第13話 エイと神社と海中鳥居
その日の夜明け前、僕らは不知火の海を臨んだ岬に建つ永尾剣神社に辿りつき、そこで荷を解いた。
神社の名前は「えいのおつるぎ」と読む。
あとで境内の由緒案内を見ると、ここが「巨大なエイの背中に乗り、神が海からやってきた」という土地の神話にのっとった神社であることがわかった。
さらに面白いのはこの神社が祭っているのが海の彼方からやってきた神ではなく、その神を乗せてきたエイのほうであることだった。
全国的に見てもエイを祭った神社は珍しいと思う。
剣の意味はわからない。
鳥居をくぐると境内まで参道が長く続いていた。
神域にいたる長い道のりを歩いていると、自然に厳粛な気持ちが湧いてくる。
参道の両脇に赤い灯篭が等間隔に並んでいたが、どれも火は灯ってない。
その代わり道のあちこちに水たまりのように、月の光がぼんやりと落ちていた。
参道の脇にはお地蔵さんも数体並んでいた。
風雨をよける祠がないお地蔵さんのために、斜めに傾いたビニール傘がかざされている。
(ゲゲゲの鬼太郎に出てくるような風景だな)
境内へ着くと大きな拝殿の前に土俵があった。
「古来相撲は穢れを祓い大地を清める神事だからね。土俵がある神社は珍しくないよ」
と、物知りの五郎さんが教えてくれた。
その土俵の先にさらにもう一つ鳥居があった。
海に向かって下った参道の入口にあたる鳥居だ。
僕は五郎さんといっしょにその鳥居をくぐり、海に向かって歩いた。
すると参道の途中に沖の不知火を展望する場所があった。
僕は五郎さんと並んでそこに立った。
風の強い場所で、五郎さんは風に暴れる自分の長い髪を押さえるのに苦労した。
「境内の由緒案内に景行天皇と不知火のエピソードが書かれていた。景行天皇は今僕らがいる場所から不知火を見たらしいよ」
「へえ……」
僕は目を細めて彼方を見つめたが、今夜も沖に怪しい火は見えず、海はただ黒々と静まり返ったままだ。
それから五郎さんは下のほうを指差した。
いわれるままに五郎さんが指差す先を見つめると、そこに海面からニュッ、と突き出た鳥居の黒いシルエットが見えた。
「あんなところに鳥居が?」
「海中鳥居だよ。神はエイに乗り、海の道を通ってこの土地に上陸した。
……でも、エイに乗ってやってきたのは、本当は、神ではなかった」
「え?」
何の話ですか? と訊ねたが、五郎さんはそれ以上何もいわなかった。
それから境内へ戻ると一人の若者が短い階段を上がり、拝殿の格子戸に内側から張られた暗幕をくぐろうとしている後ろ姿が見えた。
若者が着ている白いワイシャツの背中が月明かりに照らされ、そこにできた皺に版画みたいにクリアでシャープな影が数本宿っていた。
若者はさっき僕がブルースに乗せてマザー・グースを歌った神社にいた聴衆の一人だ。
「今夜はあなたよ」
とマダムに指差されて、彼は無言でここまでついてきた。
「……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
五郎さんは軽く手を振り、拝殿に上がった。
僕も手を振り、拝殿の裏側にある小屋へ一人で上がった。
すぐエアコンのスイッチを入れ、裸電球の明かりをつける。
小屋の外に小さな流しがあったので、僕はそこで下着と靴下をそれぞれ手早く二枚洗った。
それからランニングシューズの紐を解き、やはり流しにあったタワシでゴシゴシそれをこすって洗った。
「よごれたる足袋穿く時の気味わるき思ひに似たる思出もあり」
は国語の授業で習った石川啄木の歌だが、足元が汚れているのは確かに気持ちが悪い。
(野球のイチローもスパイクは自分の手でピカピカになるまで磨くっていってたな)
そんなことを考えながらシューズをゴシゴシこすった。
単純作業に心が溶けて、いつしか完全に無心になり、ただ手だけ動かした。
そうしてふと気づくと、靴はいつの間にかきれいになっていた。
暗がりにぼんやり浮かんで見えるほど本来の白さが甦ったことに満足した。
そのシューズを風のよく通る場所へ置き、下着と靴下は小屋にあるハンガーへ干す。
本当は今穿いているジーンズも洗いたかったがもう面倒くさい。
小屋の明かりを消し、ジーンズだけ穿いた上半身裸の格好で窓を開けた。
古くてきしむ窓を強引に開くと、窓枠のしわしわの木目がまるでスタンプを押したみたいに、汗ばむてのひらにくっきり残った。
夜風が木々を揺らす音が聞こえ、風がやむと今度は潮騒が聞こえた。
その音を聞きながら、僕はさっき五郎さんがいった言葉を思い出した。
「エイに乗ってやってきたのは、本当は、神ではなかった」
(では神以外の一体何が、海からきたんだろう?)
考えてみてもわかるわけがない。
すると不意に僕のまぶたに、赤い色が閃いた。
それはコウが着ている浴衣の色だ。
さっきの神社で僕が歌ったとき、彼女は初めて演奏中に笑顔を見せてくれた。
朝の陽射しのようにそれは爽やかな笑みだった。
しかしマダムが「今夜はあなたよ」と、一人の若者を指名した瞬間、笑顔は消えた。
無言で僕らについてきた若者は、先を歩くコウの後ろ姿をずっと見つめていた。
この前の若者のように。
まるでコウ自身が沖の怪しい火影であるかのように、彼らはいつも熱心に彼女を見つめるのだ。
そしてどうやらコウはそのことが――彼らに見つめられることや、次の神社までついてこられることが――とてもつらいようだった。
でも、一体「何が」つらいのだろう?
僕はまぶたを上げて拝殿を見上げた。
黒いシルエットと化した拝殿は静まり返り、その中で今何が起きているのか、手がかりになる物音は何も聞こえなかった。
拝殿の屋根瓦を、月の光が濡らすように青く照らしている。
静まり返った建物を見つめながら、僕はボソボソ呟いた。
「かみさまつきをおまもりください、かみさまぼくをおまもりください……」




