第8話 聖女の孤独と淡い思い
仕事の一つであるエルシーとの夜のお茶会で、アルエットは今日の出来事を面白おかしく話した。新人が初日から疲労困憊で白目を剥いている様子を聞いて、エルシーは楽しそうにくすくすと笑ってくれている。
「私は笑えないよぉ〜……他人事だからって酷いなぁー」
「ふふふ、ごめんなさい。アルエットが面白くお話してくれるから、つい……」
本当に全然笑い事ではなかったのだが、エルシーが楽しんで聞ける形にできたなら茶飲み話としては成功と言える……はずだ。彼女の黄金色の瞳は柔らかな照明の光を受け、潤んだように輝いた。くすぐったそうな……それでいて切なく儚げな笑みが、僅かに俯く。
「わたくしに『酷い』なんて言ってくれる人がいるなんて……夢みたいです」
「いや、そんなこと感激されると、ちょっと戸惑うなぁ……」
「あっ……そうですよね。せっかく『絶対正義』に影響されないんですから、わたくしもそんなことは忘れて……昔の何もなかった頃みたいに……」
寂しげに細められた瞳に、すぅっと影が差す。エルシーは、聖女に覚醒したのは十二年前の十二歳のときだと言っていた。彼女はもう、普通の人だった時間より、聖女として過ごした時間の方が多く記憶に残っているのだろう。
ある日突然“日常”を奪われ、それ以来ずっと強制的に『絶対正義』によって本当の自分が届かない環境に放り込まれてきた。それはある意味集団の中にいて孤立しているようなものだ。
聖女としての重責も含め、想像を絶する孤独と苦悩を理解しきることは難しい。けれど、彼女がすぐに切り替えてごく普通の友達として接することができないところに、その根深さの片鱗を感じていた。
「そういえば昔、木登りしてたって言ってたよね。エルシーって、元々はおてんばって感じの子だった?」
「そうなんです。木登りも、追いかけっこも、虫取りや魚釣りもしていました。今の話し方も聖女になってから学んだもので、子供の頃はどこにでもいる普通の女の子だったんですよ」
「私も! 同じことやってた! 小さい頃に出会ってたら、きっと一緒に走り回ってたんだろうね」
今の静かな佇まいからは想像もつかないが、エルシー本人がそう言うならきっと間違いない。もっと素朴で、屈託なく大きな声で笑って、泥や砂に汚れるのも構わずにいた頃があったのだ。
けれどこの話をして、一体どれだけの人がありのままに受け取ることができるのだろうか。「もう、またあんたは……」そんなふうに呆れながらも笑ってくれるような人は、きっともう……エルシーにはいない。
「確かサイラスは幼馴染なんだよね? いつも一緒に遊んでたのもサイラス?」
「……えぇ。昔のサイラスは気が弱くて、心配性で……でも心根の優しい人でした。わたくしが虫を捕まえると、かわいそうだから逃がしてあげようよとか。川や海に入ったり、木に登れば、危ないよって。でも結局はわたくしに付き合って汚れて、一緒に少し叱られる。そんな感じでしたね」
エルシーは不意に窓の外へ視線を向ける。柔らかく綻ぶ笑みに温かな郷愁を宿らせ、そっと目元を和らげている。つられて外へ目を向けると、インクを零したような夜の暗闇に、中庭に灯る照明が蝋燭のようにぽつりぽつりと浮かび上がっているのが見えた。
「だから、サイラスは同年代の子によくからかわれていました。信じてもらえるかわかりませんが、あの頃はわたくしがサイラスを守っていたんですよ? こらー! サイラスをいじめるなー! って」
エルシーは小さく両手に拳を握り、険しい表情で当時を再現する。それは少し意外な姿だったが、聖女という器の中にある心は、昔も今もあまり変わらないのだろう。素朴で、感情に等身大な、普通の女の人だ。
「信じるよ。いきなり聖女になんてなっちゃっても、ここまでやってきた人だもん。そういう気の強さがあるって聞いて、ちょっと納得したくらい」
「ありがとう、アルエット。ふふ……少し懐かしくなってしまいました。サイラスは……今もカエルが苦手なままでしょうか……」
