第2話 ブルース
森の中に、小さな神社があった。
こんなところに神社があるとは僕はまったく知らなかった。
大きなケヤキがてのひらで隠すように、繁った枝葉で境内を黒々と覆っている。
暗くて鳥居に刻まれた神社の名前は見えない。
参拝者を迎える狛犬や獅子も見当たらない簡素な神社で、その狭い境内を一個の裸電球がオレンジ色の乏しい光で寂しく照らしている。
その光の下で、彼らが演奏していた。
五人組の男女のグループ……いや、グループというより「一座」と呼んだほうがこの場合しっくりくるだろう。
一座はブルースを奏でていた。
僕はブルースのことはほとんど知らないけれど、今自分が聞いている音楽がブルースであることだけは間違いなかった。
現代の商業音楽ではほとんど耳にすることがないザラついた音色だ。
大きな工場の、ベテラン作業員の制服に染み込んだ鉄サビの匂いのようにザラついている。
その音を言葉に翻訳すれば、疲労や倦怠になると思う。
一座でもっとも目立つ存在はウッドベースを弾く女性だった。
「立ち上がったセントバーナード犬」のように大きな楽器ウッドベースを弾く女性プレーヤーは珍しいと思う。
ウッドベースの底にあるエンドピンのゴムキャップを外し、ピンの先端を地面に刺して楽器をまっすぐ立て、女性は大きなウッドベースを背後から抱きしめるようにして素手で弾いていた。
その人は一瞬喪服と見間違えるような濃い紺色の着物を着ていた。
演奏の邪魔にならないよう袖を紐で縛り、赤い帯を締め、豊かな黒髪は美術の授業で見た浮世絵の芸者みたいに、和風に大きく結われている。
とてもきれいな人だ。
僕は大人の女性の年齢はよくわからないが、年齢はたぶん三十……いや四十を少し越えたくらいではないだろうか。
僕の母より年上に見えるが、彼女は母が絶対に持っていないものを持っていた。
古い日本映画のヒロインのように、たたずまいや立ち居振る舞いがゴージャスなのだ。
「ゴージャス」なんて言葉が田舎暮らしの中学生の脳裏に浮かぶことはまずない。
ただ彼女を見ていたら木漏れ日のように、言葉が向うから自然にまぶたに差してきた。
しかし彼女が目立つのはその美しさや、演奏している楽器の珍しさのせいばかりではなかった。
身長がおそらく一八〇センチを越えているのだ。
微笑を浮かべ、クールに演奏を続ける巨大な美女から僕は目を逸らした。
すると今度は二人の少女が目に入った。
一人は青っぽい浴衣を着てアコーディオンを弾く少女である。
年齢は十代の後半くらいと思う。
赤いボディのアコーディオンの蛇腹を大きく開いたり閉じたりして、彼女はそこからはらわたに響く、陽気で暖かな音を出した。
彼女もまた背が高かった。
僕と同じくらいに見えるから、一七四~五センチはあると思う。
そのとなりで白っぽい浴衣を着た少女がにぎやかにブルースハープを吹いている。
ブルースハープはハーモニカの一種だが、普通のハーモニカよりだいぶ小さい。
大人のてのひらだったらすっぽり納まるサイズだ。
そのブルースハープを吹く少女は楽器にふさわしく小柄だった。
身長は一五〇センチあるかないか。
顔立ちはとなりでアコーディオンを弾く大柄な少女にどことなく似ているから、二人は姉妹かもしれない。
或いは二人とも夏らしいショートカットの髪を茶色く染め、同じ赤い色の帯を締めているからそう見えるだけかもしれないが。
僕より少し年上らしい小柄な少女の吹くブルースハープの音が、この一座の「音の主役」のように僕には聞こえた。
彼女の口元でときおり飴色に光るブルースハープから、漆黒の音色が分厚くほとばしる。
小柄な彼女が夢中になってブルースハープを吹く姿は、ぱんぱんに音が詰まったチューブからブルースの原液を搾り出しているようにも、幼い子供が大きめのウエハースにかじりついているようにも見えた。
ハープのボディが木でできているからますますそんな風に見えてしまう。
僕は知らぬ間に肩を揺すりながら彼らの演奏に聞き入った。
境内には僕のほかに十数人の聴衆がいた。
みんな若い人だがしかし不思議なことに、僕のように肩を揺すって音楽に聞き入る人は一人もいない。
