第14話 少女と不知火
ふと気がつくと、永尾剣神社の展望所に一人で立っていた。
眼下に夜の海が黒々と広がっている。
風が凪いで何の物音もしない。
僕は無言で海を見つめた。
と、暗い海面で急に何かが「きらり」と光った。
浜に向かって何か泳いでくるのだ。
僕は闇に目をこらした。
すると鋭い尻尾が、剣のように輝きながら暗い海面に閃くのが見えた。
(あれはエイの尾?)
エイは海中からそびえた鳥居をくぐった。
しばらくすると今度は鳥居を反対側にくぐり抜け、エイは沖へと帰って行った。
そのとき海に向って下った参道の下のほうで、何か物音がした。
僕は耳を澄ませた。
「ひた」という湿った音が聞こえる。
誰か裸足で参道の枕木を踏み、こちらへ登ってくるのだ。
ひた、ひた、ひた、と音は段々はっきりと聞こえてきた。
さらに、ぽとり、と水滴が枕木に落ちる音も聞こえる、と思ったとき、白い光が僕のまぶたを打った。
全身ズブ濡れのコウが、裸で僕の目の前に立っていた。
裸の彼女を見て僕は咄嗟に、コウって着痩せして見えるんだな、と思った。
コウのたわわな乳房から水滴がしたたり、ほとりと慎ましい音がした。
すると突然コウが獅子舞のように大きく頭を振った。
長い黒髪から盛大に水滴が飛び散り、にわか雨に降られたみたいに僕も濡れた。
「……」
黒髪を一筋頬に張りつかせ、裸のコウは僕を見てにやり、と笑った。
そのとき彼女の目が鏡のように青く光った。
は! と目を覚ましたとき自分がどこにいるのかわからずうろたえた。
「ねえ」
拝殿で誰か呼んでいる。
僕は永尾剣神社の境内にある小屋の畳に横になっていた。
いつの間にか眠っていたのだ。
エアコンは入れていたが、全身恐ろしいほどびっしょり汗に濡れている。
Tシャツを脱いで素早く汗をぬぐい、新しいシャツを着て小屋を出た。
洗い立てのシャツとランニングシューズの着心地は素晴らしくて、身につけた瞬間パッチリ目が覚めた。
「読んで」
と、小声でコウは催促した。
たった今彼女の裸の姿を夢で見たことを後ろめたく思いながら、僕は拝殿の床に置かれた『伊豆の踊子』を手に取った。
奥付を見るとこの本が1940年昭和十五年五月発行であるのがわかった。
太平洋戦争開戦の一年前だ。
出版社は金星堂。
(金星堂って伊藤整が編集者だった会社じゃなかったっけ?)
と、そんなことを考えながら本の続きを読んだ。
本を手にしたとき、またかすかにふっとあの甘いような、酸っぱいような異臭が鼻をついた。
『落ち葉ですべりそうな胸先上がりの木下道だった。息が苦しいものだから、かえってやけ半分に私はひざがしらを手のひらで突き伸ばすようにして足を早めた。見る見るうちに一行は遅れてしまって、話し声だけが木の中から聞こえるようになった。踊子が一人すそを高く掲げて、とっとっと私について来るのだった』
「……いいな」
と、コウが暗幕の向こうで呟いた。
「わたしもそんな風に、明るい林の中を歩いてみたい」
「歩けるさ」
今から歩こうよ、と僕は彼女を誘った。
しかしコウは返事をしなかった。
するとまた、彼女の背後から聞こえてきた。
「ぴちゃ、ぴちゃ」という、何かを啜っているような奇妙な音が。
またあの音だ? と僕が耳を澄ませようとするとコウがいった。
「読んで」
切迫した声の求めに応じて、僕はすぐ顔を伏せ続きを読んだ。
『踊子が話しかけた時に、追いつかせるつもりで待っていると、彼女はやはり足をとめてしまって、私が歩きだすまで歩かない』
『踊子は相変わらず一間うしろを一心に登って来る。山は静かだった。ほかの者たちはずっと遅れて話し声も聞こえなくなっていた』
「いいな」
とってもいいな、と呟くコウの背後で、ぴちゃぴちゃと何かを啜る音は、ずっと続いた。
それからだいぶ時間がたってから、昨日マダムに呼ばれた若者が一人で暗幕の外に這い出てきた。
先日の若者と同じようにうつろな顔をして、そして彼もまた着ているワイシャツの襟をピン、と立てていた。
その夜永尾剣神社での演奏を終えると僕はコウを誘い、参道脇にある展望所から夜の海をいっしょに眺めた。
となりに並んでわかったのだが、コウは僕よりだいぶ背が低かった。
チーちゃんほど小柄ではないが一六〇センチぐらいではないか?
「ここから沖の不知火がよく見えるって」
僕は暗い海を指差した。
この場所に立ったらひょっとしたら彼女が何か反応を示すのではないか? とひそかに試す気持ちもあったが、コウはただ心地よさそうに風を浴びるだけで、その態度に変わったところはなかった。
沖の海は相変わらず暗い。
今夜も見えないな、と思っていたら、
「……ああ」
不意にコウが、溜め息をついた。
見ると沖の海にチラチラと、旗のように小さな光が閃いている。
「火よ」
珍しくコウは興奮していた。
「あれが不知火の火よ」
「見えたね」
「ええ、見えたわね」
喜ぶ彼女の姿を見て僕もうれしくなった。
「あの火の正体が何なのか、今もまだよくわからないんだってさ」
たぶん蜃気楼じゃないかな、といい加減なことをいうと、コウは即座に首を振った。
「ううん、そうじゃないわ」
彼女が首を振ると、長い黒髪が赤い浴衣の背中で揺れて、それがさらさらと涼しげな音を立てた。
「蜃気楼じゃない? じゃあ何なんだい?」
「あれは恨みを呑んで死んだ人々の悲しみが燃えてるのよ」
「……え?」
「コウ」
突然呼びかけられ驚いて振り向くと、マダムが立っていた。
「出かけるよ。支度しなさい」
「はい」
コウはすぐ僕から離れ、さっさと参道を上がっていった。
「坊やもいらっしゃい」
マダムの後ろについて道を上がりながら、僕は一度だけ海を振り返った。
不知火の火はすでに消えて、凪いだおとなしい海を、月が静かに照らしていた。




