第3話 雁回山に向かって
「ちょっとコンビニ行ってくる」
居間でテレビを見ている母にそう声をかけた。
時間は昨日と同じ夜十時頃だ。
昨日僕は川沿いの神社から零時過ぎに家へ戻ってきた。
家に入る前路上で足を止め、青い月の光をまとった我が家をしばらく見上げた。
何だか不思議な気がした。
一瞬自分の家が、自分の家に見えなかった。
「今日も? 遅くならないようにしなさいよ」
録画した韓流ドラマに熱心に見入る母は振り返らずそういった。
クーラーが嫌いな母は節電の意味もあってそれをほとんど使わず、居間には昼の暑さが残っていた。
ダラダラ汗を流して暑さに耐える母の厚みのある背中に、白い袖なしブラウスがぺったり張りついている。
「うん。すぐ戻るよ」
玄関を出て自転車にまたがると昨夜と同じように、妹の声が頭上から降ってきた。
「お兄ちゃん、今夜もコーラ買ってきて……あれお兄ちゃん、本当にコンビニに行くの?」
(こいつ)
思わず「チェッ」と舌打ちした。
そのときの僕は白いTシャツに細身のブルージーンズという装いだった。
ごく当たり前の軽装だが、妹は僕が履いているミズノのランニングシューズに目をつけた。
白地に青いラインが入ったシンプルなデザインで、このごろ一番のお気に入りだ。
めったに履かないこの靴を兄が履いていることに、妹は逸早く気づいた。
彼女の目ざとさが、僕は前から少しだけうっとうしい。
左手首にはめたGショックのベルトを直しながら毒づいた。
「関係ねえだろ」
「バカ」
妹は二階の窓から舌を出した。
来年中学生になる妹は最近めっきり大人びて、子供っぽい表情をめったに見せなくなった。
だから久しぶりに彼女のあどけない表情を見て、ちょっと嬉しくなった。
「さっさと寝ろよ」
「うるさい不良」
妹は念を押すようにもう一度舌を出した。
ポニーテールに結った髪が夜風に揺れている。
それが僕が見た母と妹の最後の姿だった。
僕は熊本市の南にある宇土市に向かって自転車のペダルをこいだ。
昨日ブルースハープを吹く小柄な少女が、演奏の合間にウッドベースを弾く巨大な美女にこんなことをいっていたのだ。
「今夜のうちに川を越えるんだよね?」
「川」とはうちからすぐの川尻町を流れる緑川に違いない。
一座は市境となる緑川を渡りとなりの宇土市に向かった、と僕は判断した。
国道三号線を自転車で南に向かって走った。
ドライバーのためにかかげられた青い交通案内板に「宇土市 十キロ」とあった。
宇土は有名な天草四郎の生まれ故郷だ。
緑川を越え、熊本市の中心部からずいぶん離れて国道はむしろ明るくなった。
国道沿いにドライブインの食堂やコンビニが並び、灯台のように道へ光を投げている。
食堂はどれもヘミングウェイの短編『殺し屋』に出てきそうな雰囲気があった。
こういうちょっとヤバそうな店で、深夜一人でこっそりと夜食を食べるのは刺激的で楽しいが、でも気まずいこともある。
ブスッとした顔でラーメンを運んできたウェイトレスが、その日国語の授業中消しゴムを借りたクラスメートの女の子と気づいたときは、たかぶっていた気持ちも食欲も一気に失せた。
やがて宇土市の中心部へとやってきた。
右手に見える巨大戦艦のようなシルエットはショッピングセンターだ。
このショッピングセンターを見るたび、数百匹のゾンビ相手にだって篭城できそうなハコだな、と思う。
車道にかかげられた青い交通案内板から宇土市の表示が消え、代わりに「天草 七十キロ」とあった。
町の中心にくると道はかえって暗くなった。
僕はゆっくりペダルをこぎ、耳を澄ませた。
一座は昨日と同じように客寄せのため町なかを流して歩くに違いない。
その音を捕まえて後を辿ればいいのだ。
国道に面した、まだ開いている百円ショップの駐車場にうんこ座りしている数人のヤンキーの視線を痛いほど頬に感じながら、全身を耳にした。