その呟きに、アルエットは小さな疑問を抱く。カエルが苦手なままかどうかなんて、サイラスに直接聞いたらいい。彼は故郷にいるのではなく、聖騎士になり、聖女近衛騎士の隊長となって傍に仕えているのだから。
「カエル苦手だったんだ。昼間のあの悪魔みたいな教官ぶりからは想像できないや……」
「あら、聖騎士が悪魔だなんて。あのサイラスがそんなふうに言われる日が来るなんて、思いもしませんでした」
エルシーはどこかおかしそうに、肩を小さく揺らして笑う。キラキラと懐かしさを伴って輝く瞳に、じんわりと熱が灯っている。それは楽しいことを前に胸を高鳴らせる子供のように純粋でありながら、ジリジリと焦がれるような熱さがあった。聖女として会ったときよりも感情が豊かに見えるのは、気を張り詰めずに会話できているからだろうか。
「エルシーにとっては守ってばっかのサイラスだったかもしれないけど、幼馴染が騎士として傍にいてくれるって、心強いんじゃない?」
カエルが苦手で、気が弱くてからかわれていた少年。それが今では、若くして近衛騎士隊長を任されるほどの実力者になった。
隊の騎士たちからも、尊敬されて慕われている。それだけの努力が裏にあったことくらい容易に想像がつき、それが誰のためであったのかもわかる。フィオリア王国騎士ではなく、教会の聖騎士に。そして聖騎士の中でも聖女を──幼馴染のエルシーを守る『聖女近衛騎士』になったのだから。
けれどエルシーは、ふわりと……悲しげに微笑んだ。それまで瑞々しく咲き誇っていた花の花弁が、ひとひら散って落ちていくように。
「わたくし……サイラスが聖女近衛騎士に選ばれたと知ったとき、すごく……嫌だったんです。彼と疎遠になって、そのときすでに……八年が経っていました。変わってしまったサイラスを見るのが怖くて、閉じ込めていたあの頃の思い出まで壊れてしまいそうで……」
「結局、サイラスは変わってたの?」
「……全てでは、ありません。けれど確かに、あの頃とも違っていました」
「ねぇ、エルシー。私は昔のこと知ってるわけじゃないからハッキリとは言えないんだけどさ……確かに、サイラスは昔と変わったのかもしれない」
人間、変化しない人なんていない。でもその変化が本当に『絶対正義』とは関係ないものと証明してあげることはできないし、根拠だって示せない。だから、無責任なことは言えない。
それでも、黙っていることはできなかった。自己紹介をしてくれたときのサイラスの言葉や表情。『絶対正義』のことを聞かされたときの反応。教官として、そして隊長としての振る舞いを思い出すと、悔しくてもどかしい気持ちになる。
お互いにある本当の思いが、『絶対正義』という壁で霞んでいくことに。
「けどさ、幼馴染のエルシーを守りたくて……追って、ここまで努力してきたんだよ。守りたい、支えになりたいって気持ちは、『絶対正義』とは関係なく、本物なんじゃないかな」
「本当に……そうでしょうか。サイラスは優しくて、真面目な人でした。『絶対正義』の力で彼の心を歪めて、わたくしを守らなければと駆り立ててしまったのではないか、と……」
「でもさ、『絶対正義』はみんなに影響があるのに、優しくて真面目な人全員が近衛騎士を目指すわけじゃないでしょ」
「それは……騎士に向いていないという気持ちがある人はそうならない、とかでしょうか?」
固く握りしめて微かに震えるエルシーの拳に、アルエットはそっと手を重ねた。俯いていた瞳が上向き、視線が合う。黄金色が、水面に映る月のように揺れている。
「ならさ、サイラスもぜーんぜん向いてなかったと思うよ。だって、からかわれても言い返せないくらいの雑魚だったんでしょ? だからもし仮に『絶対正義』に影響されてたとしても、近衛騎士になりたいと思うだけの“本物の何か”が、絶対そこにある。少なくとも私は、そう思うよ」
アルエットは、「サイラスのここに“本物”があるよ」と示すために、自身の胸元に手を当てた。
その胸元をエルシーは静かに見つめ続け、笑いながらくしゃりと表情を歪めた。頬を赤くして、けれど瞳いっぱいに湛えた涙は零れることなく、その表面を潤ませるに留まっていた。
