第9話 肥大する狂気
アルエットが教会に来て一週間が経った。今日はトランチェレスティナ中央教会で定期的に行われている『祈赦の日』と呼ばれる日だ。そしてアルエットにとって初めての同行任務でもあった。
中央教会前の広場が人であふれかえっている。神樹の前に設けられた高い舞台からは、少し遠くにある通りにまで人が詰め寄せているのが見えた。この日は国外からも、神の祝福と赦しを得ようと人が集まるのだとか。
今回エルシーの傍での警護は、騎士団長であるシーニュとその補佐のアルエット、そしてロンディネとロンディネの隊だった。サイラスとフィンチたちは教会周辺や広場の警護、近衛騎士ではない聖騎士は神官と周辺の警護を行うことになっていた。
「始祖エーテルより愛されし仔らよ……これより、聖女エルシー様による『祈赦の儀』を執り行う。皆、この選ばれし祝福の地へと無事に辿り着けた感謝を……祈りを捧げたまえ」
大司教のコルモランの声に呼応するように、集まった人々は皆一様に手を組み祈りを捧げ始める。自分も儀式の流れに添って祈るべきなのかわからず、できるだけ顔を動かさないように視線で素早くシーニュの方を窺おうとした。
その挙動のおかしさを読み取られたのか、彼から静かな咳払いが発せられる。近衛騎士は祈りを捧げる必要はないらしく、粛々と警護に専念すればいいらしい。槍を片手に背筋を伸ばし、もう片方の手を後ろに回す姿勢を保った。
コルモランは下がると、舞台の中央をエルシーへと譲る。ここからいよいよ本格的な『祈赦の儀』が始まるようだ。エルシーは神樹に向かって一礼したあと、民衆の方へと向き直る。
「皆さん、この日のためにお集まりいただき、ありがとうございます。それぞれの願いを胸に、ここへと来てくださったのでしょう。その思いを心に思い浮かべてみてください」
人の数に対し、この場は恐ろしく静まり返っている。呼吸や息づかいさえ頭を垂れ、草木の影に息を潜めていくような静けさの中、エルシーの声が凛と涼やかに響いた。
「それはどんな形だったでしょうか。家族の笑顔でしょうか。病や痛み、後悔からの解放でしょうか。それとも、商売繁盛や恋愛成就でしょうか。願いの形は様々ですが、祈りの形はただ一つ──幸福で穏やかな日々ではありませんか?」
今エルシーが、どんな顔をしているのか、後ろに控えているアルエットにはわからない。ただその背中は、今まで見た中で最も凛々しく堂々とした風格があった。
けれど、知っている。彼女は聖女となるべくして生まれた、生まれながらの聖女ではないことを。近衛騎士たちが日々努力と研鑽を積むように、エルシーもまた世界の期待に応えようと、日々静かに努力と研鑽を積んできたのだと。その背中は聖女というよりは、ある種戦士のようなたくましさすら感じられるものだった。
「皆が手を取り合い、自身の願いを純粋に祈る。さすれば神は願いを聴き届け、世界は幸福に満ちあふれたものとなる。世界中の人々に等しく平和と安息が訪れるよう、わたくしも共に祈りましょう」
エルシーは振り返り、神樹の前まで歩み寄ると、跪いて手を組んだ。その横顔が神樹を見上げると、音もなく目が伏せられる。集まった人々もまた胸の前で手を組み、じっと食い入るようにエルシーを見つめていた。
「始祖エーテルよ、神樹の母たる世界樹よ、人の仔らの穢れを祓い、赦したまえ。かつて瘴気が世界を蝕み、全ての命が息絶えようとしたとき、草花の祝福と共に救いを与えてくださったように。我ら、生きとし生けるもの全ての幸福を信じ、ここに祈ります」
木漏れ日から差し込む陽の光が集まったかのように、エルシーが柔らかく光を放つ。その瞬間、まるで呼応するように神樹の枝葉がざわめき、淡い薄緑色に発光した。
それで祈りは終わったのか、エルシーは再度民衆の方へと向き、舞台の前方へと歩み寄る。
「『祈赦の儀』は無事に成功しました。わたくしと共に祈りを捧げてくれた皆さんに、心からの感謝を」
エルシーが胸に手を当て、膝を曲げて軽くお辞儀した途端──それまでの静寂を食い千切るような歓声が湧き上がる。
「あぁ……エルシー様っ! エルシー様!!」
「エルシー様が、ワシの罪を洗い流してくださった……! 皆の幸福を、皆の幸福を!!」
エルシーの存在に、全ての者たちが……酔いしれ、熱狂している。そう表現したくなるほどに異様で、焼き切られそうなほどの熱量だ。何度も頭を地面にこすりつけるように平伏しては、涙を流してありがたがり、エルシーを称賛して崇め奉る。
まるでそこに神が降臨したかのように、人々の感情が渦巻いて縋りつく。エルシーが、その重く煮え滾る感情に灼かれて沈められていくような気がして、アルエットの中に燻る恐怖が煽られる。
「グスッ……ぅ……エルシー様っ……」
「えっ、えぇー……」
近くからすすり泣く声が聞こえたかと思えば、騎士の中にも泣いている者がいる有り様だ。アルエットはこの眼前の光景に、ハッキリ言って引いていた。