肩も爪先も一ミリも動かすことなく、聴衆はただうつろな目を演奏する一座に向けていた。
この音楽にのらなくて一体どんな音楽にのるんだろう? と内心首を傾げながら、僕は一座の残り二人に目を向けた。
安っぽいパイプ椅子に座ってアコースティックギターを弾いているのは若い男性だ。
ピックを使わず素手で弾いている。
黒いシャツに黒いジーンズを履いたその人は七十年代のヒッピーのように長く髪を伸ばし、ギターに噛みつくように深く前かがみになって演奏していた。
アコギの発する音は、たぶんあらゆる楽器の中で一番小さい。
だから自分も一応ギターをやるのに僕はすぐに気づかなかった。
その人が超絶的なテクニックでギターを弾いていることに。
僕は咄嗟に、この人腕が四本あるの? と馬鹿なことを考えた。
もちろんそんなことはなくてその人は普通に腕が二本あるだけだ。
ただ奏でる音が、どうしても二本の腕だけで弾いているように思えない。
単音のメロディーと複音のコードが、ほとんど同時に鳴って聞こえる。
その人はずっとギターのボディにしがみつくような格好で弦を鳴らしていた。
老舗商店の暖簾のように、長い前髪が彼の顔を隠している。
その姿勢は何だか溺れる人が必死に板切れにしがみついているようでもあるが、演奏中彼は一度だけ顔を上げ黄色く濁った目で僕を見た。
この人が極端に前かがみになってギターを弾くのは奏法ではなく、ひょっとしたら自分の顔を隠したいのかもしれないな、と僕は咄嗟に考えた。
そう思ったのは前髪の隙間越しに、閃くようにチラリと覗いた彼の顔が、ひどく怯えているように見えたからだ。
顔のどこにも傷はないが、一方的に打ちのめされたボクサーのようにも見える。
しかし彼が奏でる音は圧倒的だ。
僕はまだたったの十四年しか生きていないから説得力がないが、こんなに圧倒されたのは子供のころ阿蘇山の噴火口を直接覗き込んだとき以来だ。
僕は呆然となってギターに聞き入った。
すると、今度は一転「タン」と涼しげな音が、暑さとブルースに倦んだ僕の耳たぶを爽やかに打った。
さっき川の手前で一座の行方を見失ったときこの音を頼ってきたことを思い出し、もう一度涼しげなその音を辿った。
するとそこに炎のように真っ赤な浴衣を着た、一人の少女がいた。
少女は鼓笛隊で使う小太鼓を叩いていた。
右肩から白いベルトをたすきがけにして、さらにもう一本腰に巻いた白いベルトを厳しく締めて太鼓を水平に固定し、その打面を二本のスティックで軽快に叩く。
今僕は水平といったが小太鼓は打面がやや前のほうに傾いていた。
だがかえってそのおかげで浴衣の赤い色を背景に、白い表皮の上で閃く少女の鮮やかなドラムスティックさばきが、ステージで踊るフラメンコダンサーのようによく見えた。
さっき僕は彼らが奏でるブルースの音を「真夏の夜がしたたらせる汗」に例えた。
しかし、彼女が奏でる太鼓の音だけは、音の色彩が明らかに違っていた。
一座が奏でる音色の中で、ただ彼女の太鼓の音だけが朝の陽射しを宿しているのだ。
葉に落ちたばかりの瑞々しい水滴のように、ありありと。
彼女がドラムスティックを振ると、その水滴が月の光に輝きながら闇に散った。
一座のほかの二人の少女は短く茶色い髪をしていたが、太鼓の少女だけは黒髪を長くまっすぐ伸ばし、それを浴衣の背中へ帯のように垂らしていた。
さらにほかの二人は表情豊かに演奏しているのに対し、太鼓の少女はまったく顔色を変えず、無表情にスティックを操っているのもちょっと異色な眺めだった。
額にうっすら汗を滲ませ、太鼓を叩く少女の姿はセクシーだった。
着物を着た女性、ましてや自分と同い年ぐらいの少女に対し、そんな気分になるのは初めての体験だった。
僕はこのときすでに、魔法にかかっていたのだ。
夜の神社にブルースと、誰かがまとった香水の香りが甘い霧のように濃密に立ち込めていた。
霧はいつまでも晴れなかった。
境内に立ち尽くし、夜が更けるまでその甘い霧に浸った。
「日めくりカレンダーをめくるのと同時に忘れられる」はずだった平凡な一日が、突然死ぬまで忘れられない甘美な一日となった。
僕の最後の夏は、こうして幕を開けた。




