第1話 子供たちは何処へ
「子供たちは何処へ行ったのか?」
そんな不吉な言葉が、壁に映る大きな蛾の影のように目に飛び込んできた。
東北の大震災からおよそ五ヵ月後、八月になったばかりの夜だった。
僕は自分の部屋で文庫本を読んでいた。
日めくりカレンダーをめくるのと同時にその日何があったのか忘れてしまうような、そんな平凡な夏の一日が静かに終わろうとしていた。
東北の人々の暮らしは震災以来ずっと困難をきわめているが、震源地を遥かに離れた九州の、そのほぼ真ん中に位置する熊本市に暮らす中学生の日常は、震災前と後で変わったことはまったくなかった。
強いて変わったことを上げるとするなら夏休み前に僕が剣道部をやめ、十年間ほぼ毎日握っていた竹刀を握らなくなった、という個人的なことくらいである。
竹刀の代わりに、別のあるものを握ってみたくなったのだ。
そのとき開いていた部屋の窓から、不意に夜風が吹き込んできた。
レースのカーテンが畳に落とすモザイク模様の影が、波紋のように揺れている。
机に向って文庫を読んでいた僕は風にあおられるように顔を上げ、横を向いた。
ボディに光沢を滲ませたヤマハのアコースティックギターが、間近な壁に寄りかかっている。
いとこの大学生に譲ってもらったこのアコギこそ、竹刀の代わりに僕が握ってみたくなったあるものだ。
それまでも遊びでポロポロ爪弾くことはあったが、最近何故か急に本格的にギターを弾いてみたくなった。
この気持ちの変化に震災の影響があるのかどうかは、僕にはわからない。
ただ一ついえることはこの十年の間に僕の手はすっかり竹刀用にでき上がってしまい、ギターを弾くのにはまるで向いていないということだった。
夏休みに入ってからわずか十日ばかりの時間で、僕はその現実を厭というほど思い知らされた。
長年親しんだ竹刀にしても、十年間で満足のいく一本を振れたことはほとんどない。
しかしギターに関する僕の腕前は、たいして強くなかった剣道よりさらにひどかった。
「オイルを差してない自転車のきしみ」
今の僕の手が奏でる音が、まさにそれだ。
ギターのボディにぼんやり映った自分の顔を見つめて軽く溜め息をつき、机に広げた文庫本に視線を落とした。
そのとき首筋にピリッと痛みが走った。
それは剣道部での最後の練習で負った傷だ。
その日練習の最後に行われた試合稽古で、僕は一人の同級生と竹刀を交えた。
相手は女の子にジャニーズ系と呼ばれて騒がれるような二枚目で、成績も優秀な剣道部次代のエースと目される部員だった。
僕は勝手に彼とはよき友人でライバルと思っていた。
しかし彼のほうでは、そう思っていなかった。
最後の試合稽古で鍔迫り合いになり、僕のほうから何げなく後ろに下がったときだ。
いきなり彼が片手突きで僕の咽元を突いてきた。
彼がしばしば奇襲戦法を使って相手の意表を突きたがることを、僕は前からよく知っていた。
それは彼のように頭のいい少年につきものの悪い癖だ。
相手の驚く顔を見るのが好きなのだ。
確かに咽元への攻撃は反則ではない。
しかし中学生の試合では危険と見なされ、原則禁止とされている技でもある。
間一髪の差で突きをかわし、何とか姿勢を建て直すと僕は面越しに相手を睨みつけた。
僕に睨まれた相手は面の隙間の向うで目を細め、満足げに笑っていた。
女の子が喜びそうな爽やかなその笑顔を見て、僕は初めて自分が彼に憎まれていることを知った。
「……」
まだ軽く腫れている首筋をそっと撫で、それから読みかけの文庫の頁に視線を落とした。
阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』という本を読んでいたのだ。
本の表紙はブリューゲルの絵だった。
『シント・ヨーリスの縁日』というタイトルで、絵の中心に奇妙な頭巾――角のように両耳が飛び出している――をかぶった男が描かれていた。
男は祭りの酒に酔っているのだろう。
足元が危なっかしい彼の手を、赤い服を着た別の人物が取っている。
男のそばには子供が二人いて、からかうように彼を見上げている。
腰に白いエプロンを巻いた子供はひどい歯並びをしていて、その後ろで笑いながら男を見つめる子供は裸足だ。
栞をはさんで頁を閉じると僕はシャープペンシルを手に持った。
急に奇妙な頭巾をかぶった男を落書きしたくなったのだ。
ノートにペンを走らせ、しかしすぐにまた顔を上げた。
レースのカーテンが風に揺れている。
開いた窓から、そのとき風とともに部屋へ入ってきた。
ブルースが。
と、手にしていたペンシルの芯が唐突にポキン、と折れた。
カチカチ押してももう芯は出てこない。
僕は舌打ちして立ち上がると部屋を出て階段を下りた。
「ちょっとコンビニに行ってくるよ」
「こんな時間に? もう十時過ぎてるわよ」
居間でテレビを見ながらブツブツ文句をいう母に生返事をして玄関を出て、そこに置いてある自転車にまたがった。すると、
「お兄ちゃん」
ついでにコーラ買ってきて、とポニーテールに結った髪を揺らしながら、二つ年下の妹が二階にある自分の部屋から声をかけてきた。
しかし僕は朗らかな妹の声を聞こえなかったふりをして無視した。
「オイルを差してない自転車のきしみ」と、僕のギターの音を的確に批評したのは彼女である。
この恨み、夏の間は決して忘れはせぬ。
音楽は闇の彼方から聞こえてきた。
コンビニで替え芯とコーラを買った僕はすぐ自転車に乗り、遠ざかってゆく音の後を追った。
音楽は町の南に向ってゆっくり進んでいた。国道と市道の間を走る、街燈のない細道を進んでいるのだ。
僕は暗い道を自転車で走った。
するとゴトン、とタイヤが何かに乗り上げた。
アスファルトに落ちた泥のかたまりを踏んだのだ。
それはトラクターの大きな車輪が落とした泥だった。
道の脇に田んぼが広がっている。
今はフタがされているが僕が子供のころ、この道の脇に用水路があり、夏になるとその上で蛍が舞っていた。
今はもう青い光の輪舞は見えない。
その代わりブルースが聞こえてくる。
真夏の夜がしたたらせる汗のように脂っこいブルースの音色の中に、ときおり「タン」と冴えた、涼しい音が混じって聞こえた。
(あれは太鼓の音?)
大海原で船の航跡を辿るようにして、僕は闇に漂う音楽を追跡した。
緑川というその名のとおり水が緑色に見える市境の川の手前で一度音を見失い、僕は慌てて自転車を降りて耳を澄ませた。
すると右手のほうから、かすかにまた「タン」と太鼓の音が聞こえてきた。
そちらに目をやると、夜の森の不気味なシルエットが見えた。
川手前の土手道に面した、昼間でも寂しい森だ。
太鼓の音は、その豊かな木々の繁りの間から聞こえてくる。
(あそこか)
一瞬ためらったがすぐに意を決し、僕は自転車を押して土手道を歩くと、音楽が聞こえてくる夜の森へと向った。




