第29話 宴に向けて
その町の名は仮にM町としておく。
夜明け前にM町の神社に辿り着くと、今はすっかり体調がよくなったマダムが晴れ晴れとした笑みを僕に向けた。
「さあ、ここまできたらもう目の前だよ。坊や、この町の東にある大きな森を抜けて峠を越えると、そこに五家荘という土地があるんだよ。知ってるかい?」
「ごかのしょう?」
名前だけは知っているというと、マダムはその土地について詳しく話してくれた。
その話によると五家荘は八代市の泉村に含まれる山里で、土地の南に五木の子守唄で有名な五木村があるという。
九州山地に点在する椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの里からなる山里なのだ。
一三〇〇メートルから一七〇〇メートル級の山々に囲まれたほとんど秘境といっていい土地で、そのカルスト地形は古生代のなごりをとどめている。
熊本市の平均気温は一五・二度だが、五家荘は一一・四度でこれもかなり低い。
そして日本中の山里に伝わる平家の落人伝説が、この土地にもあった。
壇ノ浦で滅亡した平家の残党が山伝いにこの地へ逃れ、ひそかに暮らしていたという。
里の一つ久連子の古代踊りは、住人の先祖である平家の人々が都を懐かしんで舞ったその舞が現在に伝わったもの、と里の人々は語っている。
さらにこの土地が平家にゆかりのあるあかしとして、荘民はかつて武士にしか許されなかった帯刀を特別に許されていたという。
高貴な身分の方々の子孫ということで許されたのだろう。
五家荘はすぐ東側がとなりの宮崎県と接している。
この県境を越えて五家荘へやってくる者はかつて「源氏の追手」と見なされ、問答無用で切り殺されたそうだが、現在その県境を逆に越えて宮崎県に入ると、そこに民俗学の世界で有名な椎葉村がある。
「明治四十一年の七月に柳田國男先生が椎葉村を訪れ、そこで取材して書かれたのが先生の処女作『後狩詞記』なんだよ」
と、ひどく懐かしそうに語るマダムに訊ねた。
「ではその五家荘がみんなの旅の最終目的地ですか?」
「そうだよ」
重々しく頷くとマダムは拝殿の縁側へ上がり、そこから境内にたたずむ一座のみんなをぐるりと見渡した。
「山へ入る前、盛大に『宴』を開くからね。これが最後の宴だよ、みんな、気合を入れてやっておくれ」
「はい!」
「はい」
チーちゃんとオー姉さんが声を出して頷き、コウと五郎さんも無言で、しかししっかり頷いた。
「坊や」
すると拝殿の縁側から、少し不安げな表情でマダムが僕にいった。
「これが私たちにとって最後の演奏になるんだよ。坊やも最後まで付き合ってくれるかい?」
「……はい」
はい、と頷く僕を見てマダムはホッとした笑みを浮かべ、コウも笑った。
彼女の笑顔を見るのは久しぶりだ。
笑みを湛えるコウの頬は、今日はひときわ瑞々しい薔薇色に染まっている。
彼女の笑顔がうれしくて僕も笑うと、コウがそばに寄ってきた。
「また新しい本を読んでね」
コウは少し恥ずかしそうにリクエストした。
『子踊の豆伊』はもう読み終えていた。
「うん、また面白い本を探しておくよ」
コウの黒髪は、いつかのように陽射しに暖められた甘い果実の匂いはしなかった。
その代わり香水「夜間飛行」の濃密な香りが、彼女の着ている赤い浴衣から闇に馥郁と立ち昇っている。
何かの匂いを隠すために、彼女は香水をたくさん使ったに違いない。
そう察した瞬間、僕はほほ笑むコウの横で彼女に気づかれないよう、咄嗟に涙をこらえた。
M町の外れにある神社で荷物をおろし、僕らはその夜町を演奏して流して歩いた。
いつもなら一晩演奏したらすぐ次の神社を目指して移動するのだが、今回は違う。
この町を離れるともう人家はほとんどなくなるので、最後に森で開く『宴』にきてくれるお客をこの町でたくさん集める必要があった。
いわばビッグイベントに備えた前宣伝興行である。
僕らは三日間M町にとどまり、毎晩町を流して歩き、それから深夜神社の境内でブルースを披露した。
宴を盛大なものにしようと、一座の演奏にもひときわ熱が入った。
「みなさま」
それは町についた初日の夜だった。
すべての曲が終わり、まだもうもうたる煙草の煙のように濃密なブルースの残響漂う境内で、マダムは古の貴人のように優美なほほ笑み浮かべて、集った聴衆に告げた。
「わたくしども旅の音楽一座は、もう間もなく、興行を終わりにいたします。わたくしどもの旅が終るのです。その記念として、ここM町の東にございます森の中の能舞台で公演をいたします。××日深夜零時ちょうどの開幕です。わたくしどもの最後の記念公演でございます。みなさまお誘い合わせの上、どうぞおこし寄り下さいませ……」
美しいマダムは聴衆に深々と頭を下げ、僕らも彼女といっしょに頭を下げた。
マダムは具体的な地名をいわなかったが、町の人は「森の能舞台」と聞くと、それがどこの場所であるかわかるようだった。




