第33話 経消し唱言
おばあさんの家を出たのは午前一時ころだった。
もっと遊んでいけとおばあさんはいってくれたが、夜明け前までに森につかねばならない。
おばあさんは別れを寂しがり、コンビニの袋に入れた陣太鼓をおみやげにたくさんくれた。
「じゃあ元気でね、おばあちゃん」
玄関前の路上で、コウはおばあさんの手を両手でにぎりしめた。
その手を自分の額に押し当て、コウはこの前十字路で僕のために唱えてくれた、あの奇妙なラテン語の呪文を唱えた。
「あめまるや、からさべんのふ、どふまんべえこ……」
「あれはかくれキリシタンの経消し唱言よ」
森に続く、街燈もない暗い道を並んで歩きながらコウはいった。
「かくれキリシタンは表面状仏教徒として生活しているからお葬式にはお坊さんがくるわ。でもそれではあの人たちが信仰するぱらいそへ行けないでしょ?」
「ぱらいそ?」
「天国のこと」
おばあさんにもらった陣太鼓が入った袋をかさりと揺らし、コウは話を続けた。
「天草のかくれキリシタンはお葬式が終ってお坊さんが帰ると大きな壷を取り出し、その中にさっきわたしが唱えた唱言を吹き込み、それでお坊さんのお経の効果を消したの。それであの人たちはようやく、あの人たちのぱらいそへ昇ることができたのよ」
「へえ……」
暗い砂利道を歩いたが、僕は今夜は暗さに悩むことはなかった。
月の光がぎょっとするほど明るい夜だ。
足元の砂利の一粒一粒に、青い影がくっきり宿っている。
「ピラミッドのように巨大な」影が。
「わたしたち、誰かの幸せをお祈りするとき、必ずかくれキリシタンの言葉でお祈りするの。だってそれはこの世でもっとも純粋な祈りの言葉だから」
僕は不意に足を止めた。
汚れた涎かけを首に巻いた野ざらしのお地蔵さんが、路傍にぽつんとたたずんでいる。
「どうしたの?」
けげんそうにこちらを伺うコウに尋ねた。
「さっき君がおばあさんにした祈りだけど、このお地蔵さん相手にもできる?」
「どういうこと?」
「つまり花やお菓子を供えるように、君の祈りを物質のように地蔵に供えることはできる?」
「……やってみるわ」
奇妙な僕の申し出に、コウはすぐ頷いてピン、と二本指を立てた。
「あめまるや、からさべんのふ、どふまんべえこ……」
祈りが終わり、それからしばらくの間僕はただじっとその場で待っていた。
すると、ガサリ、とそばの草むらで不審な音が聞こえた。
「……」
草むらから現れたのは白いシャツに灰色の綿パンを穿いた、小柄な男性だった。
大人か子供かよくわからない風貌をしている。
この男は為朝がコウを監視するため打った式だ。
赤い涎かけをしたお地蔵を間近に覗き込み、式はそれから目を逸らさず、いつまでもじっと熱心に見つめた。
僕のこともコウのことも、一切見ようとしない。
(よし)
うまくいった! と心の中でガッツポーズした。
コウの祈りが宿ったお地蔵さんを、式はコウ本人と錯覚したのだ。
「どうしたの?」
コウは首をかしげた。
吸血鬼の目に式は見えない。
「行こう!」
戸惑うコウの手を引っ張り、お地蔵に釘づけにされた式を後に残して僕は急ぎ足でその場を離れた。
歩きながら、彼女に頼んだ。
「僕もこれから受けたいんだ」
「受けたいって何を?」
「君たちの仲間になるための儀式を」
コウは砂利を踏み鳴らし、足を止めた。
「……知ってたの?」
「ああ」
知ってたよ、と頷いたとき、間近でフクロウがホウホウ二度鳴いた。




