第52話 聖女が歩んだ「正義」の還るとき
メサンジュとの戦いに決着がつき、神殿内に元の静寂が戻る。倒れたメサンジュの体からじわりと滲み出した紅が、ゆっくりと広がり、血溜まりを作り始めていた。
命を奪う経験は初めてではない。けれど、人を殺めるのは初めてだった。微かに頬を撫でた風は、空虚の匂いがした。
昨日のメサンジュは、今日死ぬなんて思ってなかったんだろうな。
誰もが明日自分が死ぬなんて思わずに、最期の日を迎える。今日と同じ明日が来る保証なんてどこにもない。そして死んでしまえば、こんなにも呆気ない。みんな知らず知らず、死という空虚を背負って日々を生きているのだ。
アルエットは物言わぬメサンジュに近づいて見下ろす。命を奪った責任と、それでも通したかった意思の果てを……忘れないよう目に焼きつけた。
「うちは牛も羊も飼ってるけど、本当の気持ちなんてわかんないよ。『殺さないで』なのか、『美味しく食べて』なのか。だから君の“崇高な思想”はわかんないし……わかんなかった。だって君は羊飼いで、私は羊だからね。でも──羊にだって必ず、何か考えはあるよ」
手向けのように言葉をかけた。きっとその言葉の意味をメサンジュは理解しない。それは死んだからではなく、彼が“羊飼い”だからだ。
アルエットはエルシーとサイラスがいる世界樹の実へと近づく。エルシーの体を締めつける蔦をサイラスと一緒に取り外した。
「ありがとう、二人とも」
「それは別に良いんだけど、まだやること残ってるよ?」
まだ終わっていない。エルシーを救うために重要なのはここからだ。フィンチから世界樹の実がどういうものかを聞いたときからずっと考えていたことを実行に移す。アルエットは、自身に“課せられた使命”を果たすため、世界樹の実に右手を添えた。
「エルシー、やっとみんなに自分を伝える機会が来たんだよ! これから世界樹の実で、私の『無効化』を世界に広める。その間にエルシーは、ホントの気持ちをみんなに届けて。もう始めるから、話したいこと決めといてね」
エルシーとサイラスの戸惑う声にも構わず、アルエットは世界樹の実へ『無効化』を付与する。自然由来の力は無効化されない。そして世界樹の実を介して加護の力や声を世界に広められるなら、『無効化』も同様にいけるはずだ。
「ごめん、エルシー……あまり長い時間は無理かも……」
世界樹の実が白く淡く輝いた瞬間、体の奥から熱を奪われていくような感覚に襲われた。この寒い感じは経験がある。加護の力を使いすぎて、生命力を消費していくあの感覚だ。
「あのバカ……!」
フィンチの罵声が聞こえたかと思うと、背後から足音共に気配が近づく。後ろから軽く頭を叩かれたかと思うと、アルエットの手の隣に、彼の手のひらが叩きつけられた。
「こんな加護の使い方して、生命力全部持ってかれるってわかってんの!? せっかく天才が隣にいるのに、相談しないとかやっぱバカだろ!」
彼はアルエットを罵倒しながらも、本気で叱ってくれているようだった。いけるだろうと勝手に思ってやってみたが、想像していたよりも無謀なことをしていたのだと彼の切羽詰まったような眼差しに見つめられて自覚した。
「おい、ボサッとしてないで早く手伝え! 生命力の消費分散させないと、アルエットが死ぬ!」
フィンチの呼びかけに応え、傍にいたサイラスの手がフィンチとは反対側の隣に添えられる。
「アルエット、気持ちを強く持って。あなたなら必ず、無事に成し遂げる」
サイラスの瞳が、いつもと変わらず穏やかな木漏れ日のようにアルエットを見た。鍛錬のときもこの眼差しに背を押されるようにして頑張ってきた。指導教官でもある彼が“成し遂げられる”と信じてくれることが、自信に変わる。
「まったく……アルエットはいつも向こう見ずで困りますわね。もっとあたくしたちを頼ってくださらないかしら? それとも、もう一人前の聖騎士になれたんですの?」
ロンディネは苦笑しながら、彼女らしい言葉でチクリとアルエットを刺した。けれど眼差しは温かく柔らかい。数ヶ月という短い期間だが、すでに仲間の一員としてしっかりと認めてくれている気持ちが胸の奥に伝わってくる。
「……君に生かされた命だ。君に全て託す」
命を賭ける覚悟をしたと言わんばかりの真剣な表情を彼は見せていた。アルエットは別に命を賭けているつもりはなかったのだが、フィンチも言っていた通りそのくらいの覚悟を持って挑むべき状況なのだろう。
「はは、みんなのおかげで、やっと私が聖騎士になった役目を果たせそうだよ」
一人ではきっと成し得なかった。いや、やり遂げられたとしても、そこでアルエットの人生は終わっていたのかもしれない。けれど、仲間の支えがあって、来なかったかもしれない明日がやって来る。
「ほら、エルシー。いつでもいけるよ」
「……ありがとう、アルエット。皆も。たとえ今、世界が変わらなかったとしても……わたくしはもう、逃げません。わたくしのために命をかけてくれたあなたたちの存在を胸に刻み、前へ進む支えにします」
エルシーは世界樹の実へ両手を伸ばす。小さく震える指先に、少しの期待と、恐怖が滲んでいる。それでいて瞳には凛とした決意が宿り、夜明けを告げるような黄金色が朝日のように輝いていた。
「皆さん、わたくしの声に今一度耳を傾けていただけないでしょうか?」
