第18話 砂漠から港へ
僕らは夜明け前に港町である三角に辿り着き、そこの神社に荷物を置いた。
拝殿に暗幕を張って一座のみんなは中で眠り、僕は一人離れた小屋で休んだ。
そこまではふだんと特に変わりはない。
正午過ぎに目が覚め、近所の銭湯で体を洗い、ついでにとなりのコインランドリーでジーンズと下着も洗った。
それから神社に戻り、また一眠りしてみんなが起きるのを待った。
夕刻起きたがまだ誰も起きてこない。
手持ち無沙汰の僕は小屋の片隅にあった本を取りあげた。
赤っぽい砂漠の写真が表紙の文庫だ。
(ランボーの『地獄の季節』だ)
ランボーは母が好きな詩人だが、僕はそのよさがさっぱりわからない。
天井の裸電球をつけ、パラパラ頁をめくった。
するとこの長編詩の有名な一節が目に飛び込んできた。
「もう秋か!」(*1)
「……」
いつもは詩なんか全然わからない。
でもこのときはピンときた。
「もう秋か!――それにしても何故、永劫に変らぬ太陽をなつかしむのか、おれたちが聖なる光の発見にたずさわっているのなら、――季節のまにまに死んでゆく人びとから遠く離れて」(*2)
(ランボーにとって夏は青春のメタファーで、秋は青春の終わりを意味するんだ)
今自分がまさに真夏の青春を送っているからそのことがわかった。
そう考えて、僕はちょっと誇らしくなった。
日が落ち、いつもなら町を流して歩く時間になった。
しかし一座のみんなは一向に拝殿から姿を見せない。
僕はようやく異変に気づいた。
(今夜は何か変だぞ)
「あのー、もしもし?」
小屋から何度も声をかけたが、暗幕の内側はずっと静まり返ったままだ。
コンビニで弁当を買ってきて食べ終えてもまだ誰も出てこない。
やることがないから畳に引っくり返り、ぼんやり天井を見つめた。
何度もオナニーの誘惑にかられたが我慢した。
「プレイの前に抜くな」
ミック・ジャガーがそんなこといってた気がするけど違ったっけ?
午前零時近くになってようやく拝殿の暗幕が取り払われた。
最初にマダムが縁側に姿を見せた。
その姿を見て、僕は呆然となった。
いつものように紺色の着物を着て髪を和風に大きく結ったマダムは、青い月の光をショールのようにまとって短い階段を悠然と降りてきた。
マダムは、美しかった。
彼女がきれいなのはいつものことだが、しかしその夜のマダムは特別だった。
何というか壮絶なまでに美しいのだ。
階段を降りてくるマダムが背負った後光、或いは曼荼羅を、僕は確かにこの目で見た。
あれは幻覚ではない。
真っ赤な口紅を塗った唇を妖しくうごめかせ、呆然となる僕に微笑みかけると、マダムは闇も震える凛とした声で告げた。
「じゃあみんな、やろうかね。
たましずめの儀を」
僕は拝殿を振り仰いだ。
オー姉さんとチーちゃん、それにコウが縁側に立っていた。
化粧している彼女たちの姿を初めて見た。
みんな美しかった。
コウは唇に浴衣と同じ赤い色の口紅を塗っていた。
彼女の黒髪に月が青い燐光を置いている。
あれは月が彼女に授けた冠だ、と思った。
「うまくいくかなあ?」
これはチーちゃんの不安そうなつぶやきだ。
「大丈夫よ」
と相棒を励ますオー姉さんの顔色も青い。
「……」
無言で俯いたコウは顔を上げようとしない。
(みんな緊張してる)
「大丈夫だよ」
僕がいきなり声をあげたから三人の女性は驚いてこっちを見た。
(彼女たちに緊張を強いる「たましずめの儀」とは何だろう? わからない。わからないけどいつも自分が思っている本音を今こそいうべきだ)
「大丈夫だよ。チーちゃんのブルースハープはいつも元気一杯で僕を陽気にしてくれる。チーちゃんのブルースハープの音が一座の主役でエンジンだよ」
「ほんと?」
「ほんと。それからオー姉さんのアコーディオンの音は凄く温かくて、僕の心を優しく和ませてくれる。たぶんオー姉さんのアコーディオンを冬に聞いたら泣くと思う」
「まあ」
「コウさんの太鼓は朝の日差しみたいに爽やかだ。コウさんの太鼓が聞こえると、いつも闇の中に光が見えるんだ」
「……」
コウは何もいわず、ただ嬉しそうにほほ笑んだ。