すると聞こえた。
「タン」という、透明に冴えた太鼓の音が。
国道の左手から聞こえてきた音は、しかし闇に隠れてすぐ聞こえなくなった。
わずらわしくなってきたので自転車を降りた。
百円ショップの駐車場に自転車を置いて鍵をかける。
それから国道を離れ裏道に向かって歩いた。
置いてきた自転車は百パーセント確実にさっきのヤンキーたちの手でパンクさせられるだろうが、それは仕方ない。
昨日一座が街燈もない暗い道を流していたことを僕は思い出した。
彼らは人の多いにぎやかな表通りより、どういうわけか人の少ない裏道を好んで歩くのだ。
だから裏道を探すのは選択として間違っていないはずだが、国道にいたときよりも僕は遥かに探しにくさを感じていた。
国道は車の交通量が少なくいたって静かだった。
しかし裏道のほうは中干し真っ最中の田んぼに実った稲が夜風に騒ぎ、その音が遠くの音楽を聞こえにくくしていた。
中干しとは田んぼの水をわざと抜いて土に酸素を供給し、さらに水を求めた稲がより深くしっかり根を張る効果を狙った農作業のことだ。
この作業の間水分を絶たれる稲はそれが腹ただしいようで、まるで僕への嫌がらせのように、ザワザワとうるさく騒ぎ続けた。
すっかり乾いて地面がひび割れた田んぼを横目に、僕は音楽を求めてさまよい歩いた。
夜風にそよぐ稲は夕立のような音を立てていた。
風の向きが変わると稲の音も一瞬で転調する。
そうやって歩いていて、僕はふと最近読んでいる阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』を思い出した。
本によると笛吹き男の伝説はグリム兄弟が書いた『ドイツ伝説集』という説話集に収録されて一躍有名になったそうだ。
一二八四年ドイツのハーメルンに、その奇妙な服装から「まだら男」と人々に呼ばれる男が現れる。
男は「自分はネズミ捕り男だ」と名乗る。
ネズミの害に悩んでいた町の人々は喜び、退治してくれたら報酬を払うと約束する。
男は通りで笛を吹く。
すると町中のネズミが男の元へと集ってくる。
男は笛を吹き続け、ネズミを引き連れ川へ入る。
ネズミは溺れて全滅する。
こうしてネズミはいなくなったのだが、いなくなったとたん町の人々の気持ちが変わり、男への報酬の支払いを拒否する。
激怒した男はいったん姿を消し、六月二十六日の「ヨハネとパウロの日」の朝、再びハーメルンに現れる。
男は「恐ろしい顔をした狩人のいで立ち」で笛を吹く。
すると今度はネズミではなく、町中の子供が彼の元へ駆け寄ってくる。
彼の元に集った子供は全部で百三十人いたという。
男は笛を吹きながら子供たちを引き連れ山へ入る。
そしてそこでふっつりと、消えてしまう。
親たちは泣き叫んで子供の行方を捜すが、遂にたった一人の子供も見つからなかった。
ハーメルンの市参事会堂にはこんな文字が刻まれているという。
「キリスト生誕後の一二八四年に
ハーメルンの町から連れ去られた
それは当市生まれの百三十人の子供たち
笛吹き男に導かれ、コッペンで消え失せた」
(今の自分は笛吹き男の笛に誘われるハーメルンの子供のようだ)
あの子供たちのように行方不明にならないよう気をつけなきゃ、と苦笑いしていると
タン
近くで鳴る太鼓が聞こえた。
目を上げると田んぼの彼方にポツンと、オレンジ色の光が灯っているのが見えた。
(あそこに神社があるんだ)
僕は勇んで光に向かって歩き出した。
闇に囲まれ、孤独に灯った境内の明かりの背後に、雁回山が禍々しくそびえているのが見えた。
保元の乱の英雄で鎮西八郎と称した源為朝が若き日、弓の修行にこもったといわれるのがこの山だ。
為朝の強弓が怖くて雁たちがこの山だけ迂回するので雁回山と名づけられた、と国語の授業で老教師が語っていた。
僕はその山に向かって歩いた。
本当は雁のように迂回すべき山に向かって。




