょうだい」


 申し訳なさそうにマダムが指差したのは拝殿のさらに奥にある、物置に使うような平屋の小屋だった。


「のけ者にするわけじゃないけど我慢しとくれ。小屋にはエアコンがあるから」


 そう聞いて僕は喜んだ。一人のほうが気兼ねもいらない。


「拝殿にエアコンはあるんですか?」


「そんなのないよ。私たちは暑さに強いから気にしなくていいよ」


 小屋の扉も五郎さんが開けてくれた。

 さっきと同じ鍵で開けたのだ。


「じゃあおやすみなさい」


「おやすみ」


 小屋に入るとすでにエアコンがついて中は涼しかった。

 真っ暗で何も見えない。

 ランニングシューズを脱いで畳に上がり、手を伸ばして虚空をさぐると、コツン、と固い何かが手の甲に触れた。

 裸電球だ。

 胴のスイッチを捻るとすぐ明かりがついた。

 部屋には三枚畳が敷かれていた。

 弱い光で見てもわかるほど畳は日焼けして茶色くなっていた。

 すみのほうに布団が積んである。

 これ使って大丈夫かな? と顔を近づけると日向の匂いがした。

 昼間布団を干しておいてくれたのだ。

 布団を敷き、小屋の窓を開けた。

 境内に生えた木々が夜風に騒ぐ音が聞こえる。

 その音を聞いて僕は初めてかすかな、旅情を感じた。





 翌日午前中に目が覚めた。

 夕方まで寝てていいといわれていたが、森で鳴くセミの声がうるさくて寝ていられないのだ。


(五時間ぐらい寝たかな?)


 眠る前、早起きのお年寄りが拝殿の鈴を派手に鳴らさないかな? とひそかに心配した。

 そんなことされたら拝殿で寝ている一座のみんなが飛び起きしてしまうが、ぼくの不安は杞憂に終わった。

 きれいな神社だが、拝殿を訪ねる参拝客は一人もいなかった。



 境内の手洗い場で顔を洗い、境内のトイレで歯を磨いた。

 神社の水は、今季節が夏とは思えないほどピリッと冷たくて、かすかな甘みがあった。

 この神社の近くに、日本の名水百選に選ばれた(とどろき)水源がある。

 今も一部の地域に水源の水が提供されていて、現在使用されている上水道としては日本最古のものといわれている。

 ひょっとしたら神社の水はこの水源から引いているのかもしれない。

 それほど美味しい水だった。



 それから家に電話して宇土城跡を訪ね、小屋に戻った。

 ザラザラ砂が溜った畳にあぐらをかき、寝る前に五郎さんから渡されたメモをチェックした。

 こんな文字が書かれている。


「アンパン一個

 峰(タバコ。ワンカートン)」


 それは僕の買い物リストだった。

 昼間眠っている彼らに代わって、僕が買い物をしてくるように頼まれたのだ。


「領収書なんていらないから。あなたも自分の欲しいものを好きに買いなさい」

 

 マダムが僕に渡した黒革の財布には、お札がぎっしり詰まっていた。

 僕はもう一度メモを見た。

 アンパンは五郎さん、タバコはマダムのリクエストだ。

 そしてメモにはもう一つ、僕に買ってきて欲しいものの名前が書かれていた。

 それは一風変わった品物だった。


「歯科技工用ヤスリ(平形、二本)」


 万年筆を使った端正な青い文字で、そう書かれていた。


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