第30話 野球場にて
「森の中の能舞台ね……うん、そこなら知ってる」
僕の話を聞いた為朝は力強く頷いた。
先日河原で会ったときと同じ、白い着物に青い袴という衣装の為朝と、僕は白昼M町にある町営野球場の三塁側ベンチで面会した。
何だか変な場所だが境内の小屋で畳に寝転んでいたら、為朝が打った式が急に目の前に現れたのだ。
扉や窓からではなく、式は虚空から突然出現した。
小柄な男性に化けた式に導かれ、僕はここまでやってきた。
それは僕らがM町で過ごす最後の三日目の昼のことで、無人のグラウンドは水も撒かれておらず、風が吹くたび煙幕のように土埃が舞った。
「では今夜M町で最後の宣伝演奏をして、明日の深夜零時から能舞台で宴が始まるんだね?」
風が吹くたび濃い緑色に塗られたベンチの壁に、ピシピシ鋭い音立てて土のかたまりがぶつかった。
それを気にするそぶりも見せず、為朝は一人でしきりに頷くと指先でもてあんでいた人型の紙人形――それは正式に形代というそうだが――をポイ、と空中に捨てた。
この形代に為朝が呪力を込めると式になる。
捨てられた形代は暖められたするめのように空中でくるりと丸くなり、マッチもないのに自然に燃え出し、そのまま燃えかすも残さずパッと消えた。
「なあ、もう教えてくれていいだろう。一座のみんなをどうするつもりだ?」
僕が訊ねると、為朝は例の忌々しいほど魅力的なほほ笑みを浮べて語った。
「連中が宴で演奏している最中、そのクライマックスの瞬間を襲うよ。連中が我を忘れ、夢中になったときこそチャンスだ」
為朝はそこで手元に置いてあった剣の革鞘を払い、重い銅剣を片手で立てた。
田舎の眠っているような白昼無人のグラウンドに、見事に鍛えられた銅剣の神秘的な輝きが閃くのはシュールな眺めだった。
「すまないが君も宴の演奏に参加してくれ。君がいなくなったら連中が警戒するからね」
「わかった」
そのときひやりと、首筋に冷たさを感じた。
それは僕の心を閉じ込める、見えない鉄の檻の感触だ。
わかったと頷きながら思った。
(宴のときもし僕が足手まといになったら、為朝は何のためらいなく、一座といっしょに僕も殺すだろう)
「こいつで連中を斬る。首を斬り落とすんだ」
自分でかざした剣を舐めるようにじっくり眺め、為朝は笑った。
「そうすれば連中の永遠の命も、それまでさ」
「君は……」
僕は剣の銀色の輝きと、美少年の妖しい笑顔を交互に見つめた。
「君は、一座のみんなが、憎いのか?」
「憎い」
僕の問いに、為朝は間髪入れずに頷いた。
「鎮魂も祈りも本来我々呪術師だけに許された神聖な特権だ。それを妖怪なんぞにむざむざ荒らされてたまるか」
「七十一年前、陸軍特殊部隊を全滅させられた恨みは?」
「それもある」
為朝はいきなり片手で剣を振った。
座ったまま縦に垂直に振った。
すると彼が剣を振った方向に、グランドの土が一直線にボコッと盛り上がった。
それは土が何かに鞭打たれ、一瞬でミミズ腫れを起こしたような異様な光景だった。
土の隆起は対面する向こうの一塁側ベンチまでまっすぐ伸び、そこで「ゴトン」と鈍い音を立てた。
「……」
目を細め、為朝は無言で一塁側ベンチを見つめている。
僕も向こうのベンチに目をやった。
一塁側のベンチの壁もこちらと同じでペンキで緑に塗られている。
するとまた「ゴトン」と音がした。
「おおっ」
僕は思わず椅子から立ち上がった。
一塁側のベンチのコンクリートの屋根が突然真っ二つに割れ、ベンチのすべてが一瞬で崩落してしまったのだ!
「刃を触れずに遠くの相手を斬る。これが草薙剣の神技真空斬りさ」
崩れ落ちるコンクリートの地響きが、ランニングシューズの裏にビリビリ伝わる。
呆然と立ち尽くす僕の横で、為朝は悠然と剣を鞘へ収めた。
「この神技であいつらを斬ってみせる」
為朝は満足そうにニッコリほほ笑んだ。
その笑みを横目に見ながら、心の中で舌打ちした。
(ちくしょう、笑顔はこいつの妖術だ)
そのとき
「逃げろ」
と、誰かが耳元で囁いた。
それは自分の理性が囁く声だ。
確かにそれがもっとも賢明な振る舞いに違いない。
今の自分には選択肢が三つある。すなわち、
逃げるか。
戦うか。
それとも従うか。
まず「逃げる」という選択。
今僕が一人で逃げれば、為朝もさすがに後を追ってこないだろう。
何のとりえもない中学生を追いかけるほど呪術師は暇ではない。
しかし今僕が一人で逃げれば、一座の命運はそこで完璧に尽きる。
では一座に呪術師の存在を告げ、彼らといっしょに逃亡するのはどうだろう?
(いや、それも駄目だ)
すぐ考えを改めた。
(為朝はずっと前から何体も式を打ち、一座を厳重に監視している。この監視の目を突破するのは不可能だ)
どうやら「逃げる」ことは難しい。
しかし「戦う」ことはもっと難しい。
昨日会った四人の屈強な呪術師は、戦う相手としてあまりに危険だ。
一座のみんなが束になってもかなわないという僕の直感は、たぶん当たってる。
そもそも吸血鬼と聞くとみんな震えあがるが、彼らの立場に立って考えると、吸血鬼という存在が意外に弱いことにすぐ気づく。
何といっても夜しか行動できないから動ける範囲が狭すぎる。
逃げるときこれは致命的だ。
それに彼らは昼間ずっと暗いところで眠っている。
眠るしかないのだ。
本気でこれを殺そうと思えば子供にだって殺せるだろう。
為朝は僕にだけは監視の式をつけなかった。
僕の心が鉄の檻に閉じ込められていること、すなわち僕がすでに美貌の呪術師に隷従していることを為朝はよく知っていた。
と、そのときまた首筋にひやりとした冷たさを感じた。
(見えない鉄の檻が、とうとう鉄の首輪になった)
首を絞められ悲鳴すらあげられない。
冷や汗浮かべる僕を見て、為朝はニコニコ笑った。
彼の笑顔を見てはっきり悟った。
(選択肢なんて初めからなかったんだ)




