第35話 輝ける闇
「わたし、最初は『カオル』と呼ばれていたの」
二人裸のまま並んで畳に横になり、小屋の穴だらけの天井越しに夜空を見上げていたら、コウがいった。
「マダムがつけてくれた名前よ。でも頼んでコウって名前に変えてもらった」
「どうして?」
「七十年前日本軍の兵隊に襲われたとき、私は一人のきれいな兵隊さんを噛み殺した。その兵隊さんが私に血を吸われながら最期にいったの。『カオル』って」
「……」
コウに血を吸われ、みるみる青ざめる桜井一等兵の姿が、ありありと目に浮かんだ。
「もちろん兵隊さんは私の名前なんか知らない。いつもあなたが読んでくれる本があるでしょう? あの本兵隊さんが持っていたものなの。たぶん兵隊さんはあの踊子が好きだったのよ。踊子の名前も薫でしょ?」
「そうだね」
「それからオー姉さんやチーちゃんに『カオル』って名前を呼ばれるたび、胸が苦しくなった。それでマダムに頼んで名前を変えてもらったの。私字は読めないけど、私の元々の名前はカオルともコウとも読めるんですって。この意味わかる?」
「わかるよ。君の名前に『香』って字を使ったんだ。香水の香。あの字はカオルとも読む」
「あれから七十年たってコウと呼ばれるのにすっかり慣れた。でもあの川沿いの神社で一目あなたを見た途端、あの兵隊さんを思い出したの。あの人が『カオル』っていった、かわいそうな声も」
「僕を見て思い出したの? 僕あの兵隊みたいにハンサムじゃないよ?」
「ううんあなた凄くきれいよ。身も心も」
「そうかなあ。君やマダムやオー姉さんはきれいだよ。チーちゃんは可愛い。でも僕は……」
「ええ、私たちはきれいよ。でも長生きした女がきれいなのはいいことじゃないわ」
コウは小さくため息をついた。
「女の美しさを磨くのは恐怖と緊張だから」
そのとき風が吹き、小屋に落ちた月光が波紋のように揺れた。
僕は半身を起こし、コウを促した。
「もうすぐ夜明けだ。行こう」
僕とコウが森に辿り着いたのは、もう夜が明けてしまいそうなきわどい時刻だった。
「あそこよ」
息を切らせて走るコウが指差す先に目を向けると、黒々と木々が繁った森の中で、そこだけ切り抜いたように明るい場所があった。
空地だ。
そこにま四角な木造の建物がポツン、と孤独に建っているのが見えた。
何だか子供がブロックの一片を、気まぐれにそこへつまみ置いたような感じだ。
屋根瓦が夜露に濡れて涼しげな光沢を浮べている。
ま四角な建物は足元が高床式になっていて、壁の三方が開放されていた。
これが宴の舞台となる能舞台だ。
能舞台につきものの橋掛りと呼ばれる廊下や、役者が能面をつけるための鏡の間はない。
おそらくそれらはここで能を演じるたび設営するのだろう。
今はただプレーヤーのためのステージだけがある。
これはそんな風に荒っぽい造りの「野の舞台」なのだ。
板敷きの舞台で、先に着いた一座のみんなが僕らがくるのを立って待っていた。
マダムたちが締めた赤い帯が、今夜は染みるほど目に鮮やかだ。
一座はみんな、笑っていた。
「おかえり」
「ただいま」
チーちゃんは素早く舞台から飛び降り、僕とコウにぱっぱと清めの塩をかけた。
コウは舞台に向って「ぱんぱん」といい音のかしわでを打ち、深々と一礼すると草履を脱ぎ裸足で舞台へ上がった。
「坊や」
マダムが僕を呼んだ。
「いらっしゃい」
マダムは笑顔で僕を手招いた。
僕もコウの真似をしてかしわでを打った。
彼女のように冴えた音はせず、「ぼしゃん」と石が水に落ちたときみたいな鈍い音がする。
それから一礼して短い階段を登り、最後にランニングシューズを脱ぎ靴下で舞台へ上がった。
舞台はすでにオー姉さんたちの手ですみずみまできれいに掃除されていた。
舞台の床は滑らかで弾力性があるヒノキが使われている。
まさに「ヒノキ舞台」だ。
とてもいい材質のヒノキで、歩き疲れた足にその感触は優しかった。
僕が上がるとすぐ五郎さんが三方に戸を立て、中からきっちり暗幕を張った。
「うれしいね、楽しいね」
暗幕でできあがった完璧な闇の中ではしゃぐチーちゃんを、オー姉さんがたしなめた。
「駄目よチーちゃん、埃が立つわよ」
「だってうれしいんだもの」
「ねえ」
おみやげの陣太鼓をみんなに配りながら、コウは僕に訊ねた。
「まだ何も見えない?」
「いいや」
僕は首を横に振った。
「よく見えるよ。何もかも。
闇がこんなに明るくてきれいだなんて知らなかった」
「うれしいね、楽しいね!」
僕の言葉を聞いたチーちゃんがまたはしゃいだが、もう誰も彼女を止めなかった。
マダムも、オー姉さんも、チーちゃんも、五郎さんも、コウも僕も、一座はみんな笑っていた。
輝ける闇の中で、僕らはこれ以上ない幸福と喜びを分かち合った。