「アルエットは、とってもお話が上手ですね。わたくし、少しだけ……サイラスを信じたい気持ちになってしまいました」
「よかったぁ。サイラスは悪魔みたいだったけど、それだけ本気なんだって、こう……体に叩き込まれてきたからさ……物理的に。だから少しでも伝わってくれたんなら、私もボロボロになるまで訓練してきたかいがあったってもんだよ」
「ふふっ、あなたと会話していると、わたくしの言葉がそのまま届いてるって実感できて嬉しい……」
「え〜、そんなふうに言われると照れちゃうなぁ〜」
会話が上手いなんて褒められたのは人生で初めてだ。何気ないやり取りだったが、それがエルシーの心を温かく軽くできたなら嬉しい。思わぬところで評価され、くすぐったいような照れ臭いような気持ちになった。
アルエットは落ち着かない気持ちを逸らすように、テーブルのお茶菓子に手を伸ばす。薄い長方形に焼かれたシンプルな見た目の焼き菓子からは、馴染み深いバターの香りがする。家でもよくお菓子としてマフィンを焼いていたが、そんな感じだろうか。そう考えながら一口食べた瞬間、思わず背筋が伸びる。
「何これ!? 甘〜い! おいしい! なんかわからないけど、香ばしい香りとつぶつぶが入ってる! 甘さが……疲れた体に沁み渡るぅ……」
芳醇なバターの香りの奥に、初めて感じる深みのある味わいと固めのつぶつぶとした食感がある。そして何より、信じられないくらいに甘い。
砂糖はやや高価で、家で焼いていたマフィンにはあまり入れることができなかった。森で取れたベリーや果物を煮詰めたジャムで甘さを足しておやつにしていたアルエットにとって、それは衝撃の味だった。
「これはフィナンシェという名前のお菓子で、つぶつぶや香ばしさはアーモンドですよ。私は漁師町の出身だったんですけど、少し離れた小高い丘にアーモンド畑があって、母が焼いてくれたお菓子にもよく使われてました。アルエットは珍しく感じるんですね」
「これがアーモンド……!」
「甘くておいしいですよね。わたくしも聖女になって初めて……こんなに甘くて、バターたっぷりのお菓子を食べました」
寒冷なシュネーノルディアの田舎者だったアルエットにとって、フィオリア産の輸入アーモンドは高価で簡単に買える代物ではなかった。けれど逆に、畜産より農耕主軸であるフィオリアの田舎では、バターの方が貴重だったらしい。
「いいのかなぁ〜? こんなおいしいもの食べて、楽しくお喋りして、お給金までもらえちゃっていいのかなぁ? へへ……」
もう緩みっぱなしの頬が引き締まらない。ぱくりとフィナンシェを口にしては、次へと手を伸ばしてしまう。そしてこの甘さを、エルシーの淹れてくれた紅茶の香りと渋みが優しく包み込み……まるで甘味の花束を味わっているようでうっとりしてしまう。
「けど、明日からも“悪魔”の訓練があるんでしょう? 英気を養うために、たくさん食べていってくださいね」
「ぬぁっ、そうだった! エルシーのお茶会を楽しみに明日も頑張る!」
「わたくしも、アルエットとお話できるのを楽しみにしていますね」
アルエットはこれが仕事であることも忘れ、エルシーとのひとときを楽しんでいた。穏やかに笑うエルシーを見て、ほわっと心が柔らかくなる心地がした。
『祈赦の日』については、あえて触れなかった。シーニュの言う通り、『絶対正義』の力を目の当たりにすることになるのなら、エルシーにとってその光景はあまり好ましいものではないはずだ。今、この時間……『絶対正義』の影響を受けない二人きりの時間だけでも、聖女という重荷を置いて、心を休めてほしい。
聖女の重圧は、やはりただの田舎娘であるアルエットには知りようもないことかもしれない。それでも友達として、一つずつ親しくなって近づいて、今を明るく楽しく過ごせるようになってくれたら嬉しい。
当たり前の日常なんてものは、この世に存在しない。
だからこそ、この瞬間にある今を明るく楽しく生きる。でなければ、せっかく与えられた今日がもったいない。それが“余生”を過ごす、アルエットなりの生き方だった。




