第27話 無力
僕は一人で川沿いにある神社へ戻った。
一座はまだ暗幕を張った拝殿の中で静かに眠っている。
そばにある小屋へ上がり、そこの窓から静まり返った拝殿を見つめた。
今ならまだ逃げられる、と理性の囁く声が耳元に聞こえる。
しかしその声はJポップのヒットナンバーによくある「永遠」とか「思い」といった手垢まみれのキーワードのように、胸に全然響かない。
(では)
窓辺から拝殿の屋根瓦を見つめ、自分に問うた。
(では一体、どうする?)
わからない。
僕は汗まみれになって拝殿を見つめた。
拝殿の屋根のずっと先に、巨大な入道雲があった。
見ていると雲は崩れ落ちる氷山のような運動を繰り返していた。
しかし氷山のように小さくなるのではなく、逆に少しずつ、雲は大きくなっていった。
やがて午後遅い時間になり、鎮守の森の木々が不吉にザワザワ騒ぎ出した。
すぐ弾けるように夕立が降ってきた。
さっきの入道雲が降らせる雨だ。
それは激しい夕立で、雨音で町のノイズやセミの声が完全に消され、神社のまわりは静かになった。
拝殿の屋根瓦が吐き出すような勢いで雨をしたたらせている。
雨といっしょに上空から下りてきた埃の匂いが、ツンと甘酸っぱく鼻をつく。
やがて雷も鳴り出した。
パッと青白く光ってすぐにドサッと雷鳴が降ってくる。
近い雷だ。
大地が震え、畳に投げ出した僕の太腿も震動で震えた。
僕はずっと窓を開け放っていた。
横殴りの雨が吹き込み、髪も体も濡れてしまった。
黒い木々の間から空が見えた。
空もまた暗かった。
するとその暗い空が、青白くパッと輝いた。
ほとんど同時に雷鳴が轟き、また盛大に大地を揺らした。
その光と音のわずかな空白の時間、雨も、風も、雷も、自然のすべてが凝固したような緊張の一瞬、どこか遠くで、誰かがヒソヒソ泣いている声が聞こえた。
また空が光り、大地が震えた。
その二度目の空白のとき、僕は知った。
ヒソヒソ泣いているのが遠くの誰かではなく、自分であることを。
雨で空気がきれいに洗われた夜の神社に、濃厚なブルースのメロディーが立ち込めた。
その夜一時間ほどの演奏を終えると、マダムは急に境内の老木に片手をつき、自分の頭をそっと押さえた。
「大丈夫……ちょっと眩暈がしただけだよ」
「お疲れなんです」
コウはマダムに素早く寄り添い労わった。
「そうかもしれないね。さあみんな、早く荷物をまとめて……」
「マダム」
五郎さんはマダムに進言した。
「今日の移動は無理です。今夜はこのままこの神社にもう一泊しましょう」
「そうしましょうマダム」
「そうしましょう」
コウとオー姉さんにも勧められ、マダムは蒼ざめた顔で頷いた。
「じゃあ今夜もここで休もうかね。みんな、早く山へ行きたいだろうにすまないね」
「お気になさらないで」
「さあ、休みましょう」
コウとオー姉さんに両脇を支えられ、マダムは拝殿の階段をゆっくり登った。
「あんた」
するとチーちゃんが境内の暗がりに目を向け、ぞんざいに顎をしゃくった。
「今夜はあんたよ」
チーちゃんに促されて暗がりから姿を見せたのは、白いTシャツの上に黒い半袖シャツをはおった、何だかぼさっとした感じの小太りの若者だった。
今夜二十人ほどいた聴衆の一人である。
若者はチーちゃんに続いて拝殿の階段を登り、暗幕の向こうに姿を消した。
「すまない、久しぶりに買い物を頼むよ」
拝殿の階段を上る前に五郎さんは僕に一枚のメモ用紙を手渡した。
境内を照らす裸電球の灯りにメモをかざすと、こんな注文が書かれていた。
「ジャムパン(一個)
鉄工ヤスリ(平形 一本)」
「……このヤスリは誰の注文です?」
五郎さんはあっさりいった。
「コウだよ」
翌朝僕はホームセンターに出向き、目当てのヤスリを買った。
鉄工ヤスリは金属を仕上げるときに使うヤスリで、今まで買ったヤスリの中で、もっともずっしりと重い手応えがあった。
肌理も鋭い。
買い物を終え小屋に戻った僕は上半身裸になって日蔭の畳に寝そべり、小屋にあった文庫を読んだ。
柳田國男の『一目小僧その他』という本である。
そこにこんな記述があった。
『一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画にかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した』
(そうか)
この文章を読んで、電光の速さで了解した。
(マダムが以前口にした「一つ目小僧」はこれだ)
一つ目小僧とは「生贄に供される犠牲者」のスラングに違いない。
本を読みながら、僕はあのときマダムがいった言葉も同時に思い出した。
「何といってもあの太鼓の音が、もっとも一つ目小僧を引き寄せる力に……」
「ねえ」
不意に誰かが拝殿から僕を呼んだ。
汗まみれの体に巻きつけるようにしてTシャツを着込み、急いで短い階段を登った。
「読んで」
暗幕の向こうからそう告げるコウの口調は、いつもと違って妙にそっけなかった。
格子戸の前に置かれた本を拾い、栞がはさんである頁を開いた。
読むのは今日もまた『子踊の豆伊』である。
表紙の手触りは相変わらずごわごわしている。
本を開いて頁をめくるとき、淡い風といっしょにフッと甘いような、酸っぱいような匂いが鼻を打った。
それが七十年たっても消えない、桜井一等兵が流した血の匂いであることを、僕はもうよく知っている。
開いたのは物語のほとんど最後の部分だった。
下田に辿り着くとかねての約束どおり、「私」と踊り子は二人で活動写真(映画)に出かけようとする。
旅の途中、踊り子は何度も私に「活動につれて行ってくださいね」とせがんでいたのだ。
しかし直前になって、何故か急に「おふくろ」が踊り子の外出を引き止める。
踊り子を止めたおふくろの気持ちは、はっきり書かれていない。
『私は一人で活動に行った。女弁士が豆ランプで説明を読んでいた。すぐに出て宿へ帰った』
僕が朗読するとき、暗幕のすぐ向こうにいるコウはいつも相槌を打つように
「うん、うん」
と呟いてくれた。
一座で演奏するとき、彼女の太鼓のリズムに乗ってギターを弾くときと同じで、それが僕の朗読のリズムになっていた。
しかし今日暗幕の向こうから聞こえてくる音は、いつもとまるで違った。
「ぴちゃ……ぴちゃ」
そんな猫がミルクを啜るような音が聞こえてくる。
暗幕のすぐ向こうから。
僕は本を読んだ。
『窓しきいにひじを突いて、いつまでも夜の町をながめていた。暗い町だった。遠くから絶えずかすかに太鼓の音が聞こえて来るような気がした。わけもなく涙がぽたぽた落ちた』
ぴちゃぴちゃと何かを啜る音は、ずっと続いた。
その音を耳元で聞きながら本を朗読する僕は、そのとき生まれて初めて味わったのだ。
砂を噛むような味を。
それはたぶん、無力の味だ。




