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太鼓の少女  作者: 森新児
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22/42

第22話 それ

 ()()は何度も繰り返し「あー」と間延びした声をあげた。

 爪でガラスを引っ掻く音に似て甲高く、神経にさわる声だ。

 ほかの音は聞こえないのに、この声だけはよく聞こえる。


「あー」


 生臭い獣の匂いがする。

 生きている獣の匂いではない。

 死んだ獣の腐肉の匂いだ。


「あー」


 声に意味や感情は一切なかった。

 耳の中で聞こえるその声は、僕の心をコーティングする理性を、ただ声の力だけで殺いでいった。

 熟練の職人が部品にヤスリをかけるように。


「あー」


 僕の心の強い部分や弱い部分をきちんと見定め、強度に合わせて、コーティングを殺ぐ手つきや角度を変える。


「あー」


 やがて理性がきれいに殺ぎ落とされ、剥き出しになった。

 剥き出しにされたのは僕の心の一番奥に隠れていた「恐怖」だ。

 僕の心はサメに毛皮を剥がされた因幡(いなば)の白兎のように真っ赤になって、憐れっぽくぶるぶる震えた。


「あー」


 風に揺れるコートの影が、足元のランニングシューズをふわりと撫でる。

 怯えて震えながら、しかし僕は一方で妙に冷めてもいた。

 疲れに疲れが重なったとき、へんに冷静な気持ちになることがある。

 今の僕がそれだ。

 たぶん大人はこういう気持ちを「あきらめ」とか「絶望」というはずだ。

 僕は観念した。


(ああ、とうとう憑かれてしまった)


「あー」


 そのときだ。

 平手打ちのように鋭く夜風が僕の頬を打った。


「おまえ」


 カッと両目を青く光らせ、コウはそばにいる何者かに告げた。


「消えな」


 コウの声とは思えない、地鳴りのように恐ろしい声だった。

 コウが命じたとたん、何者かの気配はけむりのように消滅した。

 すぐに僕の手を引っ張り、コウは十字路を離れた。

 道に面した雑木林へ向かったのだ。

 工場の明かりが道を越えて林を照らし、網の目状に交差した影を地面に落としている。

 僕らはその影を荒々しく踏み鳴らして走った。

 林の一角にある空き地に僕を立たせると、コウは赤い浴衣のたもとから袋を取り出し、清めの塩を僕の全身にぱっぱとかけた。

 それから正面に立ち、左手の人差し指と中指をまっすぐピンと立ててそれを右手で包み込み、右手の人差し指と中指も顎の下にピンと立て目をつむった。

 そうしてコウはドスの利いた低い声で、奇妙な呪文を唱えた。


「あめまるや、からさべんのふ、どふまんべえこ」


(これはラテン語?)


 コウが呪文を唱えると周りの痩せた木々が、一斉にぶるぶる幹を震わせた。

 手負いの獣が唸るように、コウは呪文を唱えた。


「えれんこ、つうや、えれむり、えれむり、えれすべ、えんつう、ふりつう、べんつう、つふえのじんぞう、さんたあまるや、まあてる、まあてる、うらひらのふ、のふべす、のふべこ」


 一心不乱に呪文を唱えるコウの赤い浴衣からゆらゆらと、陽炎のようなものが立ちのぼる。

 それはきっとコウが放つ聖なるオーラだ。

 僕は奇妙な感動を覚えた。


(コウが僕のために祈ってる)


「とりえの、のみきり、えのつく、さんとのつち、あんめんじんす! ……」


 カッと目を開き、コウは僕の全身をくまなくチェックした。


「……ああ、よかった。どこにもあいつのしるしがないわ」


 ようやくホッと安堵した笑みを浮かべると、コウは僕の胸にふわりともたれかかった。

 僕の胸にもたれたコウは、からからに乾いたタオルのように軽かった。


「『あれ』はよくないものよ」


 コウの声はかすれていた。


「それにあなたはとっても憑かれやすい体質なの。だからもう、あんな危険な儀式はしないで」


「わかった」


 もう決してやらない、と約束して、僕はコウの背中にそっと手を回した。

 まったく日に当らないのに、彼女の黒髪は陽射しに暖められた果実の甘い匂いがした。


「……」


 僕はコウの背中越しに自分の指を見た。

 右手の人差し指の爪にわずかに、血が滲んでいる。

 その血を親指の腹で素早くぬぐった。

 そして血がつかないよう注意して、コウの背中を抱いた。

 赤い浴衣越しに触れたコウの肌はとても柔らかくて、人のいない図書室のように、ひんやりと冷たかった。


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