第16話 トンネルの中
僕らは御船千鶴子の墓前での演奏を終え、丘を降りた。
登りより下りがもっとたいへんだった。
僕は何度かスケボーみたいにウッドベースのケースに乗っかって、そのまま坂下まで一気に滑り降りようかと考えた。
ようやく坂を下り、再び海沿いの細い国道を歩いた。
海は堤防に隠れ、歩道から見えなくなった。
海が見えなくなると、今度は山の気配が色濃く迫ってきた。
僕らは口を閉ざし、足音さえひそませて暗い道を静かに歩いた。
山の気配が沈黙を強いるのだ。
すると前方にトンネルが見えてきた。
暗い入口が風を吸い込み「ひゅるる」と口笛みたいな音を立てている。
(厭だなあ)
思わず顔をしかめた。
さっきも一つトンネルをくぐったのだが、それはごく短いトンネルだった。
でも今度のトンネルの出口は遥か遠くに小さく見えている。
ずいぶん長いトンネルだ。
もちろん照明はついている。
しかし夜のトンネルは不気味だ。
「大丈夫よ」
怖気づく僕を見てコウは笑った。
「このトンネルに何かはいないわ」
「何かって?」
「何かって、それは何かよ。いたら気配を感じるの、ここにはいないわ。行きましょう」
コウはさっさと歩き出し、僕も慌てて後に続いた。
「僕がうしろにいるから」
五郎さんも笑って僕のうしろについてくれた。
僕らは吸い込まれるようにトンネルの中へ入った。
先頭をマダムが歩き、少し遅れてオー姉さんとチーちゃんが続き、それからさらに遅れてコウと僕と五郎さんが最後尾を歩く。
壁に取りつけられた蛍光が、オレンジ色の光で道をぼんやり照らしている。
排気ガスで汚れた壁は、いかにも肺に悪そうな匂いを放っていた。
(クジラの腹の中を歩いてるみたい)
トンネルの天井を見上げたら「ポキ」と首の骨が鳴った。
車は一台も通らない。
歩道は車道よりかなり高い位置に設けられていた。
向こうから人がきたらすれ違うのが難しいような狭い歩道だ。
コウたちの草履が地面を叩くパタパタという音や、自分が引きずるケースの車輪のゴロゴロという音が汚れた壁にこだまして、その音が高い天井からやや遅れて返ってくる。
(不気味だな)
ときおり立ち止まって額の冷や汗をぬぐった。
トンネルみたいに半密閉な空間にいると、どうってことのない音が、何かの予兆のようにいちいち重々しく聞こえる。
それが怖い。
やがて僕らはトンネルの真ん中に辿り着いた。
そこの歩道のすみにエロ本が捨てられていた。
目を細めて開いた頁の写真を見ると、半袖のセーラー服を着た女の子が大胆に足を広げ、両手でピースサインしていた。
髪を茶色く染め、肌を真っ黒に焼いた痩せぎすな女の子だ。
十年、いやひょっとしたら二十年くらい昔の写真だ。
(うちのお母さんも若い頃あんなかっこしてたのかなあ?)
だったら嫌だなあ! と考えていたら額の辺りに誰かの視線を感じた。
「……」
顔を上げるとチーちゃんがこっちを見ていた。
どうしたの? と、声をかけようとしたときだ。
「う」
咽が詰まって声が出ない。
チーちゃんの目が、突然青く光った。
いつだったかオー姉さんやコウの目も青く光ったことがある。
あのとき二人は青く光る自分の目を恥じるように、すぐまぶたを伏せた。
チーちゃんは冴え冴えと青く光る目を逸らさず、まっすぐ僕を見つめた。
(どうしたんだろう?)
と、思った瞬間だ。
ギクン、と大きく心臓が跳ねた。
(体が、動かない)
手足はもちろん、眼球さえ動かせない。
僕にできることは炯々と光るチーちゃんの目を見つめかえすことだけだった。
そのとき僕の耳に、何かへんな音が聞こえた。
背後にあるトンネルの入口から聞こえてきた音だ。
「チリン」という涼しげな風鈴の音だった。
誰か風鈴をぶら下げ、こちらへ近づいてくる。
チリン、チリン、と音は遠くからゆっくり近づいてきた。
と、思っていたら、突然耳元で「チリン」と大きく風鈴が鳴った。
チーちゃんは僕を見つめてニヤリ、と笑い、舌舐めずりした。
彼女の口の中から這い出てきた舌は蛇のように長く、血のように赤かった。
その赤く長い舌で、チーちゃんは自分の唇をべろべろ舐め回した。
唾液がしたたり、チーちゃんの小さい顎がぴかぴか光った。
そのとき暗がりに白いものが「パッ」と閃いた。
「ぺっぺ」
チーちゃんは目をつむってむせた。
顔に塩を撒かれたのだ。
彼女が目を閉じた瞬間僕はカクンと前へつんのめり、コウに危うく支えられた。
急に体が動くようになった。
「馬鹿だね、この子は」
もう一度チーちゃんの体に一つまみ塩をぶつけると、マダムは虚空を仰いだ。
「退散!」
野太いマダムの声が、トンネルの高い天井に砲弾のようにぶつけられた。
頑丈な壁を古新聞みたいにビリリと震わせ、マダムの声はトンネルの中を風のように駆け抜けた。
歩道に転がったエロ本の、濡れて重い頁が声にあおられぺろりとめくれる。
そしてその声に押されるように、黒い影のようなものが、向こうにあるトンネルの出口から外へ押し出された。
(今のは?)
「ごめんよ、坊や」
マダムは手についた塩を軽く払った。
「やっぱりトンネルはさけるべきだったね。こういう場所は風といっしょに霊も呼び込んでしまう。この子は今霊に化かされていたんだよ」
「ごめんなしゃい」
鼻水まで垂らして泣きながら、チーちゃんは僕に向かって手を合わせた。
「大丈夫、全然平気ですから」
僕は笑った。
今マダムがいった「霊」とは何のことかわからないが、さっき一瞬体が動かなくなったのは気のせいだろうと考えた。すると、
「どうやら坊やはつかれやすい体質のようだね」
マダムは心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「坊やは光だ。だから光に吸い寄せられる虫のように霊どもが寄ってくる。今のもそうだよ。コウ」
ポン、と自分の赤い帯を叩き、厳しい表情でマダムはいった。
「お前が坊やを守っておあげ」
「はい」
コウもまた厳しい顔つきで頷いた。
それから僕らは再びトンネルの中を歩いた。
出口に向かって歩きながら、僕は心の中でひそかにマダムに対する反論をブツブツ呟いた。
(「疲れやすい体質」か。俺そんなに虚弱じゃないけどな……)