「マダムと五郎さんは超絶技巧の腕前だ。二人よりうまいミュージシャンはプロにもいないよ。みんなが力を合わせればたましずめだって何だってできる。僕が保証する!」
「ありがとう坊や。あんたを雇ってよかった」
マダムは僕の肩にそっと手を置いた。
「五郎がいった通りだ。あんたは光だよ」
午前零時ちょうど港に着いた。
それは三角西港と呼ばれる港で、明治時代に作られた明治三大築港の一つといわれている。
明治時代に作られた港で今も残っているのはここだけで、そのため明治を舞台にした映画やテレビのロケーションによく使われる場所でもある。
一座は西港の石積埠頭に立った。
敷き詰められた石畳に照明が置かれているがそれでも港は暗く、足元の石がでこぼこして歩くときちょっと怖かった。
その埠頭から恐竜の化石みたいな、巨大な橋のシルエットが見えた。
三角と天草をつなぐ五橋のうちの一号橋、通称天門橋だ。
暗い橋の上を照らすオレンジとブルーの光が幻想的だ。
「どうだい、坊や。もう目は闇に慣れたかい?」
「はい」
マダムに問われて頷いた。
このところ毎日薄暗い神社でプレイしているので、ある程度夜目が利くようになっていた。
僕がそういうとマダムも頷き、それからケースからウッドベースを引きずり出した。
「じゃあ今からここで演奏するよ。毎晩神社で最後に演奏している、あの曲を」
ここで? と一瞬うろたえたが一座が無言で準備を始めたので、僕も背中に担いだ五郎さんのギターをケースから取り出した。
「準備はいいかい? じゃあ始めるよ」
夜風に乱れ頬に張りつく髪を払い、マダムは厳粛な面持ちで告げた。
「たましずめを」
五郎さんもコウも無言で頷いた。
石の埠頭に並んで立ち、僕らは夜の海に向かってブルースを演奏した。
演奏を始めて、僕はたちまちうろたえた。
いつもは狭い神社の境内で演奏しているから周りの音が聞こえないなんてことはない。
しかし今夜は目の前に海があり、みんなの発する音が一斉に放たれる稚魚のように海に広がり、まったく聞き取れない。
すると慌てて熱くなった僕の耳たぶを「タン」と冴えた、涼しげな音が打った。
(コウの太鼓だ)
僕の耳に聞こえるのは、ほとんど太鼓の音だけだった。
それは氷壁に打ち込まれた数少ない足場だ。
コウが叩く「タン」という太鼓の音を頼りにギターを弾いた。
タン、タンと僕を励ますようにコウは太鼓を叩いた。
演奏家としていちじるしく未熟な僕は、今自分がどんな山を登っているのか、そのときまるでわからなかった。
しかし僕は山を登り続けた。
コウに助けられながら。
やがてガラスの曇りがぬぐわれるように、ほかの楽器の音も徐々に聞こえてきた。
ようやくホッとして、そして僕はそこでまたしても気づいたのだ。
一座が奏でる音色が、いつもの夜とまるで違うことに。
いつも一座が発する音には、熟しきった果実からしたたる果汁のように濃密に、退廃や疲労が宿っている。
ブルースなんだからそれは当然だ。
しかし今日の演奏はまったく違う。
マダムのウッドベースも、五郎さんのギターも、オー姉さんのアコーディオンも、チーちゃんのブルースハープも、そしてコウの太鼓も、すべての楽器の音にありありと透明な朝の光のようなものが宿っている。
音に宿ったその光を言葉に翻訳すると、たぶん「祈り」になると思う。
僕は毎晩神社で最後に演奏されているこの曲がレクイエム、すなわち鎮魂曲なのだとようやく理解した。
演奏するオー姉さんやチーちゃんにいつものような陽気さはなく、その表情は生真面目、いや生真面目なのを通り越して厳粛だった。
五郎さんもそうでマダムの表情はひときわ厳しい。
そしてコウもまた口紅を塗った唇をキッと引きしめ、夜の海を見つめて小太鼓を叩いていた。
ギターを弾きながら、僕は感動した。
ブルースという音楽の奥深さに初めて触れた気がした。
ブルースに夜はあっても朝はないと思っていた。
でもそれは完全に間違いだった。
そんな風に感動しながら、しかし一方で僕は彼らが一体「誰」の鎮魂を祈っているのだろう? と疑問に思った。
すると、
(ん?)
咄嗟に目を細めた。
暗い海に、不意に小さな火のようなものが見えたのだ。
(あれは?)
*1 *2『ランボオ詩集 地獄の季節』集英社文庫 粟津則雄訳より