エルシーが呼びかけると、鈴の音のような音を世界樹の実が発する。すると、実からいろんな人の声が聞こえ始めた。天から降るエルシーの声に、戸惑ったりありがたがったり、いろんな反応を示す声。
「この世に、絶対に正しいものなど存在しません。もちろん、わたくしを含めて。だからわたくしはもう、皆を正しく導くことはありません。ですが──わたくしの“信じる姿”で、罪を償い、力を尽くしていきたい。聖女として……そして、一人の人間として。どうか未熟なわたくしと、これからの未来を……共に歩んではくれませんか?」
これまでこんなことを言えば、民衆はきっと狂ったように歓喜し、崇め奉っていたことだろう。けれど世界樹の実から零れ落ちてくる声は様々だ。
『人間……? エルシー様が俺たちと同じ人間って言ったのか!?』
『エルシー様! あたしたちは、エルシー様についていきますよー!』
『そんな……エルシー様の導きを失ったらワシらはどうすりゃ……』
『罪を償うって、どういうことなの? エルシー様が罪なんて犯すの?』
「混乱を招いてしまい申し訳ありません。ですがわたくしは必ず、人として、聖女として、精一杯皆の傍に寄り添うことをお約束します」
戸惑い、希望、絶望、疑心……様々な声と感情が渦巻いている。エルシーは混乱を招いてしまったことに罪悪感を抱いているようだったが、褒め讃えられるだけではない反応に嬉しそうに微笑んでいた。
エルシーの声を伝え終わり、世界樹の実から手を離す。上から泥を浴びせられたように体が重いが、不思議と清々しい気持ちだった。それはきっと、エルシーの言葉がちゃんと一人一人に届いたと思えたからかもしれない。
エルシーは高座から下りると、メサンジュの遺体の隣へ歩みよる。そうして膝をついて座った。俯いた横顔は暗く、瞳が切なげに細められる。
そこから涙がじわりと滲み、ぽつぽつと雨のように落ち始めた。
「わたくしと出会わなければ、こんな最期を迎えず、今も生きていたのでしょうね……神官として皆のために尽くしながら、幸福に歩む人生を……わたくしが奪ってしまったも同然です」
胸元で握りしめられた手が、震えるほどに固く握りしめられている。固く目を閉じ、胸の痛みを抱え込むように背中を丸くしていた。
「そんなわけないじゃん。寝ぼけてんの?」
意味がわからなかった。メサンジュはエルシーにとって友人で、確かに善意で助けていた時期があった。エルシー自身も、それに救われていた部分があったのかもしれない。けれどそこから歪んだのは彼自身のせいだと、アルエットは確信している。
悲劇に浸って、自分を責めれば少しだけ許されたような気がする。その気持ちはわかる。アルエットも同じような経験をしてきた。
ただ、その態度で踏みにじられる人がいることに目が向いていないのは許せなかった。それでは誰も報われないし、救われない。前にも進めず、ただ重石のように心の奥に沈むだけの嵩張るゴミだ。
「全部エルシーのせいだって言うなら、サイラスだってそうなってたはずだよ! 気弱の雑魚なのに、エルシーのこと好きで、近衛騎士隊長にまでなったくらいヤバいヤツなんだよ!?」
「え、ちょ、アル……やめ、待っ──」
「でもさ……エルシーはシーニュのこと好きだろうからって、自分の気持ちはなかったことにしてくれって私に言ったんだ! メサンジュがサイラスの立場にいたら、絶対そんなこと言わない! エルシーが全く悪くないとは言わないけど、全部自分が悪いって言うなら、一生懸命自分の気持ちと戦ったサイラスに謝れ!」
サイラスの静止も構わず全部ぶちまけてやった。彼には悪いが、気持ちを明かした相手が悪かったと恨んでくれればいい。
それよりもずっと、エルシーの凝り固まった呪いのような価値感をぶち壊してやる方が大切だった。それに、サイラスの想いや忍耐をなかったことにされるのが癪だった。
「アルエット……ふふ、すごい言い方ですね」
エルシーは顔を上げると、泣き笑いしながら肩を揺らしていた。指先で目元を拭うと、改まったようにサイラスへと目を向けた。
「そうなの? サイラス……?」
エルシーが尋ねると、サイラスは頬を赤くしながら慌てふためき始める。いつもは穏やかで、しっかり隊長を務める凛々しさもあるのに、情けないくらいに締まらない。
誰も口を挟まないせいかようやく腹を括ったらしく、徐々に落ち着きを取り戻していく。サイラスはその場で一度ゆっくりと呼吸してからエルシーの傍へ近づき、片膝をついて彼女の目を見た。
「……そうだよ。エルシーが好きで、どうにかあなたを支えたくて追いかけた……ヤバい幼馴染だよ、俺は」
「……ありがとう、サイラス」
困ったようにはにかんだサイラスと、嬉しそうにはにかむエルシー。二人の視線が交わり微笑みあっていた。
「あなたも……今までありがとう。それから、ごめんなさい。メサンジュ……」
エルシーの手が、眠りを告げるように彼の開いたままの瞳を優しく伏せる。そうしてそのままメサンジュの手に、そっと手を重ねた。
切なげな笑みと柔らかな眼差しが、冷たくなった彼へと降り注ぐ。一粒落ちた雫は、春の天気雨のように温かく煌めいた。
様々な感情で歪み、ぐちゃぐちゃになったところへ手を差し入れ、善意だけを掬い上げる。その純粋さと慈悲こそが、ガラスのように透明で繊細な彼女の──強さの形なのだろう。
やがて、黙祷のような沈黙が下りた。木漏れ日が揺れ、移ろう。世界樹の枝葉のざわめきだけが、静かに……すすり泣くように耳を撫でた。