「ねぇ、シーニュ。毎回こんな感じなの?」
「あぁ」
「マジかぁ……」
淡々と、これが当たり前と言い切るシーニュの動じなさに感心してしまう。慣れているのか、ただ感情が薄いだけなのか。とにかくアルエットは、これから何度この光景を見たとしても慣れる自信はなかった。
* * *
儀式のあとは神官たちによる相談と治癒術での診療が行われる。希望者は神官の指示に従って列を作り、順番を待つ。手の空いた神官の待機する小部屋へ順番に案内されていくという流れだが、その診療を行う者の中にエルシーも含まれる。つまり運の良い人は、エルシーと直接対面し、会話や施術をしてもらえるということだった。
そんな千載一遇の機会を期待して、人々は気が遠くなるほどの長い列を成す。時間制限はあり、日が沈むまでと取り決められている。当然診てもらえない人も出てくるが、無償ということもあり、最悪も想定してなお並ぶことを選んでいるらしかった。
教会内の小部屋は狭く、室内で護衛としてつくのは、シーニュとロンディネとアルエットの三人だけであった。エルシーは椅子に座って待ち、案内されてきた人はその正面にある椅子へと座る……はずなのだが、最初から最後まで大人しく座っていられる人は一人もいなかった。
『ずっと抱えていた苦しみが、こんなに簡単に消えてしまうなんて。まさにあなた様は、現在に降り立った救済の女神でいらっしゃいますわ……!』
『神官でも治せなかった膝の痛みが、すっかりなくなりましたぞ! これぞまさに神の御業……わたくしめに手を差し伸べ施してくださったご慈悲、一生忘れませぬ!!』
『エルシー様のお言葉を直接賜われるなんて……俺はなんて幸運な男なんだ! どうか俺の家族にも祈っていただけないでしょうか? そうすれば俺たちは、一生幸福でいられる……』
熱っぽく、恍惚とした表情で感情と言葉を爆発させては、エルシーの足元に平伏して見上げる。椅子から立ち上がるたびに、シーニュは静かに剣に片手をかける。けれど彼らは誰一人として危害を加えようという雰囲気はなかった。むしろ喜んで靴でも舐めそうな勢いだった。
「エルシー様っ、ありがとう……ありがとうございました!」
「お立ちになってください。お召し物が汚れてしまいますよ」
「そんな……とんでもない。私の服など良いのですっ!」
膝をついた男性にエルシーは寄り添い、立たせようと手に触れる。その瞬間、男性は弾かれたように立ち上がり、ザザッと後退した。
「私などに触れてはエルシー様が穢れてしまいます!」
「そんなことはありません。わたくしもあなたと同じ、共に生きる人間の一人です。神などではなく、こうして手を携えて生きていく存在の一人なんです」
エルシーが手を差し伸べるように向けると、男性は目玉が落ちそうなほど目を見開いて手を凝視し、わなわなと震え始めかと思った直後……気を失って倒れた。
「ちょ、えぇーっ!?」
「大丈夫ですか!?」
エルシーは男性の傍らに膝をつき、すぐに治癒術を施していく。倒れた際の怪我などはそれで問題ないのだろうが、意識が戻ることはなかった。シーニュは神官を呼びに行き、男性は別室へと連れて行かれ、今日の診療はそれで終了となった。
「どうしてこうも、上手くいかないんでしょうね……」
窓から、夕日が差し込んでいる。静かになった部屋で、エルシーは寂しそうにぽつりと呟いた。
エルシーの言葉は人間味あふれる、一人一人の思いに真剣に寄り添ったものだった。飾り立てられていない、神の代弁でもない、間違いなくエルシーの言葉だった。そんなまっすぐな“大したことない”言葉が、神の啓示と言わんばかりの大仰なものへと移りゆく瞬間を目の当たりにした。
これが『絶対正義』の影響……?
どうして誰も言葉をそのまま受け取れないの?
「そんなことありませんわ。エルシー様は、立派に勤め上げられておりましたもの。何も反省するようなことなどございませんわ」
ロンディネは落ち込んだエルシーを励まそうと、今日のことを労った。アルエット自身も同じ考えだ。エルシーは十分まっすぐに、本当に心を尽くして頑張っていた。反省すべきところなんて一つもなかった。ただ、彼女の望む結果にならなかっただけで。
「いいえ、わたくしの言葉など、何一つ届いていませんでした。わたくしも同じ人間なんだと、誰にも伝わらない……」
「……エルシー様はあたくしたちと同じ人間ではありませんわ。あなたは始祖エーテルに選ばれし聖女でいらっしゃるのですもの」
「ロンディネ……」
そこで初めて、エルシーは少しだけ怒ったような表情を見せた。密かに握られた拳が、微かに震えている。それでいて泣きそうな、暗く空虚な眼差しをしていた。
「それは……わたくしが聖女になった瞬間に、人間ではなくなったと言いたいのですか?」
部屋の温度が五度くらい下がったような気がした。抑揚のないエルシーの声は、窓の外で沈みゆく夕日に似た……切なさとやるせなさを帯びていた。




